夢淡き東京 藤山一郎
1 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
誰を待つ心 可愛いガラス窓
かすむは春の青空か あの屋根は
かがやく聖路加(せいろか)か
はるかに朝の虹も出た
誰を待つ心 淡き夢の町 東京
2 橋にもたれつつ 二人は何を語る
川の流れにも 嘆きをすてたまえ
なつかし岸に聞こえ来る あの音は
むかしの三味(しゃみ)の音か
遠くに踊る影ひとつ
川の流れさえ 淡き夢の町 東京
3 君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
風に通わすか 願うは同じ夢
ほのかに胸に浮かぶのは あの姿
夕日に染めた顔
茜の雲を見つめてた
風に通わすか 淡き夢の街 東京
4 悩み忘れんと 貧しき人は唄い
せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
小雨が道にそぼ降れば あの灯り
うるみてなやましく
あわれはいつか雨にとけ
せまい露路裏も 淡き夢の町 東京
昭和22年(1947)リリース。長谷川幸延作の連続ラジオドラマを映画化した『音楽五人男』(東宝)の主題歌。B面に収録された『白鳥の歌』とともに大ヒットしました。
歌詞に出てくる地名を見ると、このころまで、東京の重心は今よりずっと東にあったことがわかります。
高度経済成長期以降、新宿の新都心化、渋谷・池袋の副都心化が進み、重心は西に移動しました。
しかし近年、ウォーターフロントの再開発が進むにつれて、重心はまた東に戻る傾向が出ています。
銀座といえば、長い間、柳の並木がシンボルでした。「銀座の柳」は、さまざまな歌や小説、エッセイなどに描かれています。
しかし、それを知る人も、次第に少なくなってきました。
銀座に並木が植えられ始めたのは、明治10年(1877)ごろのことです。
当初は、柳のほかに松や桜なども植えられていましたが、生命力が強いということで、柳に統一されるようになりました。
柳は大事に管理され、銀座の四季を彩る風物詩となりましたが、大正10年(1921)、京橋・新橋間の車道拡幅のために撤去されてしまいました。
写真は撤去される前の柳並木。
大正12年(1923)9月1日には、関東大震災により、銀座そのものが焼失してしまいます。
昭和に入って震災からの復興が進むと、「銀座の柳」復活の気運が高まってきます。
「昔恋しい銀座の柳……」と歌った『東京行進曲 』(西條八十作詞、中山晋平作曲)の大流行も、その復活を助けました。
そのようにして復活した柳並木も、昭和20年(1945)3月と5月の東京大空襲で街ぐるみ焼失。
その後、柳並木は再生しましたが、昭和43年(1968)、またも道路整備のために撤去されてしまいました。
地元住民など銀座を愛する人たちは、「銀座の柳」の復活を希望しましたが、道路事情から実現は困難でした。
並木としては復活しなかったものの、昭和62年(1987)に中央区の木として柳が制定されたのを機に、日野市の建設省(現国土交通省)街路樹苗園に移植保存されていた「銀座の柳」が、同区内の何カ所かに数本ずつ分植されるようになりました。
1番の聖路加は中央区明石町にある聖路加国際病院のこと。
キリスト教の聖人・聖ルカにちなんだ名前なので、セイルカと呼ぶのが正しいようですが、一般にはセイロカ病院と呼び慣らわされています。
藤山一郎もそう歌っていました。
ところで、マスターが生まれたのはこの年、昭和22年の暮れでした。
マスターが歌謡曲を筆頭に音楽に興味を持ったのは「おばぁちゃんこ」だったせいだと思います。
父は教師、母は田んぼ・畑仕事、マスターはおばぁちゃんに育てられました。
そのおばぁちゃんが歌謡曲が好きだったのです。
1 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
誰を待つ心 可愛いガラス窓
かすむは春の青空か あの屋根は
かがやく聖路加(せいろか)か
はるかに朝の虹も出た
誰を待つ心 淡き夢の町 東京
2 橋にもたれつつ 二人は何を語る
川の流れにも 嘆きをすてたまえ
なつかし岸に聞こえ来る あの音は
むかしの三味(しゃみ)の音か
遠くに踊る影ひとつ
川の流れさえ 淡き夢の町 東京
3 君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
風に通わすか 願うは同じ夢
ほのかに胸に浮かぶのは あの姿
夕日に染めた顔
茜の雲を見つめてた
風に通わすか 淡き夢の街 東京
4 悩み忘れんと 貧しき人は唄い
せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
小雨が道にそぼ降れば あの灯り
うるみてなやましく
あわれはいつか雨にとけ
せまい露路裏も 淡き夢の町 東京
昭和22年(1947)リリース。長谷川幸延作の連続ラジオドラマを映画化した『音楽五人男』(東宝)の主題歌。B面に収録された『白鳥の歌』とともに大ヒットしました。
歌詞に出てくる地名を見ると、このころまで、東京の重心は今よりずっと東にあったことがわかります。
高度経済成長期以降、新宿の新都心化、渋谷・池袋の副都心化が進み、重心は西に移動しました。
しかし近年、ウォーターフロントの再開発が進むにつれて、重心はまた東に戻る傾向が出ています。
銀座といえば、長い間、柳の並木がシンボルでした。「銀座の柳」は、さまざまな歌や小説、エッセイなどに描かれています。
しかし、それを知る人も、次第に少なくなってきました。
銀座に並木が植えられ始めたのは、明治10年(1877)ごろのことです。
当初は、柳のほかに松や桜なども植えられていましたが、生命力が強いということで、柳に統一されるようになりました。
柳は大事に管理され、銀座の四季を彩る風物詩となりましたが、大正10年(1921)、京橋・新橋間の車道拡幅のために撤去されてしまいました。
写真は撤去される前の柳並木。
大正12年(1923)9月1日には、関東大震災により、銀座そのものが焼失してしまいます。
昭和に入って震災からの復興が進むと、「銀座の柳」復活の気運が高まってきます。
「昔恋しい銀座の柳……」と歌った『東京行進曲 』(西條八十作詞、中山晋平作曲)の大流行も、その復活を助けました。
そのようにして復活した柳並木も、昭和20年(1945)3月と5月の東京大空襲で街ぐるみ焼失。
その後、柳並木は再生しましたが、昭和43年(1968)、またも道路整備のために撤去されてしまいました。
地元住民など銀座を愛する人たちは、「銀座の柳」の復活を希望しましたが、道路事情から実現は困難でした。
並木としては復活しなかったものの、昭和62年(1987)に中央区の木として柳が制定されたのを機に、日野市の建設省(現国土交通省)街路樹苗園に移植保存されていた「銀座の柳」が、同区内の何カ所かに数本ずつ分植されるようになりました。
1番の聖路加は中央区明石町にある聖路加国際病院のこと。
キリスト教の聖人・聖ルカにちなんだ名前なので、セイルカと呼ぶのが正しいようですが、一般にはセイロカ病院と呼び慣らわされています。
藤山一郎もそう歌っていました。
ところで、マスターが生まれたのはこの年、昭和22年の暮れでした。
マスターが歌謡曲を筆頭に音楽に興味を持ったのは「おばぁちゃんこ」だったせいだと思います。
父は教師、母は田んぼ・畑仕事、マスターはおばぁちゃんに育てられました。
そのおばぁちゃんが歌謡曲が好きだったのです。