とんがり帽子(鐘の鳴る丘) 

2023-02-23 13:10:28 | 童謡・唱歌
とんがり帽子



とんがり帽子~鐘の鳴る丘 | 作詞 菊田一夫 作曲 古関裕而




1 緑の丘の赤い屋根
  とんがり帽子の時計台
  鐘が鳴ります キンコンカン
  メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
  風がそよそよ丘の上
  黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
  おいらが一人でいる時に
  鐘が鳴ります キンコンカン
  鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
  元気でいろよという声よ
  口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
  夜になったら星が出る
  鐘が鳴ります キンコンカン
  おいらはかえる屋根の下
  父さん母さんいないけど
  丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
  おやすみなさい 仲間たち
  鐘が鳴ります キンコンカン
  昨日にまさる今日よりも
  あしたはもっとしあわせに
  みんな仲よくおやすみなさい




太平洋戦争末期、日本の主要都市の多くが米軍の空襲を受けましたが、とりわけ首都東京は被害が著しく、区部の大半が焼け野原となってしまいました。

昭和20年(1945)8月15日、戦争が終わると、空襲で家も親も失った「戦災孤児」たちが街にあふれました。

保護施設に収容されなかった孤児たちの多くは、地下道やガード下、防空壕跡などで寝泊まりし、昼間はくず拾いや靴磨き、残飯あさりをして暮らしていて、彼らは「浮浪児」と呼ばれました。

浮浪児のなかには、かっぱらいや盗みを働く者もいましたが、だれが彼らを責められましょうか。

昨今横行している青少年のかっぱらいや万引きと違って、彼らのそれは、ぎりぎり命をつなぐためのやむを得ない行動だったのです。

施設に収容された孤児たちも、必ずしも平穏だったわけではありません。

一般社会でも餓死者が続出していた時代でしたから、食べ物は十分ではなかったし、虐待やいじめもありました。社会全体が混乱していましたから、そういったことへの監視の目が行き渡らなかったのです。

菊田一夫作のNHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、こうした社会情勢を背景として、昭和22年(1947)7月に始まりました。

以後3年7か月、790回にわたって放送され、古関裕而作曲の主題歌『とんがり帽子』とともに大流行しました。

ドラマは、戦争が終り、復員してきた若者・加賀見修平がガード下で浮浪児にカバンを奪われそうになるところから始まります。

その浮浪児は隆太といいました。

ここから、修平は、隆太やその仲間、修吉、ガンちゃん、クロ、みどりなどと交流するようになります。

彼らの惨めな境遇を知った修平は、何とかしなければと考え、浮浪児たちも彼を慕いました。

そして、修平の故郷が信州だったところから、孤児たちと力を合わせて信州の山あいに「少年の家」を作り、共同生活を始めるのです……。

当時は、日本中の子どもたちが、このドラマを欠かさず聞いていたそうです。

子どもたちだけでありません。敗戦とそれに続く苦しい生活にうちひしがれていた大人たちも、このドラマによって、明日への希望を育てたといわれます。

菊田一夫は、戦争中、岩手県の江刺郡岩谷堂町(現在は奥州市)に家族を疎開させていました。

ここの町役場には鐘のついた高楼があり、菊田一夫はそれを見て『鐘の鳴る丘』を発想したといわれます。

この建物は、明治記念館として保存されており、現在も、毎日午前7時と午後5時に『とんがり帽子』のメロディーが流れています。






































































































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