暇つぶし日記

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LILJA 4-EVER ;観た映画、Jan ’11

2011年02月04日 15時15分53秒 | 見る


リリア 4-ever <未>  (2002)

原題; LILJA 4-EVER

105分

製作国 スウェーデン

監督: ルーカス・ムーディソン
製作: ラーシュ・ヨンソン
脚本: ルーカス・ムーディソン
撮影: ウルフ・ブラントース
音楽: ネイサン・ラーソン

出演:
オクサナ・アキンシナ
アルチオン・ボグチャルスキー
エリーナ・ベニンソン
リリア・シンカレヴァ

ベルギーの国営放送で放映されたものを本作の主人公より4つは年上の娘をもつ初老の夫婦が声もなく見終わりその後声もなく各自の部屋に移動して夜が更けた。

棄民ということばを聞いたか見たかしたのは60年代、70年代だったように思うがそれは社会の流れや社会の変化から取り残されたものたち、もしくはそういう状況下に取り残されたくないゆえ人を棄てて去るような人々、というような意味もあったかもしれない。 本作を見ながらその言葉を思い出した。 ここでは明らかにその言葉の両方が関係していて、とくに棄てられた娘が主人公になっているから棄てる、というより棄てられたものの姿が棄てるほうの事情も語られるとともにその結果が映し出される。 

壁の崩壊後、人が雪崩となって旧東欧圏から西欧に押し寄せた。 モスクワ郊外の嘗ては栄えた町の今は見る影のない無残な風景が本作開始後延々と続く。 それはバルカン諸国で嘗て戦われた戦争の残骸をうつしているのかとも見えるほどの荒廃なのだがそのうちロシア語と棄てられた老人、子供達の風景、そこでの生活とその荒廃の様子にああ、ここはロシアなのだとわかる。 本作で示される子供達の様子は壁の崩壊後にすでに伝えられたモスクワの地下鉄にたむろする児童浮浪者たちがシンナーや接着剤で酔いしれる姿とも重なるのだが疲弊したロシア社会の様子を如実に示すこととして再現される。 再現というのは既にないものがあらわれるということをも意味するけれどまたここにも現れているということでもあり今でもありえるということでもある。 その現象の一つとしてソ連からロシアになり飲酒に対する統制が緩くなった結果アルコール依存症というより酒毒による死亡者の数が急上昇したと伝えられるのももう新しいことではない。 

耐えられない現実を逃れて夢の国アメリカに男と一緒に移民する母親にくっついて荒廃したアパートを出るはずのブリトニー・スピアースと誕生日が同じ高校生の娘である。 無残に出発間際のアパート前で母に棄てられ捨て去られた残り何もないところでどう生き残るか、そこで生き残る力は若さのほかに何があるか、その力のベクトルはどのように動くのか、というのは図式的展開は想像できるものがあるが、それが実際に生身の少女の上に起こるのを画面の前に座る安全な我々が眺めるとき我々の中に何がおこるのか、ということだ。 次から次へと移る動きに、ああかわいそうに、なるほどそうなるだろうな、というような感想はおこるものの、それでは自分がそのような中に置かれた場合どうするのか、となると天を仰いでその後、自分はそうではないことを確認して画面に戻るということになるだろう。 所詮はよその国のことだ。 日本にはこれはない。 、、、、か。

1980年代に日本で援助交際という言葉が言われ始めた。 要は少女売春であるのだがその言葉が新しいのはその売春の形態が新しいからでもあるのだろう。 本作で少女が売春するその形態はクラシックなものであり目的は自分が生き残るるためであり、ここでは必要な部屋代から生きのびるのに必要なものとウオッカ、タバコ代を稼ぐためだ。 それまではドラッグまがいのものが命をつなぎとめるものだったのだ。 金を手にした後は貧しいスーパーで以前には金がないために食料を買えずそれを戻さなければならなく荒廃した態度と対照して金を持ったがゆえにレジの厳しい女に対する態度が優しくなったことに我々は気付くべきだろう。 そこでは労働の内容には嫌悪があっても労働した対価で生活物資を買える誇りがみられるのだ。 

援助交際というのはどういうものだったのだろうか。 ごく普通の何不自由のない家庭で学校に通う娘が嗜好品が欲しいために中高年に体を売って欲しいものを手に入れるというような売春の形態だったと説明されていたのではないか。 言葉というものは風化するのだがそのそれ自体は風化せず今も「健全」に残っているのかどうか。 それともそれはバブル時代の一時的な娘達の行動でそのような娘達の欲望追求のかたちはいまの「つつましい」社会に生きる娘達にはないのだろうか。 あれはブランド物の横文字が一挙に増えた時代だったのではないか。 本作でもそのようなブランドは登場するが、それはつつましく「マールボロ」であったり少女がスウエーデンに売られていく前に若く魅力的なラバー・ボーイとかヒューマン・トラフィカー(人身売買業者)と食事する「マクドナルド」であったりするだろう。 更に彼女が売られていくとも知らずはじめて一人で乗るスウエーデンまでの飛行機内でだされる機内食に接するときにそれまでの彼女のおかれていた環境との格差にここでも天を仰ぐこととなる。 それはつい最近そのように地球を半周以上移動してきた自分のことをも思い返し、あの旅客の中にもそのようなドラマがあったのかとも想像したのだけれど、それは統計としては遥かに旧東欧諸国から飛んでくる旅客とは比べられないとは思ったものの、日本から出て外国に住み着く日本人の大半は女性だとも聞くから緩いヒューマン・トラフィキングと考えるとそれはただ単売春と援助交際のことばの違いのようではないかとも考える。 若い女はどこでも欧米を目指す、というのは今のところ流れなのだ。

本作の主人公はどこにでもある陳腐な物語と同様、幸福、愛を求めてラバー・ボーイにすがりここでも裏切られ続けられる。 売られた挙句の強制労働中に眼前に次から次に現れる男達の魚眼レンズ様に見える映像はドキュメンタリー映画に勝る強度を持つ。 そこでふと思ったのは、例えば村上という作家が日本にいて、80年代なかばに援助交際などの世界を描きその娘、女たちが話すテキストに秀逸なものを残した。 村上の60年代後半、70年代と映像をものして来た経験から当時の援助交際の娘達にのしかかる男達の映像を本作に対応して撮るとするならばどのような映像が現れるのかに興味が行く。 男達の欲望を満たす顔には変わりがないと見せるのか、そこには批判性をもった村上の観察眼が日本の男の性癖をどのように描くのだろうか。 ここでいうのは男の眼だ。 「売る」と「買う」の姿が露になる瞬間だ。

本作をみていてもうほぼ25年ほどになるのだろうか、フランス映画でフランス内をさまよい死んでいく救いようのない少女の映画、「冬の旅 (1985) 原題;SANS TOIT NI LOI」を観たことを思い出した。 観た後はざらつく想いしか残らなかったものの厳しく、また強い作だった。 それは30になった自分がヨーロッパに住み始めた頃であり、欧州中心国フランスを自由を求めて放浪する娘の映像だったのだが、そこでは本作より希望をつかむ難しさがみえるものだったように思う。 本作では物、愛を強く希求する少女がいて悲惨な目に逢うものの美しく描かれていて、それと同じく置かれた状況の救いがたさにバランスをとるためか、また蛇足でもあるのか、淡いファンタジーまで添えられているというのは監督の要らない同情心、弱さの表れ、逆に言うと優しさでもあるのかもしれない。 

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