中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

信夫文知摺石(しのぶもじずりいし)(芭蕉の道を歩く 42)

2014年07月03日 11時33分20秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【十二】文知摺石)
黒塚のある観世寺を出て、国道四号線に出て北上する。
途中、国道115号線を右折し文知摺橋を渡り、
文知摺観音の案内に沿って進むと、
正面に大きな「史跡 文知摺観音」の看板が見える。
道路は左へ曲がっているが、その曲がり角に駐車場はある。
(文知摺観音の看板と鐘楼)


入口の小さな橋を渡り、
左手に鐘楼、右手に芭蕉の立像を見て進むと料金所があり、
拝観料大人400円(中学生以下200円)を払うと、
「正面が芭蕉句碑、左手に文知摺石があります」案内してくださる。
宝物館は入場料をいただきましたから無料ですが撮影禁止とのこと。
この中から見える多宝塔がいちばん美しく、
東北唯一の多宝塔遺構は、福島県指定重要文化財になっているとのこと。
およそを聞いて、中へ進む。
(松尾芭蕉の像)

(その台石)


右手の芭蕉立像の台石に、「おくのほそ道」の冒頭部分と、
(信夫の里)の項が記されている。
「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し福島に宿る。
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍(しのぶ)のさとに行。
遙か山陰の小里に石半ば土に埋もれてあり。
里の童部(わらべ)の来たりて教ける、
「昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人麦草をあらして、
この石を試み侍るを憎みて、この谷につき落とせば、
石の面下ざまにふしたり」と言う。さもあるべき事にや。

・早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」と刻まれている。

拝観料を払って入るとすぐ目の前の上段に、芭蕉句碑がある。
碑面には、

早苗とる 

手もとや
 
 昔志のぶ摺


とある。
(一段上にある芭蕉句碑)

(芭蕉句碑)

(芭蕉句碑2読めますでしょうか)

(芭蕉句碑の拓本)


その先に石の柵に囲まれて、
伝説の石 信夫文知摺り石とその手前にある石は、
忍ぶ草などを摺り付け布に写したもぢ摺石が置いてある。
(柵の中の信夫文知摺り石)

(染物用のもぢ摺り石はこちら)


伝説は、信夫文知摺保勝会によれば、
(遠い昔の貞観年中(九世紀半ば過ぎ)のこと、
陸奥の国按察使 源融公が、おしのびでこの辺りまで参りました。
夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていますと、
この里(山口村)の長者が通りかかりました。
源融公は、出迎えた長者の娘 虎女の美しさに思わず息をのみました。
虎女もまた、公の高貴さに心をうばわれました。
こうして二人の情愛は深まり、
公の滞留は一月あまりになりました。
やがて、公を迎える使いが都からやってきました。
公は始めて身分をあかし、また逢う日を約して去りました。
再開を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、
「もちづり観音」に百日詣りの願をかけ、
満願となりましたが、都から何の便りもありません。
嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、「もちづり石」の面に、
慕わしい公の面影が彷彿と浮かんで見えました。
懐かしさのあまり虎女がかけよりますと、
それは一瞬にしてかきうせてしまいました。
虎女は遂に病の床にについてしまいました。

・みちのくの 忍ぶもちづり 誰ゆえに
       みだれそめにし 我ならなくに
                  河原左大臣源融
  

公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。

もちづり石を、一名「鏡石」といわれるのも、
このためと伝えられます。)とある。
「文字摺り石」の右へ進むと河原左大臣の歌碑がある。
(河原左大臣の顔が写ったと言う信夫文知摺石)

(河原左大臣源融の歌碑)


その先左に池があり、藤が美しく咲いていた。
池を左に見て進むと、虎女と河原左大臣のお墓がある。
ずいぶん立派なもので、想い慕われ睦んだ比翼塚と言うところであろうか。
(藤が美しく咲いている池)

(藤が美しく咲いている池2)

(虎女と河原左大臣源融のお墓)


戻って、河原左大臣の歌碑の正面に、もちずり観音堂があり正岡子規の句碑がある。

・涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり

(もちずり観音堂)

(子規の句碑)


もちずり観音堂を左に下りていくと、重要文化財の安洞院多宝塔がある。
普通多宝塔といえば三重塔や五重塔が多いが、ここでは二重の塔である。
(安洞院多宝塔)


宝物館の中には、芭蕉の真蹟「しのぶもちずり」、西郷隆盛の真蹟、
小川芋銭画「耕作図」等があるが、
何といっても、ここの休憩場から見る多宝塔が、
杉木立に囲まれとても美しく筆舌に尽くしがたい。
(宝物館:傳光閣)

(宝物館から見た多宝塔)






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