森の中のティータイム

離婚を経験し子供達も独立 
暮らしの小さな発見をノートに。

落合恵子さん

2009-05-02 | 思い・つれづれ
最近、落合さんに共感することが多い。
彼女が「スプーン一杯の幸せ」を出版し、一世を風靡した頃
彼女のDJ番組を含む深夜のラジオ放送を、私もよく聴いては
いたけれど、年上のお姉さんという印象くらいしか持っていな
かった。

でも、近頃落合さんがゲストで出演されている朝の番組を
たまに観る機会があると、その都度その発言に溜飲が下が
る思いにさせられるのだ。

年齢を重ねるごとに、甘さとか人に阿る気持ちとかを拭い
捨てて、ありのままに、余計な物を削ぎ落とした女性の
逞しさを、芯の強さを、彼女に感じる。

以前、ここでも紹介したこの事件を、その番組内で放送
したときも、コメンテーターの殆どが渦中の一人の男性の
無責任さに全ての批判を集中させる中、彼女一人が「捨て
犬たちの殺処分よりも、国はもっと根本的に無くすための
努力をし、真剣に取り組むことが重要だと思う」と締めく
くった。

それ以外のときもいつも感じるのは、彼女は「問題の根本」
が見えているということ。殆どブレないのだ。

また最近は、朝日新聞のエッセーも連載されていて、その
中でも共感することが多く、ここで自分が記した文と
あまりにも共通する部分があったりで、時には新鮮な驚き
もある。

4月半ばには「ある方向にドドッと流れいくような風潮は
ちょっと恐ろしい」とあり、それも殆ど同じ意味のことを
私自身いつも友人や家族に言っているのでニヤリ。
またベット・ミドラーが好きだというのも、同じ(笑)

一方、同じ新聞の土曜版では勝間和代さんという女性の
「人生を変えるコトバ」という記事もあり、こちらは
肩の力が目一杯入っていて、落合さんとは対照的だ。

彼女は近年、経済に限らず数多くの分野の本を出版して
いるが、先週の記事に少し違和感が。

「事実などない。認識だけだ」というこのコトバに彼女は感銘を
受けて、それまでの観念のようなものが吹き飛んだらしい。
いくら真面目に頑張っても、優しさゆえに人を助けても
相手にそう認識されないなら、それは意味がないというよう
な考えに導かれたそうだ。

確かに独りよがりな親切や生真面目さは、迷惑なだけかも
しれない。特にビジネスや対人関係では当てはまるだろう。
でも全てに於いてそうと言い切れるわけではないと思う。

成果を挙げられずとも数字に表れなくとも地道な努力を
する人を過少に評価する人間は、いつかは痛い目を見る。
綺麗事ではなく。

相手に認められないとしても、「事実」は存在する。
例えば親が子を思う気持ち。
どんなに相手を思いやってしてやったことでも、それが
子に伝わらぬことの方がその逆よりずっと多いのだ。

だからこそ親子は永遠の片思いだといわれるのだろう。
もっとも最近の親の一部には、友達オヤコだとかで
あろうことか子供に媚を売る向きもあるというけれど(笑)

その時々に認められずにいたことが、後にずしんと心に響くことがある。
それが親の言葉やしてくれたことだったりする。
確固たるモノは、必ずしもその時点で認識できるわけではない。
居なくなったり失ったりして気づくものが殆どだ。

落合さんは、出生の「形」が一般のそれではなかったという。
これまで彼女にしかわからない様々な反応を、世間から
浴びせられたかもしれないが、だからこその親子の濃密な関係が
あったかもしれない。

確かなことは、彼女が真っ当に純粋な精神を無くさず
「今」を生きているという事実。
その立場とお母様との母子関係がなかったなら、培われた
だろうか。
あくまでこれは私の憶測の範囲だけれど。
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