我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

ボリス・ネムツォフ

2009年11月18日 | 政治家

ロシア

ボリス・ネムツォフ【ロシアの政治家】1959 ~ 2015 ボリス・ネムツォフ 政治家

 

ボリス・エフィーモヴィチ・ネムツォフ

Борис Ефимович Немцов、Boris Efimovich Nemtsov,
 1959109日 - 2015227
ロシアの政治家。エリツィン政権で第一副首相。
2008年委員会」 の元共同議長。人民自由党に所属。
(wikipedia)

 

 

1959年10月9日、ユダヤ人の両親のもとにソビエト連邦ロシア共和国のクラスノダル地方のソチで生まれる。1981年ゴーリキー大学電波物理学部を卒業して、ゴーリキー電波物理学研究所に勤務する。1988年以降から環境保護運動のリーダーとなり、ゴーリキーに原子力発電所建設が持ち上がった際には原発建設反対に動き、反対運動の中核を担った。

 

 

1990年ロシア共和国人民代議員に当選し、政界に入る。議会では院内会派「民主ロシア」に所属した。1991年8月のソ連8月クーデターでは、改革派の立場から、エリツィン・ロシア大統領を支持した。エリツィン政権と関係を作ったネムツォフは、1991年エリツィンによって、ニジニ・ノヴゴロド州行政長官(知事に相当。のちに知事)に任命された。1993年上院連邦会議代議員に当選。1995年12月ニジニ・ノヴゴロド州知事選挙で再選される。

エリツィンは、1997年3月に連邦政府の第一副首相(住宅建設政策及び独占禁止政策担当)に登用する。同年4月には、燃料・エネルギー相を兼任する。セルゲイ・キリエンコ内閣の第一副首相に任命される。


 

1997年12月26日、ロシア下院において、「ネムツォフは、無責任な政治家」として非難決議が可決され、1998年、第一副首相を解任される。「第一副首相という立場を利用し、社会を不安定化させる規模の外資を呼び込み、国内経済に脅威を与えた」と訴えられた[2]。


1999年、改革派、リベラル派の結集を図った。1999年12月の下院国家会議選挙に立候補し当選する。2000年1月、下院副議長に選出されるが、リベラル派は、新興財閥との繋がりもあり、勢力が衰えていった。ソチ選挙管理委員会には、「ネムツォフの収入は、1834億ルーブル(3545億円)」と報告されている[3]。


2003年12月の下院国家会議選挙では、比例区の議席確保に必要な5%の得票率を獲得することが出来ず、惨敗。リベラル派の代表を辞任した。 2004年2月、石油コンツェルン・ネフチノイの取締役に就任。ガルリ・カスパロフ、ウラジーミル・ブコフスキーVladimir Bukovskyらとともに「2008年委員会」を結成した。

ウクライナのオレンジ革命では、ヴィクトル・ユシチェンコを支持し、ユシチェンコ大統領が誕生すると大統領経済顧問に任命された。

2007年年の下院選挙では比例代表リスト筆頭となったが、2007年11月25日にサンクトペテルブルクで開いた集会でニキータ・ベールイフ代表らとともに警察に拘束された。選挙は、得票率0.96パーセントで敗北。12月26日2008年ロシア大統領選挙への自身の立候補を取り下げ、野党勢力による候補一本化の必要性を強調した。

2011年12月4日のロシア下院選挙、ネムツォフらが参加したリベラル系野党「人民自由党」(英語表記はPeople's Freedom Party)は、不法滞在者や死者を支持者とし、政党登録に必要な署名を提出した。その為、政党として登録されなかった[1]。


人民自由党は、プーチン首相の政治手法を厳しく批判していて、最近の世論調査では支持率は9%で、比例代表制の下院で議席獲得に必要な「得票率7%」を超えていたとされる[4]。選挙後、ネムツォフらは、下院選挙にて不正があった疑惑が浮上した際、12月5日より反政府デモを行った(2011年ロシア反政府運動)。


2013年11月、古都ヤロスラヴリにある歴史的なスターリンマンションを購入[5]。

2015年2月27日、モスクワ市内で散歩中、車両から6発の銃撃があり、そのうち4発が命中して死亡した[6]。ネムツォフは2日後の3月1日に行われる予定のウクライナへの軍事介入に反対するデモの呼び掛け人だった[7]。殺害は政治的動機によるものという声も出ている[8]。

2015年2月28日、プーチン大統領は「ぼうとく的な殺人のまとめ役と実行犯が当然な処罰を受けるよう全ての手を尽くす」とネムツォフの母親に伝えた[9]。


その他[編集]

私生活では夫人との間に三人の子がいる。

ロシアの右翼政治家であるウラジーミル・ジリノフスキーとテレビで討論中、激高したジリノフスキーに手元にあった水を浴びせられたことがある[10]。

 

 

 

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もう一年経ちました G20

2009年11月18日 | 経済

 

   
 

           

 

結構毛だらけ猫灰だらけ。見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ。見下げて掘らせる井戸屋の後家さん。上がっちゃいけないお米の相場、下がっちゃ怖いよ柳のお化け。馬には乗ってみろ人には添ってみろってね。モノのたとえにもいうだろう。モノの始まりが一なら国の始まりは大和の国。泥棒の先祖が石川五衛門なら人殺しの第一号が熊坂長範。巨根(でかいの)の手本が道鏡なら覗きの元祖は出っ歯で知られた池田の亀さん出歯亀さん。兎を呼んでも花札にならないが、兄さん寄ってらっしゃいよ、くに八つぁんお座敷だよと来りゃァ花街のカブ。憎まれっ子世に憚る、日光結構東照宮、産で死んだが三島のお千、お千ばかりが女じゃないよ、四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姐ちゃん立ち小便女も乗せちゃう 自衛艦、驚き桃の木山椒の木、ブリキに狸に蓄音機、弱ったことには成田山、ほんに不動の金縛り、捨てる神ありゃ拾わぬ神、月にスッポン提灯じゃ釣がねえ、買った買ったさァ買った、カッタコト音がするのは若い夫婦のタンスの環だよ

                      出典:「香具師口上集」室町京之介,創拓社 発行 1997年12月


G20 金融サミット首脳宣言
http://economist.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/g20-a040.html

上記の一部翻訳

2008年11月15日
1.世界経済と金融市場への重大な挑戦の中で、我々(TwentyのグループのLeaders)は2008年11月15日にワシントンで最初の会議を開きました。我々は、我々の協力を強化して、世界的な成長を元に戻すために一緒に働いて、必要とされた改革を世界の金融システムにおいて成し遂げる決心です。
2.ここヵ月にわたって、我々の国は、グローバル経済をサポートして、金融市場を安定させるための緊急で特別な処置をとりました。これらの努力は続かなければなりません。同時に、我々は改革が世界的な危機(これのような)が二度と起こらないことを確実とするのを助ける土台を作らなければなりません。我々の仕事は、市場原理、開いた取引と投資体制と効果的に管理された金融市場が活力、革新と経済成長、仕事と貧困縮小にとって不可欠である企業家精神を促進するという共有確信によって導かれます。
現在の危機の根本の原因

3.この10年以前に強い世界的な成長、発達する主要な流れと長い安定性の期間の間に、市場参加者は危険の十分な認識なしでより高い産出高を捜して、適当な十分な努力を行使することができませんでした。同時に、弱い引受業務標準、不安定な危機管理練習、ますます複雑で不透明な金融商品とそれに伴う過度の力は、システムで脆弱さをつくるために組み合わさりました。政策立案者、監査機関と監督は、若干の先進国で、金融市場で積み重なっている危険を十分に評価しなくて、述べなくて、金融革新と足並みをそろえなかったか、国内の調整行動の全体的な結果を考慮しませんでした。

 

                            

 

 

     猫じゃなくても欠伸がでます。 

   

 

 

                      嫁の知恵 箪笥の鐶に 紙を巻き

                                                                   

 

    我が郷の付録

      70円台まで 下げる気配
     「長めの記事」は別記事として、「別冊」に分けました。読んで頂ければ幸甚です。

 

 

 

    以下は参照記事です。 

 
 
     記事総覧
         
 
 
  

  

 
 
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市橋容疑者「医者になれなかった」 死体遺棄は黙秘

2009年11月18日 | 記事紹介

 

 毎日jp

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20091113ddm041040119000c.html

 2009年11月13日配信

 

(^_^;)記事の紹介です。 

 千葉・市川の英女性殺害:市橋容疑者「医者になれなかった」 死体遺棄は黙秘


 千葉県市川市で07年に英国人女性の他殺体が見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された市橋達也容疑者(30)が県警行徳署捜査本部の取り調べの際、職業について「(医者に)なれませんでした」と供述していることが捜査関係者への取材で分かった。市橋容疑者の両親は医師で、捜査員が「医者にならなかったのか」などと問いかけた際に答えたという。容疑については依然黙秘している。

 捜査関係者によると、取り調べ時の市橋容疑者は自ら話をすることはないが、家族構成や出身地を問われると答える時がある。捜査員が両親の職業について「医師か」と聞くと「そうです」などと応じたという。

 関係者によると、市橋容疑者の父は医師、母は歯科医師。市橋容疑者自身は岐阜県の高校を卒業後、東京都内の私立大に進学したが中退。千葉大園芸学部を卒業後も定職についていなかった。

 捜査幹部によると、行徳署に拘置されている市橋容疑者は12日の夕食も手をつけず、10日夜の逮捕以来食事を取っていない。「なぜ食べないのか」と聞かれても無言で、泣いたり取り乱すこともない。逮捕時はミステリー系推理小説の文庫本も持っていたという。【神足俊輔、中川聡子、斎藤有香】

 ◇送検時の混乱でTBS社員逮捕 公務執行妨害容疑
 12日の市橋容疑者の送検時、行徳署を出発する車に報道陣が殺到するトラブルがあったが、公務執行妨害容疑で現行犯逮捕されていたTBSテレビ情報制作局の男性ディレクター(30)は同夜、釈放された。

 行徳署によると、逮捕容疑は12日午前11時半ごろ、市川市塩浜3の同署前の路上で、報道陣の規制に当たっていた警察官を突き飛ばして市橋容疑者を乗せた警察車両に近づき、窓ガラスを数回たたいて進路を妨害、制止にも応じなかったとしている。

 関係者によると、このディレクターは「みのもんたの朝ズバッ!」などの番組を担当。本人は釈放後「軽率だった」と話した。【神足俊輔、荻野公一】

 ◇警察庁長官「整形外科への写真手配検討」
 市橋容疑者が整形手術を受けて逃亡していたことについて、安藤隆春警察庁長官は12日の国家公安委員会報告会見で「今後必要に応じ、整形外科に写真を手配することなども検討したい」と述べた。【千代崎聖史】

毎日新聞 2009年11月13日 東京朝刊

(^_^;)紹介終わりです。

 

 

 我が郷……』の本日記事へは、  をクリックしてお進みください。

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