中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

瀬田の唐橋(旧中山道を歩く 326)

2012年05月22日 10時16分38秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(ペンキ塗りたて工事中の瀬田の唐橋)


(工事中の唐橋の欄干)

(大津宿 2)

瀬田の唐橋はペンキ塗り替えか、工事中であった。
瀬田の唐橋を見るのは長年の夢であった。
高校生の頃、吉川英治の「宮本武蔵」を読んで、
武蔵とお通が待ち合わせをした場所でもある。


(こうじ中の唐橋)

また古くから、都を制するものは瀬田橋を制するといわれ、
幾多の事件が発生している。

大津東ロータリークラブ寄贈の説明によると、
(瀬田の唐橋を制するものは 天下を制する。

古代の瀬田橋

 672年  壬申の乱
        近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍に
        瀬田橋の戦いに敗れる。
 764年  藤原仲麻呂の乱 
        仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、
        孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。
 
1988年 唐橋下流80mの川底から壬申の乱にまで遡る
        と思われる橋脚台二基礎を発見。

 940年頃 俵藤太伝説 
        「雲住寺伝承の「俵藤太略縁起」より藤原秀郷による
        百足退治

中世の瀬田橋

1184年  源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曾義仲軍と戦う。
         木曾義仲、今井兼平戦死。 

1221年  承久の乱
         後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う。
1582年  本能寺の変
         瀬田城主山岡景隆瀬田橋を焼き、明智光秀の
         安土城進撃を一時阻止する。   

         瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からがねぎぼし)
                 水に映るは膳所の城)とある。


(瀬田の唐橋)

平家物語によると、木曾義仲もここで義経軍に敗れたが、
今井兼平は、これまでと覚悟を決めて、
太刀先を口にくわえ馬から落ちて自殺している。

本能寺の変では、橋を建設した瀬田城主山岡景隆が、
明智光秀が安土城を攻めようとしたため、
瀬田橋を渡らせないよう焼いて一時阻止したが、
光秀によって直ちに修復された。
しかし、ご存知の通り光秀は三日天下に終わった。

瀬田の唐橋を渡る手前左側に、常夜灯と句碑が建っている。
句碑には、
「松風の 帆にはとどかず 夕霞  茶酔」とある。
その横に地蔵堂があり、ここに二本石碑がある。
一つは、「龍光山 雲住寺」とあり、
もう一つには、「跋難陀竜王宮 是より」とあり、
その片面に、「俵藤太秀郷社 川そい半丁」とある。
(跋難陀竜王宮の俵藤太秀郷社へは是より川沿い半丁あります。)
そんな案内である。


(「松風や」の句碑)


(「龍光山 雲住寺」の碑)


(「跋難陀竜王宮・・」の碑)

案内にそって川沿いを半丁(約50mも行くと、鳥居が見える。
(俵藤太秀郷社)である。
俵藤太は藤原秀郷の別名。
(940年頃の伝説で、俵藤太は、龍神の頼みを受けて、
大百足(おおむかで)を退治した。)
俵藤太秀郷社 龍王宮の隣には 雲住寺がある。


(見える鳥居)


(俵藤太秀郷社 龍王宮の鳥居)


(「龍光山 雲住寺」の門)


(ムカデ供養塔)

瀬田の唐橋を渡って、近江鉄道の踏切を渡り、
(鳥居川)の信号を右折する。信号の先左手に「長徳寺」がある。
信号右手には「旧中山道」の案内板がある。
信号を右折するとすぐ左手に、
冠木門と「明治天皇鳥居川御小休所」の石碑がある。
明治天皇のご巡幸の折休憩された場所で、以前は旅籠だった所である。

この先しばらく街中を歩くが、京阪線の踏切を渡って直進し、
JR東海道線のガードをくぐるのが旧東海道であるが、
ここは今井兼平のお墓に行きたいので、京阪石山駅に行く。


(近江鉄道の踏み切り)


(唐橋ー東海道の案内)


(鳥居川の信号右折)


(「長徳寺」)


(旧東海道の案内)


(明治天皇の碑)


(京阪の踏み切り)


(本来、東海道はは直進であるが、今井兼平の墓を見るために、この信号を左折)