中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

接待茶屋「永代人馬施行所」(旧中山道を歩く 139)

2008年07月19日 08時32分43秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(和田峠への草深い入り口)

(和田宿 8)
中山道の案内通り進んで、和田峠へ道がつながっているのかと疑わしく思えるが、
すこし進むと、休憩所がありその先に「三十三体観音」の石仏群に出会う。
説明看板の中央に、大きく「中山道」とあるので間違いが無さそう。


(休憩所とその先に三十三体観音の石造群が見える)

「かって、この山中にあった熊野権現社の前に並んでいた石造である。
旧道の退廃とともに荒れるに任せていたが、
昭和48年(1973)の調査発掘により29体が確認され、
ここ旧道沿いに安置された。
内訳は千手観音13体、如意輪観音四体、馬頭観音十体、
二体は何観音か不明で、都合29体。残り4体は未発見である。
峠の難所を往来する人馬の無事を願って祀ったものであろうか。」(文化庁、長野県、和田村)


(三十三の内29体の石像が建っている)

その先、急な坂道を青息吐息で登ると、
前面が急に開け「峠にきたか」と思うがそれほど甘くは無い。
国道に合流して道路は更にのぼっている。
右角にわらぶきの家があり、左手に小型軽トラックが止まっており、
荷台に2リットル入りのペットボトルを沢山積んでいる。
脇を見ると運転手さんらしき人が、ペットボトルに水を詰めている。


(接待茶屋:永代人馬施行所)

わらぶき家は接待茶屋跡で、
「ここに流れる清水は美味しいこと天下一品である」と、
宿の主人に聞いてきたその水である。
「ここでペットボトルの水を汲んで峠越えをされるとよろしいですよ」といわれていた。
時間は10時半。そろそろお腹も空いたので、
旅館で作ってもらった弁当をいただくことにした。

接待茶屋は両側が開いており、中に入ると4~50坪の土間になっている。
囲炉裏ともう一方にかまどが二つあり、
壁に沿って、ずらりとベンチといおうか縁台と言おうか、が並んでいる。
一度に50人以上が腰を下ろせそうである。

ボクたちもここに腰を下ろして弁当をひろげた。
弁当の包みにはコンビニで買うおにぎりの
1.5倍もありそうなおむすびが二個と沢庵十切れ、
それにきゃら蕗(蕗の佃煮?)が入っていた。

これで一人前である。
年配の二人には、一度に二つのおにぎりは食べきれないので、
一つずつ食べることにして、
ひとり分はリュックに入れなおして午後食べることにした。
それにしても水も美味しかったが、このおむすびの美味しかったこと。
塩味が少し多めで、汗をかいて山登りする人に
塩分補給を考えて作ったもののようである。
ペットボトルの水はほとんど空になっていたので、
ほとばしる清水を汲んでボトルに詰め出発した。

この接待茶屋は、「永代人馬施行所」といい、

説明では、
「江戸呉服町の豪商かせや与兵衛が、
中山道旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。
その金の利子百両を二分して、
碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に50両づつ下げ渡し、
文政11年(1828)に設置された施行所である。
11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚き火を、
牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
その後山抜けにより流出したが、
嘉永五年(1851)現在地に再建され明治三年まで続けられた。」
(文化庁、長野県、和田村)

その後千両はどうなったのか知らないが、
明治政府が頂戴してしまったのか、貧乏人には気になるところではある。
なんといっても
千両寄付した人は「永代」の施行所にしたかったはずであるから・・・
(その後も「永代」の文字通り続いていれば、
今日おかゆをご馳走になれた(?)かもしれないのだ。)

それにしても、47年間よくも続けることが出来たと感心する。
ほとんど半世紀も続けられたのです。


(途中にあった文字の馬頭観音)


(入り口にあるブルーの案内)


(登り道)


(石畳の道)


(丸太を組んだ橋)


(流れ落ちる滝)


(滝2)

「永代人馬施行所」の前を登っていくと、
すぐまた草の道になり、入り口にはブルーの案内が表示されている。
山道は急な登り坂が続くと思えば緩やかになり、
緩急繰り返しながら進む。
途中石畳や橋を渡り、綺麗な清水の滝などにも出会いながら進むが、
観賞している余裕は無い。
苔むした石に足をとられまいとしたり、
架けてある橋の丸太に躓いて転ばぬように注意したり、
気を抜くことが出来ない。
しかし道を間違えそうなところにくると、
必ずブルーの案内板があるので安心である。

やがて次の一里塚に到着する。
「広原の一里塚」。江戸より52番目の一里塚である。
先ほどの一里塚からもう四キロも歩いたことになる。


(広原の一里塚)

「広原の示す文字通り、昔は笹や萱の生い茂った原であった。
冬の降雪期には山頂より吹き降ろす吹雪で
一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、
五間(9m)四方のこの塚は旅人の道しるべになった。」
(文化庁、長野県、和田村)とある通り、


(キャンプ場の水場)


(キャンプ場の広原)

一里塚の先左側は、一面の広場で、キャンプ場になって、
お手洗い、炊事の用意が出来る設備が整っている。
その先で国道と合流するが、合流したすぐ左側に

運輸省認定
「八ヶ岳中信高原国定公園 和田峠 和田村青少年旅行村」
の看板があり、その奥に宿泊設備があるのか洒落た建物があるが、
今は無人のようだ。


(国定公園の看板)


(しゃれた建物、これも道路財源で出来たものか?今は空き家)

このあたりは、旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石の産地で、
和田峠のこの辺りで多く算出されている。
キャンプ場から一里塚にかけて、
その脇の湿原のあたりに沢山の遺跡が集中しているとのこと。
なお、発掘された石器は、和田宿の黒曜石石器資料館に保管されているという。
(長和町教育委員会)

返す返すも、黒曜石石器資料館が
四時過ぎで閉館していたことを残念に思う。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
中仙道の旅。良く歩かれることに感心しますが、お... (yuhoh51)
2008-07-19 09:52:28
中仙道の旅。良く歩かれることに感心しますが、お元気になられて何よりです。近い割りに中々足を伸ばせない小生です。
連れ合いが足が弱くなり、夫婦では無理になりました。市から80才のお祝い金が届くようになった年上女房です。
千両の豪商。最近はいなくなった大物ですね。
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yuhoh51 さん (hide-san)
2008-07-19 12:01:08
yuhoh51 さん
お元気で何よりです。
何をするにも体力のあるうちですね!
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