ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

あぁ、ステファーノ!

2007-11-30 | weblog

先週の三連休には、久々振りに義兄のお墓参りに行こうということになりました。
八王子で高速を降りて、拝島橋を渡り、奥多摩街道をどんどん走り、
東青梅をさらに奥に入って行った所なので、年に一度訪れる位でした。
今回は、方角が近いので、S先生の眠る霊園にも寄ってきました。

カトリック霊園といっても、一見普通の墓地と変わりありません。違う点といえば、どのお墓にも十字が刻まれ、マリア像がその傍らに立っていたことでしょう。

左の像がS先生のマリア様です。墓石左手に立って祈りを捧げている表情は、他のどの像よりも無垢で美しく感じてしまいました。私たちがそこに着いた時、墓石の上にバッタがジッと佇んでいたのです。いつまでも動かずにいるので、デジカメを接近させて
「お~ぃ、バッタく~ん!こんにちは。」
と、声を掛けながら二枚ほど写した時、かすかに触角を動かして反応してくれました。すぐに、これは先生が昆虫になってで迎えてくれたんだ、と思いました。S先生のあだ名は「かまきり」だったけど、きっと色々な姿に変身し、時折地上に降り立つのかも知れませんね。


  夫の父親はいまから30年ほど前、まだ夫と
巡りあう前のことですが、サンパウロ市内で、
歩いていて突然倒れ、あっという間に帰ら
ぬ人となってしまい、市内にある広々とした
公園墓地に埋葬されました。夫はビザの
関係で2年おきにブラジルに行くのですが、
ある時、お墓参りに行ったら、墓石の周りを
赤いチョウがひらひらと舞ったり止ったりして
いて、彼がそこにいるあいだ中、傍から離れ
なかったそうです。一緒にいたブラジル人の
タクシーの運転手は、「これはすごいことだ!
奇跡だ!鳥肌が立ってきたぞ!」と、興奮
していたという話しを思い出してしまいました。

S先生より3年早く天国に召された奥様と一緒に眠るその墓石にはお二人の名前と洗礼名が左右に仲良く刻まれ、その上、中央には ~愛は永遠に~という言葉が彫られていたんですよ。   
何というロマンティスト!実に先生らしいその言葉に、つい笑みがこぼれました。幸せなお二人だったんだ・・・いいなぁ。私たちだったらぁ、、、絶対に・・真似出来ないだろうな、と一人密かに思っていたけど、二人密かに、だったかしら~。
                       
                      

気が付けば時間は2時を回っていたので、念願のお食事処には行けず、たまたま走っていて見つけた、冴えない「かんぽの宿」の中でパッとしない昼食、というより軽食をとり、「青梅宿アートフェスティバル2007-昭和浪漫の青梅宿」を開催中の青梅街道を少し走り、義兄のお墓へ、と向いました。本当はフェスティバルの中を歩いて見たかったのですが、日の暮れるのが早いので諦めました。お参りのあとは、昭和記念公園の中の紅葉も見て帰ろう、と計画していたんですよ。なのに~大渋滞に巻き込まれ、公園にたどり着いた時は閉園時間を過ぎていました。ついていない!以前来た時も、駐車場への列が延々と続き、諦めたことがあり、これで2度目。参りましたね。
高速道路もかなりのの渋滞中、とわかり、甲州街道を東京までノロノロと走り通しました。
どうせなら、と、井の頭通りから表参道を抜け、ミッドタウンに寄ってピザでも食べようと、勝手に提案しましたが、ここも駐車場が満車。でもクリスマスのイルミネーションが華やかで、ワクワク心地でしたよ。
それからわが街に戻ったか、って?そうは問屋は卸しません。そういうところに全然興味ない、というパパを、でも、まだ見ていないんでしょう?と言いながら、キラキラ輝くイルミネーションで飾られた丸の内仲通りを突っ切って、新丸ビルまで連れて来てしまいました。
やっと、東京駅を見下ろせる場所で、おいしいたべものにありつけた~。
この日のお食事処は「ソバキチ」。お蕎麦や単品モノを幾つか注文し、美味しくいただきました。オープンな居酒屋風のつくりです。そばのドアからベランダに出て飛び込んできたのは、この夜景。

       



                

   


夏目漱石展

2007-11-25 | art/exhibit/museum


★明治天皇崩御時の写真で腕に喪章を付ける漱石

寒さが身に沁みる季節になりましたね。私はすでに真冬の装いで街を闊歩しています。
いつもの如く、すでに終わってしまった展覧会についてですが、少しだけ書きたくなり、
書き始めたら終りが見えなくなったので、やっと今、upすることに決めました。

  

ずっと気になっていた、「文豪・夏目漱石~そのこころとまなざし」展。最終日の前日に、江戸東京博物館まで見に行ってきた。博物館の建物と、気の利いたカフェもないあの辺りを想像し、いつもどうしようか、と迷ってしまうのだけど、土曜日は夜の7時半まで開館しているので、行く決心がついた夕刻からでも間に合ったが、展示物が膨大で、閉館の時間まで見ていても時間が足りない位だった。 昔、父が、「太宰や芥川なんかを読んでいると、生きているのがイヤになってくる。その点、夏目漱石はいいぞ。」と言ってたが、いつも途中で挫折していた。漱石の本にかぎって挫折するはどうしてだかわからないのだが、人間としての彼には常に興味があった。



   装丁『四篇』


 『草合』

 どれも興味深くて、いちいち書いていては又、長文
ブログになるからやめるけど?、漱石の妻、鏡子との
縁談の話しに、へぇ~~と、感心というか疑問という
か、とても呆気にとられた。初めて鏡子に会った時の
印象を漱石は、「歯並びが悪くてそうしてきたないの
に、それをしいて隠そうともせず平気でいるところがた
いへん気に入った」と言っている。どういうことだろう。
朝寝坊の鏡子の事を、「オタンチンノパレオロガス」と
からかったが、彼女は何だかわからず 英語かなんか
だと思っていたが、後で、東ローマ帝国皇帝コンスタ
ンチン・パレオロガス」の洒落だと知ったそうだ。
どうして鏡子と世帯を持ったのかわからなくなる。きっ
と神経質な漱石の持っていない図太さ、無神経さ,
よく言えば何事にも動じない、肝っ玉の大きい性格
だったので 釣り合いがとれたのかな、と思う。

漱石と子規の友情は「寄席通い」がきっかけだった
そうだ。お互いに書いた詩文集を批評しあい、才能
をぶつけ合うことで2人の友情は更に深いものになって
いった。 素敵だ~。  脊椎カリエスを患い、もう先
は長くないことがわかってからも、病床にありながら、
あづま菊を書いた
こんな絵手紙を送っている。
最後の手紙には、「僕ハモウダメニナッテシマッタ」。
「今一便」書いて欲しい、と書かれていたが、ロンドン
で神経衰弱になっていた為か、漱石は返事をしなか
ったことでずっと後悔し通しだったという。しかし、子規
の死後、先のあづま菊の絵手紙と最後の手紙に加え、もう一枚の書簡を一幅の軸に仕立て上げて生涯
大切にした。

教え子の寺田寅彦によると、二人の間は「お互いに
畏敬しあった最も親しい交友」だという。
その寺田寅彦がドイツへ留学する時、漱石にオルガン
を預け、代わりに彼にトランクを貸したそうである。
この二人の師弟の間柄も素敵~!ドイツと東京で
交換していた
書簡も展示してあったが、師弟とは言え
ない、それ以上の温かい友情を感じ、私はだた羨まし
さを通り越して妬ましささえ覚えてしまう。下の絵手紙は、漱石が水彩画を始めてから一年ほどたった頃の絵手紙だが、絵心のある絵だと思うし、書もとっても上手くて味がある。
漱石は絵筆を持つことで心の安定を保ったらしい。

      
       明治37年10月22日付けの
       寅彦宛のハガキ
       (高知県立文学館蔵)

会場は 
 ①生い立ち・学生時代
 ②松山・熊本、ロンドンでの生活
 
③作家漱石の誕生
 ④漱石が描いた明治東京
 ⑤漱石山房の日々
 ⑥晩年~死    
の六つのセクションに分れて展示。
 

自筆の書や絵、原稿、漱石文庫からの沢山の洋書や美術カタログ類、お互いに交換した手紙類から垣間見る、正岡子規の死後まで続く2人の友情の様子、橋口五葉や津田青楓の手掛けた美しすぎる本の装丁と、浅井忠や中村不折の上手い挿画などなど、こんなに多くの資料が残されて、それが今回存分に拝見出来たことで、思いきって駆けつけて本当に良かった。
 

美しいこれらの装丁本が漱石と橋口五葉の共同作品・・・と言うことは、漱石がどれだけ美術に感心が深かったかを意味している。
 
   
 
「硝子戸の中」の見返し部分

 


上:大阪滑稽新聞に掲載された
「夏目漱石像」を面白がって模写
し、小宮豊隆宛の手紙の冒頭に
描いたもの。なんてユーモア精神
あふれた漱石ネコだろう!
その猫が死んだとき、漱石は知人
らに死亡通知を出し、東京朝日
新聞には死亡記事まで載った。
最後まで名前を付けてもらえなか
ったが、100年後の今も愛されて
いる幸せな猫だ。
そうだ。


1912年 「山上有山図」
(岩波書店蔵)
津田青楓の指導で最初に
描いた南画。

漱石を朝日新聞入社へ導いた、池辺三山(朝日新聞主筆)のことも初めて知った。「巴里通信」を書いていた彼を漱石は高く評価していたそうで、顔も、手も、肩も、すべて大きい尽くめの三山にすっかり安心したという。朝日新聞社長に、「夏目漱石君ニ百円くらいの俸給ならば大学教授を辞職して入社いたし候べき見込有之・・・」等、したためた推薦状も展示されており、二人は、「心を許した間柄」だった。が、それから5年経たずして三山は心臓発作で急死。同時期に漱石の五女ひな子も幼くして急死。これらの出来事が漱石の心と体に最大のダメージを与えたようだ。最後まで神経衰弱と胃潰瘍に悩まされたけど、これだけ人々に愛された人柄は、幼くして養子に出されたりして苦労したことも影響しているのではないか、と思う。信頼できる人を自分で見つけるしかない環境から、人を見る直感力が養われ、その上、真面目だがユーモアセンスの旺盛さが人を引きつけて止まなかったのだろう。彼の講演はなかなか面白くて人気があったというのも頷ける。
漱石について、その人となりをいろいろな方面から見る事が出来た展覧会だった。
書いても書いても書き足りない。あれも、これも、と、浮かんでくるけど興味ある方には物足りないだろうし、皆が当然知っていることばかりを、もしかしたら嬉々として書いているのかなぁ。
         
会場の最後のところで漱石のデスマスクと対面してしまった。
1867年(慶応三年)江戸・牛込馬場下に生を受け、1916年(大正五年)49才に没した漱石。明治時代の初めから明治の終焉までを見届けたその顔は、おもったより穏やかだった。が、同時に忘れられない顔になってしまった。

いつだったか朝日新聞の「今も昔も」というコラムで、寺田寅彦の漱石に対する気持ちが、茨城大准教授・磯田道史氏により、以下のように紹介されていた。(一部抜粋)

 無名時代から漱石を慕っていた寺田寅彦は、自分の「夏目先生」が祭りあげられて
 ゆくのが、つらくてならなかった。漱石の死後、こんなふうに書いている。
   「自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じて
   居ようが居まいが、そんな事はどうでもよかった。況や先生が大文豪になろ
   うがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。寧ろ先生がいつ迄
   も名もない唯の学校の先生であってくれたほうがよかった(中略)。
   先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がする」。
 元来、神経質な漱石は文豪にされ、無理に無理を重ねた、命を縮めた。
 寅彦は、漱石から二つのことを教わったと書いている。自然の美しさを自分の目で発見
 すること。人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛
 すること。この二つである。

          
         ★亡き師に献呈したという芥川龍之介の「羅生門」           ★10月17日付け朝日新聞より


 


 

 


裁判所見学会

2007-11-17 | visit/drive

 

Kちゃんからのお誘いメールにつられて最高裁判所の見学に行ってきました。
パソコンを使えるまとまった時間がなかったこと、場所が場所だけに、写してきた写真の
どこまで載せられるか、など考えているうちに一週間が経過してしまいました。
ここは見学コースもありますので、その範囲なら写真OKではないかな、と、Kちゃんに
聞きながらも自己判断を下しました。

当日は半蔵門駅の改札で待ち合わせ、7人揃って最高裁へ向かいました。
車では何回となくその前を通過していましたが、裁判の傍聴もしたことがないし、
全く初めての訪問だったのです。お誘いメールでは、「友人の父親が裁判官。
滅多に見る事が出来ない所まで見学させてもらえるので、是非是非!」とのこと
だったので、これは非常事態だ、と感じ、仕事を早退しての参加でした。もちろん、
場合によっては仕事上、行けなくなることだって考えられたのですが当日はなんとか、
ドタキャンしなくて済みました。

正門から中に入るとすぐに、広々とした階段が
上へと続きます。この空間で何かが、できそう、
すごい・・と思いながらも、一歩一歩を姿勢を
正して歩いてしまう、そんな厳かな気配が漂って
います。上るにつれ、サイドの照明が視野に
入ってきます。シンプルで冷たいモノトーンな
作りですけど、人を裁く場所には、無彩色が適
しているからでしょうか。(ちょっと発声練習をしたい
雰囲気になりましたよ。)

階段を上り終えたところで裁判官の秘書?の方
が出迎えて下さり、館内を案内して下さいました。
1974年の田中政権の時代に、約169億円かけ
て作られたという最高裁。webで調べた所、ここを
建築された方は
岡田新一さんだということがわかり
ました。内装には稲田石の花崗岩10万枚を使用
しているとのことです。

      稲田石は、雲母・長石・石英の三種の鉱物が強固に結晶して出来た
     中粒の黒雲母が入る白色系の花崗岩です。歴史的にも江戸時代より
     茨城県笠間市(東西8キロ、南北6キロの石切山脈)で採掘されおり、
     建築、建材、墓石まで幅広く利用されてきました。笠間焼きの土の源も
     稲田石の風化した成分と言われています。
(webより)

         

ロビーの左右にはこのような彫刻が設置されていました。
一つは、右手に正義を意味する剣を持ち、左手には公平を表す天秤を持っている
「正義」というタイトルのブロンズ像です。
もう一つは、男の子と女の子がベンチに腰掛けている「椿咲く丘」という題名の、
富永直樹氏の作品で、平和を表しているそうです。  

ロビーを奥に進んだ所に大法廷があります。
正面には15人の裁判官の席があり、その真後ろの壁面には川崎織物が制作した
という大きな織物製の、太陽を表す壁画が一対飾ってあり、
傍聴席の後ろには同じ大きさの、月を表す壁画が掛けられていました。
天井は丸く吹き抜けの作りになっていて明るい印象ですが、室内は間接照明が
荘厳な雰囲気を醸し出しています。

 

          

裁判席には15人の裁判官の名前が書かれ、
傍聴席の前の方には新聞記者席があります。
簡易裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、そして高等裁判所では、
裁判の結果に納得がいかない場合、不服申し立てをすることができますが、
最高裁判所は、それら上告等を取り扱う、最上級の最終の裁判所となります。
それまでの裁判所で争われる問題は、事実審といい、事実関係を証人尋問
などを交えて裁きますが、最高裁での裁判は法律審のみ。
法律以前の、事実関係が取りざたされる問題はすでに解決済みと捉え、
法律解釈を巡る問題が持ち込まれる場所なので証人台もないのです。
裁判官にとり、又は弁護士にとっても、仕事?する上での最高の場所のようです。
今まで起こった大きな問題や事件がここに持ち込まれ、勝訴だ敗訴だ、と
新聞テレビを賑わせていた、あの場所なんですね。

大法廷を見学していた時、用事を終えた裁判官が我々と合流し、小法廷、
図書館などをご案内いただきました。廊下の窓越しから見える事務棟は、
全く普通のオフィスビルと同様の作りです。

   
                 ↑小法廷

シーンと静まり返った図書館には、司書が2人いるのみ。
「聖徳太子憲法御宣布」という、
堂本印象の描かれた絵が3枚飾ってありました。
皆が見上げているのはその内の二枚の絵です。


研究目的なら、ここは一般でも利用出来るようです。
最後には裁判官室まで拝見することが出来て、その広さと、
ナイスロケーションに仰天してしまいました。窓からの眺めの素晴らしいの何のって、
きっと日比谷のペニンシュラホテル上階からの眺めに匹敵するでしょう。
この日は裁判官と秘書の方に大変お世話になり、感謝の気持ちで一杯でした。



出来れば一生、裁判とは無関係でいたいけど、我が国では2年後に
「裁判員制度」が導入されることになったんですよね。運悪ければ(良ければ?)
裁判員にならざるを得なくなるかもしれません。この件に関しては、なにかと
取りざたされていますし、私も、国って色々な制度を知らぬ間によく作るなぁ、
と、戸惑っている一人です。
キャッチフレーズの、「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します。」は
「私」でない誰かさんの作だし・・・。困った。

さて、夜は「ゆめの庵」に集合とのことで、久々振りに恵比寿にあるお店にお邪魔し、
お葉なみ会」以来の方がたとお喋りしたり飲んだりと、とっても楽しいひと時を過しました。
taiちゃんのお料理も、ワインも、Tさん持参の高級チーズも、miyuちゃんのパンも、
みんなみんなおいしかったぁ。けど、これってなんだろう、と、はてなマークのまま
口に入れてしまった、食べず嫌いの牡蠣にはビックリでした。
視力が衰えてくると何でも食べれちゃうのかしら。ちょっと恐怖う~~っ。

  ↑miyuちゃん手作りお座布団       ↑チーズの名前はナンだっけ?    ↑タイ人の東大生占師?もこの日の仲間

ただひとり、東京市民?のbiancaは、帰りの交通機関が気になって、皆さんより先に
失礼しましたが、帰り際、総立ちで拍手されて、うゎ~、どうしよう
恥ずかしい・・けど嬉しい気持ちでいっぱいになりました。
kちゃん、みなさん、ありがとう!

  

 

いや~このブログ、裁判が長丁場になり、思った以上に時間がかかっちゃったぁ。
もういい加減、真剣にショートを目指さなきゃ、新年も迎えられない、
と真面目に考えておりますです。乞うご期待。って、前にも書きましたっけね。

 

 

 

 


変わりゆく街

2007-11-06 | 飲・食・店
東京駅構内の「エキナカ」飲食店街「グランスタ」が10月25日にオープンした、ということは聞いていたが、待ち合わせのシンボル的な存在の「銀の鈴」の方へは滅多に行かないし、駅構内での買い物などは殆どしないので興味なかった。
先日、用事で旧友と会うことになり新橋駅で待ち合わせた。前回は遅刻してしまったので、一時間前に家を出たが、電車がすぐに来たので思ったより早く東京駅に着いてしまった。新橋では、早く着いても見る所もないし・・シオサイトへは遠いし・・・どうしようと考えていた時、咄嗟に思い出し、駅の中にある「エキナカ」訪問と相成る。
 

「銀の鈴」って、以前のはどんなのだったか記憶が曖昧だが、新しく出来たそれは、こんな大きな鈴で、周りはおしゃれなデパチカ風。

4代目となった銀の鈴は、直径80  センチ、重さ70キロ。銀でもなくスズでもなく、アルミ合金製で、ガラスケース内で天井からつられている。東京芸術大学の宮田亮平学長が作製、毎時0分に鈴の音のメロディーが流れる。
と、webに書かれていた通り、鈴の真ん中の帯には宮田学長の名前が印字されていた。

 銀の鈴のメロディーは又の機会にゆっくり聞くことにし、ざっと見渡して、初めて聞く名前の店を見つけ、友人にちょっとしたお菓子を購入。彼女、何でも詳しいけど、このお店ならまだ知らないかも。BUZZSEARCHですって。ばずさーち。 

Dean & Delucaやブルディガラ系列のパン屋や青山フラワーマーケットもあり、東京ステーションホテルのショップも出店している。もしや、わが町から入場券だけで買物に来れちゃうかしら? それよりか、入場券ってまだあるんだっけ?
さて、新橋は烏森方面の改札口前。私の方が先に着き一安心。ランチは駅前ビルの「小川軒カフェ」で名物オムライスにしよう、と決めていた。新橋での待ち合わせの訳は、その為だ。仕事でもほぼ月いちの割で新橋に来ていたけど、小川軒は入った事がなかった。レイズンウイッチで有名な店が、オムライスもやっていて、それも美味しいので評判だとは知らなかった


   小川軒カフェ
   住所:   港区新橋2-20-15     
                新橋駅前ビル1F
   TEL:    03-3289-1300
   営業時間;10:00~20:00
   定休日:  日・祝


 

新橋から銀座に向かい、並木通りと西五番街を蛇行しながらウィンドウショッピングを楽しんでいた時、友人が「三ツ輪」という高級和牛専門店を見つけた。こんな所に移転したんだ、と言いながらつかつかと中に入って行った。昔、銀座に来てはたまにここで買っていたという。いいご身分で。銀座で和牛をねぇ。「以前は高級、というイメージだったけど、今は買い安いお値段になったわね。」と、店の人とお喋りしながら注文していた。その日は息子さんの誕生日。お肉の包みを手に持ち更に銀座裏通りウォッチング。



一見、私の好みとは合わない雰囲気と思ったけど、銀座でこんなに静かで落ち着いた所も珍しい。誰とデートしようかしら~?と考えているうち、あんまり教えたくなくなったけど、性格的に、すぐ教えたくなっちゃう。ドリンクとエクレアのセットのほか、もう一つくらい選べたかな。メニューは少ないがカフェを飲みながらゆっくりとお話するには格好の場所。カフェのお替りが出来る、で、更にお気に入りになった。     

   ICONIC
(アイコニック) プラザバー
   住所:  中央区銀座2-4-6(並木通り)
           銀座VELVIA館 9F.
   TEL:   03-3562-7500
   営業時間:11:00~23:00(日祝~22:00)
        
                                                                                                                                                                               

シンプルなカフェの作りなので気楽に入れそうだが、メニューを見て、そうでもないかな、と思った。ランチにコーヒーが付かない。
うぅ・・コーヒー一杯600円なり!
なら、主婦は、というか、私たちは
お水で我慢。けち臭~い、といわれようと構わない。こういう事に見栄やプライドは持ち合わせていない。美味くて安いコーヒーの店はすでに友人の頭の中で描かれていたけど、私だって、別の店をちゃんと考えていた。オムライスとサービスランチの2種類を注文し分け合っていただくが、見た目、どうってことなくシンプルなのに、おいしかった!!ここはハンバーグも絶品よ、と言っていた彼女。お店の人に、サービスランチでハンバーグになる時があるかどうか尋ねていたが、数週間後にある、という情報を掴む。さすが○○さん。
 



ピンクとパープルブルーとホワイトの水玉模様がアクセントになっているここはどこでしょう?ここがぁ、私が一度入りたかった所。銀座Velvia館の中にある、「ICONIC」のプラザバー。ICONICはコンランレストランの一つ。エレベーターを降りて右がレストラン。左にあるバーは、日中カフェとして利用できる。ちょっとした大人のデートスポット風な所。




コンランショップで有名なサー・テレンス・コンランは弱冠21~22才の時にデザイン会社を設立し、ユニークなレストランを続々とオープンさせた。1983年、モダンブリティッシュという英国における新しい文化への功績を評価され、エリザベス女王からSIR(サー)の称号を授与される。デザインのみならず、実業家としての才能にもあふれ、全世界にコンランショップとレストランを展開している

お昼を早目にいただいていたので、時間的には余裕があり嬉しくなる。プラザバーで積る話しをしたあと、4~5階のBALS TOKYOでインテリア・家具・雑貨を見て回ったが、このBALS TOKYOを知ったのは偶然歩いていて出くわした中目黒店だった。そこで、4月にオープンする銀座VELVIA館の中にも入店する事を知り、オープンと同時に見に行ってきたことはブログに書いたか忘れたけど、あの時行ったからこそ、ICONICのあることを知った。家で「今日イコニックに行ってきた」と言ったら、娘に、アイコニックでしょ!と直された。以前、ケータイを買った時、「ママのは"アウ"よ。」と裏声で「アウ~」と言って、ひんしゅくを買ったのを思いだした。「ひらまつ」系列はがんばっているなぁ。

                                   


最後に寄ったのはここからほんのちょっと行ったところにある渡辺コーヒー商会。友人のお勧めだけど、コーヒー豆の輸入販売専門店の店内に小さなカウンターがある。「本日のコーヒー・ブルーマウンテン」と表に書いてあったので、じゃぁ入ってみよう、と言うことに。ホットドッグセットが450円!なので・・・それに決めた。我々のお腹は一体どうなっていたのだろう。

カウンターに座っていると、銀座にいる事を忘れてしまいそうだが、家庭的で懐かしい昭和の匂いがする。コーヒーが安い点では穴場的存在。
ホットドッグを、アルミ箔に包んでトースターで時間をかけて温めていたのでビックリしたが、それがこの店を象徴しているなぁと感じた。ここはちょうど、ニューキャッスルという、トタン屋根の廃墟寸前に見える(でも、辛いカレーで有名で、取材も多いらしい)店の前にある。

      渡辺コーヒー商会
     住所: 中央区銀座1-4-9
     TEL:  03-3567-1981

このあたりには9月にプランタン隣にマロニエゲートがオープンしたし、10月には有楽町駅前に丸井がオープン。そのおかげで一丁目周辺も少しは人出が出て来た、と、カウンター越しに店の方が話していた。どの街もひたすら建物が高層化し、以前そこがどんな風で何が有ったか、次第に思い出せなくなる。ついこの間まで、現役で自営業のやりくりをしていた友人の母親が回復の見込みのない病気で入院している。子供の頃、毎日のように遊びに行っていた、となりのMちゃんちのおばさんの顔がチラチラと浮かぶ。この日はそんな事も含めて、親の時代、私たちの現在、子供たちのこれから、と、移りゆく流れをぼんやりと浮かべながら二人でお喋りした。あの時代と現在そして今後。歴史が流れていることの実感。

  
 ◆マロニエゲート(右のピンクの建物は伊東豊雄設計のミキモト銀座2丁目)  有楽町丸井

6日の今日は大丸東京店が新しくオープンする、その前日のプレオープン招待会に、会社の帰りに寄ってきた。ご招待のはがきを受け取ったので、それでは、と、行ってみる気になったが、はがきなど見せなくても誰でも入れた。なんだぁ。

       

以前の大丸のあとはシャッターが下りていて張り紙が張ってあった。こういう光景は胸が痛くなる。新しく建つビルが次々、ツルンとしたガラスの高層ビルに変身していくのは好みではないが、「新化」(進化でない)するというのは 一にガラス化、二に明るすぎる照明と三に白い店内、ってことのようだ。一階にスィーツのショップが、それも初めて聞く名前の店舗が多く入っていた。古くからのあの店はどうなっちゃったんだろう・・?と、つい心配してしまう。靴売り場は、前の方が見やすくて良かった。デパートから高級ブランド以外のおばさんブランドがどんどん姿を消すのって、どういうこと?あの照明の下だと、おばさんの皺は隠せない。あ~ぁ、見慣れた景色が知らず知らずのうちに移ろいでいく。その変化の早い事ったら、シティギャルでも付いていけない!





11月4日5日で書いたものに大丸の一件を追記して今日のupとなりました。
なかなか自由にPCが使えない環境なもんで・・・長々となり、ご免なさ~い。