ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

B面のブログ

2009-09-30 | family

昨日の天声人語の記事は、黛まどかさんの初句集「B面の夏」を、総裁選やレコードのシングル版に発展させた内容で、さすがプロの物書きだ~と、感心しきりだった。
そこで気になったのが、中途半端のままUPはおろか終わらす意欲もないブログ記事。こちらは物書きならぬ、物好きブロガーの記事ですから、飛ばしてくれて結構ですが、いつまでも草稿のまま保存しておくのも何だしなぁ~と思っていたので、「B面」フレーズいただき~!の勢いでupいたします。

       古い内容ですが、どうかお許しを・・・┐(´~`;)┌


B面その1:

7月27日のマイブログに書いたように、九段のうつわ屋さんからの連絡を待っていたら、思ったよりずっと早く入荷しましたとのメールが入った。すぐには行けなかったが、 盆休中の終戦記念日の前日、何かに背中を押されるように一人電車に飛び乗った。靖国神社のまん前の店なので、帰りに神社にお参りしようと境内に入ったところ、大型バスが沢山停まっていて、人で混雑していた。全国からの戦没者遺族が追悼式に出席するため集まってきているようだった。今まで桜の時期かお正月あたりにちょっと立ち寄る位だったが、これほど多くの人々が集まっている靖国神社を見るのは初めて。終戦記念日、靖国、戦犯(=戦争犯罪人)なんたらかんたら・・・と繋がって、国家の代表や国会議員が参拝することが物議を醸す原因になっていることは小泉さんが首相だった時代、特に強烈に印象に残った。戦後64年が過ぎた今もこうして全国から、高齢になった遺族が一堂に会する靖国神社。戦争は国家の犯罪だろうけど、兵として戦場に送られた若者は犠牲者でもある。

私の父は幸運にも、病気がちだったので徴兵されなかった。3才年下の父の弟は満鉄にいた叔父の勧めなどで、中国に渡ってハルピン学院という所で勉学に励んでいた。

ハルピン学院について:
哈爾浜学院設立当初は外務省所管の旧制専門学校であったが、1940年以後は満州国所管の国立大学となった。日露間の貿易を担う人材養成を標榜した。 1920年:日露協会学校(1907年発足)としてハルピン市に設立。 1932年4月:ハルピン学院と改称。 1940年3月:大学に昇格し満州国立大学ハルピン学院と改称。修業年限4年 1945年8月:日本の敗戦に伴い解散。
(ここまで8月19日記。以下はぼちぼちと・・)



終戦までの混乱の中で、学生達は多分「学徒動員」されて勉強どころではなくなったのだと思う。奥地へと逃げ隠れしていたときに終戦を迎えたが、終戦を知るすべもなかった。その一日後、様子を窺う為、茂みから道路へ出たところでロシア軍に殺された。享年21才。
何故それがわかったかというと、一緒に逃げていた一人はなんとか生き残り、日本へ戻ることが出来たから。もしやロシア語がわかるのでスパイかと思われたのかもしれないが、同期の学院生は皆、日本に帰国出来たのに、なぜ叔父だけが殺されたのか・・・と思うと悔しくてたまらない。
東京の親の元には何の遺品も遺骨も戻ってこなかったが、上の写真は私が物心つく頃から祖父母の家にあり、新年を迎えるとハルピンでの同期生が祖父母宅に大勢集まり賑やかに飲食をし歌をうたっていたことが印象的だった。誰からも慕われ、「彼女」との交換書簡も残っている。19、20才の年頃の、ウットリするような達筆な字で書かれたそれらの中に、「彼女」に送った書簡も残っていたってことは、きっと結婚を機に、遺品の一つになるとおもって実家に届けてくださったのだろうか。
「彼女」は現存していて、私の叔母と電話で話をすると今でも決まって叔父の話をすると言う。
叔父の写真は現在、私の母の所にある。兄である私の父は、「弟思い」にかけては誰にも劣らぬほどだったので、ロシア語を、そしてハルピン行きを勧めたことをどれほど悔やんでいたか、今、考えると頭がクラクラしてしまう。

叔父の手紙類、学生時代の成績表、日記帳、絵などがまわり回って母宅にある。
今後それらは保管する人がいなくなり、記憶する人も、話題にする人もなく消えていくんだろうな~と思ったら悲しくなってしまった。戦争を知らない時代に生まれた私には叔父との接点は当然無いのだけど、私たちがぎりぎり最後の〈回想者〉となるのはもはや明白なので、たとえ誰も興味を示さなかろうが何かを書き残して置きたかった。
けど、それが的を得ないド下手な書きかたなので一向に進まず、終わらない。

母は今年も叔父の命日(終戦記念日の翌日)に、大きな写真の前に花を添え、私たちは一緒に手を合わせた。戦争とは、どう関わろうと、かけがえのない生身の人間を負傷させ死に至らしめることである。

さて、靖国参拝のあと、初めて遊就館を拝観した。入口を入った所に戦闘機が展示されてあり、エスカレーターで二階に行き展示室1~10までを回ってから一階にもどり、更に展示室室11~19までを回った。戦争に関わる史・資料や遺品などが主だが、中でも特攻隊員として一生を終えた若き英霊が家族に宛てた遺書はショックだった。隣にいた若い男性は、その場に身動きせぬまま佇み、目に涙を溜めてすすり泣いていた。

多くの遺書のなかでも、古谷眞二氏の遺書を読んだ三島由起夫は「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」と言って声を出して泣いたという。それは折りしも彼が市ヶ谷自衛隊駐屯地で決起し、自決する一ヶ月前のことだったそうだ。そして古谷中尉は、昭和20年5月11日、「第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊長として、特攻兵器「桜花」を搭載した一式陸上攻撃機に搭乗し、鹿屋基地を出撃、南西諸島洋上にて散華された、と、記されていた。(これだけはメモしてきました。なのに・・web上にもありました!)

思いもせぬ場所に立ち寄り、建物を出てきたときは何ともいえぬ気分だった。なんといったらよいか、まんまと右翼の世界にどっぷりはまってしまい、そこからどうにか抜け出てきたと言ってもいいような気分になったのだからすごい。戦争を美化している等、言われて問題もあるようだが、要は個人個人が自分の頭でしっかり考え、反戦の思想を隅々まで行き渡らせることに努めるべきだと思う。誰だって戦争に巻き込まれたくないもの。誰だって大切な人を失いたくないもの。

 

 


シャネル映画・シャネル名言

2009-09-28 | cinema
      

先週は月曜日にアンヌ・フォンテーヌ監督の「ココ・アヴァン・シャネル」を見に行きました。この映画はココの若き日々をオドレイ・トトゥが好演。逆境をはね返しながら自分に正直に生きるココ・シャネルが、どのようにファッション界のトップへと上り詰めて行ったか、よく知らなかった分、とても興味深く鑑賞しました。

そこで、もう一つのシャーリー・マクレーン演ずる「ココ・シャネル」も見たくてたまらなくなり、イクスピアリでの上映最終日が金曜日だと当日になって知ったので、飛んで見てきました。遠くのシネマまで出かけなくて済んでよかった!

 

1883年8月19日に生まれ、母の死去と共に孤児院生活を余儀なくされたココ。18歳でお針子として働きはじめ、20才のときに富豪エチエンヌ・バルサンと出会ってから1971年1月10日に87歳で亡くなるまで、働き尽くめだった彼女の人生の後半を、シャーリー・マクレーンがどう表現するか、楽しみでした。

始まりは、15年間の沈黙の時代を経た後の1954年2月、復帰をかけてのコレクションが不評に終わるところから・・・
。昔を回想しながら進むこの映画もなかなか見応えがありましたが、英語を喋るシャネル映画ですから、それがどうも最後まで気になって仕方なかったです。それと、幾つかの状況設定が、前回の映画内容と微妙に食い違う点が、「伝記映画」としてどうなんだろう、と思いましたが、米・仏・伊の合作でテレビ映画として作られた事を思えば已むを得ません。

      

フランス映画の方がよかった気もするけど、アメリカ版の方も、若き日のココ役のバルボラ・ボブローヴァが、オドレイ演ずるココよりずっと大人しくて物足りなさもあったけど、とても魅力的な女優さんでした。シャーリー・マクレーンは“貫禄”ですかね。

高級ブランドには、ファッションを見るのは好きでも、ほぼ関心のない(買えない!)biancaです。シャネルだって例外ではなく、何であんなつまらないキルティングのバックが(失礼!)ビックリするほど高額なのか訳けがわからないのです。欲しいと思ったことなんか(本当に!)一度もないし、たとえバックが一つ手に入ったとしても、それに合う服も靴も容姿も持ち合わせていましぇ~ん。

                  流行とは、時代遅れになるものよ ←本当に!
  私は流行をつくっているのではない。スタイルをつくっているの ←納得!

シャネルNo.5の香水こそ、お土産にいただいたことがありますが、殆ど使わないまま蒸発。アハハ・・・お粗末ですねぇ。

          香水を付けない女性に未来はない(ギョエ~ッ?)

シャネルブランドとは縁もなにもないですが、一人の人間として、女性として、彼女の強靭な生き方には興味津々でした。

          翼を持たずに生まれてきたのなら、
       翼を生やすためにどんな障害も乗り越えなさい

彼女が最初に手掛けたのが、バルサンの援助により始めた帽子のデザインだったことや、人生でただ一度、心から愛した英国人実業家アーサー(ボーイ)カペルが、パリで「メゾン・シャネル」を出店するときの資金援助を申し出たこと。その後、彼を交通事故で失ったことなど、異性運においては幸運と不運の連続だったことを知りました。それでも、男性から援助は受けるけど決して支配されない女性だからこそ、媚びずに自己を主張できる女性だったからこそ、別れたあとも男友達として友情が続いたのでしょうね。恋人カペルから借りた援助資金は全部返済したというんですから、人を“利用”するだけの人間では決してなかったし、そんなところが、人を惹きつけてやまない彼女の魅力の一つだったのでしょう。

冠婚葬祭にしか使われなかった黒いドレスを、最も美しい色として取り上げたり、それまで誰も思いつかなかった、コルセットを使わない、着ていて楽な、余計な装飾を排除したシンプルな服作りを提案し、当時のファッション界の常識を塗り替えてしまう行動力は、あのころの保守的な時代背景を考えるとすごいこと、と思わずにいられません。

          かけがえのない人間になるためには、
         常に他の人とは違っていなければならない

ジョン・F・ケネディーが暗殺されたあの車で、ジャクリーヌ・ケネディーが着ていた服はピンクのシャネルでしたし、マリリン・モンローが[寝るときに身に付けるものは、シャネルNo.5だけよ」と言っていたのも有名ですね。

ココ71歳。映画の始めでの復帰をかけてのコレクションが失敗に終わったとき、彼女は「私は今まで何回も挫折を繰り返してきたから失敗はどうってことない。いつもそこからが始まりだったんだから・・」というニュアンスのことを言いますが、彼女の最大の魅力はまさにこの精神のように思えます。

          逆境こそが自分を伸ばせる機会である
            人生がわかるのは逆境のときよ

沢山の名言を残したココ・シャネル。逆境で培った反骨精神を持って、最後まで信念を貫き通した方が語ることばだからこそ、強力な説得力があるように感じます。生活の場として暮していたホテルリッツでひっそりと、その波乱に満ちた一生を終えたということも又、シャネルらしい自立した終わり方のような気がしました。

一週間に二本もシャネル映画を見たら、映画のことよりも、シャネル自身のことに魅了されてしまったマイブログになってしまいました。



             COCO avant CHANEL  

              
COCO CHANEL 

 

  

                  私は何度も
               挫折してきたわ
                でもその度に
             這い上がってきたの

 

 

 


むかしのご近所いま女将

2009-09-26 | 飲・食・店

銀座松屋でユキ・パリスコレクションを見たあと、前もって決めていたお食事処「花日和」へ移動。友達の友達のお店なのです。
Nさんとは小学校の役員をしていたときが初対面でしたが、友達があいだにいたからこそ、飲食店を始めたの、引っ越されたの、と言っては誘われて伺いました。銀座のお店は三回ほど、それもランチの時間帯だけ食事に伺っています。お魚が中心の、日本人ならホッとするメニューでお値段もリーズナブル。
この日の写真のお料理は、秋の味覚ランチという名前だったかしら。

メインのお魚は三種類(鯖、赤魚、秋刀魚)から選べるので私は鯖にしました。その他、天ぷら、お刺身、煮物などで、どれも美味しかったです。夏にテレビで紹介されたそうですが、ご覧になった方いらっしゃいますかぁ?日本橋のご自宅から赤い自転車で通勤されているとか、長靴をはいて市場へ買い付けに行くとか、美人女将のNさんはとてもエネルギッシュな上、気さくな方なので、銀座勤めのサラリーマンのアイドル的存在ではないかと思います。飲食店の激戦地区でもある銀座にお店を設けて9年目。それも昼夜の仕事を女手一つでこなしているなんてカッコいい~!

小さなお店なのですぐに満席になりますが、会社の昼休みを避けて行けば大丈夫かも。場所は歌舞伎座にとても近く、お向いにシチューで有名な店があります。

   花日和  
   女将 
 

 


連休明けは銀座で

2009-09-26 | art/exhibit/museum

松屋アゲイン。ユキ・パリス コレクション展に友人三人と行って来ました。
新聞広告で知り、行きたいな~、と思っていた矢先、招待券を持っているから、と
お声が掛かったのです。今回もなんてラッキーなんでしょう♪

 
レース編みの襟飾りや
プチポアンバッグ

 
 
ロイヤルコペンハーゲンの絵柄を施した刺繍や1800年代のビーズバッグなどなど、YUKIさんのコレクションから約440点が一堂に公開。よくぞこれだけ揃えたなぁ、と、ため息が出るほどの数なのです。それも、昔の手仕事ですから細か~い!やって見たいとは絶対に思わなくなるほどの緻密さです。銅版画にしか見えないような刺繍など、目が良くなければそれが刺繍だとは思えません。手仕事は嫌いでないのに、何にもやらなくなっている自分。

 

      
今までの時間より残された余生のが確実に短いのです。何をやろうがやるまいが、人生は産まれたと同時にその終わりに向かって進んでいます。今回のコレクションは、偉大な芸術家の作品展ではありませんが、うっとりするような手仕事の数々が、残されていたからこそ収集できた、と思うと、そしてそれが人間の文化として代々伝えられて行く、と考えると、何かやりたい虫がうずうずして来るのです。えっ?そのときだけだ、ですって?ま、そんな所かもしれませんが、そう思うだけでもフレッシュな気分になるというものです。
図録へのサイン会が終わったところだったのでしょうか、出口のところにYUKIさんがいらっしゃいました。幾つになっても失わないお洒落心が、繰り返す日々のスパイスとなっていらっしゃるような雰囲気のYUKIさん。コレクションだけでなく、そのお人柄からも多くのことを学べるように感じました。

★YUKI PALLIS COLLECTION HP 

このあとのランチ処は、以前私たちのご近所さんだった方の小さなお店。
それは又あとでブログupいたします。


敬老会とお彼岸

2009-09-23 | family

今年も義母の入居している施設で、敬老の日を祝うお食事会がありました。
去年も参加しましたが、今年は家族の食事分は会費制となっていました。
ここにも不況の影響があるのでしょうか?施設の職員の入れ替わりも
頻繁なようで、折角慣れたのに・・と、残念に思うことが多くあります。
職員の資質がこのような会にも反映しているなぁ、と今回特に感じました。
隣りのユニットでは、何と職員の一人が三味線を弾き、入居者が一緒に
民謡を口ずさんでいるのに、こっちではアトラクションが一つもないんです。
この職種への人手不足をもろに感じました。

そういう私も、今年ヘルパー二級の講座を受け、6月下旬にやっと
施設での実習(順番待ちの状態でした)を終えて修了証書を手にしました。
実習先は、わが子と同年ぐらいの若い職員が多いのですが、
介護の他にレクリエーションも担当するし、「記録」を書くことに追われ、
仕事の質を高める余裕がないんじゃないか、と思ってしまいました。
二級を取ったものの、仕事には結びついていません。週に数回、
何かしら出来れば、と思っていますが、出来なくても講座を受けた事で
様々な点で勉強になりました。
介護する側もされる側も、色々な人が
いるんですね。ただ、子供を扱うような接し方はどうかな、と思うんです。
レクでも、子供だましのようなことしか出来ないのは、職員の資質の
問題となりますが、人手不足ではそんな事言っていられないのかも。

義母と共に食事をし、時間かかっても一人でお箸を持って食事をとれる
姿を嬉しく思いました。一人で何時間でもお喋りしていた頃が、
(あのころは終りのないお喋りに疲れましたが)懐かしくなるほど
口数が減ったのは、ツーカーと話しが通じる相手がいないからでしょうか。
寂しい思いをさせている、と、とても後ろめたい気持ちになりました。


食事のあとの「家族会」はパス。私の母の所へも、毎日顔を出している
とは言え、一応「敬老の日」ですから。行かなくちゃ。

施設からの帰り道は、行きとは別の道を通ることにしました。
野菜や梨を売っている農家がぼちぼち連なって現れたので車を止め、
もぎ立ての枝豆やインゲンなどを買いました。
植木屋さんの横の庭で、大好きな赤い千日紅が群生していたので
「うゎ~可愛い!」と歓声を上げたら、「好きなだけ切って良いよ」ですって!
やったね~! ブプレリュームを付け、母へのプレゼントに仕立てましたよ。
本当はもっと沢山、切って来たかったのですけど・・・。
[敬老の日]用ギフトは、簡単に湯沸し出来るティファールの小型ポット。

翌日は墓地公園へお墓参りに行きました。
入口近くの駐車場の向い側に、よく見るとコスモスが咲き出していました。
ロープで仕切られていたので、入るのはまずいでしょう。

そのあと母宅に行ってお茶をしてから、
遠出を嫌がる母を乗せての市内ドライブ。
海側からやなぎ通り方向を見ると、まるで外国にいるような
錯覚になる、我が街の眺めですね!





巾着田の彼岸花

2009-09-21 | visit/drive

初めて巾着田に行き、満開の曼珠沙華を見てきました。
大渋滞に巻き込まれた最悪のドライブ日和!

家を10時半ごろ出たのですが、美女木JCTから関越自動車道に入る手前の
電光掲示板によると、鶴ヶ島まで110分かかるようではないですか。
どうしよう、と迷ったけど高速道路の役目を果たさない有料道路は
ご免被りますから、一般道路に下りてしまいました。
さぁ~ここからが大変。道を知らないし、ナビはないし
頼りになるのは道路地図だけ。私は運転手で、人間ナビは夫の役目。
東久留米、所沢、入間など、初めて通る道はどこも渋滞でのろのろ。
結局、目的地に着いた時は、家を出てから5時間以上たっていたんです!
もうぅ~っ、信じられないでしょう?

太陽が強烈にジリジリと差し込んでくるというのに、私は紫外線除けの
手袋を忘れるし、「こうなったらジタバタしてもしょうがないだろう」
と言って、隣でのんきに構えて好きなCDを引っかえ取っかえ聴いている
人はいるし、
反対車線はすでに帰る車が列をなしていたし、巾着田の駐車場は
西日を遮る木立が一つもなく埃っぽい上、車であふれていたし・・・。
つかれたぁ~

 

部分的にですが地面がすっかり干上がっていたハス畑?は、
駐車場からすぐのところにありました。

西日が当たり、朱色に輝く曼珠沙華

高麗川のほとりには、種が飛んだのでしょうか、
一本また一本と、散らばって咲いていました。

 



曼珠沙華の群生地を抜けると、コスモス畑が広がっていました。

 

腕は下手でも一応被写体を撮るときは、美しく見えるものに
狙いを定めて撮りますから、時にはその場所の雰囲気を正直に切り取る
ことにはならないんですよね。ただ綺麗に見える写真ばかりでは、
つまらないかな、と画像upしながら、思いました。



シルバーウィーク二日目は、疲れて散々な一日でしたが、
花に圧倒され、また癒され、帰る頃には私のご機嫌も
斜めからまっすぐに戻っていました。ただ、巾着田のほかに、
「新しき村」という所と、高坂の「彫刻通り」に寄るつもりだったのに
行けなかったのがとても心残りでした。

巾着田 のHPに、その名の由来などが書かれています。

 


今年もジスモンチ♪

2009-09-20 | music

今年で三年連続の来日となるブラジルの音楽家、エグベルト・ジスモンチ。三年前の公演のときは、15年振りの来日と言われて騒がれました。去年はイベントの一環としてやって来ました。

今年のジスモンチは、と言うと、ギターデーとピアノデーとに分かれた二つのステージを、両方ともオーケストラとの共演で演奏したのでした。

ギターも聴きたいし、ピアノだって聴きたい!なのに二つを分けるなんてずるいぞ~と、来日公演を知ったとき、ちょっと白けてしまい、今年はパスしようか・・と思ったり迷ったり。

でも、ピアノナイトの日の朝、当日券が売り出されることを確認したら、行きたい気持ちがムズムズと湧いてきました。「東京・ジャズ・フェス」に行ってから間もないので気が咎めましたが、夕食の支度をサッサとしたあと、メモを残してエイヤァ~とお出かけです。

 

 会場となる、すみだトリフォニー・ホールは、仕事をしていたときに何度か前を通っているけど入るのは初めて。会場に入って驚いたのは思っていたより全然すいていたこと。当日券が6時から売り出されるのでそのころ着くようにやってきたのに、これならギリギリに来ても大丈夫だったでしょう。
よくよく考えると、このホールって客席数が1800人ほどの収容力がある
んですよね。去年の紀尾井ホールは800人ほど。一昨年の草月ホールはそれより少ない5~600人。そう思うと、彼の音楽性からしても納得出来、ちょっとばかり安心しました。

       Jun-ichi Hirokami 

今年は広上淳一氏が指揮する新日本フィルハーモニー交響楽団との競演でした。
ジスモンチと比べるとずっと小柄な広上氏ですが、体全体を使った躍動感溢れる指揮で見事にジスモンチワールドをバッチリ捉えてしまいました。たった二回ほどのリハーサルで、ここまで数々の難曲を把握できちゃうとは、凄いこと!広上氏はほんとによかったです。

プログラムは、ピアノソロ2曲以外はオケとの競演で、お馴染みのセチアネイスやフレーヴォも、聴くごとに進化しているようですが、オケが頑張って喰らい付いている、と思いました。一曲が終わる毎にまるでアンコールを呼ぶような拍手が続きました。その都度、広上氏とジスモンチががっちり握手し、お互いを、そしてオケの方々を讃えるのです。本当のアンコールでは、皆がスタンディングしての大喝采!それも二回も!素晴らしい演奏家と素晴らしい観客が一体となった、心にずっしりと残るコンサートでした。

このコンサートには、プログラムなどの書かれたミニ冊子が用意されていたのですが、その中で音楽ジャーナリストの林田直樹さんが書いている文中に、ジスモンチの言葉が紹介されていました。パリで、師事していたブーランジェからある日、「もうここには何も勉強する事は残っていません。国に帰ってブラジルを発見しなさい。」と言われたんですね。そして母国に帰国した彼が先住民と共に暮し、体験し、学んだことは、単に音楽家だから、ではなく、一人の人間が生きて行く上で、とても大切にしたい感性だったんだなぁ、と、その文面(スキャナでコピーしました)から感じ取りました。

やはり、エグベルト・ジスモンチの魅力は、優しさ、包容力、真摯な姿勢に裏付けされた、抜群の音楽センスなんですね・・・。って、私の下手な言葉や文で表現したくない、というのが本音でした。

またしも当日より約一週間遅れになってしまいましたぁ。

かめちゃ~ん、かぐちゃ~ん、行って来ちゃったよ~

 


 


ギンザでの映画上映会

2009-09-16 | cinema



週末に、誘われて行った先は銀座のメゾンエルメス10階。
「北北西に進路を取れ」の上映会がありました。
ヒッチコック監督の名画ですが、まだ見ていませんでした。

出演は
ケイリー・グラント(ロジャー・ソーンヒル)、
エヴァ・マリー・セイント(イヴ・ケンドール)、
ジェームズ・メイスン(タウンゼント)
マーティン・ランドー(殺し屋)等、
1959年の映画だけあり、懐かしい顔ぶれです。

ビデオを借りてくれば、家に居ながらにして見れますが、
メゾンエルメスの中の、40席しかないプライベートシネマで、
となると、是非とも行ってみた~い、となったのです。

映画はすっごく面白かった、というか滅多に見ない
サスペンス物なのでハラハラしっ放しで、
心臓がドッキンドッキン状態。こんなところで心臓発作を
起こしたくないな~と、真剣に思ってしまいました!


映画の中に、ヒッチコック監督本人が二回出てくることを
前もって知っていたのに、発見できなかったのが残念でしたが、
機会があればもう一度見たい、と思いました。


三時からの上映だったので終わったのが5時20分近く。

同館8階ギャラリーでは、名和晃平「L_B_S」展が
開催中とのことで寄ってみました。
タイトルの「L」はリキッド,「B」はビーズ、「S」はスカム...

この3つの作品が二つの部屋にわかれて展示されています。
現代アートって理解に苦しむ作品が多いですが、実験的要素大の
作品が、はたして見る人をどう魅了するか、でしょうかね。
ウォーターベッドのように見える容器の、泡がプカプカとした作品は、
その変化をもっとゆっくり、じっと見つめていたかったです。

ここで作品が紹介されていますが、期限があるかも。

メゾンエルメスの2Fにカフェがあるとのことで(見に)
行ってみましたが、案内板等が出ていないのでわかり難いこと。
建物内のほかの全てのスペースと同様、現代的でシンプルな
つくりですがお値段はサ~プライス!
この日のようにゆっくり出来ないときに、
単にカフェしてすぐ帰るのでは勿体ないのです。

去年プラハのエルメスで見た可愛いのぬいぐるみ、
この店内でもみつけましたよ。


パリのポンピドーセンターやベルンのパウル・クレー センターを設計した
レンゾ・ピアノが「銀座のモチーフは万華鏡である。昼と夜とで違う顔を
持つ街」というイメージを抱いて設計したメゾン・エルメス。昼は外から中へ、
夜は中から外へ光を放つガラスを用いてランタンを表現したといいます。
大きなガラスブロックを1万5千枚ほど使用しているとか!

まだご覧になっていない方はぜひ、ソニー通り側から行って見てください。
ビルとビルの入り口の間に巨大オブジェがあることを、今回初めて知ったし、
エルメスビルに入ったのも初めてだったのでした。
夕暮れ時の、店内の灯りが外に映るころ、建物から外に出て、
尽々とビルを眺めてから帰路につきました。



記念のアフタヌーン・ティー

2009-09-15 | family

「午後の紅茶」と日本語で言うと商品名になっちゃいますね。「アフタヌーン・ティー」だってショップ&カフェの名前だし。

先週のことになりますが、娘のバースデーには、まだ行ったことのない東京ディズニーランドホテルの「シャーウッドガーデン」でランチブッフェを、と思っていました。ところが都合でランチの時間帯に行けなくなったのです。そこでケーキを買う替わりにアフタヌーンティーをしに行こう、ということになりました。

「ドリーマーズ・ラウンジ」での憧れのアフタヌーンティーセットなのですが、私はやはりコーヒーにしました。
左の写真のプレート奥に見える、横になったティーポットは、砂時計の砂が落ち切った時に縦に戻し、カップに注ぐのですって。可笑しなポットですねぇ。

さて、三段プレートの方ですが、上がスィーツ、真ん中がスコーン、下段がサンドウィッチとなっています。手前は二人分の量になっています。


      (↓左が上と真ん中の段で、右が下段。二人分です。)

    

ミッキーのピックが、キャラクターにしては色使いがシックで素敵でしょう?誰かさんが全員の分を集めて持って帰りましたよ。

一番好きだったのは洋梨のタルトかな。メロンのショートケーキもさっぱりして美味しかったぁ。けどプチケーキなのでぺロッとお腹に入っちゃいました。

全員が食べ終わったころ、何ともう一つ、右のような長方形のお皿にスィーツの盛り合わせが運ばれてきたのです。アハハハ・・・バンザ~イの気分ですね。ただお口が甘すぎて、これにもピクルスとかサンドイッチを少し付けて欲しかったですね。
ミッキーのシルエットのフルーツソースを見てください。甘酸っぱいマンゴーの味がしましたよ。

こうして〇〇歳になった娘は、初めてのアフタヌーンティーセットに大満足し、夜は友達との集まりがあるから、と、出かけて行ってしまいました。

★アフタヌーンティーセットは14:30~21:00の間で、一日25食限定とのことです。お値段はランチブッフェと大して変わりませんが、たまにこんな優雅な時間を持てるのは嬉しいものです。

 

追記:

アレンジメントに付けた
ハートのピックです。
真ん中を押すと音が鳴るんですよ。

Happy birthday to you♪
      Happy birthday to you♪
Happy birthday ♪
      Happy birthday ♪
Happy birthday to you ♪


東京ジャズフェスティバル’09へ

2009-09-13 | music

(ありゃ~、すでに一週間も前のことになってしまったよ~・・・ )


当日は夕刻までお日さまの燦燦と当たる代々木公園にいたので、“東京ジャズフェスティバル2009”の会場へ着いたときは正直言って、ジャズを聴く気分でなく、家に帰ってのびのびしたかった。そのときの体調は、海で日焼けしたあとの疲労感に似ていたから。

入口を入ってチケットを渡したあとで、「カメラ・デジカメ類は持っていませんか?」と聞かれたので「持っています。」と言うと、会場内へのカメラの持ち込みは禁止となっていますので、こちらでお預かりします。」と言われた。こんなこと初めて!!持っていない、と言えばよかった!大きなプラスチックの入れ物に入れられ、引き換え券を渡されたけど、私物をこんな風に強制的に預けさせるなら、パンフレット等に書くべきだと思う。ケータイカメラについては言われなかったのでメチャクチャだ。
私が入口のそばで、今夜のプログラムが書かれたボード
を撮っていたのを見ていたのかしら、と思ってしまった。入場する全員には訊いていないようだもの。
(会場内で堂々とケータイカメラを使用しているおばさんを見つけたけど、誰にも何も言われてなかった!)

ホールAの中のエスカレーターを上へ上へと上り、着いた座席から見下ろす舞台は遥か彼方で、ちょっと惨めな気持ち。音楽は聴ければいいんだから、これでいいんだ、とすぐに気を取り直す。
演奏が始まると、ステージの両側のスクリーンに プレイヤーの様子が大写しで流されたので助かった。


    ♪・・・・・・・・公演スケジュールは上記の通り・・・・・・・・♪

トップバッターは、女性ピアニストの大西順子のトリオ。名前は知っていたけど初めて聴く彼女のオリジナルナンバーの数々は、疲れ気味の私を叩き起こすような勢いだった。素晴らしいテクニックとパワフルな演奏スタイルに圧倒されっぱなし。

二番目はマッコイ・タイナートリオ。ジョン・スコフィールドが特別ゲストとして共に演奏。マッコイ・タイナーは今は亡き名ジャズメンたちと常に一緒にプレーしていた名ピアニストだけあり、余裕を感じる優しい演奏は、ホッとして聴いていられた。年より老けて見えたし、ふらついたような歩き方に、アル中・・?とか思ってしまったが、地味なイメージだった。前出の女性ピアニストがかなり自己表現をするスタイルだったので特にそんな風に感じたけど、私の耳には心地よかった。数十年前、この人がジョン・コルトレーンと共に演奏活動をしていたのか、と考えると何か不思議。

一回目の後もそうだったが、二回目の演奏後も、15分ほどの休憩があったのでコーヒーを飲もう、と2階ホールまで降りて行ったが、何と、ソフトクリームが販売されていた。行列が出来ていたけど休憩時間内に間に合うかも、と私もつい並んでしまった。時間を気にしながらやっとの思いでゲットしたソフトクリーム。美味しかったなぁ。疲れが取れてきた上、元気が出てきた。15分はあっという間だったが、上の階までエスカレーターが使えないようになっていたので仕方なく階段を急ぎ足で上る。

椅子に着くや、三回目。アルトサックスのルー・ドナルドソンの番だ。このオジイサン、80代なのに年齢を感じさせない鷹揚さがある。サッチモばりの声で、「What a Wonderful World」や「ウィスキー・ドリンキング・ウーマン」など歌まで披露し、大喝采を浴びたが、とてもリラックスしてステージを楽しんでいる風なので、こっちまで楽しくなる。オルガン奏者、敦賀明子さんがのびのびと実に楽しそうにスイングしていたのが印象的だった。

そして最後はブルーノートレコード創立70周年記念スーパージャム!
マンハッタン・ジャズ・クインテットやチャイナ・モーゼス、日本人の若手グループ「クオシモード」を加えた、当日の出演者全員によるスーパーセッションでのブルーノートの名曲の演奏にはほんとに驚かされた!もっともっと聴いていたかったけど終了したのは23時近く!ジャズフェス最後の夜を飾るに相応しい一夜だった。

    ★ 東京ジャズフェスティバル2009の模様がNHK衛星などで放映予定!
     日時は上HP内で見れます。