暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ハートブレイカー (2010);観た映画、 Oct.  '13

2013年10月07日 19時09分37秒 | 見る


邦題; ハートブレイカー(2010)
原題; L'ARNACOEUR

105分
製作国  フランス/モナコ

監督:  パスカル・ショメイユ
脚本:  ローラン・ゼトゥンヌ、 ジェレミー・ドネル、 ヨアン・グロム

出演:
ヴァネッサ・パラディ     ジュリエット
ロマン・デュリス       アレックス
アンドリュー・リンカーン    ジョナサン
ジュリー・フェリエ      メラニー
フランソワ・ダミアン     マルク
エレーナ・ノゲラ       ソフィー
ジャック・フランツ       ヴァン・デル・ベック
アマンディーヌ・ドゥヴァーム   フローレンス
ジャン=イヴ・ラフェッス     ドュトゥール
ジャン=マリー・パリ      ゴラン

フランスを代表する人気スター、ヴァネッサ・パラディとロマン・デュリスの共演で贈るロマンティック・コメディ。娘の結婚式を阻止せよとの大富豪からの依頼を受けたプロの“別れさせ屋”の青年と、ターゲットとなったヒロインが辿る愛の行方をユーモラスかつロマンティックに綴る。監督はこれが長編デビューとなるパスカル・ショメイユ。

パリに暮らす青年アレックスはプロの“別れさせ屋”。手練手管を駆使してターゲットを誘惑し、ミッションが成功するや、決して深入りすることなくきれいに姿を消す。そんなアレックスに大富豪からの依頼が舞い込む。ターゲットは彼の娘ジュリエット。10日後に迫ったイギリス人青年実業家ジョナサンとの結婚を阻止し、10年間断絶状態だった彼女を自分の手に取り戻したいというのだった。さっそく、結婚式の準備が進むモナコへと向かい、父親が送り込んだ“ボディガード”としてジュリエットに近づくアレックスだったが…。

上が映画データベースの記述である。 世間が寝静まる午前2時をまわって居間に下りてテレビをザップしていたらイギリスBBC局でたまたま本作が放映されていて、その中にヴァネッサ・パラディを見かけたのでソファーに落ち着いて見続けた。 話は別段どうということもないのだし主演が他の女優だったら多分この筋書きでは見ていなかっただろうとおもうけれど彼女だから観たというところが大きい。 BBCの深夜映画にしても内外の英語、米語の映画が殆んどでありドイツやイタリアのように吹き替えもなく字幕着きで放映されるというのはかなりのことで本作が敢えて字幕着きで、非英語圏のクラシック映画のように放映される理由はなんなのだろうかと想像すると多分ヴァネッサ・パラディが理由なのだろうと思う。 自分にしては彼女を観るのはパトリス・ルコントの「橋の上の娘(1999)」以来であり、ヴァネッサ・パラディには少々の思い入れがある。 

そもそもがMTVがまだオーソドックスなロックやポップを今からするとまだ牧歌的に流していた90年代初頭、ヴィデオ・クリップでレニー・クラヴィッツがプロデュースのパラディが歌う「ビー・マイ・ベイビー(1992)」を見たときだ。 自分には年代がかなりはなれたクラウディオ・カルディナーレやブリジッド・バルドーは年齢からしてただエキゾチックで彼女たちのセックスアピールというものを子供の自分は理解もできずその後も消化し切れてはいなかったし以後は殆んどアメリカ映画のセックスシンボルが席捲しそのようにポップカルチャーは動いていたように思う。 フランス、イタリアのラテン系というものはその後姿を消す。 そんなときに久々に観るフランスの新しくもクラシック・リバイバルの20歳がパラディだったのだ。 けれどそれもアメリカ文化のパックス・アメリカーナの文脈の中でしかないものの自分には彼女の登場は意外な衝撃だった。 彼女はすでに幼少の頃からフランスでは知られておりポップ・シンガーとして人気があったらしい。 大きく前歯に隙間が開いたこのフランス顔は所謂美形ではなく野生的であり危ない女のイメージがありフランス的、バルドー的だったのだ。 そしてそれから何年か経っての「橋の上の娘(1999)」だったからそれまでの彼女のイメージとは繋がりがあったもののその後自分には彼女を観る機会がなく本作との間にほぼ15年弱の隔たりがあったか本作を観たときの感慨がひとしおであり、画面に見入った。 ただロマンチック・コメディーとして38歳の彼女の歳ではストーリーに少々無理のある作だとみた。 

それにもう一つ。 「橋の上の娘(1999)」を観た頃だろうか、彼女がジョニー・デップと一緒になったと聞いてやられた、と思ったことだ。 いままで別にスターにしても誰にしてもそんなことを思ったことがなかったのに、それに特別に彼女の作を観たり聴いたりしていたわけでもないしCDを集めるわけでもないのにそう思ったことが自分が無意識に惹かれていたことを露呈していたのだと思う。 やられた、と思ったのには自分でも苦笑が出る。

そんなことを思い出しながら本作を観ていて複雑な思いがした。 デップとの間の二人のこどもを育てた母親が職場に復帰して働く姿であり、ある種この能天気なストーリーには痛々しさが垣間見られるようであるけれどそれでも救いは少々疲れたように見えなくもないパラディでも何ショットかには昔ながらの愛らしさがみえたことだ。 多分パラディのそれまでのイメージの延長として本作が作られたのだろうがその賞味期限の限度がここでは明らかであるように思う。  バルドーやカトリ-ヌ・ドヌーブのように脇役でも光彩を放つ役者になれるのだろうか。 尚、デップの作ではジム・ジャームッシュの「デッドマン(1995)」を採る。

射撃競技会、姑への御機嫌伺いの日曜日

2013年10月06日 23時47分22秒 | 日常

10時45分起床、フリントロック式ライフルと道具一式、それに姑のところに持って行く洗い上げた洗濯物を両手に一杯車に運び慌てて出発した。 自分が撃つことになっている50mの競技会の時間は12時だからその30分前には会場に入らなければならない。 高速を制限時速の10%増しで走り、カメラのあるところでは限度の速度に忠実に走る。 このところ政府の財政難の折、交通違反の罰金の額が上がり、今まで大まかだったものがたった5kmオ-バーでもきっちり課金される。 今年はもう既に2回払い込んでいる。 それにこのルートではこの10年で3回は罰金を払っているから急いでいるとはいえ注意しなければならない。 家からその射撃クラブまで35kmで丁度30分かかり、滑り込みセーフだった。 競技会が済んでクラブのバーでフレンチフライの芋とビールで昼飯にしてその間参加メンバーと駄弁り2時を周って姑の住む町へ向かった。 

普段ならそれほど時間も距離もかからない町が途中の運河にかかった跳ね橋が修理中だからかなり大回りに迂回しなければならなく、結局その介護施設に寄って帰宅したときの車のメーターからは15kmの迂回だったことが分かった。 姑にはこれまでの家族に起こったことの報告となった。 娘の日本研修のこと、息子の卒業式、息子の彼女のこと、近所の様子などといつものように訊かれるままの報告なのだがこういうことが年寄りには一番の土産になるようだ。 それは日本の母にしても同様で、だから同じようなことを日本語とオランダ語で別々に話すことになる。 

今月の半ばに姑の生家の家族会がありそれを家人の妹が今差配している。 それには姑の兄弟の子供たち、つまり家人のいとこ達とその連れ合い、こどもたちが60-70人は集まるようで、それには姑の姉妹も6人来るらしい。 80から90になるような年寄りたちであり6年前に姑の姉妹達がまだ全部揃っていたものが今回は半分になっていて、これが多分大掛かりな家族会に来られる最後になるのではないかと言う。 本人は6年前医者からあと3年の命だといわれていたものが治療法の進歩でまだ生きているからこういう感慨もでるのだろう。 痛み止めのモルヒネが身体に貼り付けるパッチで摂取されるのだと知った。 モルヒネや各種の痛み止めなどの副作用で日常の食事が味気ない、食がすすまない、だから痩せ続けていると言う。 30年前初めて会ったときのでっぷりとふくよかだった頃の面影はとうにない。 介護施設の近所に住む姑の義姉が来たのでそれを機会にそこを離れた。 

岐路、市街地もなくただ耕地が見渡してそれぞれに何キロか広がるあたりで雲のあいだから光が降りているところに行き会って車を停めて写真を撮った。 その後5分ほど走ったらそこは雲ひとつない午後4時の快晴で気持ちのいい秋日和になっていた。 


バカンス ’13 (1) 概要

2013年10月05日 23時37分02秒 | 日常



秋も本格的になるにつれ夏の記憶も薄くなってくる昨今、昨年のように少しづつ夏のバカンスの思い出をまとめていこうと思う。 バカンスの折には大抵宿やテントの中で一日の終わりに防備録としてその日の日記をつけてあるのでそれを元にして思い出しづつ綴る。 写真についてはこの何年かで同様の経験をしているので段々ずぼらになってきていて興味あるショットが少なくなってきているように思う。 記憶というものは薄れ改編されるから出来のいい写真はそのときの空気を再現するのに最良の材料になるのだができるだけ印象に残ったものを写真と共に残していきたい。 尚、行きも帰りも車にテントが付いた牽引車を引っ張って3年前に滞在したチロルの山村のキャンプ場に滞在した。 テントのことは去年バカンスの記録に詳しく書いた。 今年は行きも帰りも息子が同行したが8月4日からオランダ山岳会の氷河及びロッククライミングの研修に一週間参加した。 娘はボランティア活動をサラエボで一週間行った後7月30日にミュンヘンに飛んで我々に合流した。

オランダからオーストリアチロルの村まで約1000km、途中ドイツで最低一泊というのが必須であり、今回は出発が午後3時ということもあって小雨の中、9時ごろドイツのアウトバーン沿いの村で飛び込みの宿をとった。

7月 29日 (月)  オランダ発  500km走って ドイツ フランクフルト近郊の Seligenstadt 泊
7月 30日 (火) Seligenstadt 発 400km 走って ミュンヘン市立キャンプ場
7月 31日 (水) バイクを借りて一日ミュンヘンを散策
8月 1日 (木) ミュンヘン発   約 200km 走って オーストリア、 Oets谷の村 Huben(1180m) にキャンプ設営

8月 4日 (日) キャンプ から Vent(1900m), Breslauer ヒュッテ(2848m)を経て Vernagt ヒュッテ(2755m)泊
8月 5日 (月) Vernagt ヒュッテから Hochjoch Hospiz ヒュッテ(2413m)泊
8月  6日 (火) Hochjoch Hospiz ヒュッテ発、 Vent経由でキャンプ着 

8月  7日 (水) 日本研修の準備のためオランダに戻る娘を送って インスブルック空港へ、 その後 インスブルックの町を散策

8月 12日 (月) キャンプ発 Oets経由 Dortmunderヒュッテ(1949m)経由、Schweinfurter ヒュッッテ(2034m)泊
8月 13日 (火) Schweinfurter ヒュッッテ発 Winnebachseeヒュッテ(2361m)泊
8月 14日 (水) Winnebachseeヒュッテ発 Gries経由 キャンプ着

8月 16日 (金)  キャンプを離れる  ドイツ、黒森 Badliebenzal 泊
8月 17日 (土)  Badliebenzal 発 オランダ着

計 20日間 オランダ-チロルの村 Huben の距離は往復約1000kmではあるがその間にあちこち走っているので総計3000kmほどになった。

 

郵便と床屋

2013年10月05日 02時07分39秒 | 日常

この一ヶ月ほど脚が痛かったのと酒を飲まなかったのとで1時前には眠っているような生活でそんなものだから目覚めも早く6時ごろには一度トイレに行って再び寝床に戻るようなことをしている。 昨日はパンと鰊をもらいに朝早く町まで行かなければならなかったので7時15分に起きて出かけ近年観た事もないような夜明けの朝焼けを見たのだが今日も早くに目が覚め下に降りてまた寝床に戻り寝床の中でタブレットを弄っていて昨日見損なったテレビニュースなどを眺めていたら外は昨日のような上天気だったけれど朝焼けがあったかどうかも知らず起きて寝床を離れたら10時を周っていた。

メールを幾つか出してその後、昼飯に昨日もらってきて尻尾を落とし半身づつにして酸っぱめの甘酢で締めてあった何匹かの鰊を山葵醤油と解凍した白米で喰いビールを飲んだ。 そのあと買ったけれどまだ銃砲店にあるピストルの許可証を申請するのに各種の書類をそろえ町の郵便局から書留でハーグの警察署に郵送した。 その足で床屋のエリックのところに行ったらもう4時をすこし周っていて店に入ったら今日はあんたで終わりだ、と店のドアは開けたまま入り口に椅子をひとつ置いて本日終了のサインにした。 待合の椅子にまだ二人座って順番を待つ者がいたので滑り込みセーフだった。 

話は大抵昨日の祭りのことで、今年の行列のテーマは「幸福」だったらしく地元の新聞が主宰する仮装コンテストに応募してエリックが入賞したという。 コートをかけるところにカトリックの枢機卿が着る真っ赤なコスチュームが丸い帽子とともにぶらさがっていて、この赤も町の旗の赤と白にかけてあるんだ、それにこの赤い表紙のセックス・バイブルという怪しい本をもって皆に祝福の十字をきってやった、と笑う。 新聞にはその写真は出ていないものの名前とその様子が書かれていた。 

頭がさっぱりした後、スーパーで明日、明後日の食材をいくつか買って家にもどった。


祭りと卒業式

2013年10月04日 12時05分13秒 | 日常

10月3日

朝焼けが美しい日頃起きる事のない7時15分にうちを出てこの間痛い脚を1時間我慢しながらならんだ旧公式計量所に来てみればこの町のこの日の伝統、鰊とパンをもらいにくるのにこの前の倍、200mの行列が出来ていた。 これはたまらないなあとは思ったけれど幸いなことに今は痛みも取れて顔見知りや周りの人たちと取り留めのないことを話したり待つ人のために景気付けに幾つかのクラブのブラスバンド、ライブバンドがその行列のあちこちで賑やかな音楽を奏でる中、前回にも増して進行が早かったので30分も並んでいると建物の中に入れてパンと鰊を受け取りそ後すぐ外に出てその鰊を捌いてくれる伯母さんたちの所に行っても4人待っただけで15分で出てこられたのだから早かった。 一人平均8尾捌いて貰うとして4人で32尾、それを15分だから1尾あたり30秒弱で、その手際のよさには毎回驚く。 そんなオバサンたちが20人ほどいて2000人以上の鰊を捌くのだからその眺めは壮観でさえある。

普通なら家に戻って早速ジンをちびちびやりながら鰊を喰うのだけれど今日はそれもせず祭りの行列を見たり色々な出店を覗きながら込み合った町を歩くこともできない。 午後から息子の卒業式がハーグであるからだ。 8月の終わりに卒業のはずが事務の手違いで今日に延びてその他の10人ほどと一緒に卒業式をするのだという。 本人は既にロッテルダムの大学院に通い授業も始まっているので何だか今更卒業式か、妙な坐りの悪いことなのだと思いながらも親だから卒業式に出ないわけにはいかないので今年は祭りをあきらめた。 自分が大学を卒業したときには式には行かなかったのだから妙なものだ。 ここでは本人が証書受領書にサインをして初めて証書が渡されるらしいいからそれもかねてのセレモニーでもあるらしい。 ハーグに行くついでに台所のテーブルや照明のために幾つかの店をみようと歩く支度をして出かけた。 そのために結局5kmほど歩いたが痛みもなく、卒業式の後のレセプションで教師達とも一緒に歓談したときこの一ヶ月ほど止めていたアルコールを口にしてそのまわるのが早いのに戸惑った。

結局ハーグに行く途中で他の家具を見るため二つ向こうの駅まで自転車で行ったからその往復で10kmほどサイクリングしている。 足を痛めて以来一日中痛みがなかったその初日にこれだけ脚を使っているのだから脚のほうはほぼ完治に近いのではないかと思う。 何やかやで今日は目出度い一日だった。


旗を買わねば、、、

2013年10月02日 23時05分11秒 | 日常

10月2日

10月3日はこの町の解放記念日で一日町中お祭りで賑わう。 他の町はどうあれこの町は祝日でこの町の官庁、企業は当然休日となる。 今、町はその準備で大童だ。 仕事が終わって市役所の前を自転車でのんびり通り過ぎがてら建物を見上げると市の旗が風に揺れていて、そういえばこの何年もこの旗を買わねばと思っていたことを思い出し、市役所の塔の下に何週間か前からこの祭りのためのいろいろのグッズを売る10月3日連合会の臨時の店が出来ていたのを思い出し、そこで買おうと自転車を停めて入り口に向かうとドアが閉まっていた。 また今年も買えなかったのかとそのまま帰宅すると家人は夕食に10月3日の伝統的な食い物を作っていた。 この食い物については前に下のように書いたしこの祭りの由来も下のように記している。

Hutspot(フッツポット)について;
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/56220082.html

10月3日の祭りについて;
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/55966305.html

夫婦だけの食卓でぼそぼそとフッツポットを喰っていて今年も旗を買いそびれた話をすると、あの店は市立図書館の前に引っ越したと家人が言う。 この町に住んでもう22年経ちそろそろ自分でもこの町の市民であるという自覚も出来てきたので祭りの当日家の前に掲げる旗をそろそろ買おうとこの何年か思っていたのが買いそびれていて今年はと思っていたので食後それではその店に行って買うつもりで出かけた。

市内に入る主要道路は昨日あたりから規制されていて車は入れない。 今夜は前夜祭で市内の全てのスポーツクラブが市内をパレードする伝統があり小学生から高校生あたりの様々なスポーツクラブの連中が集まりかけていた。 行列に参加する子供たちだけでも数千人はいるだろうし、沿道の見物人をいれると万ははるかに超すのではないか。 子供がまだ小さかった96年から2000年まで6回、ホッケークラブの親として子供たちに同行しておりそのときにもらった記念メダルがなつかしい記憶を蘇らせてくれる。 集合場所に移動する子供たちとその付き添いを横目に表にやぐらを組んで屋根をつけビールのカウンターやライブの舞台を道に出して人を集める幾つものカフェーももうほぼ準備が済んでいる。 

市立図書館の前にある店は人で込み合っていて中に入って旗をほしいというと今年はもう売り切れで来年までない、と言う。 今年もまたうちの前にこの町の赤と白の旗を掲げる機会を失った。



 

左足甲の通風

2013年10月02日 08時36分06秒 | 日常

このところ右脚の痛みの日常で、けれどそれも少しづつ引いているとはいえまだ完全に消えているわけではなく毎朝目覚めて痛みがないことを確認し、それが何時間かすると戻ってくるけれどそれが徐々に前日よりはましになっているというのが日常だったけれど今日は別の鋭い痛みで目が覚めた。 それが右脚ではなく左足で甲なのだ。 それは持病の通風の痛みだと分かったのですぐにいつもの薬を飲んだ。

前回は7月4日に通風が出たと書いている。 3ヶ月前だ。 それまではほぼ半年毎に出ていたものが周期が短くなっている、とも書かれているからほぼ新しい周期が定着したようだ。 前回には一錠では完全に痛みが取れないので翌日再度服用している。 今回はどうなのだろうか。  

イントゥ・ザ・ワイルド  (2007);観た映画、 July '13

2013年10月01日 13時29分37秒 | 見る



邦題;  イントゥ・ザ・ワイルド    (2007)
原題;  INTO THE WILD

148分

監督:  ショーン・ペン
製作:  ショーン・ペン、 アート・リンソン、 ビル・ポーラッド
原作:  ジョン・クラカワー  『荒野へ』(集英社刊)
脚本:  ショーン・ペン
撮影:  エリック・ゴーティエ
音楽:  マイケル・ブルック、 カーキ・キング、 エディ・ヴェダー

出演:
エミール・ハーシュ     クリストファー・マッカンドレス
マーシャ・ゲイ・ハーデン   ビリー・マッカンドレス
ウィリアム・ハート     ウォルト・マッカンドレス
ジェナ・マローン      カリーン・マッカンドレス
キャサリン・キーナー    ジャン・バレス
ヴィンス・ヴォーン     ウェイン・ウェスターバーグ
クリステン・スチュワート   トレイシー
ハル・ホルブルック     ロン・フランツ
ブライアン・ディアカー
ザック・ガリフィナーキス

若さゆえの生真面目さで自らの心と向き合い、過酷なアラスカの大自然に立ち向かっていった一人の青年の姿を追ったジョン・クラカワーのベストセラー・ノンフィクション『荒野へ』を、オスカー俳優ショーン・ペンがメガフォンをとり映画化。恵まれた境遇にありながらも繊細な感受性ゆえに満たされずにいた青年が、突然すべてを捨て、ヒッチハイクでアメリカを縦断しながら様々な人々との出会いを経て、最後は徒歩でアラスカの荒野へと分け入り、その4ヵ月後に餓死した死体となって発見されるまでの心の軌跡を静かに見つめていく。主演は「ロード・オブ・ドッグタウン」のエミール・ハーシュ。

1990年夏、ジョージア州の大学を優秀な成績で卒業した22歳の青年、クリス・マッカンドレス。卒業祝いに新車を買ってあげるという両親の申し出をあっさり断った彼は、通帳にあった預金全額を慈善団体に寄付し、家族に何も告げることなく、文字どおり無一文でアラスカへ向けて旅に出る。道中、様々な出会いと経験を重ねるクリス。サウスダコタでは彼の無鉄砲を諫めてくれる陽気な兄貴分ウェインと親交を深め、スラブスではヒッピーなどアウトサイダーたちが集うコミューンに身を寄せ、そこで美しい少女トレイシーと出会う。彼女はクリスに好意を抱き、クリスにも恋心が芽生えたかに思われたが…。一方その頃、残された家族は音信不通の息子の身を案じ、祈る思いで彼の帰りを待つのだったが…。

上記が映画データベースの記述である。 テレビガイドでショーン・ペン監督の映画だというのと若者が荒野を歩く話だというのだけ横目で読んで深夜ベルギー・国営テレビで放映されたものを観た。 本作とは別にカナダの北から単独数ヶ月に渡り少ない食料だけで荒野に踏み込み更に北に進んで精も根も尽き果てた末に現代の利器、携帯を使って水上飛行機に拾いに来て貰う結末の腰折れドキュメントを本作の数日前に観てアームチェアー冒険家の自分としては、なんだこのへな猪口、ヘタレがとそのヴィデオ画像をみて毒づき、その男を情けなくも思い、結局現代の利器、携帯で助けに来てもらうのかい、しかし結局そういうものだろうなと妙な納得の仕方をしたのもこのような道なき荒野を何ヶ月も彷徨った経験がないビール腹還暦男の勝手な意見だと宥め、それにしてもあの腰折れドキュメントは何だったのだろうかと思っていた矢先の本作だったのだ。 

実話をもとにしているとはいえ映画とドキュメンタリーの違いがここにあり、それは再構築された劇映画である「虚構」と事実の記録の違いであり、ドキュメンタリーは見たそのままの事実を写して一人でカメラを操作してその限られたアングルなどからその稚拙さゆえの臨場感をも得るとともに、一方時には一人芝居の間が抜けたような瞬間が訪れることもあり、緊張感もうすれがちな場面もこのドキュメンタリーには見られた。 熊の来襲におびえる様はなま半かなものではないのだが観る方としては興味本位で何かもっと切迫した気配がないのかとも期待があり、そうなると悪く行くとこのドキュメントもそこで終わりともなり、そういえばそういうドキュメントもあったとも思い出す。 もしそうなると今観ているドキュメントは本人が熊に襲われた後、発見されたカメラから起こされたものかというような甚だ気持ちのわるいものともなり、多分そういうものではないだろうとも思いなおし、だから結局何も起こらなく疲労困憊の果てに救助される顛末をみて、何だ初めの意気込みはどこへ行ったのだ、駄目ドキュメントめと毒づきながらテレビのスイッチを切り観た事を忘れようとビールを一啜りすることとなる。

上の経験をしたあとの本作であるから主人公が山に入るまでの導入部を観るとそれまでの経過、入るまでに準備する段階、様々な人との交流経験の中で触れ合う人々との様子が示され何故荒野に向かうのかというその動機が徐々に明らかになるのであり、荒野に入った段階では物語はほぼ解決をみているとみてもいいのだから本作の数日前に観たドキュメンタリーとは内容も形式もそもそも異なっている。 むしろ比べるほうがおかしいのだがなぜかこれら二作が重なって思い出せるのだ。 ドキュメンタリーでは過酷な現実に直面しながらうろたえ泣きもする人間に向かって自分はシニカルなことをいい、そんなに辛いなら拾いにきてもらったらいいじゃないか、と画面に向かって毒づくのはそれまでただ荒野を彷徨う画面と本人の状況、感情および意気込みだけしか示されてはおらず、本人の背景、何故ここにいなければならないのか、というような動機がはっきり述べられていなかったからでもあるのだが、ただそこにいる本人に感情移入できるようなことがなかった。 ひょっとしてドキュメントの冒頭で動機が述べられていたのかもしれないけれどそれも何十分にも渡るサバイバル・ドキュメントでは現実に直面し対処するその中では動機はもうどうでもよく、そこにいること、生存することに大きく座を占領されているようだ。 ナショナル・ジェオグラフィックやディスカバリー・チャンネルでも再三放映される同様のサバイバル映像などとこのドキュメントが違うところはここでは画像は本人の独白とカメラ一本の画像だけだけであり観る者はソファーにゆったりと落ち着いて観るようなチームによって作られた情報番組でもないところにあるだろう。 そのことが本作とこのドキュメントに共通するところでもあるのかもしれない。 そもそもナショナル・ジェオグラフィックやディスカバリー・チャンネルの映像と劇映画のジャンルに入るだろう本作では違いがはっきりしている。 

多分本作はロード・ムービーのジャンルに属するものなのだろう。 本作でも述べられているソローやケロワックの諸作ともつながりこころの中のどこか荒野を彷徨いたいと思っているふしも見えるショーン・ペンの作にふさわしいものである。