群馬社の概要
大正末期、蚕糸業の不況で困窮した農家について県議会でも問題になり、「養蚕家救済ニ関スル建議書」が知事に提出されるような状況下で、養蚕農家を救済するために、群馬県が支援して、昭和2年に操業を開始した組合製糸が群馬社である。
工場は群馬郡元総社村(現在のJR新前橋駅の北)に15,000坪の敷地に350釜の製糸工場で出発し、昭和3年には本社の釜数を710釜に増設し、昭和4年には東毛工場(尾島町)452釜、昭和5年には沼田工場220釜、昭和6年には安中工場350釜の工場を作り、多条繰糸機も導入された。
こうした群馬社の発展は富岡製糸所の所長であった大久保佐一社長の手腕によるものであった。大久保社長は営業製糸の手法を取り入れた大規模な集中方式をもった組合製糸を実現させることを考えていた。県は、長野県の片倉、郡是などの営業製糸に対抗できる製糸の勢力を育て、南三社の刷新を図ろうとして、群馬社を全面的に支援した。
この、群馬社の経営が、生糸が暴落した昭和の恐慌の中で行われたため、金融機関からの借入金も大きくなった。さらに、原料繭の統一を目指し、やがて普通蚕種の直営製造も開始したため、蚕種業者から不満が噴出すことになった。
昭和8年で、組合員数18,000人、供繭数量121万貫、生糸生産高10万4,000貫で全国一の規模であった。
大正末期、蚕糸業の不況で困窮した農家について県議会でも問題になり、「養蚕家救済ニ関スル建議書」が知事に提出されるような状況下で、養蚕農家を救済するために、群馬県が支援して、昭和2年に操業を開始した組合製糸が群馬社である。
工場は群馬郡元総社村(現在のJR新前橋駅の北)に15,000坪の敷地に350釜の製糸工場で出発し、昭和3年には本社の釜数を710釜に増設し、昭和4年には東毛工場(尾島町)452釜、昭和5年には沼田工場220釜、昭和6年には安中工場350釜の工場を作り、多条繰糸機も導入された。
こうした群馬社の発展は富岡製糸所の所長であった大久保佐一社長の手腕によるものであった。大久保社長は営業製糸の手法を取り入れた大規模な集中方式をもった組合製糸を実現させることを考えていた。県は、長野県の片倉、郡是などの営業製糸に対抗できる製糸の勢力を育て、南三社の刷新を図ろうとして、群馬社を全面的に支援した。
この、群馬社の経営が、生糸が暴落した昭和の恐慌の中で行われたため、金融機関からの借入金も大きくなった。さらに、原料繭の統一を目指し、やがて普通蚕種の直営製造も開始したため、蚕種業者から不満が噴出すことになった。
昭和8年で、組合員数18,000人、供繭数量121万貫、生糸生産高10万4,000貫で全国一の規模であった。