中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

塩尻宿から洗馬宿へ(旧中山道を歩く 153)

2008年10月07日 08時23分03秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

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(「下大門」の信号)

(塩尻から洗馬へ)
2008年10月4日(晴)最高気温24℃の予想。
新宿駅発7時の「あさま 1号」で塩尻駅AM9:29着。
塩尻駅より旧中山道の信号「下大門」に向かう。
塩尻宿からは、この信号で道路は三つに分れ、
右側の道は松本方面に向かう道だ。
中央の道は今来た塩尻駅であり、
旧中山道は左の道をとり「平出の一里塚」を目指す。

道路は歩道が無く車の往来が多いので歩きにくい。
出来れば道路の右側を歩いて行きたい。
と言うのは、すぐ先の中央線のガードは狭くて車が二台すれ違うことが出来ないどころか、
歩行者の通路は右側にしかないからだ。

「下大門」信号から中山道は塩尻の町中を左に大きくカーブして進み、
中央線のガードをくぐると、
コンクリート塀の内側に防風林のようなヒマラヤスギが生えている
大きな工場が右側にある。昭和電工の工場である。
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(昭和電工の長い塀)
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(平出の一里塚)

その工場を過ぎた先の左側、ブドウ畑の中に
「平出の一里塚」が見えて来る。
久しぶりに見る立派な一里塚であるが、もう一方の一里塚が見えない。
残っているのは一つだけかと近づいて、道路の向かい側を覗くと民家の裏側の
奥まったところにもう一つの一里塚が見える。
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(道路を挟んで真正面にあるもう一つの一里塚)

左側の一里塚と同じように塚の上に松の木が見事な枝振りを見せている。
当初作られたときはどの一里塚も榎を植えたようであるが、
明治になり街道の役目が終わった後では、植えられた榎が枯れた後では、
植えられた木が、松の木であったり、しだれ桜であったり、
ケヤキであったりする。
近所の方が手入れをされていると思われるが、
塚の上は綺麗に雑草が刈り込まれていて、とても綺麗な景観である。

「一里塚は慶長九年(1604)より徳川秀忠の命により各街道に築かれ、
同十二年には完成を見た。
秀忠は永井白元、本田光重等を一里塚奉行に任命して、
中山道筋の幕府領、私領を問わず人足を徴発して道を整備し、
江戸日本橋を基点にして、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ
塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜を図った。―中略―
この一里塚は日本橋より59番目のもので、宝暦六年(1756)頃には、
この付近に茶屋が二軒あることがわかっている。」(塩尻市教育委員会)と案内がある。

周りはぶどう園が続き、手を伸ばせばたわわに実ったぶどうを摘むことが出来るほどである。
そうしたブドウ畑の中をしばらく歩くと、
今度は中央本線の踏切を渡ることになる。
右方向が塩尻駅で左方向が洗馬駅である。
さらにブドウ畑や、ぶどう狩りができる観光農園や、
産地直売所を数件、横目で見ながら進む。
ぶどう園の店先には、数房盛り付けたぶどうの笊が並んでおり、
値段が五百円と表示されている。
東京では一房三百円ほどの値段が付いているので、ずいぶん安く感じられる。
ぶどうは一笊何キログラムあるか知らないが、
安いからといって購入するわけに行かない。
重い荷物を持って歩くわけには行かないからだ。
考えてみると、都会まで出荷するには輸送費が掛かり、
この原油高の中では、輸送費がぶどうの値段より高くなるかもしれないのだ。
そう考えると、都会で求めるぶどうの値段と、
産地で購入する値段は共に妥当に思えてくるから不思議だ。
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(「平出の一里塚」の信号を左折する)
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(ガソリンスタンドの後ろの道)
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(砂利道はすぐ突き当たりになり右手の「平出歴史公園」の信号を渡る)

間もなく右から来た国道19号線と交差する。
その交差点の信号は「中山道一里塚」で、ここを左折し、
相変わらず続くブドウ畑の間を進むと、コスモ石油のガソリンスタンド左側にあるので、
その裏手の砂利石で草が生い茂った道に入る。
まもなく、草道は一段高い道路に突き当たるが、
左に折れて高い道路に上がり右手に進む。
すぐ先の国道19号線と交差する信号「平出歴史公園」を直進する。
(国道19号線には入らない。)

信号を渡ったところのすぐ右に、

「洗馬宿の北の岐路(わかれじ)碑に残す
  北国往還(ほっこくおうかん)善光寺道」

の看板が見える。
ここから洗馬宿に入ったと解る。
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(ここから洗馬宿の案内看板)