秋から冬へと
さよならの声にとまどう
一本の木だった
小さな葉っぱは小さなさよならを
大きな葉っぱは大きなさよならを
手の平のような葉っぱは
手を振りながら
失ったものを掴もうとして
木は空に
無数の手を伸ばす
がらんどうの葉っぱの空から
指の先をつたって
風の声が聞こえてきた
始まりはいつも
小さな一本の木だったと
大きな風の手で植えられた
小さな木だったと
物語はつづく
再びのその日まで
木はじっと
始まりの風を待っている
秋から冬へと
さよならの声にとまどう
一本の木だった
小さな葉っぱは小さなさよならを
大きな葉っぱは大きなさよならを
手の平のような葉っぱは
手を振りながら
失ったものを掴もうとして
木は空に
無数の手を伸ばす
がらんどうの葉っぱの空から
指の先をつたって
風の声が聞こえてきた
始まりはいつも
小さな一本の木だったと
大きな風の手で植えられた
小さな木だったと
物語はつづく
再びのその日まで
木はじっと
始まりの風を待っている
新聞の切り抜きやメモなど、雑多なものを放り込んでいた菓子箱を整理していたら、次のようなものが見つかった。
新聞の読者投稿歌壇に投稿された短歌だった。
ネットにはなんでもあると思う子ら
「ホントの自分」もそこにはあると
(松戸市 原田 由樹)
ぼくもかなりネットに依存した生活をしている。
だから、そこには何でもあるような気もするし、何もないような気もしている。
「ホントの自分」も、そこにはあるかもしれないし、ないかもしれない。
ただ浮遊している状態なのかもしれない。
浮遊しているから、自分でも自分をとらえがたい。
ネットは、おおむね言葉の世界だといえる。
さまざまな言葉を、誰かが発信し、誰かが受信している。好き勝手に発信し、好き勝手に受信することもできる。
さまざまな言葉を追いつづけるかぎり、ぼくの場合は浮遊しつづけることになる。浮遊しつづけるかぎり、どこかへ辿りつけるかもしれないし、どこへも辿りつけないかもしれない。
その状態は快いともいえるし、不安だともいえる。
たぶん、ホントの言葉があるところに、ホントの自分もあるのだろうし、そこが行き着くところなのだと思っている。
あるいは、ホントの自分を探している自分こそ、ホントの自分なのかもしれないと思ったりもする。
ホントなどという言葉は、かぎりなく妄想を広げてしまう。
それは、宇宙から届いた巨大な隕石のようにもみえた。
広大なカザフスタンの朝の雪原に、黒く焦げた宇宙船の帰還カプセル。そんな写真を夕刊で見たことがあった。
運びだされた宇宙飛行士の言葉は、
「息ができる空気が周りにたくさんあるのは素晴らしい」だった。
そうか、息ができる空気。
この地球上にはいっぱいあったんだ。あらためて思った。
空気は見えない。目に見えないものは、普段はあるのかどうかもわからない。考えたこともないが、あるとおもえばあるし、存在を知ればとてもだいじなものだったと、いまさらに認識する。
「だいじなものは目には見えない」。
小なまいきなキツネが、星の王子さまに語った言葉だっただろうか。
王子がいくつもの星をめぐってたどり着いた、7番目の星。それが地球だった。
この星には、目には見えないだいじなものがいっぱいあったのだ。
その中でもっとも見えないものは、ひとの心だともいわれる。いや、もっとも見えないものだから見たくなるともいえる。
その見えないものを見ようとして、見えないものを見えるようにしようとして、ひとは言葉を尽くしてきた。
自分の心は見えているようで、見えないところもいっぱいある。それでいて、ひとの心は見えないようでいて、見えるところもいっぱいあるように思えてしまう。
ひとの心を見つけるために、言葉を探しつづける。ぼくの楽しい妄想だ。
妄想は宇宙のようにとりとめがない。夜空の星が時として、伝えたい言葉を発しているように見えるときがある。そんな時ひとは、星に願いを託すのかもしれない。
星の実態を見ることはできないけれど、少なくとも光の存在として目にすることはできる。昼間の星は見えないけれど、星は星という言葉で存在する。
この青い星には見えないものがあまりにも多すぎるから、ひとは言葉を星の数ほども作り出さなければならなかったのだろう。
空気は見えないけれど、地球上のこの世に生きているかぎり、息ができる空気はいっぱいある。
だが、そのことを本当に知るのは、命のさいごの時なのかもしれない。
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに
息が足りないこの世の息が」
2010年の8月、享年64歳で亡くなった歌人・河野裕子の絶唱。
見えない空気を、そして見えない息を、言葉で追いつづけた詩人の、さいごの言葉が輝いてみえる。
寒くなった。
といっても、季節を考えると、これが本来の寒さなのだろう。
やっと扇風機とストーブを入れ替えた。
石油ストーブは数年前に壊れて廃品にしたので、ぼくの部屋にあるのは、遠赤外線の電気ストーブが1本だけ。この冬もこれで過ごすことになる。
この電気ストーブには“ぬっくん”という名前が付いている。
ある人が名付けてくれた。その言葉の温もりも加味されて、このストーブは特別に温かいような気がする。
“ぬっくん”という名前のおかげで、ストーブが人格までもってしまった。ああ、またお前と再会したね、この冬もよろしく頼むよ、といったあんばいだ。
真冬の寒さのみならず、冷えきった心の中まで温めてくれる。そんな奴はこいつしか居ないような、くっついたら離れられないような、冬限定の怪しい間柄になっている。
寒いときは、とにかく温かくなりたい。言葉だけでも温かい言葉が欲しいものだ。
学生のころ、初秋の山中湖で数日間すごしたことがある。毎日ボートを漕ぎながら無為に過ごしていた。窓からみえる富士山は、まだ雪の衣装はまとっていなかったけれど、民宿の部屋には暖房用のこたつが置かれていた。
こたつの具合を点検しながら、民宿のおばさんの口から出た、「ぬくとい」という言葉が耳に残った。初めて聞いた言葉だったが、その響きは懐かしく、言葉の意味はよくわかった。「ぬくとい」(温とい)という言葉は、いかにも体が温まりそうな言葉だった。
ぼくの郷里でも、温いことを「ぬくい」とか「ぬきぃ」とか言った。暖かいよりも温いの方が、体の芯から温まる言葉だったのだ。
猛暑だった夏の反動で、この冬は厳寒ということもあるかもしれない。
ぼくは“ぬっくん”が頼りだが、外出まで“ぬっくん”を連れていくわけにはいかない。それで、ユニクロでヒートテックの下着を2枚買ってきた。数年前から、ファイバーヒートだとかヒートインパクトだとか、商品のネーミングも温いどころではなく、火傷でもしそうなほどに熱い。
ことしは水の災害が多かった。ひとの心も濡れて冷えきっているのかもしれない。
いつかの約束を
つい記憶のなかに探してしまう
ひとつだけ点滅する光
暗い川のむこうから
サインを送ってくれたのは誰だったか
光はことばだった
魂だった
妖怪だった
レコードの古いキズに
立ちどまったり躓いたり
麦わらみたいな乾いた空気を吸いながら
吐きだすときはみんな
湿ったフルートだったね
夕焼けと枯葉の道
背中の風がどんどん冷えて
いまは痩せた背骨にも届かないんだ
光に魂があるならば
瞬きするものにも言葉があるかもしれない
小さな声を聞くこと
その声をことばにすること
約束されたことばを見つけること
こんやは
妖怪ばかりの夜だけれど