中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

木曽路の入り口(旧中山道を歩く 157)

2008年10月30日 09時00分25秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(「是より南 木曽路」の碑)

(贄川宿/にえかわじゅく)
「木曽」の大看板から100mほどで「是より南 木曽路」の石碑がある。
石碑の横には桜の木が植わっており、
一段下がったところは休憩場所としての東屋がある小公園になっている。
その先の下のほうは渓谷で、水の流れる音が聞こえる。


(木曽路の碑がある小公園)

説明の案内板が建っている。
(この地は木曽路の北の入り口であり、
江戸時代には尾張藩領の北境であった。
石碑は、桜沢の藤屋 百瀬栄が昭和十五年に建立。
石碑の裏側に
「木曽路はここ桜沢より、神坂に至る南20余里なり」)とある。

長野県のこの辺りから尾張藩領があったと聞いて、
尾張藩の大きさに驚く。
もっとも尾張名古屋の城の大きさ、
屋根に載せた金の鯱の豪華さを考えると、
領国の広さは斯く有らんと思われる。
しかし尾張徳川家は所領61.9万石で、
前田家の102万石から比べれば約半分。
前田家の所領の広さは想像もつかないほど大きなものであろう。

藤村の「夜明け前」は、中央公論に昭和4年から昭和10年まで連載されたと言うから、
この石碑が建ったのは「夜明け前」が完結した後、五年が経過している。

旧中山道はこの石碑のある道路の向かい側にある細い道を登っていくよう案内がある。
左側の山の上を行き、桜沢の集落あたりで国道に合流するようである。
帰りの電車に間に合うかどうか気が急いて、
先を急ぐので、国道19号線の歩道を進む。


(旧街道はこの坂を登る)


(明治天皇桜澤御小休所)


(明治天皇桜澤御膳水の碑)


(桜澤茶屋本陣跡の藤屋)

右手の渓谷の崖上を歩く感じで歩道がある。
下を見ると川の流れが美しく白く波立っている。
紅葉には未だすこし早いが景観は素晴らしい。
間もなく右手に桜沢茶屋本陣跡が見える。
「明治天皇櫻澤御小休所跡」の石碑が門前にある由緒ありげな建物である。

この茶屋本陣は「藤屋」と言うが、
「是より南 木曽路」の石碑を造ったのは「藤屋」とあったが、
この茶屋本陣の「藤屋」が造ったものだろうか。


(川の上を行くような渓谷の上の歩道)


(片平橋)


(白山神社)

道路をさらに進むと、やがて右側の川に取水口らしきものが見え、
川は左に蛇行し、道路はその川を橋でわたる。
片平橋である。。
その先50mほど進むと右手に階段があり、
その上に白山神社の鳥居が見える。
さらに500mほど進むと、
国道19号の名古屋から「167K3」(167.3km)の地点に
(さすが尾張領、起点が名古屋になっている。)右に入る道があるので、
国道19号と分かれて右に進む。

およそ100mでまた国道に出て道は右に大きくカーブする。
カーブが終わったところに赤錆びたような歩道橋があり、
階段のたもとに鶯着寺がある。


(名古屋から167.3K地点)


(19号線より右に入る道)


(鶯着寺)


(鶯着寺の地蔵尊)

「飛梅山 鶯着寺」の名前の由来については、
贄川宿に伝わる民話に、
(参勤交代の加賀藩主前田候が中山道を通り、
片平のある寺に立ち寄り休憩された。
この時、和尚様が寺の名前が定まっていないことを幸いに寺の名を請うた。
折は春で、庭に鶯が飛んできて「ホーホケキョ」とさえずった。
そこで前田候は鶯が着く寺と言う意味の「飛梅山 鶯着寺としたらよかろう」と申された。
以後前田藩から毎年下げ渡し金が届いた。)
(楢川村むらおこし農家組合)とある。

なぜ前田候がこんなところに出てくるのだろうと不思議に思った。
加賀藩の参勤交代は北国街道で越後高田へ、
そして軽井沢の追分に出て、
その後は中山道を通ったはずである。
よくよく調べてみると、参勤交代の通り道は、
時に金沢から福井を抜けて、近江に入り中山道を通る行列が、
過去に五度あることが判った。
この五度の通行の際に鶯着寺で休憩したのであろう。

しかし、なぜわざわざ遠回りして通行したのかは、
金沢の方にお訊ねしたが納得できる返事をいただけなかった。
その中で、唯一納得できそうな回答は、
「途中にある(親知らず子知らず)の難所が、
何らかの都合で通り抜けることが出来ない事情があったのではないか」
と言う回答であった。

それにしてもさすが加賀102万石の殿様、
その後鶯着寺に幾ばくかの下げ渡し金を毎年送ったという。
裕福で義理堅く、庶民が苦労を共にしたい良き施政者であったように思われる。

鶯着寺を出て道なりに国道19号を歩く。
道路は両側に山が迫り木曽路を思わせる。
やがて道路の右上の草の中に白い看板が見える。
若神子(わかみこ)の一里塚である。


(頭のはるか上にある一里塚)

(塩尻市の中の中山道に設けられた一里塚は五箇所あり、そのうちの一つ。
当初は道路の両側に二基あり、塚の上には榎が植えられていたが、
明治43年鉄道施設のため一方の塚は取り壊され、
残る一基も国道19号に取られ高さ1mがここに残る。)
(塩尻市教育委員会)と説明がある。


(崖の上に登ったが桜の木が植えてあった一里塚)

もともと一里塚は幅9メートル、高さ3メートルが基準であるから、
その上の1mが残ったと言うことである。
見上げるほどのところにあり、
どうも説明の残り1メートルは無いようである。
もっとも道路を切り下げていれば別だが、
道路よりさらに下に線路があって、
列車が通っても列車の屋根さえ見ないようだから、
片方の一里塚が線路に取られたというのなら、
この一対の一里塚の高さは、左側が下に右側が上に、
段違いにあったのかもしれない。


(右に入る道、若神子の集落へ行く)

中山道は19号線の左下にあったようであるが、
案内書によれば、JRに道を寸断されて今はないと言う。
50mほど先に右に登る小道がある。
注意してみると右側に「中部北陸自然歩道」の標柱があり
「左贄川駅1.7km」とあるので、
右脇の坂道を行く。古い家が並ぶ若神子の集落で、
道路わきに清水が流れ出ている。


(若神子の清水)

集落を過ぎると道路は下り坂になるが、
その手前右上に諏訪神社がある。
鳥居は、安芸の宮島の鳥居に似て、
両足に補強(?)の足が何本かついている。
歩きつかれて下を向いて歩くと見落としそうである。


(右上にある諏訪神社)


(諏訪神社の補強足(?)のある鳥居)


(道路左の石造群)


(半円を描く道路)


(半円の終り19号線に出る手前の坂道。贄川へ1.3kmとある)

諏訪神社の前の下り坂が右に急カーブしているが、
カーブが始まる左手に道祖神の石造群がある。
ほとんど半円を描いて坂を下り終わると国道19号線に出るが、
その手前に右に上がる道があるので登っていく。
案内標識で「贄川駅1.3km」とある。
道なりにひなびた田舎道を進むと道が開け美しい景観が広がり、

その先に小さく贄川駅が見える。


(ひなびた山道)


(道路左先に小さく贄川駅が見える)