昭和放浪記

2024-07-11 04:22:58 | Jポップス
水前寺清子


女の名前は 花という
日陰の花だと 泣いていう
外は九月の 雨しぶき
抱いたこの俺 流れ者
女は教えて 二十一
しあわせ一年 あと不幸
枕かかえてはやり唄
 歌う横顔あどけない・・・





この曲「昭和放浪記」、1972年10月にリリースされた水前寺清子の48枚目のシングルです。

水前寺清子のために狙い撃ちで書いた、とは阿久悠さんの後日談。

作曲を小林亜星に頼んだのも、思いがあってのことだったそうです。

その甲斐でしょうか、この曲で水前寺さんはこの年『第23回NHK紅白歌合戦』に出場しています。

しかし、当時は伝説的な大ヒットと囁かれましたが、ヒットすることもなく、結局は隠れた名曲どまりで終わってしまいました。

 昭和の時代を生きた男が、その時代の悲しみ、悲恋、未練を”これも我が人生”と想い起こす哀愁感いっぱいの名曲だとマスターは思うのですが。

ところで、1972年に「昭和放浪記」を書いた阿久悠は、歌詞が出来上がったときにいい手応えがあったので、凡庸な演歌の作品で終わらないようにと、

あえてポップス系の小林亜星に作曲を依頼したのだそうです。

その後に隠れた名曲と呼ばれたことについて、阿久悠さんはこのように述べています。

「これは演歌好きの人からは、隠れた名曲のように言われている。

別に隠したつもりはなかったが、ただもう一つ売れなかっただけである。

それでも、詞ができた時も、曲がついた時も、レコーディングが終わった時も、

かなかの盛り上がりで、もしかしたら、伝説的な大ヒットとささやかれたのだが、

結局は隠れた名曲どまりであった。

この『昭和放浪記』はねらいうちのように、水前寺清子のために書いた。」

水前寺清子は1970年に放映されたテレビのホームドラマ「ありがとう」が高視聴率を取って、シリーズ化されたことから俳優としても人気を博していたが、

歌手としてはヒット曲が途切れている状況にありました。

新進気鋭の作詞家としてヒットメーカーになっていた阿久悠に、がらりと作風が変わる危険を見越したうえで楽曲を依頼したのは、

歌でも新境地をひらきたいという目論見があったからでしょう。

1971年から72年にかけて阿久悠が作詞した作品のリストを見ると、ほとんどがポップス系の曲であったことがわかります。

そのなかで演歌と呼べそうなものは、わずかに内山田洋とクールファイブの「この愛に生きて」と「恋歌」、そして藤圭子の「京都から博多まで」ぐらい。

だから当時の阿久悠には、水前寺清子のトレードマークともいえる応援歌、いわゆる元気が出て威勢のいい歌の路線を継承するつもりはなかったといいます。

このとき作曲を指名された小林亜星は1年前に阿久悠とコンビを組んで、「ピンポンパン体操」という幼児向けの楽曲で思わぬメガヒットを飛ばし、

その余韻がさめない頃でした。

作詞するにあたって阿久悠さんは、劇画か任侠映画のような人物設定にしたうえで、場所もはっきり昭和初期の女郎屋とわかるようにしたとのこと。

だが1コーラスが4行の典型的な演歌の歌詞だったので、小林亜星の書いた曲は見事過ぎるくらいに演歌そのものという作品になりました。

自分たちの新しい面を発見した阿久悠と小林亜星はレコーディングが終わった後も、いい作品が出来上がったと思って満足していました。

だから関係者たちもヒットを予感していたらしいですが、実際にレコードが発売されると意外なことに、まったくといっていいくらいヒットしませんでした。

小林亜星はヒットしなかった要因のひとつとして、編曲とサウンドについてこんな感想を述べています。

「なかなかドラマチックな、映画の1シーンを見てるような歌です。

ちょっと浪曲調のところがあり、小杉仁三さんという方のアレンジがモダンジャズ的なアレンジで、ちょっとその違和感がありすぎたかもしれませんが、

ぼくにとっては素晴らしいアレンジで、もう一度世に問いたいと思っている曲です。」

























































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