一人の道 

2023-07-21 10:18:20 | フォーク&ニュー・ミュージック
一人の道 茶木みやこ(元ピンク・ピクルス)



 ある日走った その後で 僕は静かに 考えた
 
誰のために 走るのか 若い力を すり減らし
 
雨の降る日も 風の日も 一人の世界を 突っ走る
 
何のために 進むのか 痛い足を がまんして
 
大きな夢は ただ一つ 五つの色の 五つの輪
 
日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ
 
 父さん 許して下さいな 母さん 許して下さいね
 
 あなたにもらった ものなのに そんな生命を 僕の手で
 
見てほしかった もう一度 表彰台の 晴れ姿
 
  だけど 身体は動かない とっても もう 走れない
 
 これ以上は 走れない 





1964年(昭和39年)10月21日、東京オリンピックの最終日を飾る男子マラソン競技。

エチオピアの国の栄光と皇帝のためにと、前人未到のオリンピックマラソン二連覇を達成した、はだしのアベベ選手に続いて、

国立競技場に入ってきたのは、メダルに一番近い男といわれ、優勝候補と期待された君原健二選手ではなく、円谷幸吉選手でした。

しかし、円谷選手は、最後のトラック争いで、イギリスのヒートリーに追い抜かれてしまい、惜しくも銅メダルに終ります。

まだ、マスターが、小学校の低学年のときでしたが、応援していて、悔しい思いをしたことだけは、はっきりと覚えています。

次のメキシコオリンピックでは、円谷選手は多くの国民から、当然に、今度こそ金メダルを!、と期待されました。

「メダルの期待は迷惑だ、自分のために走るんだ。」と世論に反発した君原選手よりも、円谷選手に、多くの期待が集まります。

そして、円谷選手自身も、東北福島県出身の真面目で、純朴な性格に加えて、公務員である自衛隊員(自衛隊体育学校)として、

日の丸と国民の期待に答える責務も、感じていたのでしょう。

 何のために 進むのか
 痛い足を がまんして


その国民の期待の重圧に、身体の不調を訴えることも、理解を求めることも許されず、走りつづけることを求められたのです。

そして、最後は、その重圧に耐え切れずに、メキシコオリンピックの年(1968年)1月に、円谷選手は死を選びました。

享年27歳でした。

父さん 許して下さいな 
母さん 許して下さいね
あなたにもらった ものなのに
そんな生命を 僕の手で


円谷選手はこんな遺書を残しました。

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。

干し柿、モチも美味しゅうございました。

敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。

克実兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。

巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。

喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。

又いつも洗濯ありがとうございました。

幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。

モンゴいか美味しゅうございました。

正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。

幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、

幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。

父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。

気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。

幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」

円谷選手の自殺後、全国から励ましの手紙とともに、また、心無い手紙も、円谷選手の父母に寄せられたそうです。

父母にあてた悲しい遺書を、父母もまた、期待に応えられなかった世間に対する謝罪として、公表せざるを得ないほど、追い詰められていたのでしょう。

応援、ほんとに心から応援して、負ければ悔しくて残念です。

でも、勝負の世界ですから、勝ちもすれば負けもする…、スポーツを愛して応援する人ならば、負けても、温かく見守ってやるのが、スポーツマンシップだと、

マスターは思うのですが。

東京オリンピックでは屈辱の八位に終った君原選手は、国のためではなく、自分のため、そして円谷選手のためにと走って、メキシコオリンピックでは

銀メダルを獲得します。

時を経て、あるマラソン選手が、「自分で自分を誉めてやりたい。」と言ったことがありますが、この言葉の裏に、30年以上を経てもなお、

周囲の期待に対する重圧を、いかに乗り切ることが、精神的に大変であるかを感じます。

人生をマラソンにたとえることがあります。

ときとして、次々と追い抜かれ、そして、ゴールがあまりに遠く見えて、もう走るのをやめたくなるときだってあるはずです。

でも、そんなとき、何のために走るのか、誰のために走るのか、そんなことを問いかけ直すのもいいのかもしれません。

そう、その答えは、走っている自分しか見出せませんから。

そして、ゆっくりでも、一人の道を、走りつづけたいものです。


ピンク・ピクルスは、同志社女子大学在学中だった小林京子さんと茶木みやこさんが組まれた女性フォークデュオで、ほかに「僕にさわらせておくれ」

「天使が恋を覚えたら」などの曲もあります。

 ピンク・ピクルス解散後、茶木みやこさんは、ソロ活動を続けられているようですよ。













































































































































































































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