ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

フランスが夢見た日本

2008-07-28 | art/exhibit/museum

 
連日の蒸し暑さで行動範囲が狭まり、かといって家事も全く捗らず、何もかもやる気が失せていましたが、重い腰をすくっとあげて向かった先は上野の山。閉館時間が8時となる金曜日だったからです。
主婦が夕方から外出することは、母には理解出来ないようです。これから絵を見にいってくる、といえば決まって驚き、呆れ、そんなこと自分はした事がない、と言います。
安心して!食事の支度はしてあるし、第一私はパパの召使じゃないんだしね、と、理解に苦しむ親に言っても無駄とは判りながらも正直な言い方しか出来ない自分に肩をすくめながら、じゃぁね~と言い放ち、出かけました。
東京国立博物館の平成館のほうでは「対決・巨匠たちの日本美術」開催中で、入場者はほとんどそちらに向かって歩いて行くのでした。この暑さでは、“対決” などは暑苦しくて見たくないんですよ。
表慶館が綺麗に改装されてから初めて中に入りました。それほど広くはないので見易い事と、展示物が陶器であったことで、スイスイと楽しく見学することが出来ました。

日仏交流150周年記念
      《オルセー美術館コレクション特別展
       フランスが夢見た日本
                   ~陶器に写した北斎、広重~

19世紀のヨーロッパのジャポニズムに於いて、印象派の画家たちに強烈な影響を与え続けた日本の浮世絵ですが、工藝の分野でも、当代一流の版画家ブラックモンや装飾画家ランベール等が、フランスで大ブームを巻き起こしていた広重や北斎、河鍋暁斎などの日本版画から、全く同じモチーフを抜き出して図案集を作り、その図案を独自に組み合わせてお皿やカップ&ソーサーなどのテーブルウェアを製作していたのです。
これらのフランス陶器 「セルヴィス・ルソー(ルソーセット)」と、「セルヴィス・ランベール(ランベールセット)」の収集を進めてきたのが、19世紀全般を扱うオルセー美術館でした。著作権とか、どうなっているの・・?と思ってしまいましたが、全く同じ絵が描かれている、とわかっていても、出来上がった作品の数々は、ヨーロッパの土壌で一たんふるいにかけられ、エッチングによる図案集が作られ、フランスで充分人気を博すことを確信して制作された、すばらしいものでした。今回、約100点のテーブルウェアが出品されていますが、その7割以上の作品の元絵が判明されたということです。元絵と比較しながら、フランス人がどのように元絵を利用し、各プレートにレイアウトしていたかを見ることができる楽しい展覧会でした。

元絵:葛飾北斎 元絵:歌川広重 元絵:歌川広重元絵:河鍋暁斎
     

上二枚は、私の購入した絵葉書です。左がセルビス・ランベールの《深皿 波に鯉図》、 右は同じく《平皿 鵞鳥図》 共に図の部分です。

最後の部屋には大テーブルが真ん中にでんと設置され、これらのテーブルウェアが素敵にセッティングされていました。

帰りは本館へ寄り、「六波羅蜜寺の仏像」~平安・鎌倉彫刻の宝庫~を見て来ました。
京都にある六波羅蜜寺は真言宗智山派の寺院で、空也が創立者となります。
広くて薄暗い会場内に置かれた13体の仏像のうち、10体が重要文化財。ここを見ようと思って来たわけではなかったので、偶然同時期に開催されていたので得した気分になりました。
これらの特集陳列以外にも、本館には沢山の展示物があり、一枚の券さえ持っていれば他の企画展以外なら全部を見ることが出来、時間と気力がある時にはゆっくりと見て回ると実に贅沢な心地になりますね。
今回は、表慶館の規模がそれほど大きくなかったのと、閉館の8時までに少し時間があったので寄る気になったのです。日差しの強い日中に訪れていたら、きっと、立ち寄る気力は無かったでしょう。金曜夕方からの美術館巡り・・・夏にはいいかも。
帰りの上野の山ですが、ベンチというベンチを占領して、山の住民がごろ寝していました。真ん中に仕切りがあるベンチだけは、ペアが座っていましたが、ちょっと異様な光景です。
ちなみに、夕方、美術館に向かっている時には上半身裸の住民が、ビールだか焼酎だかの缶を飲みながら、井戸端会議の真っ最中でした。上野の山は日本という国の縮図のなのかしら。明日はわが身・・・と、思えてしまうのですもの。


海の日

2008-07-22 | visit/drive

 三連休最後の21日は海の日。
「横浜開港記念みなと祭」のフィナーレを飾る国際花火大会の入場券を昨年同様
いただいたのですが、去年行ったからもういいわ、と私、
断ったはいいけど、この連休が
予定未定のまま終わりそうな不安が命中しそうでした。
子供はそれぞれ旅行などに出かけたので、自由を満喫出来る3日間のはずが、平日と
ちっとも変わりないなんてイヤだ~。
私の代わりに友人と花火大会に行った夫。
帰宅したのは午前さまでしたから、朝起き
れないのは明白。それで、母と姉に声を掛け、海へむかって走ってきました。

首都高湾岸道路~神奈川線~横横道路(横浜・横須賀)で衣笠まで行ったら、
そこから更に三浦縦貫道路が続き、三崎のほうまで簡単に行けるんです。最後の有料
道路である、4.7kmの長さの通称「横須賀三浦はまゆうライン」。このラインを走りきると、
右は葉山、逗子、鎌倉で、左は三浦三崎、横須賀につながりますが、目的の右側が
大渋滞だったので左に走り続けたら三浦海岸に出たということです。
湘南リゾートラインと三浦大根地区との差がこの「渋滞」に現れているってことですか?                                                        でもいいもん。スイカ畑やとうもろこし畑、お花畑が一面に広がっているほうを選らばざるを得ませんでしたが、渋滞より断然、マシ。ストレス発散ドライブですもん。
道端のあちこちでスイカやメロン、とうもろこし、ナス、トマトなどが売っています。車を止めて、私たちもそれぞれに小ぶりのスイカやメロンを買いました。売店のうしろは一面の畑。三浦半島の中心部って、とても緑豊かなんですね。油壷や三崎港方面への道も混んでいそうなので、とにかくすいている方を選んで走りつづけたら、海岸沿いに出ました。さぁ、待ちに待ったティータイム+レストタイムです。どこにしよう、と走りながら見渡してもジョナサンなどチェーン店が多く、小洒落たカフェが見当たらない!逗子、葉山との差はこんなところにも現れているのかぁ。失礼、失礼。こっちが知らないだけなのかもです。ネットで調べてこなかったのですから。

                                   
しかし、ごった返すリゾート地より落ち着いた広い海岸線、その上空を、高く低く、カモメが何羽も行き来し、カラフルなウインドサーフィンの帆が海面をゆらゆら漂うさまは真っ盛りの夏の現場そのものです。
もう三浦海岸でいい。最高だ~。娘はオクマの海辺にいるけど・・・この際、沖縄の海とは比較しませ~ん。
海岸線が終わりそうで、あせって入ったところはペコちゃんで名高いチェーン店。わはは・・久しぶりだねペコちゃ~ん。みんなでアタマ撫で撫でして中へ入りました。

     

窓の真下にディモルフォセカの植え込みがぎっしりでカワイイ。この花を入れるとなると、
道路の街路樹が入らないのです。難しいね、写真って。
さて、注文したのは周りにつられてフルーツソフトクリームあんみつでしたよ。

   

                 「おねえちゃん、海にはいろうよ~!」
            「でもさ、だれも泳いでいないね。サーファーばかりだよ。」

      とでも言っているんでしょうか。わが子の小さい頃をつい思い浮かべてしまいました。

   

その日が海の日だと気がついたのは帰る頃でした。
そうだ、「海の日」は誰かさんのバースデーだ、と、思い出しました。
いや、ハッピーマンデー制度になったから日にちがずれているかも。
でもでも、言わせて貰おうっと。
“ Happy Birthday, Mr.Bean!”

ドライブの帰りには弟家族のいる磯子の実家に寄ることにしました。
この実家で20年以上を子育てしながら過した姉ですから、横横道路の港南台ICから
実家までの道案内を買って出たのに、あれっ?え~っ?何でないの~?の連続。
10年ひと昔なんですよね。あちこちの目印となるものが見当たらず、道路も広がり、
新しいマンションは増え、その様変わりは、頭で描いていた地図にないんですもの。
あ、ここは「栗木」よね、もう分った、大丈夫、と言ったあともキョト~ンとしっ放し。
                                                       磯子の家では子供は出払っていて二人のみ。
ちょうど弟はジムから帰ってきたばかりでした。
この家も三連休は自宅組だったようです。
庭で趣味の野菜作りを楽しんでいる弟が、もう時期も終わりで、少ししかないけど、と、畑からナスとネギを取ってきてくれました。
お昼過ぎからのドライブでしたが、帰宅まで6時間も掛からなかったんですよ。首都高湾岸線もスイスイで、気分転換に絶好のドライブ日和と相成りました。

いただいたばかりの私の好物、信州産の大きなズッキーニも一緒に並べてハイッ、チーズ。
ビンに入っていた竹富島の星砂を、少しは涼んでいただこうと広げてこれは、マクロでパチリ。
それにしても毎日暑いですね。だから夏なんですけど。
                                       
                       

 


ある日突然

2008-07-19 | music
                            

                               
非常階段を降りたところに背の高いひまわりが咲いているのを発見。
車で外出する時はこの前を通らないけど、駅の方へ買物に行く時は非常階段側から行くので気がついてもいいはず。なのになんでこんなに大きく育った花を見逃していたのかしら。
視野が狭まっているのかしら。         ある日突然・・・てな訳けないし。 

 ♪ ある日突然二人だまるの
あんなにおしゃべりしていたけれど♪
    ♪いつかそんな時がくると
  私にはわかっていたの・・・♪

 先日~これも一種の「ある日突然」ですが~お誘いのお声がかかり、遥か昔を思い出してしまうような懐かしい歌声を3人で聴いてきました。お誘いがなければ、まず行かなかっただろう癒し系の曲目で人気のデュオ、トワエモア。

鳥英美子with トワエモワ コンサート 《明日への扉》に行ってきました。
                                                         
       曲目:   ある日突然
            リンゴの花の下で
            初恋の人に似ている
            虹と雪のバラード
            誰もいない海
            旅立ちの日に
            アメイジング・グレース
            空よ
            明日への扉
                    ほか

1969年にデビューを果たし、「或る日突然」「空よ」、札幌オリンピックの入場曲として親しまれた「虹と雪のバラード」や「誰もいない海」など、永遠に口ずさまれるヒットを放ち、たちまち人気をさらった清冽デュオ、トワエモワ。73年デュエットを解散。女性ソロ・シンガーと音楽プロデューサー、互いの道を歩んだ二人ですが、97年のNHK「思い出のメロディー」出演をきっかけに再結成を決意。芸歴30周年を記念し、99年より本格的に白鳥英美子withトワエモワ(白鳥英美子&芥川澄夫)としてコンサート活動をスタートさせています。
青春の思い出のシンボルともいえる清々しい歌声とともに、もはや卒業ソングの定番、全国の小・中学校で絶大な支持を集めている「旅立ちの日に」など、彼らの輝かしいレパートリーが鮮やかに甦ります。(webより)

若い時分は、特に聴こうとしなくても聴こえてきたトワエモアの爽やかな歌声。
こうしてコンサート会場で、数十年前の曲を、五,六十代になったデュオが 歌い、大喝采を浴びているなんて、立派です。声の質はそりゃぁ少しは変化していますが、美しいハーモニーは健在でした。その上、トークに磨きがかかり、きつめのジョークを交わしあうお二人でした。恥じらいがちだった若き日のピュアな二人も、親となりより強く逞しい、でも優しさはフルに感じさせるパートナーとなっていました。歌い手としてのパートナーであり、実生活では別なんですよね。
あのころ大流行していたフォークの曲目の中から観客の拍手の大きさで2曲を選んで歌う、という時に選ばれた曲は、「22才の別れ」(You Tube by 伊勢正三)と「翼をください」(同じく by 徳永英明)でした。両方ともすっかり名曲となっていますね。
ジャズなどと違って、私たちも共に声をだして歌える、というのが、この手の音楽の魅力だと思います。歌いたくってたまらなくなります。いえ、なっちゃいましたよ。この思いをどこに発散させましょうか?空よ!と空に向かうか、誰もいない海ではじけるか・・・ある日突然・・・・・?


ブックフェアーへ

2008-07-17 | flower/green

臨海副都心東京ビッグサイトで毎年行われる東京国際ブックフェア。
今まで二回行っただけだが、毎年5月半ば過ぎごろには案内メールが届く。
会場が広く、歩くのも疲れるが、書籍が2割引きで買えるし、
聞いてみようかな、と思う講演会もあったので、12日に行ってきた

入場順で席を確保するので、講演会の始まる30分前には着くように出かけた。
珍しく早めに着いたつもりなのに、中央通路側で空いていた席といえば、
会場の中ほどより後方のみ。サテライト会場まで
設けられたとのことで、総数2000人の聴講者で埋まったようだ。
有名作家の無料講演会ですからね。
五木氏の作品はその昔、誰かさんの書棚にあったのを、誰かさんってこんなのを
読んでいるんだ・・と、知りたくなって数冊失敬して読んだことがある。

始まる前、担当者からこの日の講演内容について、一切どこへも発表したり
しないように、との釘をさされたので、その時点で少し白けた気分になった。

テーマは「人間の関係」。
「講演内容」は、
人間は「関係」がすべてである。
そして家族も夫婦もまず「他人」になることから出発するしかない。
他人同士からはじまる人間の関係-。人間の関係が壊れかけている
この時代に必要なものとは。著作を通してできるだけ多くの読者に
メッセージを伝えたい、という 内容の講演。
  

それなりに心に残ることの多い講演内容だった。
特に、「喜びと悲しみ」、「慈悲」についてのお話が心に残った。
慈 ・・・ プラス思考の愛情、雄弁、明、躁 ・・
  悲 ・・・ 呻き声、溜息、無言、暗、鬱 無念 ・・
慈と悲は一体であり、その両方共が大切であること。
悲しみを乗り越えるにはその状態をしっかりと見つめ悲しいことを
声を出して言い、内側に抱え込まず外にだす。外に客体化する。
笑い・明るさ・プラス思考等は、勿論その通り良いことだけど、
悲しみ・嘆き・苦しみなどは決して人間にとってマイナスとはならない。
悲しみを語りづらい、伝えづらい今の社会で、それを閉じ込めて
生きている限り、人はそこからは解放されない。
弱い心が折れるのでない。心にバリケードをして固めているから、
ぽきっと音を立てて折れてしまうのだ。(固めておかなくては生き難い世の中)
年間自殺者○万人・・・それは○○億円の損失である、とか自殺者数の
トップが入れ替わり○○県になった、など、何でも数字化する社会は変だ。
納得いかない。病んでいる今の時代、心優しい感受性強い人ほど
心を痛め、鬱にならざるを得ない。こんな時代に元気でいられる人は
逆に病んでいるのでは、と思ってしまう。(笑) この鬱の時代を生き抜くために、
悲しみや愁い、惑いなど、マイナスとされてきたものをきちっと見直していこう。

などなど、元気がでる内容ではなく、共に考えながらこの時代を乗り越えていこう
という作家からの真摯なメッセージが、一時間半のお話の中にぎっしり詰まっていた。
でも、これって、これっぽちだけど、下手な文だけど、ブログに書いてよかったのかなぁ。
自分なりに超・簡単に、へたな表現で纏めたので・・・(まずかったら全削除します)
                
      
 「生まれてきたものは、今向きあっているものは、すべて別れなければならないのだ。
そういう気持ちをきちんと持つことがじつは大事なのですね。
そこから結局、それを惜しむ気持ちが生まれ、惜しむ気持ちから悲しむ気持ちが生ま
れ、悲しむ気持ちから、いとおしむ気持ちが生まれ、そこから愛がうまれてくる」 
『人生案内』・角川書店・文P214・「昭明」;(webより)

 Photo_4 
講演会のあとはブックフェア会場へ、と移動。
各出版社のブースは様々な趣向をこらし、覗いて見ているだけでも面白かった。PHPでは「進化の迷路」という香川元太郎氏作・絵の本にあるのと同じ迷路図を手にした子供たちが、その作者(白衣の方)を囲んで遊んでいた。'金曜日’のブースは中年の人々が囲んでいたので覗いたら、「国家の罠」の佐藤優氏が一生懸命に語っているその奥では佐高信氏が次の出番を待っていた。いわゆる、サイン会とトークショー。


目的もなく、ぶらぶらと歩き見していただけなので、スケジュール表を見ていたら玄侑宗久氏にも会えたんだ、と、後でわかった。バーゲン書籍の中で、娘に丁度いいかな、と思った基本の料理本を安さに惹かれて買い、聖パウロ女子修道会でマリアテレサの本を買い、某仏教出版社のクリアファイル付きパンフレットをもらい、日本イラストレーター協会で冊子やハガキをもらい、あの草思社(文芸社ブースの一部)の前を通った時、そこで欲しい本を見つけ、どうしよう、と行ったり来たりした揚句、買ってしまった。草思社とか白水社、みすず書房など、なんとなく社名が気に入っている。名前って、結構その会社を象徴したりしていると思う。ブログタイトルでも、私のはおっちょこちょいだが、いい名前だなぁ、と思うと中を覗きたくなるものね。反戦平和の書籍を集めたコーナーもあったし、筑摩書房には3千円の福袋もあった。気が付いた時は閉館間際で、その時になって、まだ三分の一しか見てないことに唖然。絵本やアートブックスのほうまで行けず終いとなった。駅から会場までの距離や会場内の広すぎる空間を考えると、年々足が遠のくかもしれないなぁ・・と思いながら、ビッグサイトをあとにした。

田んぼの中で息づいている小さな生物が美しく描写されていたこの日の「天声人語」。
その中の一部に、“思い浮かぶ詩” として、吉野弘さんの詩の一節が紹介されていた。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい・・・・・・・しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士

 
そのあとに、長命だった江戸の文人、大田南畝の残した狂言が書かれていた。

人生七十古来稀  食いつぶす七十年の米粒の  数かぎりなきあめつちの恩

ブックフェアへ行く前の、心静かなひと時だった。


大正の鬼才 河野通勢

2008-07-14 | art/exhibit/museum

 
渋谷駅周辺のように、往来の激しい目の疲れる街は、年と共に段々と足が遠のきます。
好奇心の方が強く働く何かがある場合は例外。「えっ?そんなこと言ったっけ・・」に変わりますけど。今回の、河野通勢(こうのみちせい)展の場合は、他の方のブログを通して数点見ただけですが、とても気に掛かっていました。Kちゃんから頂いた招待券の中にこれも入っていたので嬉しかったです。松涛美術館なら、渋谷の雑踏を通り抜けた先の、閑静な住宅街の一角にありますから、その辺りを歩くのも楽しみの一つなんです。

チケットの絵を見て、大正時代の日本人画家がこのようなヨーロッパ的な宗教画じみたものを何故描くのだろう、と思いました。予備知識はほぼゼロ状態でしたが、こじんまりとした美術館の展示室に入るなりビックリです。展示されている絵が壁面だけでなく、中央に設置されたパネルにも沢山あったのですもの。まるで市の美術展のように絵がぎっしりと所狭しに展示されていたのです。
それもそのはず、作品や資料、それに加え近年発見された大量の未発表作品を合わせて約350点もの数だったということです。それが宗教画だけではなく、様々な趣きを持つ油彩、水彩、コンテ、毛筆、銅版などによる作品群なのです。
10代ですでに、かなり高度で成熟した技術を持っていたように見受けられましたが、父親が美術の教師だったということでそれも頷けます。2階には父親である河野次郎の絵が 十数点展示されていました。そのどれもが素晴らしい絵。蛙の子は蛙でした。
(下は自画像)
通勢 ・・みちせい、と読むことを知ったあともサッとは口
      から出て来ない名前。その意図は何かしら?・・
は、父親以外にも、デューラー、ダヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ルーベンスなどなど、主にルネッサンス期の画家の影響を受け、模写などを繰り返し、何もかもを全くの独学で開拓していったということには驚きました。
彼が育ったのは長野市。そこを流れる裾花川の周辺を自分で「ニンフの森」と名づけ、好んで描いた一連の絵の数々には、ただの風景画にならない、独自の思いが込められているようです。これは長野市ではなくヨーロッパの風景画だ、と言われても納得してしまう雰囲気を持っています。それは彼が幼い時分から、ハリストス正教の信者としての厚い信仰心を持って育ったからなのでしょうか。大正という時代において宗教心と共に育った絵心、模写を繰り返しながらの並々ならぬ努力。というか一種の情熱。というか粘着力。そんな全てを兼ね備えていた素晴らしい画家が、何故今まで世間に知れ渡らなかったのか、とても疑問に思いました。油彩画、宗教画、銅版・細密画、挿画のどれをとってもうまいしセンスの良さを感じたのですもの。展覧会のサブタイトルである“ 大正の鬼才” とまで言われている人の絵が表に出てこなかった理由は何なんでしょう。
右の女性像は通勢の妻の妹を描いた「好子像」。
1916年、彼が21才の時に描いた絵です。全体の雰囲気がモナリザを、アーチのバックが宗教画の影響を彷彿とさせます。女性像を滅多に描かなかった彼には珍しい一枚と言われています。
最初の方に展示されていた、「梓川河原宿屋前から穂高が嶽を見る」というタイトルの風景画のところにこんなコメントが目を引き、図録は買わないつもりだったので、これだけメモしました。(中略、後略・・確か、あり、です。)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中学5年生、18才の時に描いた作品。8月半ばに友人と上高地に写生に行き、高村光太郎が同宿だと知る。油彩画の批評を乞うて讃められる。高村は、「焼獄を描いたものの方がよい。何故よいかと云うと自然をよく見ておる。自然を見ないで描く絵はどこかに力が無い。」と評した。この時の光太郎は智恵子と同行し、一緒に画を描いていた。以来、上京する度に高村を訪ね、交流は続いていた。
そして彼から岸田劉生の話しを聞かされた。
 
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
以上のコメントにあるように、実際、上京後に、岸田劉生との深い繋がりが生まれたのです。
中川一政が彼のことを「何でも描けた」画家だと評していますが、何十枚もの自画像などを見ていても、描き方が夫々異なっているし、何でも試して描けるようになりたい、という気持ちのあらわれとして捉えてもいいかな、と思いました。様々な雰囲気を感じさせる沢山の自画像は見ていて愉快になってしまうほどでした。描いて、描きまくって、描けないものなど何も無い、と自分が納得するまで何回でも描く。それが彼の画家としての自信に繋がっていったのでしょうか。


 1915年「裾花川の河柳」
          
           1918年「林檎」

●河野通勢(こうのみちせい1895–1950)は、大正期から昭和戦前期にかけて活躍した画家です。高橋由一に学んだと言われる美術教師・写真師であった父河野次郎のもと で絵画を学び、早熟にして天賦の才能を見せます。デューラーなどに影響を受けた細密で存在感あふれる徹底した写実描写で知られる作風は近代美術のなかにあって異彩を放つものです。二科会への出品から、白樺派への接近、そして岸田劉生の率いる草土社へ参加、劉生死後は大衆小説の挿絵を精力的に制作し、近代の画家として小説挿絵の草分け的な存在でもありました。
 通勢の絵画は、「何でも描けた」と中川一政に言わしめた天才的な描写力とハリストス正教会の信者としての強い宗教的な内面性を持ちつつ、独特の空想的な物語を包含するものです。それは、画集などをもとにした独学ゆえの特異なものでしたが、神的なものへの憧憬ともみえる精神性は、大正期の時代精神とも通底する生命主義を感じさせます。
 近年になって、関係者のもとに大量の未発表作品が発見されました。特に十代から二十代にかけて執拗に描いた裾花川周辺を題材にした初期風景画、そして聖書・神話を題材にした作品群は圧巻です。また『項羽と劉邦』『井原西鶴』などの挿絵原画は、高い密度と完成度があります。さらに、銅版画についても関東大震災に取材した一連の作品は大変貴重なものです。その他にも、日記、覚え書き、スケッチ帖、書簡類などの膨大な資料が新たに見つかりました。
それらはより如実に作家の目指していたものを示しており、制作の秘密を明らかにしうるものであり、今までにない河野通勢の画家像を発見することができると思われます。
 本展は、代表作を含めながら今回の新発見の作品を中心にして展示し、初期作品から制作のなかでひとつの区切りとなった昭和前期までの、河野通勢の特色が明確であった時期に絞って作品を構成しました。ともすれば岸田劉生の陰に沈みがちであった作家像ですが、その原点を今いちど見直すことによって、大正期の美術史の中で極めて個性的な輝きを放つ河野通勢の、今までにない姿を紹介しました。
(出典:
平塚市美術館HPの「これまでの展覧会」より)

松涛美術館の2階には第二展示室「サロンミューゼ」があり、部屋の真ん中にはゆったりした応接セットがあって喫茶も注文できます。絵を見ながらカフェできる美術館だなんて、いいですねぇ。 喫茶は4時半までなので、この日はちょうど終了したばかりの時で残念でした。
でも、ここへ来る途中、Y 字路の角にツタの鬱蒼と絡まるお店が気になったので、見終わった後そこへ向かうことにしました。

      

お店の名はGalettoria。新しいお店のようです。
店内はフランスの片田舎をイメージしたような素朴でシンプルな作りです。ガレットは私にとって、表参道のル・ブルターニュで食べて以来。北海道のそば粉を100%使用しているそうです。そば粉でなく、小麦粉を使うと、それはクレープといわれる甘いデザートとなります。今回は、夕食前なのでチーズとハムの簡単メニューにしましたが、何種類かのペッパーが効いていて美味しかったです!コーヒーカップがもっと大きければなお良かったな。あるいは一回おかわりが出来るとか、ね。美味しいものを適度にいただくと、仕合せな気持ちになるんですよね~♪まだ5日前のあの味が舌に染み付いている感じです。

美術展についてブログアップすることで、今回はちょっと悩みました。もっとシンプルにならないものか、アップの仕方をどうしたらいいか考えれば考えるほど分からなくなり、写真のみを草稿画面に入れたはいいけど、書く言葉がずっと見つかりませんでした。何もかも書こうとせずに、ラクに楽しく(ラクと楽しいは同じ字でしたね!)続けることを意識しながらでしたら、“書く言葉が見つからない” にはならないかな、と思い始めました。今回も長くなるし遅れるし、でしたが、来月で、ブログ開設から丸三年が経ちます。この機会に、早く、は難しいけど、シンプルに、を念頭に入れながら少しずつ楽ログにしていきたいと、それなのに・・嗚呼、それなのに~長々と書いているトホホ・・のbiancaでした。


 


通り道

2008-07-10 | weblog

先日、東京都現代美術館に行った時、行きも帰りも木場公園の中を歩きました。
メトロ木場駅から美術館までの道程は、公園を最初から最後まで突っ切ることに
なります。こうして歩いたのは初めて。我が街のメイン通りである「やなぎ通り」
の延長が葛西橋通り。車で通行するとわかりますが、その通りが公園を二つに
分け、そこに橋が架けられています。公園が出来たのが1992年ですからもう16年
も経ったのですね。木場は、江戸時代から材木問屋の町として栄えていましたが、
江東再開発構想の一環として、木材関連業者が現在の新木場に移転する
ことになったので、その跡地を都が買収し、今のような公園として整備されました。

                                                        
  三つ目通りの歩道

  かくれみの

  整備された公園内

  この白い花の名はなんでしょう?

大通りの裏には仙台堀川と呼ばれる水路
(運河)があり、昔は丸太の貯木場として利
用されていました。父が現代美術館の近く
にある歯医者に長年通っていたので、年老
いて地元の歯医者に移行するまでの間、私
も何回か送り迎えをしていたのです。なので、
林野庁の敷地を更地にしてから公園ができ
るまでを車で通る度に見ていましたし、治療
のあいだ
の待ち時間に公園を散歩しようにも、
日陰の一つもない新しい公園はちっとも面白
くありませんでした。 あの頃はそういえば路駐
していたなぁ・・・
それが、十数年という月日が瞬く間に過ぎ、
交通規定も変わり、緑という緑が鬱蒼とし、
大きく大きく育っていました。
ガーデニング広場などはボランティアさんが
運営から植物の手入れ等を行っているよう
です。
ベンチに寝転び、大の字になって日光浴を
している人もいれば、
ウォーキングやジョギング
の人なども見かけました。

日が長くなったといえ、すでに夕暮れ時です。
どこからともなく、ドボルザークの家路の音楽が
流れて来ました。普段は何気なく聴き過ごし
ているのに、公園の中で聴く「家路」は、一人
で歩いている私に優しく声を掛けてくれている
ようで、その曲の美しさを改めて感じました。

                                                       さぁ、今日は寄り道せず真っ直ぐに帰りましょう、って気になり、珍しく同じ道を引き返すことにしました。
ピンクの八重咲きのこの花は立葵でしょうか?四谷の土手で見た花を八重にしたようです。
その昔この辺は、材木問屋が軒を連ね、店前で囲碁をうち将棋をさす姿ものだろうなぁ、と、考えながらモダンに整備された公園を透かして見たら、そんな光景が本当に見えてきたようでした。ご先祖さまがこの公園を見たらびっくりするだろうな。
 

★木場公園と仙台堀川の画像はこのHPから沢山拝見できます。そしてこれが【地図

★今日は松涛美術館に行ってきましたが、そのことは又、いずれ、書くことにしますね。

今週末はビッグサイトで第15回東京国際ブックフェアが行われます。

 


大岩オスカール:夢見る世界展

2008-07-08 | art/exhibit/museum




オスカール・大岩は1965年ブラジル生まれの日系二世。
サンパウロ大学建築学部を卒業後、活動の場をサンパウロから日本へ、
そして2001年9月の米国同時多発テロによる
世界貿易センタービル崩壊の時期の前後にNYへ、と移動した。

初めて見る彼の作品の数々だったが、ブラジル日系二世が東京都の大きな
美術館での展覧会開催にこぎつけているんだから、きっと何か
強烈なアピールがあるんじゃないか、と、最終日の2日前に出かけた。
会場に入るなり、巨大な絵に圧倒されっ放し。
二番目の部屋にあった、クジラⅠ・Ⅱ!(雑誌より) 大学時代の作品だという。
お金はなかったが大きいものを作りたい気持から、
大学の夏休み中に、教室をスタジオ代わりにして制作したという、彼が
23才の時のこの作品は、2年後のサンパウロ・ビエンナーレに展示されたという。
(※上のリンク先にある写真がサンパウロ・ビエンナーレでの光景)

建築出身だからか、建物の描写をもとに、オスカールのファンタスティックな
イマジネーションが加わった作品が多く、それぞれのスケールの大きさに目を見張る
ばかりだった。目の光った犬が描かれた「野良犬」も227 x 666 cm と大きいし、

 

チケットやパンフレットに使用された、“ガーデニング” シリーズの一つ「Manhattan」も
227x 555 cm という大きさだ。彼のHP内の「works」では、この絵を含め、沢山の
作品を見る事が出来るけど、やはり現物の持つ迫力は、実際に会場に来て絵の前に
立って見なくてはきっと判らないだろうな。



「カラスの巣」という、工事現場を巣にみたてたような左の作品でも、227 x 222 cmの大きさだ。大きさ以上に、彼の尽きない豊かな発想力とか、社会を見る目が作品を見ていて伝わって来る。
人のいない絵でも、そこに身近に存在する生活や環境などが感じとれるし、第一、見ていて楽しい。
学生時代や貧乏をしていた頃、広告代理店で働いて、早く金持になりたい、と一瞬迷った時期もあったというが、最終的に、大変な画家の道を選んだそうだ。
ニューヨークを生活の場として選んだのは、どうやら広くて大きなアトリエが手に入り易く、作業し易い環境だったからのようだ。

「シャドウキャットとライトラビット」というキャラクターは、とても面白かった。実際の模型のキャラクターも展示されていた。TakさんのHPで写真を見つけたので是非見て下さい!最初は何これ、ただのキャラクターグッズじゃん、と思ったけど、見ている内に次第に可愛くなり、連れて帰りたくなった。

         この作品は、ある夕方、パリの空港についた時に数十匹の兎が、滑走路
         横の草原を走っていて、夕方のきれいな光に照らされていた印象から生ま
         れました。後で 
この作品をもとにして、彫刻をつくり、今回始めてこの作品
         の前に彫刻を一緒に展示することにしました。(作品解説より)

4月29日から開催されていたこの展覧会も7月6日で終わってしまった。
興味おありの方には、いつもながら、遅い投稿で、というより、終わっちゃうよ~と、
慌ててかけこむ悪い習慣があり、申し訳ないけど、8月9日からは、
福島県立美術館で展覧会が巡回されるとのこと。
製作過程のメモやラフスケッチもあり、2階ではドキュメンタリービデオを通して、
オスカール自身がこれまでの彼の道程を語っていた。私にとっては懐かしい
二世の話す日本語。淡々とした語り口の中にも、しっかりとしたヴィションと経済力を
垣間見た。
彼は絶対的にブラジル生まれの日系二世であって、
日本に育った日本人ではない。純粋さと負けん気、そしてしたたかさを
兼ね備えている。と思う。心の中で思っていてもそれを口に出さない人もいる。
が、思っていたことをそのまま率直に言葉で表現出来る人もいる。
言葉は受け取り側により、誤解される場合も多々あるが、その辺が、
「何を考えているかわからない」と言われやすい日本人との差
なのかな、と、ビデオを見て感じた。
 

戦前の日本から送られるダンボール箱」

 

供の頃、日本にいたおばあちゃんから、たまに小包を送ってもらいました。いつも印象的だったのは、そのダンボール箱を開けた瞬間の日本の臭いでした。
箱の中には、椎茸、お茶、ふりかけ、お菓子などが入っていましたので、その臭いはそこから来るるのではないかと、長年思っていました。
 
ブラジルで日系人と言えば、おとなしくて、よく勉強して、まじめなのが一般的です。
このイメージが大嫌いだったので、長年日本という国に興味を持てませんでした。
かし、初めて日本に来た時、このイメージは大きく崩れました。バブルの直前、若者はとにかくよく遊び、あの自分の中の日系社会から読み取った“日本”は戦前の日本だったのに気付きました。
正直言って、ショックでした。
でも、一つだけ自分のイメージの日本がありました。
それははじめて電車に乗った時でした。
あの臭いは昔ダンボールを開けた時のと同じものでした。まるで、椎茸やふりかけが回りに座っていたように見えました。    
         
              1998年国際協力事業団『海外移住』より

  kちゃん、毎度チケットを有難うね!


トキメキのコンサート

2008-07-04 | music


四谷・上智大横の土手にて

待ちに待ったその日は朝から落ち着かず、家の仕事をしながらも、いつもとは全く違う
心持ちでした。先日カット&パーマをしたので、ヘアーに関してはそれ以上どうにもなら
ないからOK。顔は、これも変えようがありません。せめてお化粧でカバーしようか、と
思っても、そんなテクニック持ち合わせていないし、いじればいじるだけ化け物になるのが
オチでしょう。着ていくものはどうしよう・・。靴は・・。といっても選ぶほど持っていないし、
2時間座りっぱなしだから楽なものがいい。

変わり映えしないから、そうだ、マニキュアでもつけようかな、と、慣れない手つきでパール
系の色のを塗りました。こんな日に限って乾きが遅く感じます。賞味期限・・・でなくて
使用期限が切れているに決っているマニキュアだから乾かないのかしら。我慢できなくて
つい動いてしまったのですぐに爪が擦れたりして、あちこち剥げました。が、まぁいいかぁ。

なぜこんなに大騒ぎしているかって、エグベルト・ジスモンチのオーケストラ・コンサートを
紀尾井ホールまで聴きに行く日だったからです。去年の夏に約15年振りで日本公演
を果たした彼が、今年は “第24回〈東京の夏〉音楽祭2008” のオープニングの日に、
東京フィルハーモニー交響楽団と共演を果たすのです。全て彼の作曲した音楽で! 
             
それだけではありません。まだ一度もお会いしたことのない
ブロ友二人が、偶然にも同じコンサートを聴きに来る、と、
知ったからです。そうなんです、ジスモンチよりこっちの方
にドキドキでした。ほぼ3年間、お互いのブログ上でコメント
のやり取りだけをして、勝手に相手を想像していただけなん
ですもの。

日が長くなったので赤坂ではなく、四谷から赤坂に向かって土手を歩くことにしました。
そのほうが緑の中を歩けるし、心だって落ち着くってもんです。でも目指すホールにはすぐ着いてしまい、教えていただいた「カエルの帽子」の目印をすぐ見つけてしま
いました。
アハハ・・・もう逃げられない!と思いながらも私は相手に手を振っているではありませんか。

会ってしまえばもう旧知の仲・・・と思っていましたが、緊張が解けかかったころには開演時間となり、お互いの席へと向かったのです。あぁ~、私何をお話したのかしら~?まるで二人の恋人と同時に会っているようでした。想像と現実はどうだったかですって?
ウ~~ン、微妙な違いは勿論ありましたよ。でもお二人とも想像していた通りのチャーミングなご婦人でした。お互い、知っているようで何も知らないし、知らないようでも日記は覗かせて貰っているという関係はちょっとくすぐったいような、何とも言えない感じです。
こんなに現実に心ときめき、胸躍らせたのはいつ以来か判らないくらいです。心のときめきは、はい、絶対に人を若返らせますね。お声を掛けていただき感謝感激です!

仕事帰りの娘も、コンサートの始まる寸前に到着。
席は一列目と三列目。発売2日目で、すでに前の方の席はバラバラにしか取れなか
ったんですが、かぶり付きですよ。すごいでしょ。
オーケストラの演奏が始まり、しばらく経ってから、上下黒い服のジスモンチがトレード
マークの網帽をー今回は赤ー被って現れた時は割れるような拍手が起こりました。
前半がピアノで、後半はギター。しかし、ジスモンチの弾くピアノやギターの音色が
オーケストラの音に掻き消されよく聴こえず、去年のようなソロだけの方が断然いいと
思いました。が、進むにつれて、オーケストラの奏でる音がジスモンチの世界にとても
接近して来て、素晴らしいハーモニーが出来上がってきたように思いました。
オーケストラと競演でも彼の迫力は負けてはいないのです。ステキだ~マイ・ジスモンチ!
アンコールに数曲答えてくれましたが、同タイトルの曲でも、弾く都度違ったフィーリング
なので、曲名は覚えるのが大変です。出口に、本日のアンコール曲が、「FREVO]と
「MENINAS」であることを知りましたが3曲だったと思ったけど・・・?
アンコールの拍手はなかなか鳴りやまず、オーケストラの方々も熱心に拍手していたのです。
娘と「ブラボー!!
って叫ぼうね」、と話していましたが、それが、小さい声になっちゃった。
今回、ジスモンチは英語で挨拶をしていました。とても丁寧な仕方で、前回のように
日本風にお辞儀を何回もしていました。観客席に真っ直ぐに、しっかりと目を向けての
挨拶は本当にカッコよかったです。

今回の演奏曲目の一つ、「Dança dos Escravos 」と同名ではないのですが、ギターを奏でる
こんなジスモンチも聞いてください。曲目は「Dança das Cabeças」(ダンサ・ダス・カベーサス)


会場を出ると、車がずらりと並び、コンサート帰りのお客が次々に乗り込んでいました。それもそのはず、音楽祭のオープニングコンサートだから、色々な人種も来ていたのでしょう。娘と私は、「私たちのお迎えは~?ないの~?」と、ぼやきながら、ニューオータニ前を永田町方面へ、トボトボと歩いていたら、オープンカフェスタイルのオー・バカナルを見つけました。すかさず、「入ろう!」と娘。
夜の10時に母娘がこんな所でビールにワインを飲んでいるなんて、最初で最後かしら?


    

カメリアさん、かぐやひめさん、即日にブログを投稿してくださり有難うございました。
ジスモンチに代わってお礼申し上げます!今でも、あの初対面は嘘じゃなかったのかしら、
とまだ夢ごこちのbiancaであります。

 


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2008-07-02 | art/exhibit/museum

先週末に書いて「草稿」状態だったのを、7月になってしまいましたが投稿いたします。
昨日から一年の後半が始まると同時に、待ちに待ったバーゲンセールも始まりました。
今日、夕飯の買物ついでに駅前の「MONA」を覗いたら、4月に正価で購入したものが半値になっていたので、くやしぃ~~~。
 

                さて、先月27日は・・・

先週、新聞記事で、「がんばれニッポン、を広告してきたんだそう言えば、俺。」の
自称「個展が世界一似合わない男」、佐々木 宏さんの個展があることを知った。
そんな名前聞いたことない、と思ったが、読んでいくうち、彼がJR東海の、「そうだ 京都 行こう」や、「サントリーのKONISHIKIキャンペーン」や「BOSSシリーズ」などなど、テレビや新聞などのメジャーな広告キャンペーンを発信していた人ということが分った。
6月28日(土)までだったので、その前日に用事のついでに寄ってきた。場所は交詢ビル前の銀座グラフィックギャラリーggg(入場無料)。
佐々木宏氏はアーティストでなくて、クリエーティブ・ディレクターだそうで、「本を読むのが大の苦手、映画見るのも、美術館行くのもめんどくさい。充電するのが嫌い。放電する一方。趣味は、テレビと酒とカラオケですから、・・・・」と、じゃぁ、そんな人の、見たって面白くなさそうだ、と思ってしまう風にご自身のことを言い、更に「広告バカですから。」と言う。
なんか、言っていることとやっていることのギャップが大きいと、ちょっと注目したくなる。

入るなり沢山のパネルメッセージとモニターが狭いギャラリーにぎっしり。
それぞれのモニターが同時に別々のコマーシャルを流している。「サントリーウィスキーオールド」の型に鎮座しているKONISIKIに、今更ながら笑い、SUNTORY BOSSって、こんなに多くの種類があったのか、と驚いたり、ソフトバンクのイコールのようなロゴが、坂本竜馬の海援隊の旗から来ていて、赤を黄色に変えたのだ、ということがわかったりしてそれなりに面白かった。
テレビは目が疲れるし・・というか、余り見ない(今、ほぼ故障状態)ので最近のCMはよく知らないが、JRの車内広告での「そうだ、京都」シリーズはとてもいいと思っていた。
こういう広告なら、写真がとても美しいし、短いコピーが効いている。
そうだ、今度京都に行ってみたいな~、と思ってしまう。
そうだ、ブログも短く纏めよう、と何回も思っているのだけど、短い文ほど難しいのね~。

                                          
サントリーといえば、むかしむかし、その昔、私がまだ子供のころ?
柳原良平氏によるイラストで「アンクル・トリス」が登場するトリスウィスキーのこのようなCMがとても印象に残っている。開高健氏、山口瞳氏などと一緒にサントリーの前身である寿屋の宣伝部の黄金時代を築き上げた時代
。この会社の宣伝部に開高健氏や山口瞳もいたというから、かなりユニークな個性溢れる人材を抱えた会社だったと思う。
平成15年には「伝説の男、アンクルトリスが帰ってきた」という触れ込みで “のこのこ” というテレビCMが登場したそうだ。やっぱりあのコマーシャル、面白かったよね、と思っている人が大勢いたので帰ってきたのかな。ネット上でこういうCMを
見れちゃうとはすごい時代力を感じる。You Tubeで見れる他のアンクル・トリス・シリーズも面白かった。佐々木氏って、アンクル・トリスみたいなおいちゃんなんかしら~と思ってしまった。

     
最初に放映されたCMは、1958年の「トリスバー」です。
     昭和30年代、東京、大阪を中心にトリスバーが次々と誕生し、
     トリスバーブームの現象を呈していました。このような現象を背景に、
     バーの止まり木で一杯のウイスキーと等身大のキャラクターとして、
     柳原良平氏によるアニメーション「アンクル・トリス」が登場したのです。
     人気キャラクターのアンクル・トリスは、35~40才で独身。少々頑固で、
     こだわりが強く、義理人情に弱く、お人好し、といわれています。(webより)

狭いギャラリー内で、過去のコマーシャルを熱心に見入る人々はどんな人なんだろう。
コマーシャルといえば、毎週火曜日に新聞コラム「CM天気図」を時々読んでいる。先週のはこんなだったけど、佐々木氏が、「自分で言うのもなんですが、弱っちい企業を、逞しい企業にしたり、パッとしない商品を、きらっと光る商品に育てたり、の応援団長つとめてきました。」という言葉と重なった。違いなんかないよ、と、どれでも同じだなんて決して言わない宣伝文句を逆手にとってのアイディアというが、ま、ごくろうな話だ。
アンクル・トリスがすごいのは、何回見ても面白い点だと思う。トリスウィスキーがどれだけ売れたかは知らないけど。

 追記:  gggの帰り道に、やはり先週の新聞記事で知ったのだけど、銀座松坂屋
      裏のフラワーショップの前に、数年前から桐の木が生え、大きな葉をつけて
      いるとのことで見に行った。こぼれ種から発芽してコンクリートの繋ぎ目から
      成長したとはいえ、とても立派で、生物の逞しさを感じた。放っておいても
      大きく育つ生物と、手をかければかけるだけ厄介になってくる生物がある。
      育てる側の大きさの違いかしら。今後のこの木、ちょっと気になってきた。