中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「あふたの清水」(旧中山道を歩く 155)

2008年10月20日 06時49分56秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(あふたの清水)

(洗馬宿2(せばじゅく2)
「分か去れ」の道標の先、洗馬宿寄りの右側に、
白地に黒で(あふたの清水)と書いた案内がある。
(静かな洗馬の町並と「あふたの清水」の看板)

案内書には(大田の清水)で木曽義仲と今井兼平がここで遭遇し、
兼平が義仲の馬の足を清水で洗い、馬を癒した。
洗馬(せば)の地名はこれに由来するという。

(大田の清水)は案内書によると(あふたの清水)、
(おうたの清水)の二通りの表現があり、
旧カナ使いにしてもどちらなのか、ずいぶん解りにくいと思っていた。
現代仮名遣いなら「大田」は(おおた)になるはずである。
(邂逅(あふた)の清水入り口)

義仲と兼平が邂逅(遭遇)したと説明を見て、
どうやら「邂逅(あふた)の清水」が正しいことを知った。
なお、「あふたの清水」の案内看板の裏側には、
「邂逅(あふた)の清水入口」と邂逅の文字に(あふた)と振り仮名がついていた。

この看板の道路反対側は、宗賀小学校の校門があるが、
学校らしきものは見えない。
「宗賀」は洗馬がもと「宗賀村」と言った名残である。
どうやら学校はJR中央本線をくぐった向こう側にあるあるものと思われる。
(宗賀小学校入り口)

(清水へ入る狭い道)

(左下が清水)

さて「あふたの清水」であるが、
入口から先に入ると細い道は急な下りになり、
階段を降りていくと坂の途中に水のみ場がある。
木枠で囲まれたその水のみ場には清らかな清水が流れ出ている。
昔は馬の足を洗った水を、飲むと言うのもどうかと思うが、
今は飲める水と、空のペットボトルに水を満たし、喉を潤した。
冷たくて乾いたのどには美味しい水であった。
(義仲と兼平が邂逅した故事が記された石碑)

この清水の先には、のどかな田園風景が広がっているが、
案内書には、奈良井川の流れを確認できるとあるが、
目の前は黄色に色づいた稲穂の波しか見ることが出来なかった。
田園風景としてはとても美しいと思った。
(美しい田園風景)

今回訪問する中山道の宿場、
洗馬宿、本山宿には特筆することが少なく、
洗馬宿では「あふたの清水」が唯一の目玉、
本山宿にいたっては「そばきり発祥の里」として
美味しいお蕎麦目当てで他に何も無い。

「あふたの清水」から先が洗馬宿の中心地に入っていくが、
普段の日では、人通りもなく静かな佇まいである。
道路わきに並ぶ家並みがすこし古い感じがするぐらいで特に何も見当たらない。
古い家並みと言うものの江戸時代を思わせるものはなく、
昭和のはじめに建てられたものの感じである。
(本陣跡)

(貫目改め所(重量制限を見張るところ)

(脇本陣跡)

本陣跡も脇本陣跡も問屋場跡も、跡の碑が在るだけである。
そして中山道では板橋宿、追分宿、洗馬宿の三箇所にしかないという貫目改め所、
これも跡の碑だけが残されている。
町の中心付近と思われるところにJR洗馬駅があり、
やがて洗馬宿の高札場跡に洗馬宿の石碑があり、この石碑で町は終わる。
この高札場跡の後方は金網で仕切られた広場になっているが、
もと宗賀村(洗馬)役場があったところで、隅に芭蕉句碑が建っている。
(洗馬宿の碑)

(芭蕉句碑)

信濃の洗馬
「入梅(つゆ)はれのわたくし雨や雲ちきれ」 芭蕉
               俳諧一葉集より

と読めるようであるが、どうも意味が解りにくい。
「梅雨の合間の晴れで空には雲が切れ雨もやんだ」は解るが
「わたくし」が理解できない。
普通、芭蕉の俳句はとても明解で理解し易いのに、
解りにくいのは読み方が違うのかもしれない。
どなたかご教授いただけると幸いです。

中山道は左折してJR中央本線のガードをくぐる。
潜った先に滝神社の鳥居が見え、
道路はJRに沿って右にカーブして行く。
(滝神社の鳥居)

すこし上り坂を進むと左側に「牧野の一里塚」の古い木製の碑がある。
薄れかかった字を読むと「江戸へ六十里、京へ七十二里」と書いてある。
江戸から60番目の一里塚である。

この先は本山宿に入って行く。
(牧野の一里塚)

(一里塚跡の標柱)