山形弦楽四重奏団 ブログ

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山形Q 練習日誌55-vol.8(中島記)

2015-04-02 22:37:02 | 練習日誌
 珍しく和やかな雰囲気で談笑するヴァイオリン2人。

「最近、譜面が見えづらくて…」
「わかるわかる、老眼に楽譜はキツいよね~。遠近両用メガネは必需品だよっ!」
「私もリハの帰りにパリーミキに行こうっと☆」

…という会話ではありません。なんとか2人とも、まだ近眼だけで済んでます。…おっとこれは失礼…私はもうすぐですが、ピチピチギャルの今井嬢はまだまだに決まってます。


 ということで、今日の練習はハイドンから。

 やはりシンプルな曲の方が、音程を合わせるのがシビアです。それでも少しずつ、音楽が生きてきました。もうひと息。


 そしてフォーレ。今回のハイドンと同じく「後期」の作品ですが、こちらはさらに「遺作」。歌には精神的な「静けさ」と、ハーモニーには観念的な透明感が必要です。

 しかし難しいのは第3楽章のフィナーレ。リズムは軽やかで、音楽は天から降り注ぐような明るさがある。死を前に、これはどう捉えればいいのか。

 フォーレ自身が、こう語ったと言われています。
「『第3楽章』では、私の『ピアノ三重奏曲』を思わせる、いわゆる『スケルツォ』のような、軽快で楽しい気分を強調すべきです。」
(ジャンケレヴィッチ著 「フォーレ」より)

 これについて、ジャンケレヴィッチは、さらにこう書いています。
「数々の苦難や試練は、時の流れとともに成熟した第二の青春に認められる、輝かしくも荘厳な静けさの中において、その形を変えてきたのであり、その結果、人は熟成するのだ。」
「死について沈思する人は、必ず生の意味についても考えるのであり、つまるところ、我々の中では、生と死は、同じ一つの運命の神秘を啓示するものだと言えるのである。」

 言葉が饒舌で逆にわかりにくいですが、遺作だからこそ「生命の素晴らしさ」が、客観的に美しく描写されているのだと、そういうことでしょうか。


 透明感のある明るさを、さらに追究しようと思います。

~チラシを貼らせていただいたり、置かせてもらう活動しています。~
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