中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「矢除けの地蔵尊」「鳥籠山(とこのやま)」と「扇塚」(旧中山道を歩く 300)

2012年02月04日 10時19分19秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(「五百らかん」の石碑)

(鳥居本宿 5)
原八幡神社をあとに中山道を進む。
高速道路の彦根インターチェンジ入り口と出口の
高架下をくぐる様になっているが、
その手前に彦根方面へ右折する道路がある。
その右向こう角に「中山道 原町」の石碑があり、
植え込みの中に「五百らかん」の石碑がある。
五百羅漢については、
井伊直弼の父が造らせた木像の五百羅漢像が、
天寧寺にある。
(「中山道番外記」を参照願います。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2011/12/post_b206.html参照)

彦根インターチェンジの出口入り口の
高架道路をくぐり過ぎると、
左手に大きな常夜灯があり、その先は(正法寺町)の信号になっている。
道路工事のため寄せ集められたのであろう、
いくつかの道標がある。
(北八丁 多賀大社)の碑、
(安産観世音 是より四丁 慶光院)の碑、
(金毘羅大権現 是より〇〇)の碑、
(是より多賀みち)の碑、がある。
多賀大社へ東参道のしるしである。


(正法寺町の信号)


(常夜灯)


(北八丁多賀大社)


(これより多賀みち)

信号を渡ると右側に神社の森があり、
森が切れたところが入り口で、「春日神社」の石の鳥居がある。
さらに進むと右手に「勝満寺」があり、
門前に「矢除けの地蔵堂」がある。


(神社の森)


(春日神社)


(勝満寺)


(矢除け地蔵堂)

説明によると、
(地蔵町勝満寺の門前に地蔵堂がある。
この地蔵堂には地蔵菩薩と聖徳太子が祀られてあり、
通称矢除け地蔵尊と呼ばれ親しまれている。
元は旧中山道の松の畷手にあったものを現在地に移されたもので、
以後松の畷手を地蔵畷手と呼ぶようになり、
以来現在の集落を地蔵村と呼ぶようになった。
この地蔵さんは、西暦570年三十代敏達天皇のころ、
仏教が伝来した。
当時疫病が流行し、仏教の信仰によるものと、
これに反対する物部守屋と争われた聖徳太子が、
守屋からの難を避けてこの地方に隠れておられた。
――中略――
守屋の軍勢が聖徳太子を発見し、
矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が立たれた。
あとになって松の根方に、
小さな地蔵さんが右肩に矢を射込まれて血が流れた後があった。
世人はこれを尊び一宇の堂を建て、
往来の安全を願った。――後略)とある。
それで地蔵堂の前の松ノ木の下に沢山の地蔵尊がある。
なるほどバス停の名は「地蔵」である。


(地蔵のバス停)


(左手のこんもりした山)


(大堀橋)

中山道を進むと左手にこんもりした山があり、
山が切れるところに芹川に大堀橋が架かっている。
橋から川を覗いていると、
左手の山すそに石碑が二つ建っている。
橋から降り、近寄ってみると、一つには

「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」

と刻んである。

(とこの山 いさや川の石碑)

もう一つには二首の万葉歌碑が、

・淡海路の(おうみじの) 
鳥籠の山(とこのやま)なる 
        不知哉川(いさやがわ)      
   日(け)のこのころは 
                     恋いつつもあらむ


・犬上の 
   鳥籠の山なる 
       不知哉川
     不知(いさ)とを聞こせ
           我か名告らすな

とある。


(歌二首の万葉歌碑)

この先にいさや川、今では芹川があり、
大堀橋を渡ると右手にこんもりと山がある。
そして建っている石碑に、
「中山道旧跡 床の山」とあり、
(鳥籠山については異説がありますが、
ここを床の山として碑を建てた)と刻んである。
床の山については、橋の右か左かはっきり分からないということだ。


(大堀橋と右側の山)


(床の山碑)

この碑の後ろが広場になっており、
その横に沢山の地蔵尊が肩を並べている。
広場の先が「石清水神社」である。
神社は階段を登った上にあるが、階段の途中に「扇塚」がある。


(沢山の地蔵尊、この後ろが石清水神社)


(石清水神社)


(石清水神社本殿)


(扇塚)

「扇塚」について、
(能楽喜多流は、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受け、
この地で発展した。九代目家元、健志斎古能は隠居したのち、
数年間彦根にいて多くの門人を育成と能楽の発展に力を尽した。
いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき門人たちの所望に応じて、
記念に「面と扇」を与えた。
その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を立てたのである。
もともと一対だったと思われるが、「面塚」の行方はわからない。

右側面 享和元年(1801)酉夏 喜多古能
左側面 豊かなる 時にあふぎの しるしとて
      ここにもきたの 名を残しおく)
(大堀町史跡顕彰委員会)とある。

中山道のこの先に、
鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺(ゆいしょうじ)がある。
ここには「絹本着色浄土変相図」ならびに
「刺繍阿弥陀来迎図」の二幅の掛け軸があり、
彦根市の指定文化財になっている。
(残念ながら拝観は叶わなかった。)

この先、しばらくして中山道は高宮宿に入って行く。


(鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺)





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2 コメント

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おはようございます。 (posea)
2012-02-05 06:12:30
おはようございます。
いつも遊びに来て頂きありがとうございます。

1つお願いが
http://blog.ocn.ne.jp/blogparts/detail/080108183042/1.html
cafek皆様と繋ります設定して頂けないでしょうか
よろしくお願いします<(_ _)>
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posea さん (hide-san)
2012-02-06 11:22:00
posea さん

コメント有難うございます。
足跡の使い勝手が今ひとつ理解できないでいます。
理解でき次第仰せのようにしたいとおもいます。
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