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いい話

2015-03-03 13:47:52 | 日記
或る街の豆腐屋の主人に召集状が来て、1週間後、陸軍に入隊する。その最初の夜、豆腐屋の主人はベッドの中で眠れぬままに家のことを考える。最初に頭に浮かんだのが、なぜか、女房の朱い腰巻だった。腰巻は、よく庭の物干しざおに干してあった。それが家庭の平和の象徴だった。あの腰巻を女房は今、身体に巻きつけているのだろうか。いや、夜の蒲団の中で見たことはないかな・・・と、そこまで考えて、彼は「いま、この大きな部屋にズラリと並んだベッドの上で、こんなバカなことを想っている新兵は自分ひとりではないか、俺はなんてバカなんだ」と反省する。この文を私が読んだのは学生時代で、たしか復員兵士の手記を並べた雑誌に載ったものだった。前記の文はかなり省略してあって、全文はもっとたどたどしく長いものだった。素晴らしい手記だと思った。誰だって、時として、他人にはとても言えないようなバカなことを想うはずで、それは人間であることの証明だと思った。 普通の生活をしている人だって、それはある。しかも、豆腐屋さんは、そのとき軍隊という、いつ死ぬかわからない場所にいきなり呼び出された最初の夜である。そして、閉じた眼の裏に現れたのが、女房の朱い腰巻だった。私が今までに出会った「いい話」のひとつである。

ウィスキー

2015-03-03 13:42:00 | 日記
昭和30年代の初めごろ、トリスバーなる酒場ができて、そこでのハイボールが人気を集めた。トリスウィスキーは、酒店で1本360円だったが、それをバーで注文するとシングル(30CC)で30円だった。つまり、バーでは360円の酒を2倍の720円で売っていたことになる。それが酒場というものである、いわば、2倍の金は雰囲気料だということが、ハタチそこそこの私にもわかった。 家ではトリスを買って来て、ビールに混ぜた。ビール1本(大瓶)は100円で、それだけでは酔えないので、ウィスキーをあわせて呑んでいた。1日で、1トリスのボトル3分の1が消えた。このカクテルは、昭和36年に結婚してからも続いた。 サントリー社のウィスキーのランクは、舌から順にトリス、レッド、ホワイト、角、オールド、リザーヴ…だった(現在のことは知らない)。 昭和39年に年収がやっと100万円を超えて、ホワイト(1級)が家の食卓に登場した。その頃から酒場で水割りが流行り出して、それを注文するようになったが、家では小さな(30CC入る)カットグラスでストレートを呑み、トールグラスに注いだ氷水を横に置いていた。それから50年、今は、角瓶かオールドの水割りの、ごく薄いのを晩酌の仕上げに呑んでいるが、ウィスキー文は50CCもないだろう。 日本酒の熱燗をグイ呑みに半分で晩酌が始まるが、すぐ眠くなるので、ウィスキータイムの頃はウトウトしてしまう。

ヒーロー

2015-03-03 13:34:46 | 日記
物心ついた頃、3人の兄(父の弟たち)がいた。S雄がいちばん上で、私との年齢差は16。以下N雄が14、T雄が12年差だった。私のヒーローはS雄だった。ガッチリした体型、坊主刈りの頭、優しい表情、剣道に優れ、町(隣町を含む)の不良たちに恐れられていた。第一師範8今の東京学芸大学)を出て、小学校の教員をつとめ、甲種合格となってからは召集を待って、両親のもとで、2人の弟と妹、そして未就学児童の私と暮らしていた。後で考えれば、まもなく軍隊に入り、戦死することを覚悟していたとわかる。私を連れて、六甲山に登ったり、阪神パークに行ったりした。あるとき、学帽をかぶった3人組の男達に囲まれた。S雄はちょうど目の前にあった落ちていた棒を拾い、「坊や、ちょっと待ってろ」と言って、3人組に、「場所を変えよう」という風に合図した。そこへ(誰かが知らせたのか)自転車に乗ったお巡りさんがやってきて、学生たちを大声で叱った。すると3人は驚いたように態度を変え、S雄に向かってペコペコと謝った。 S雄は、町の不良退治として、交番の巡査にまで知られていたのであり、おそらく、「おまえら、腕を折られないうちに帰れ」ぐらい言われたのだろう。私のヒーローはピカピカに輝き、カッコよかった。S雄はまもなく海軍にはいり、昭和17年6月、ミッドウェー海戦で、空母「蒼竜」とともに海底に沈む。そのとき、まだ22歳だった。

早口

2015-03-03 13:27:27 | 日記
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子かなしむ 緑なす はこべは萌えず 若草も敷くによしなし しろがねの ふすまの丘返 陽にとけて 淡雪流る~」。ちょっとした遊びのつもりで、この文を声に出して、できるだけ速く読んでみていただきたい。8秒以内に読み上げられた方は、かなりの早口上手だと思うし、また10代の若者であれば6秒でも可能かもしれない。 私は中学時代、国語の時間に、早口音読ショウを担当していた。 教室に退屈感が漂ってくると、教師が私に音読を命じ、するとすぐにアチコチから笑いと感嘆の声があがるのが恒だった。このアソビは中学までで終わったが、私は、早口を活かして、将来はスポーツアナウンサーになろうと思っていたし、なれるという自惚れもあった。 高速音読にはいくつかのコツがあるが、その第一は、全く感情をこめないことである。たとえば、「ああ無情」は「アーム状」と発音することがあって、句読点はもちろん無視する。第二は、接続部分のゴマカシだ。「川端の竹塀に 誰が 竹立てかけた」は、「誰が竹」までを一気に読み、そこで(わからないように、ちょっと切って)「立てかけた」を足し読みすればいい。つまり、この文でいちばんひっかかり易い「竹立て」のところをゴマカすわけだ。  前述のように、授業中の早読みは中学校までだった。高校からは真面目に~と書けばカッコイイのだろうが、私の頭では高校からはマジメも何も、学問はごく自然に遠くなっていった。

三振

2015-03-03 13:21:48 | 日記
昭和33年春。プロ野球が開幕し、巨人が国鉄と対戦した。国鉄のマウンドに立ったのはもちろんエースの金田正一さんだった。巨人の3番打者は新人の長嶋茂雄さんで、この2人の対決は、すべての野球ファンの注目の的だった。そして、結果は長嶋さんの4打席4三振だった。素晴らしい三振という言葉があるとすれば、この時の長嶋さんに用いたい。 すべてが空振りのスウィングアウトであり、当たればホームランの強振だった。これが、たとえば第4打席でファウルで粘って、四球を得たらどうだったか。 それでは、長嶋らしくないのである。あの潔い三振が長嶋茂雄そのものを表現したのだと私は思う。  8年前の夏の高校野球選手権の決勝は、早実対駒大苫小牧だった。1点リードされた苫小牧の最後の打撃で、打てば同点というチャンスに、4番の田中将大君が打席に立った。投げるのは、あのハンカチ王子・斉藤祐樹君である。2ストライクに追い込まれたマー君は、次の高めの球をフルスウィングしたが、バットは空を切り、早実の優勝が決まる。そのマー君の思い切りのよい、そして気持ちのよい三振が忘れられない。そのとき私は、田中君は投手より打者としてプロで成功する気がした。その予想は外れたが、彼はアメリカ大リーグニューヨークヤンキースのエースとして大活躍している。