19世紀のヨーロッパのジャポニズムに於いて、印象派の画家たちに強烈な影響を与え続けた日本の浮世絵ですが、工藝の分野でも、当代一流の版画家ブラックモンや装飾画家ランベール等が、フランスで大ブームを巻き起こしていた広重や北斎、河鍋暁斎などの日本版画から、全く同じモチーフを抜き出して図案集を作り、その図案を独自に組み合わせてお皿やカップ&ソーサーなどのテーブルウェアを製作していたのです。 上二枚は、私の購入した絵葉書です。左がセルビス・ランベールの《深皿 波に鯉図》、 右は同じく《平皿 鵞鳥図》 共に図の部分です。 最後の部屋には大テーブルが真ん中にでんと設置され、これらのテーブルウェアが素敵にセッティングされていました。 帰りは本館へ寄り、「六波羅蜜寺の仏像」~平安・鎌倉彫刻の宝庫~を見て来ました。 |
三連休最後の21日は海の日。
「横浜開港記念みなと祭」のフィナーレを飾る国際花火大会の入場券を昨年同様
いただいたのですが、去年行ったからもういいわ、と私、断ったはいいけど、この連休が
予定未定のまま終わりそうな不安が命中しそうでした。
子供はそれぞれ旅行などに出かけたので、自由を満喫出来る3日間のはずが、平日と
ちっとも変わりないなんてイヤだ~。
私の代わりに友人と花火大会に行った夫。帰宅したのは午前さまでしたから、朝起き
れないのは明白。それで、母と姉に声を掛け、海へむかって走ってきました。
首都高湾岸道路~神奈川線~横横道路(横浜・横須賀)で衣笠まで行ったら、
そこから更に三浦縦貫道路が続き、三崎のほうまで簡単に行けるんです。最後の有料
道路である、4.7kmの長さの通称「横須賀三浦はまゆうライン」。このラインを走りきると、
右は葉山、逗子、鎌倉で、左は三浦三崎、横須賀につながりますが、目的の右側が
大渋滞だったので左に走り続けたら三浦海岸に出たということです。
湘南リゾートラインと三浦大根地区との差がこの「渋滞」に現れているってことですか? でもいいもん。スイカ畑やとうもろこし畑、お花畑が一面に広がっているほうを選らばざるを得ませんでしたが、渋滞より断然、マシ。ストレス発散ドライブですもん。
道端のあちこちでスイカやメロン、とうもろこし、ナス、トマトなどが売っています。車を止めて、私たちもそれぞれに小ぶりのスイカやメロンを買いました。売店のうしろは一面の畑。三浦半島の中心部って、とても緑豊かなんですね。油壷や三崎港方面への道も混んでいそうなので、とにかくすいている方を選んで走りつづけたら、海岸沿いに出ました。さぁ、待ちに待ったティータイム+レストタイムです。どこにしよう、と走りながら見渡してもジョナサンなどチェーン店が多く、小洒落たカフェが見当たらない!逗子、葉山との差はこんなところにも現れているのかぁ。失礼、失礼。こっちが知らないだけなのかもです。ネットで調べてこなかったのですから。
しかし、ごった返すリゾート地より落ち着いた広い海岸線、その上空を、高く低く、カモメが何羽も行き来し、カラフルなウインドサーフィンの帆が海面をゆらゆら漂うさまは真っ盛りの夏の現場そのものです。
もう三浦海岸でいい。最高だ~。娘はオクマの海辺にいるけど・・・この際、沖縄の海とは比較しませ~ん。
海岸線が終わりそうで、あせって入ったところはペコちゃんで名高いチェーン店。わはは・・久しぶりだねペコちゃ~ん。みんなでアタマ撫で撫でして中へ入りました。
窓の真下にディモルフォセカの植え込みがぎっしりでカワイイ。この花を入れるとなると、
道路の街路樹が入らないのです。難しいね、写真って。
さて、注文したのは周りにつられてフルーツソフトクリームあんみつでしたよ。
「おねえちゃん、海にはいろうよ~!」
「でもさ、だれも泳いでいないね。サーファーばかりだよ。」
とでも言っているんでしょうか。わが子の小さい頃をつい思い浮かべてしまいました。
その日が海の日だと気がついたのは帰る頃でした。
そうだ、「海の日」は誰かさんのバースデーだ、と、思い出しました。
いや、ハッピーマンデー制度になったから日にちがずれているかも。
でもでも、言わせて貰おうっと。
“ Happy Birthday, Mr.Bean!”
ドライブの帰りには弟家族のいる磯子の実家に寄ることにしました。
この実家で20年以上を子育てしながら過した姉ですから、横横道路の港南台ICから
実家までの道案内を買って出たのに、あれっ?え~っ?何でないの~?の連続。
10年ひと昔なんですよね。あちこちの目印となるものが見当たらず、道路も広がり、
新しいマンションは増え、その様変わりは、頭で描いていた地図にないんですもの。
あ、ここは「栗木」よね、もう分った、大丈夫、と言ったあともキョト~ンとしっ放し。
磯子の家では子供は出払っていて二人のみ。
ちょうど弟はジムから帰ってきたばかりでした。
この家も三連休は自宅組だったようです。
庭で趣味の野菜作りを楽しんでいる弟が、もう時期も終わりで、少ししかないけど、と、畑からナスとネギを取ってきてくれました。
お昼過ぎからのドライブでしたが、帰宅まで6時間も掛からなかったんですよ。首都高湾岸線もスイスイで、気分転換に絶好のドライブ日和と相成りました。
いただいたばかりの私の好物、信州産の大きなズッキーニも一緒に並べてハイッ、チーズ。
ビンに入っていた竹富島の星砂を、少しは涼んでいただこうと広げてこれは、マクロでパチリ。
それにしても毎日暑いですね。だから夏なんですけど。
あんなにおしゃべりしていたけれど♪ ♪いつかそんな時がくると 私にはわかっていたの・・・♪ 先日~これも一種の「ある日突然」ですが~お誘いのお声がかかり、遥か昔を思い出してしまうような懐かしい歌声を3人で聴いてきました。お誘いがなければ、まず行かなかっただろう癒し系の曲目で人気のデュオ、トワエモア。 若い時分は、特に聴こうとしなくても聴こえてきたトワエモアの爽やかな歌声。 |
臨海副都心東京ビッグサイトで毎年行われる東京国際ブックフェア。 始まる前、担当者からこの日の講演内容について、一切どこへも発表したり テーマは「人間の関係」。 それなりに心に残ることの多い講演内容だった。 田んぼの中で息づいている小さな生物が美しく描写されていたこの日の「天声人語」。 生命は ブックフェアへ行く前の、心静かなひと時だった。 |
渋谷駅周辺のように、往来の激しい目の疲れる街は、年と共に段々と足が遠のきます。
好奇心の方が強く働く何かがある場合は例外。「えっ?そんなこと言ったっけ・・」に変わりますけど。今回の、河野通勢(こうのみちせい)展の場合は、他の方のブログを通して数点見ただけですが、とても気に掛かっていました。Kちゃんから頂いた招待券の中にこれも入っていたので嬉しかったです。松涛美術館なら、渋谷の雑踏を通り抜けた先の、閑静な住宅街の一角にありますから、その辺りを歩くのも楽しみの一つなんです。
チケットの絵を見て、大正時代の日本人画家がこのようなヨーロッパ的な宗教画じみたものを何故描くのだろう、と思いました。予備知識はほぼゼロ状態でしたが、こじんまりとした美術館の展示室に入るなりビックリです。展示されている絵が壁面だけでなく、中央に設置されたパネルにも沢山あったのですもの。まるで市の美術展のように絵がぎっしりと所狭しに展示されていたのです。
それもそのはず、作品や資料、それに加え近年発見された大量の未発表作品を合わせて約350点もの数だったということです。それが宗教画だけではなく、様々な趣きを持つ油彩、水彩、コンテ、毛筆、銅版などによる作品群なのです。
10代ですでに、かなり高度で成熟した技術を持っていたように見受けられましたが、父親が美術の教師だったということでそれも頷けます。2階には父親である河野次郎の絵が 十数点展示されていました。そのどれもが素晴らしい絵。蛙の子は蛙でした。
(下は自画像)
通勢 ・・みちせい、と読むことを知ったあともサッとは口
から出て来ない名前。その意図は何かしら?・・
は、父親以外にも、デューラー、ダヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ルーベンスなどなど、主にルネッサンス期の画家の影響を受け、模写などを繰り返し、何もかもを全くの独学で開拓していったということには驚きました。
彼が育ったのは長野市。そこを流れる裾花川の周辺を自分で「ニンフの森」と名づけ、好んで描いた一連の絵の数々には、ただの風景画にならない、独自の思いが込められているようです。これは長野市ではなくヨーロッパの風景画だ、と言われても納得してしまう雰囲気を持っています。それは彼が幼い時分から、ハリストス正教の信者としての厚い信仰心を持って育ったからなのでしょうか。大正という時代において宗教心と共に育った絵心、模写を繰り返しながらの並々ならぬ努力。というか一種の情熱。というか粘着力。そんな全てを兼ね備えていた素晴らしい画家が、何故今まで世間に知れ渡らなかったのか、とても疑問に思いました。油彩画、宗教画、銅版・細密画、挿画のどれをとってもうまいしセンスの良さを感じたのですもの。展覧会のサブタイトルである“ 大正の鬼才” とまで言われている人の絵が表に出てこなかった理由は何なんでしょう。
右の女性像は通勢の妻の妹を描いた「好子像」。
1916年、彼が21才の時に描いた絵です。全体の雰囲気がモナリザを、アーチのバックが宗教画の影響を彷彿とさせます。女性像を滅多に描かなかった彼には珍しい一枚と言われています。
最初の方に展示されていた、「梓川河原宿屋前から穂高が嶽を見る」というタイトルの風景画のところにこんなコメントが目を引き、図録は買わないつもりだったので、これだけメモしました。(中略、後略・・確か、あり、です。)
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中学5年生、18才の時に描いた作品。8月半ばに友人と上高地に写生に行き、高村光太郎が同宿だと知る。油彩画の批評を乞うて讃められる。高村は、「焼獄を描いたものの方がよい。何故よいかと云うと自然をよく見ておる。自然を見ないで描く絵はどこかに力が無い。」と評した。この時の光太郎は智恵子と同行し、一緒に画を描いていた。以来、上京する度に高村を訪ね、交流は続いていた。
そして彼から岸田劉生の話しを聞かされた。
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以上のコメントにあるように、実際、上京後に、岸田劉生との深い繋がりが生まれたのです。
中川一政が彼のことを「何でも描けた」画家だと評していますが、何十枚もの自画像などを見ていても、描き方が夫々異なっているし、何でも試して描けるようになりたい、という気持ちのあらわれとして捉えてもいいかな、と思いました。様々な雰囲気を感じさせる沢山の自画像は見ていて愉快になってしまうほどでした。描いて、描きまくって、描けないものなど何も無い、と自分が納得するまで何回でも描く。それが彼の画家としての自信に繋がっていったのでしょうか。
1915年「裾花川の河柳」
1918年「林檎」
●河野通勢(こうのみちせい1895–1950)は、大正期から昭和戦前期にかけて活躍した画家です。高橋由一に学んだと言われる美術教師・写真師であった父河野次郎のもと で絵画を学び、早熟にして天賦の才能を見せます。デューラーなどに影響を受けた細密で存在感あふれる徹底した写実描写で知られる作風は近代美術のなかにあって異彩を放つものです。二科会への出品から、白樺派への接近、そして岸田劉生の率いる草土社へ参加、劉生死後は大衆小説の挿絵を精力的に制作し、近代の画家として小説挿絵の草分け的な存在でもありました。 通勢の絵画は、「何でも描けた」と中川一政に言わしめた天才的な描写力とハリストス正教会の信者としての強い宗教的な内面性を持ちつつ、独特の空想的な物語を包含するものです。それは、画集などをもとにした独学ゆえの特異なものでしたが、神的なものへの憧憬ともみえる精神性は、大正期の時代精神とも通底する生命主義を感じさせます。 近年になって、関係者のもとに大量の未発表作品が発見されました。特に十代から二十代にかけて執拗に描いた裾花川周辺を題材にした初期風景画、そして聖書・神話を題材にした作品群は圧巻です。また『項羽と劉邦』『井原西鶴』などの挿絵原画は、高い密度と完成度があります。さらに、銅版画についても関東大震災に取材した一連の作品は大変貴重なものです。その他にも、日記、覚え書き、スケッチ帖、書簡類などの膨大な資料が新たに見つかりました。 それらはより如実に作家の目指していたものを示しており、制作の秘密を明らかにしうるものであり、今までにない河野通勢の画家像を発見することができると思われます。 本展は、代表作を含めながら今回の新発見の作品を中心にして展示し、初期作品から制作のなかでひとつの区切りとなった昭和前期までの、河野通勢の特色が明確であった時期に絞って作品を構成しました。ともすれば岸田劉生の陰に沈みがちであった作家像ですが、その原点を今いちど見直すことによって、大正期の美術史の中で極めて個性的な輝きを放つ河野通勢の、今までにない姿を紹介しました。 (出典:平塚市美術館HPの「これまでの展覧会」より) |
松涛美術館の2階には第二展示室「サロンミューゼ」があり、部屋の真ん中にはゆったりした応接セットがあって喫茶も注文できます。絵を見ながらカフェできる美術館だなんて、いいですねぇ。 喫茶は4時半までなので、この日はちょうど終了したばかりの時で残念でした。
でも、ここへ来る途中、Y 字路の角にツタの鬱蒼と絡まるお店が気になったので、見終わった後そこへ向かうことにしました。
お店の名はGalettoria。新しいお店のようです。
店内はフランスの片田舎をイメージしたような素朴でシンプルな作りです。ガレットは私にとって、表参道のル・ブルターニュで食べて以来。北海道のそば粉を100%使用しているそうです。そば粉でなく、小麦粉を使うと、それはクレープといわれる甘いデザートとなります。今回は、夕食前なのでチーズとハムの簡単メニューにしましたが、何種類かのペッパーが効いていて美味しかったです!コーヒーカップがもっと大きければなお良かったな。あるいは一回おかわりが出来るとか、ね。美味しいものを適度にいただくと、仕合せな気持ちになるんですよね~♪まだ5日前のあの味が舌に染み付いている感じです。
美術展についてブログアップすることで、今回はちょっと悩みました。もっとシンプルにならないものか、アップの仕方をどうしたらいいか考えれば考えるほど分からなくなり、写真のみを草稿画面に入れたはいいけど、書く言葉がずっと見つかりませんでした。何もかも書こうとせずに、ラクに楽しく(ラクと楽しいは同じ字でしたね!)続けることを意識しながらでしたら、“書く言葉が見つからない” にはならないかな、と思い始めました。今回も長くなるし遅れるし、でしたが、来月で、ブログ開設から丸三年が経ちます。この機会に、早く、は難しいけど、シンプルに、を念頭に入れながら少しずつ楽ログにしていきたいと、それなのに・・嗚呼、それなのに~長々と書いているトホホ・・のbiancaでした。
先日、東京都現代美術館に行った時、行きも帰りも木場公園の中を歩きました。
メトロ木場駅から美術館までの道程は、公園を最初から最後まで突っ切ることに
なります。こうして歩いたのは初めて。我が街のメイン通りである「やなぎ通り」
の延長が葛西橋通り。車で通行するとわかりますが、その通りが公園を二つに
分け、そこに橋が架けられています。公園が出来たのが1992年ですからもう16年
も経ったのですね。木場は、江戸時代から材木問屋の町として栄えていましたが、
江東再開発構想の一環として、木材関連業者が現在の新木場に移転する
ことになったので、その跡地を都が買収し、今のような公園として整備されました。
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大通りの裏には仙台堀川と呼ばれる水路 日が長くなったといえ、すでに夕暮れ時です。 |
さぁ、今日は寄り道せず真っ直ぐに帰りましょう、って気になり、珍しく同じ道を引き返すことにしました。
ピンクの八重咲きのこの花は立葵でしょうか?四谷の土手で見た花を八重にしたようです。
その昔この辺は、材木問屋が軒を連ね、店前で囲碁をうち将棋をさす姿ものだろうなぁ、と、考えながらモダンに整備された公園を透かして見たら、そんな光景が本当に見えてきたようでした。ご先祖さまがこの公園を見たらびっくりするだろうな。
★木場公園と仙台堀川の画像はこのHPから沢山拝見できます。そしてこれが【地図】
★今日は松涛美術館に行ってきましたが、そのことは又、いずれ、書くことにしますね。
今週末はビッグサイトで第15回東京国際ブックフェアが行われます。
オスカール・大岩は1965年ブラジル生まれの日系二世。
サンパウロ大学建築学部を卒業後、活動の場をサンパウロから日本へ、
そして2001年9月の米国同時多発テロによる
世界貿易センタービル崩壊の時期の前後にNYへ、と移動した。
初めて見る彼の作品の数々だったが、ブラジル日系二世が東京都の大きな
美術館での展覧会開催にこぎつけているんだから、きっと何か
強烈なアピールがあるんじゃないか、と、最終日の2日前に出かけた。
会場に入るなり、巨大な絵に圧倒されっ放し。
二番目の部屋にあった、クジラⅠ・Ⅱ!(雑誌より) 大学時代の作品だという。
お金はなかったが大きいものを作りたい気持から、
大学の夏休み中に、教室をスタジオ代わりにして制作したという、彼が
23才の時のこの作品は、2年後のサンパウロ・ビエンナーレに展示されたという。
(※上のリンク先にある写真がサンパウロ・ビエンナーレでの光景)
建築出身だからか、建物の描写をもとに、オスカールのファンタスティックな
イマジネーションが加わった作品が多く、それぞれのスケールの大きさに目を見張る
ばかりだった。目の光った犬が描かれた「野良犬」↓も227 x 666 cm と大きいし、
チケットやパンフレットに使用された、“ガーデニング” シリーズの一つ「Manhattan」も
227x 555 cm という大きさだ。彼のHP内の「works」では、この絵を含め、沢山の
作品を見る事が出来るけど、やはり現物の持つ迫力は、実際に会場に来て絵の前に
立って見なくてはきっと判らないだろうな。
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「カラスの巣」という、工事現場を巣にみたてたような左の作品でも、227 x 222 cmの大きさだ。大きさ以上に、彼の尽きない豊かな発想力とか、社会を見る目が作品を見ていて伝わって来る。 |
この作品は、ある夕方、パリの空港についた時に数十匹の兎が、滑走路
横の草原を走っていて、夕方のきれいな光に照らされていた印象から生ま
れました。後で この作品をもとにして、彫刻をつくり、今回始めてこの作品
の前に彫刻を一緒に展示することにしました。(作品解説より)
4月29日から開催されていたこの展覧会も7月6日で終わってしまった。
興味おありの方には、いつもながら、遅い投稿で、というより、終わっちゃうよ~と、
慌ててかけこむ悪い習慣があり、申し訳ないけど、8月9日からは、
福島県立美術館で展覧会が巡回されるとのこと。
製作過程のメモやラフスケッチもあり、2階ではドキュメンタリービデオを通して、
オスカール自身がこれまでの彼の道程を語っていた。私にとっては懐かしい
二世の話す日本語。淡々とした語り口の中にも、しっかりとしたヴィションと経済力を
垣間見た。彼は絶対的にブラジル生まれの日系二世であって、
日本に育った日本人ではない。純粋さと負けん気、そしてしたたかさを
兼ね備えている。と思う。心の中で思っていてもそれを口に出さない人もいる。
が、思っていたことをそのまま率直に言葉で表現出来る人もいる。
言葉は受け取り側により、誤解される場合も多々あるが、その辺が、
「何を考えているかわからない」と言われやすい日本人との差
なのかな、と、ビデオを見て感じた。
戦前の日本から送られるダンボール箱」
子供の頃、日本にいたおばあちゃんから、たまに小包を送ってもらいました。いつも印象的だったのは、そのダンボール箱を開けた瞬間の日本の臭いでした。 |
★kちゃん、毎度チケットを有難うね!
四谷・上智大横の土手にて
待ちに待ったその日は朝から落ち着かず、家の仕事をしながらも、いつもとは全く違う
心持ちでした。先日カット&パーマをしたので、ヘアーに関してはそれ以上どうにもなら
ないからOK。顔は、これも変えようがありません。せめてお化粧でカバーしようか、と
思っても、そんなテクニック持ち合わせていないし、いじればいじるだけ化け物になるのが
オチでしょう。着ていくものはどうしよう・・。靴は・・。といっても選ぶほど持っていないし、
2時間座りっぱなしだから楽なものがいい。
変わり映えしないから、そうだ、マニキュアでもつけようかな、と、慣れない手つきでパール
系の色のを塗りました。こんな日に限って乾きが遅く感じます。賞味期限・・・でなくて
使用期限が切れているに決っているマニキュアだから乾かないのかしら。我慢できなくて
つい動いてしまったのですぐに爪が擦れたりして、あちこち剥げました。が、まぁいいかぁ。
なぜこんなに大騒ぎしているかって、エグベルト・ジスモンチのオーケストラ・コンサートを
紀尾井ホールまで聴きに行く日だったからです。去年の夏に約15年振りで日本公演
を果たした彼が、今年は “第24回〈東京の夏〉音楽祭2008” のオープニングの日に、
東京フィルハーモニー交響楽団と共演を果たすのです。全て彼の作曲した音楽で!
それだけではありません。まだ一度もお会いしたことのない
ブロ友二人が、偶然にも同じコンサートを聴きに来る、と、
知ったからです。そうなんです、ジスモンチよりこっちの方
にドキドキでした。ほぼ3年間、お互いのブログ上でコメント
のやり取りだけをして、勝手に相手を想像していただけなん
ですもの。
日が長くなったので赤坂ではなく、四谷から赤坂に向かって土手を歩くことにしました。
そのほうが緑の中を歩けるし、心だって落ち着くってもんです。でも目指すホールにはすぐ着いてしまい、教えていただいた「カエルの帽子」の目印をすぐ見つけてしまいました。
アハハ・・・もう逃げられない!と思いながらも私は相手に手を振っているではありませんか。
会ってしまえばもう旧知の仲・・・と思っていましたが、緊張が解けかかったころには開演時間となり、お互いの席へと向かったのです。あぁ~、私何をお話したのかしら~?まるで二人の恋人と同時に会っているようでした。想像と現実はどうだったかですって?
ウ~~ン、微妙な違いは勿論ありましたよ。でもお二人とも想像していた通りのチャーミングなご婦人でした。お互い、知っているようで何も知らないし、知らないようでも日記は覗かせて貰っているという関係はちょっとくすぐったいような、何とも言えない感じです。
こんなに現実に心ときめき、胸躍らせたのはいつ以来か判らないくらいです。心のときめきは、はい、絶対に人を若返らせますね。お声を掛けていただき感謝感激です!
仕事帰りの娘も、コンサートの始まる寸前に到着。
席は一列目と三列目。発売2日目で、すでに前の方の席はバラバラにしか取れなか
ったんですが、かぶり付きですよ。すごいでしょ。
オーケストラの演奏が始まり、しばらく経ってから、上下黒い服のジスモンチがトレード
マークの網帽をー今回は赤ー被って現れた時は割れるような拍手が起こりました。
前半がピアノで、後半はギター。しかし、ジスモンチの弾くピアノやギターの音色が
オーケストラの音に掻き消されよく聴こえず、去年のようなソロだけの方が断然いいと
思いました。が、進むにつれて、オーケストラの奏でる音がジスモンチの世界にとても
接近して来て、素晴らしいハーモニーが出来上がってきたように思いました。
オーケストラと競演でも彼の迫力は負けてはいないのです。ステキだ~マイ・ジスモンチ!
アンコールに数曲答えてくれましたが、同タイトルの曲でも、弾く都度違ったフィーリング
なので、曲名は覚えるのが大変です。出口に、本日のアンコール曲が、「FREVO]と
「MENINAS」であることを知りましたが3曲だったと思ったけど・・・?
アンコールの拍手はなかなか鳴りやまず、オーケストラの方々も熱心に拍手していたのです。
娘と「ブラボー!!って叫ぼうね」、と話していましたが、それが、小さい声になっちゃった。
今回、ジスモンチは英語で挨拶をしていました。とても丁寧な仕方で、前回のように
日本風にお辞儀を何回もしていました。観客席に真っ直ぐに、しっかりと目を向けての
挨拶は本当にカッコよかったです。
今回の演奏曲目の一つ、「Dança dos Escravos 」と同名ではないのですが、ギターを奏でる
こんなジスモンチも聞いてください。曲目は「Dança das Cabeças」(ダンサ・ダス・カベーサス)
会場を出ると、車がずらりと並び、コンサート帰りのお客が次々に乗り込んでいました。それもそのはず、音楽祭のオープニングコンサートだから、色々な人種も来ていたのでしょう。娘と私は、「私たちのお迎えは~?ないの~?」と、ぼやきながら、ニューオータニ前を永田町方面へ、トボトボと歩いていたら、オープンカフェスタイルのオー・バカナルを見つけました。すかさず、「入ろう!」と娘。
夜の10時に母娘がこんな所でビールにワインを飲んでいるなんて、最初で最後かしら?
カメリアさん、かぐやひめさん、即日にブログを投稿してくださり有難うございました。
ジスモンチに代わってお礼申し上げます!今でも、あの初対面は嘘じゃなかったのかしら、
とまだ夢ごこちのbiancaであります。
先週末に書いて「草稿」状態だったのを、7月になってしまいましたが投稿いたします。 先週、新聞記事で、「がんばれニッポン、を広告してきたんだそう言えば、俺。」の 追記: gggの帰り道に、やはり先週の新聞記事で知ったのだけど、銀座松坂屋 |