中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「肱懸けの松」(旧中山道を歩く 154)

2008年10月13日 09時00分18秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(肱懸け松)

(洗馬宿(せばじゅく)
洗馬宿に入って、二百メートルほど進むと、
右手に手入れされた赤松の木と石碑、
案内看板があるのが見える。
「細川幽斎ひじ懸けの松」である。

説明では、
(「洗馬のひじ松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の銘木。
細川幽斎(*)が「ひじ懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」
と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、
肘をかけて休んだとの説もある。)とある。(塩尻市洗馬区)

赤松は何代目か解らないがよく手入れされており肱懸松(ひじかけまつ)・
肱松の名に相応しい。

(*)細川幽斎は細川藤孝とも言い、細川ガラシャの夫細川忠興の実父で、
戦国武将・歌人であった。)

(ストーンサークル?)

中山道を先へ進み、坂を下ると右側の下のほうに、
イギリスのストーンサークルを思わせる石の一群が、
白い砂の上に集まっているのが見える。
道路脇に下に降りる鉄の網で作った階段があるので降りてみると、
南無阿弥陀仏や青面金剛像、地蔵尊が刻まれた石造物の集まりで、
街道のどこかにあったものが集められているようである。

それよりも、下に降りたところの先に
「分か去れ(追分)」に置いてあったとされる常夜灯を
観ることができるので寄ってみたい。

(安政四年建立の常夜灯)

説明によれば、
「中山道は右に折れて肱懸の坂(相生坂)を上り、
桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。
江戸へ30宿59里余。
左は北国脇往還の始まりで、
松本を経て麻績から善光寺へ向かう善光寺街道とも呼ばれる。
善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯は安政4年(1857)の建立で、
洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ、
伊勢へ、御嶽へ、そして京、江戸へと別れていった。」(塩尻市洗馬区)とある。

今歩いている道路を肱懸の坂(相生坂)というらしいが、
この坂を下りきると、道路は逆Y字路になっている。

(分か去れ、後ろに道祖神と南無阿弥陀仏の石塔が見える。)


(右中山道と刻まれている)


(左北国往還 善光寺道とある)

右角に「分か去れ」の道標があり、
洗馬宿のほうから見て「右中山道」、
左側に「左北国往還、善光寺道」と刻まれている。
先ほど観た常夜灯も以前はこのあたりに置いてあったものであろうか。
道標の後ろのほうには、旅の安全を守る道祖神、
その後ろに南無阿弥陀仏の石碑がある。
旅の安全を願ったものであろう。

(蕨宿にあった洗馬宿の浮世絵)

広重・英泉の「木曽海道六拾九次乃内」の「洗馬」によれば、

(「木曽路名所図会」に「義仲馬洗い水」の記述がある通り、
洗馬は、木曽義仲が馬を洗ったところから名づけられた地名である。
広重「洗馬」の図は、洗馬宿西方を流れる奈良井川の景を描いたものである。
上りかかった満月を柳越しに望みながら、柴を積んだ船と筏がゆっくりと
川を下っていく。
ー中略ー
色、叙情性は映画のラストシーンのような感傷的な光景といわれ
広重の最高傑作といわれる。
船を操る櫓の音さえ聞こえてきそうである。)
この記述どおりしんみりした気持ちになる情景である。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿