水仙という花は苦手な花のひとつです。
庭先に数本という感じなら、まだいいのですが、川辺に群れていたりするとぞっとします。
・くつしたを履かずにゆきし幼子を探して水仙川沿いに咲く (藤田千鶴『白へ』)
という歌をつくったことがありますが、水仙はいつも目玉をぎょろぎょろさせてなにかを探したり見つめたりしているように思うのです。 この歌を大阪歌会に出したとき、この幼子はもう死んでいるんじゃないか、怖い、というコメントをもらって、なるほど、そういう気持ちが私のなかにあるんだなと思いました。
きょう届いたばかりの「塔」5月号の短歌時評で大森静佳さんが書いていた、服部真里子さんの歌。
・水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水 (服部真里子)
私が水仙を見て感じることに近いのかな、と思いました。 私はいつも探していると思ったのだけど、服部さんは「盗聴」を思ったのかもしれません。 あの形、耳をそばだてているようにも思えます。 大森さんは「水仙を見ようと身を屈め、盗み聞くためにドアに耳を寄せる。そんなふうに自分が傾くとき、体内で揺らぐ水分の存在。」と書いていますが、「屈む」とか「ドア」とかそういう動作やモノを介さずにもっとストレートに「水仙」を見たとき、思い出したときに過ぎる怖さのようなものを私は感じました。
そして、自分のなかにある「水」を意識したのじゃないかな。 いい歌だと思います。
大森さんも時評の最後に書いていますが、「まずは一首への自分なりの読みを他者に届けようとする執念が求められるだろう。」
先月「新樹集・百葉集を読む会」がスタートして参加したのですが、「この歌のここがどういうことかわからない」という疑問がでて、それに「私はこう思う」ということを話し合って、同じ歌や言葉でも届き方が違うことを深く思いました。 歌はたくさん作られてたくさん読まれて流れていくようですが、「この歌どう思う? いいの?」と、立ち止まって語り合える場と時間が少ないように思うし、これから積極的に私もきいてみたいと思いました。
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