ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

花束

2006-04-27 | flower/green

 

花束が贈られてきました

夜の8時半過ぎ、「これから花束が届くそうなので受け取っておいて」との電話
その10分後には チンコーン♪ お花屋で~す
ドアを開けるとどうも見た事のある女の子だったのです
花束に貼ってあるシールをみてガッテンでした
1-2年前に、いや2-3年前かな
息子が「行徳に感じいい花屋さんを見つけたよ」
と言ったので見に行った事があったのです
そこにいた クリクリした目の女の子だということが判明!


海外からでもネットを通じて簡単に送れるのですね
メッセージまで、こちらのお花屋さんがネット上に書き込まれた元の文を
手書きにしたものが添付されていました
で、スペリングミスを見つけちゃった!

まわりを見回したってだれのお誕生日でもないし
記念日でもないし ○○祝でもないし バレンタインでも何でもない

何でもない時に時々送られてくる花束
それは・・・「愛の花束」?
ヒェ~~ッ




当日は大イタリア展に行って買ってきた「ソル・レヴァンテ」のケーキもあったりで
とまどいながらもなにやらスペシャル華やいだ夜のひと時でした


● 今ベランダで咲いている花たち と 右列は花束の中のお花 


     クリスマスローズが今頃開花  なでしこ 今年も咲いた!    トルコキキョウも同系色
     ローズマリーも花びっしり    葉が黄ばんでも君子蘭は最強  バラ・アジサイ・スプレーカーネ
     バコパも強し            何年ものかのラベンダー      ピンクッション?


  

nettonさんブログで情報ゲットした「ソルレヴァンテ」のケーキたち

 

 

 

 


チョコの味はベルリンの味

2006-04-24 | music

 

ナッツやらドライフルーツでびっしりと飾られたチョコレートを頂きました。

― どうしようかな・・・「また行ったのォ?」っていわれるからね・・。
― エッ、また何処かに行ってきたの?
― ちょっとパリまでね。
  今回はピカソ美術館と
ドラクロワ美術館、グランパレ、プティパレなど行ってきたわ。
  サンジェルマン・デ・プレにあるプチホテルに泊まったんだけど正解!
  このチョコレートも有名なジェラール・ミュロのだからおいしいと思うわ。

こんな友だちがいると、羨ましい~!を通り過ぎて言葉が出て来ましぇ~ん。
彼女は一年に何回、海外に行ってることか!パリは3回目だとか。
一つの都市だけを集中して見るのが彼女の旅のしかた。

― 今度一緒に行こうよ。biancaちゃんの行きたい所でいいわよ。
   おばさんが元気なうちにさぁ。
― 行きたいけど仕事が・・パパが・・子供が・・
- そんな事いってちゃぁいつまでも、いや、一生どこにも行けないわよ。
― じゃあ来年の春に行こう!(と、口から出まかせ)
- どこがいい?
- ベルリン!

私がそういうと彼女は目を輝かせ、
《あそこは面白い所よ いい美術館も沢山あるから案内してあげるわ》 ですってさ。
彼女にだってご主人、息子さんはいるのですが、しっかりと自立?しているようです。
というより、旅費はご自身でまかなっているし、問題ない家庭をしっかりと
築き上げたと言う事かな。 

家に帰ってきて、「ママは来年ベルリンに行ってくるからね」「費用は自分持ちでよ。」
と言ってみました。
「フ~~ン」と、パパ 「エェ~ッ、私も行きたい」と、娘。
息子は反応なし。というか、居たのか居なかったのか?
こうやって一年前から宣伝しておけば、もしかして可能性アリかしら・・。

そういえば、一週間前のNHK教育テレビで、
ベルリンフィルの「ピクニック コンサート2005」やっていましたよね。
ご覧になられた方いらっしゃるかしら?
たまたま見ていたテレビ番組欄で見つけてしまい、ほんとうに幸せな
気持ちになりました。また、サイモン・ラトルに会えるんだ~と。
いつもこれは、と思うものを見ようと思っても、うっかり忘れて
見そこなうことばかりでしたが、この日はなぜかパパが、「始まるよ~」と
知らせてくれました。
クラシックは、曲によっては5分も聴いていられない退屈なものが
(通ではない私にとっては、です)多いのですが、このコンサートは最初から最後まで
素晴らしい!という言葉以上のものでした。あ~~ぁ、今でも忘れられない。

イギリス人指揮者の率いるドイツ・ベルリンフィルによるフランス人作曲家の音楽の数々。

「動物たちの謝肉祭」では、初めて、息子が “この曲しってる!”  “ママも!”
ラヴェルの「ボレロ」なんかは、会場が暗闇に包まれ、観客がキャンドルや花火を
曲にあわせて揺らせているなかで、ゆっくりと静かに始まり、しだいに強く、熱く
盛り上がっていき、私の心のなかでも、熱風がじわじわと広がっていくのがわかりました。
クラシックコンサートに、この数の観衆!肩を寄せあう恋人、夫婦に家族連れ。
そして飲食はまったくの自由なのです!
野外コンサートの持つ魅力のすべてを最大限に発揮したコンサートだったと
断言します。

ラトルはアンコールの曲の中で、ドラムをほんのちょっと、叩きましたよ。
ジャズを愛して、打楽器を愛したラトルはホントに輝いていて素敵でした。

最後にピアノのラベック姉妹やラトルが受け取った大きな花束は惜しみなく
観客席へと放り投げられました。

毎年恒例のこのピクニックコンサートの時期(6月後半?)に合わせて行ってこよう!
               いざ、ベルリンへ   
                           
な~んちゃって。


      

   会場 ベルリン郊外、シャルロッテンブルクの森にあるヴァルトビューネにて

   演奏曲目

   ローマの謝肉祭                 ベルリオーズ
   牧神の午後                   ドビュッシー
   魔法使いの弟子                デュカス
   2台のピアノと管弦楽のための協奏曲      プーランク
   動物の謝肉祭                 サン=サーンス
   ボレロ                       ラヴェル
    ~アンコール~
   ダフニスとクロエ 組曲第2番”全員の踊り”  ラヴェル
   ベルリンの風                   パウル・リンケ

         ピアノ: マリエル・ラベック、カティア・ラベック
         指揮 : サイモン・ラトル

                     

 


 

 


お花の展示会

2006-04-19 | flower/green

 

  花は野にあるように

今年もまた行ってきました。「山村御流(ヤマムラゴリュウ)いけばな展」
毎年この時期になると、叔母からお声がかかり、お茶券と案内状をいただきます。
叔母のお友だちが出展しているから、ということで見に行くようになって何年にもなります。
でも入場無料なんですよ。お抹茶券は受付で購入できます。
お声が掛からないと、それがあることすら忘れてしまうので、有難い事だと思い、
今回も母と一緒に行きました。
いつも終わってからのブログアップで、ご興味おありの方には申し訳ございませんです!

   

          
 
   

初めて見に行った時はびっくりしました。だって、こんなの、どうして生け花なの?
数本を挿すだけなら、だれだって出来るじゃん。
特に家元の作品なんて、その中でも特別小っちゃくてど~ってことないんですもの。

何回か回数を重ねて見ていくうちに、その美しいつつましやかな花が、
清楚で、凛として、気持ちよさそうにさえ思えてみえてきました。

山村御流は、奈良の円照寺(尼寺)が、後水尾天皇の第一皇女・文智女王に
よって開山されて以来、今日に至るまで、表題の「花は野にあるように」という御心を
核にして、連綿と伝えられている生け花だったのです。

私にとって嬉しい事は、お花の名前が全部記されている事。
そして、バラエティーに富んだ花器が楽しめる事でした。
          
先月は、同じ会場で、「いけばな小原流」展を開催していましたので、
やはり母を誘って行って参りましたが、会場に入って5分もしないうちに
母は出口を捜しました。具合が悪くなったのかしら・・と心配になりましたが、
それぞれの作品すべてがスポットライトを浴びていて、見ている側の目が
おかしくなってしまったのです。そういえば、同じデジカメで写したのに、
色が違いますネェ。ライトの種類なのでしょうか。

 

この展覧会は、小原豊雲生誕100年とのことで、全国各地の小原流派が
勢ぞろいして華々しくお披露目をした、という感でした。
まるで舞台装置の一部のような、又はホテルや大手の店舗の
ディスプレーに使われるようなダイナミックな作品の数々。
これはこれで、私には興味深かったのですが、お連れがねぇ・・・。
ライトの下で、お花の本当の色が今ひとつわからず、私も目が疲れました。
この日は、これらの作品だけカメラに収めて、早々に引き上げました。

            

 (以上4点は小原流展より)

 

8階の反対側では、九州物産展が開催されていました。
なぜか嬉しいんですよね、物産展って。
色々とつまみながら、かたいお財布の紐をほどいたのはいつものごとく手ごろなもの。
大宰府名物「梅ヶ枝餅」・・・以前、Y-maさんからお土産にいただいたのと同じ品。
(Y-maさん、その節はご馳走様でした!)
そして、青味がかった新鮮な「切干大根」とかぐら里食品の「ゆずポン酢」。
切干大根を4-50分水で戻して、固く絞って柚子ポン酢をかけるだけ。
コリコリと手軽なタクワンって風でしたね。うん、こりゃいける。
畑のものが好きなbiancaの食生活は、美味しくて安上がり。



 

 


ロダンとカリエール

2006-04-16 | art/exhibit/museum

この展覧会を知ったのは、昨秋プーシキン展に行った時。
カリエールの絵に魅せられて会場を出た所で偶然、パンフレットを見つけたのです。
それ以来、ずっと楽しみにしていたのですが、今週やっと国立西洋美術館まで行って
来ました。それにしてもこの美術館、入ったところにすでにロダンの「カレーの市民」像、
右に「地獄の門」、左奥に「考える人」と、ロダン尽くしなのです。

1840年生まれのロダンと1849年生まれのカリエールは、カリエールが57才で亡なる
までの20年以上もの間 、お互いに最も親しい友人として尊敬し合い親交を深めました。
1900年、パリ万博の時の「ロダン展」のカタログの表紙のデザインや序文をカリエールが
手掛け、ロダンはカリエールが亡くなった時、彼の「デスマスク」と「結んだ手」を石膏で
型取りすることを遺族に依頼したのです。(今回、これらの作品を目にすることが出来ます)

この展覧会は、作品を年代順に追うのではなく、二人の間にある共通点をテーマごとに
並置してあり、特にカリエールは、個人的な展覧会としては日本初デビューですので
私にとって、とても興味深いものでした。ただ、それぞれの作家の代表作と言われる
作品がが欠けた点が残念、と言えば残念でしたが、それほど詳しくない私にとっては
充分すぎるほどでした。

 
 瞑想(カリエール婦人)               回復   

右側はロダンの〈愛人〉だった若き彫刻家、カミーユ・クローデルです。 

彼女の事を去年の11月の朝日新聞、[愛の旅人]の特集記事で知り、ショックを
受けました。1346年の英仏百年戦争での悲劇の6人の群像「カレーの市民」。
(この悲劇的な話もとってもショックでした!)
この群像を頼まれたとき、カミーユが助手として手と足を担当し、それをロダンが
仕上げたそうです。当時は手足は弟子のする仕事だったと言います。制作に10年
以上かかり、除幕式が遅れたのは2人のあいだで別れ話があったからのようでした。
カミーユの情熱、そして絶望。それは彼女の作品「ラージュ・ミュール(熟年)」に
表れます。老女(ロダンの長年の妻)に腕を引かれて去っていく男に、女が悲しみ
いっぱいに手を伸ばしている作品です。1893年ころの習作では男と繋がっていた手が、
98年の完成作では離れたのです。その作品の一部「嘆願する女」を見て、ロダンは
動けなくなりブロンズを撫でながら泣いていたのです。カミーユはその後、ロダンへの
脅迫観念と貧困に苦しみ、孤立していき、父親が亡くなった8日後に精神病院に
収容された。と、そこに書いてありました。なんで・・・・そうなるの?
又、カミーユの愛した弟、ポール・クローデルは詩人でもあり外交官でもあったそうで、
1921年から6年間のあいだ、駐日大使を務めたとのことでびっくりでした。
「カミーユ・クローデル」 映画化されていたのですね。知っていましたか?

横道に反れましたが、ロダンの作品の中に出てくる女性が皆、カミーユに思えて
なりません。なかでも「永遠の偶像」の生命力を、一時期ロダンの秘書を勤めた事の
ある!ライナー・マリア・リルケが、「美しい文章で綴っている」ので、今度その本を
探してみましょう。
ロダンは若きカミーユから、彼女へ与えたものよりも多くの〈創造力〉を吸収したに違い
ありません。
彼女と別れてからのロダンの作品にはとくに優れたものがなかった、というのですから。

 
最後の幻影                                        カミーユ・クローデル

カリエールの絵はすべてが暗褐色系統の僅かな色彩で、
輪郭の曖昧な中に幻影のように人物が浮かんで見えます。
母性を感じさせる幻想的な絵を多く描いていますが、肖像画や
自画像も沢山ありました。肖像画では「男であろうと、女であろうと、自分が
好きではないあるいは評価しない相手の肖像画は制作しなかった」ようです。
今回の展覧会は、カリエールがロダンを食ってしまったみたいです。
それだけ私には魅力的。でも一緒に行った友人は、
「すごくいいけど、暗いねぇ~。1度見ればいいかな。」
私はと言えば、「もう一度見に行きたい、今度は一人で!」

     

《カリエールもまた彫刻家なのだ!》  
ロダン自身がそう言っているように、彫刻、絵画等という技法の枠をこえて、
ロダンはカリエールの芸術に対して、自分との共通点を多く見出していたと言います。

    両者の作品において、形を通して表現されるのは、
    対象の外見ではなく、その内側にあるもの
    ―それらはしばしば「真実」や「内なる生」、「魂」などと呼ばれた―
    であるという言及、さらにはロダンとカリエールが繰り返し詩人に
    例えられたことなどは、その奥にヴェルレーヌやマラルメが書いたような
    象徴主義の定義が働いていた事を示している。
         
 (「ロダンとカリエールにおける象徴主義」よりの抜粋)

企画展の後、常設展をさっと見て回り、懐かしき“松方コレクション”の絵たちと
久しぶりに会って来ました。私が若き頃、最初にモネの睡蓮の絵を見て
感動した場所が、此処だったのです。今でもとても落ち着く場所です。


 

遅い時間の昼食処です。 駅からすぐの「緑の相談所」(でしたっけ?)
のあった建物の食堂で、〈大和芋の山かけうどん〉650円也。


 
 

 

    

 

 


お葉なみかい

2006-04-11 | weblog

「夜桜を見ながら飲もう会」に誘われました。
土曜日、午後6時 永福町に集合。
駅に集まったのはkimiちゃん夫妻 と、その友だちの合計8名。
私にとって、ご夫婦以外はなんと初対面でした。
駅前で飲物を買い、皆でぞろぞろと15分ほど歩いたころ
miyuちゃんのお家に着きました。
この家の前に神田川が流れ、その側の桜が見事な筈でしたが
今宵は「お花見会」ならず、ライトアップなしの「お葉なみかい!」

 ・・  ・・  ・・  ・・  ・・ 

miyuちゃんは中華風というのでしょうか、美味しそうな手料理を
用意して皆を出迎えて下さいました。
8畳の和室にテーブル代わりに布を敷き、上のようにお料理が並びました。

レタスにビーフン揚げを載せて、その上に色々な具入りの
ミートソースのようなものをかけ、香味野菜を加えて
包んでいただきます。
お手製餃子は、ア~ッ!と思ったときにはご覧のようなケーキ状の塊に!
これもご愛嬌ですね。

冷奴やアボガド入り具沢山のサラダ、鶏肉のおもしろ胡麻焼き(?)、
kimiちゃん差し入れの、ホーレンソウやジャガイモなど、これ又具沢山のキッシュ。
その他まだまだ色々なおいしいものがありましたよ。
出来立てあつあつのチーズのリゾットも最後にご登場。これがまた旨いこと。
私はというと、きゅうりとセロリとカブの特製漬物を持参。エッヘン!
~エバラの即席漬けの素よ、お役目ありがと!~

お飲物はビールに白ワイン、紅ワイン、そして紹興酒。

 

そして極めつけは、taiちゃんが持参のお茶籠で、
美味しいお茶をたてて下さったことです。
お菓子はkimiちゃんお手製の道明寺と、
miyuちゃんのお好みだという、岩手はどこそこの栗羊羹。
器は、茶碗もお皿も殆どがmiyuちゃん手づくりなんですって。

  

テレビなしのこのおうちの住人は、miyuさんの他に
人間の言葉がわかる?くん。



古い桐箪笥と、懐かしい音楽が、住人の個性を表します。
ザ・バーズやザ・フー、ボブ・ディランやマリアンヌ・フェイスフル
エ~~ッ!
こんなに若い彼女がどうして知っているのだろう・・・と
ビックリ仰天でした。

この日のメンバーは、20代前半から30、40代
そして50代までと親子くらいの幅の広さでしたが、
なんと言ったらいいのか不思議な気持ち!
みんなが同期の桜に見えたのは私一人だったのかしら。

ホントにたくさんの若いエネルギーを頂戴して来ました~。

おいしい一日をありがとう




 

 




 

 


ベルリンフィルと子供たち

2006-04-07 | cinema

 

「今ツタヤに返しに行くんだけど、ママ、みたいなら見ていいよ。」
そう言われてケースから出したのが、2004年に封切られたドイツの
ドキュメンタリー映画 
「ベルリンフィルと子供たち」
タイトル名
は知っていたし、よさそうな予感もしたので、私が見た後、
明朝の開店前までにツタヤのポストに返却する、ということになった。

“子供たちに、もっとクラシックの楽しさを感じてもらいたい” と
ベルリンフィル芸術監督に就任したサイモン・ラトルが最も力を入れて
いた「教育プログラム」の中の活動の一つ「ダンス・プロジェクト」。
そこに集められたのが、ベルリン在住の、国や文化、年齢、育った環境も
まちまちで、ダンスどころか、クラシック音楽にも全く縁もゆかりもない、
どちらかというと無気力な250人の子供たちだ。
6週間という決められた期間での特訓後、ベルリン・アリーナに於いて、
ベルリンフィル
との共演で、ストラヴィンスキーの《春の祭典》を踊る、という
一大プロジェクトを、サイモン・ラトルや振り付け師である、
ロイストン・マルドゥームスザンナ・ブロウトン
そして、何人かの子供たちへのインタヴューを交えて映画は進んでいく。

まず映画の始まりが、軽快なラップ風の音楽だったので、これがベルリンフィルと
どう繋がっていくのだろう・・・と、がぜん興味が湧いてきた。
すっかりストーリーの中に入りこんでしまったころ
、ふと後ろをふり返ると
いないはずの娘も、そこで惹き付けられたかのように、また見ているではないか!

♪・・・♪・・・♪・・・♪・・・♪・・・♪   

   
   音楽にはもっともっと可能性がある
   人々を分断するのではなくて、一つにすることだ (ラトル)

    
      エネルギーを口から出してはいけない
      子供たちは社会の底辺で生きている子 自信のない子
      まだ怖がっている 不安なんだ

   不安な子ほどおしゃべりする
   真剣にならずに笑っているのは、不安があるからなのだ
   親の無関心・・・自分たちもそのように育ったから
   彼らはその人生体験から、素直じゃない

      すべてを吐き出すと視野も開けてくる
      ダンスは、自分の体を意識することだ
      「沈黙の力」を理解させるのが難しかった
   
   世の中の静寂や 肉体の声に耳を澄ますこと
   一つのミスで20人の努力が無駄になるんだ
   人生には規律というものが必要だ
          
             ♪・・・♪・・・♪

ロイストンは4歳の時に母親を亡くしている。決して大人を信用しなかった。
10代の頃は一人ぽっち。マーゴ・フォンテーンの映画を見て、感動し
48時間以内にバレー学校に申し込みに駆けつけたという。
だから淋しくて屈折した子どもたちの心が読める。
だからどうしても子供たちにやる気を起こさせ、感動を知ってもらいたいのだ。
根気よく、自分の気持ちをさらけ出して子供に接する姿はなんとも 気高い。
   
   友だちとは きみが新しいことに挑んでいる時 励ましてくれる人だ

             ♪・・・♪・・・♪

やる気のないどうしようもない子どもたちが、ばからしい!もうやめる!
といいながらも指導者たちの熱意に少~しずつ影響されていく。
そして時が経つにつれて、こう言い出す子も現れる。

   「厳しいほうがいいわ 真剣さがわかるから」 

19才のマルティンは、人に触るのが嫌いな、物事を否定的に考える子
   「自分は顔がいつもこわばり、自己防衛的だった
   が、今、ぼくの中でなにかが変わって来ている」

ナイジェリア紛争で家族をすべて失ったという16才のオイランカ
   「このダンスの授業で人生も変えられる
    今ぼくが一人なのは神の意思だ。だからがんばらなくちゃ」
    


             ♪・・・♪・・・♪ 

   子供たちは無駄口を利かなくなった 
   自分が前に進む為に必要な感覚がわかってきたようだ

      芸術はぜいたく品ではなく、必需品だ

   出来る子は既存の知識を知っているだけ
   アウトサイダー気味の子のほうが伸びる
   
      何するにも旅をして行き先に満足するな
      自分の限界に甘んじるのは楽だ
      限界を超える努力はいつも孤独よ

             ♪・・・♪・・・♪

教育現場やインタヴューの中での、心を打つこれらの発言。
その言葉以上に彼らの真剣な表情や口ぶり、教育実践者としての
忍耐力。すべてにすっかり参ってしまいました。

嗚呼、わたしのサイモン・ラトルよ! 
               ロイストンよ! 
                  & マルティン君! 
        
 
そして 嗚呼わが娘よ! 
danke schon♪ ダーリン danke schon

娘と2人、「このDVD、買いたいね~」と意見が一致した今宵でした。

  

 <CD/SACDに収録されている映画の一場面のラトルのスピーチ>
「おはよう、1分だけ話をしよう。今回の試みは信じられないほどすばらしいものだ。子供だけのダンス・カンパニー、年齢も8歳から20代初めと幅広い。人数は全部で250人。できる限りさまざまな社会的階層から集めた、性別もさまざまで3種類、あらゆる背景の子たちが集まった。年齢も8歳から20代なら、出身もイラクにイランにロシアにギリシャ。ドイツでも東ベルリンと西ベルリン、敵同士だったかもしれない子供たちだ。私は今までいろいろな“春の祭典”の舞台を見てきたがこんなのは初めてだ。かつてない新しい試みだし、我々皆で出来ることをうれしく思う。大きな挑戦だ。楽しみにして演奏に入ろう」 ― 映画「ベルリン・フィルと子どもたち」より


 

 


さくらさくら

2006-04-02 | visit/drive

 
★東京の辰巳公園

 

 「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」 親鸞上人

 「願わくは花の下にて我死なんその如月の望月の頃」  西行法師

 「散る桜残る桜も散る桜」  良寛


桜のこの時期になると、決まって父母が口にしていたこれらの歌や句が懐かしくなるのです。



きょうは家の近くの「アトレ」のリニューアルオープンの日。
お楽しみの新店舗が多数出店するとかで、昨日からワクワクでした。
でも「象彦」からの案内では、きょうが最終日。
ここに行けば帰りは千鳥が淵へ桜見物にいけるし・・・。
「レナウンルック」のセールも本日までです。
そのそばを流れる目黒川沿いの桜が素晴らしいし・・・。

洗濯をしながら、どうしようかなぁ、美容院にも行きたいし、たまには
お掃除もちゃんとしなきゃなぁ・・・と、一人で考えている所に
横浜の弟からの電話。
「お母さんを連れて桜でも見に来ない?」

私は東京生まれの東京育ちですが、学生時代も終わりに近づいた頃、
横浜に引越しをし、南米に行くまでの5年間を“浜っ子”として過しました。
今でもその家は残っていて、姉たちが住み、その後は弟の家族が
引き継いで住んでいます。

お昼すぎ、やっと母と連絡が取れ、姉もわが娘も同行し、女4人で
横浜の家まで桜見物に出発。  
      


★サクラの木とサルスベリ       ★明日葉とふき               ★これは姫林檎の木?
    
★水仙                
★柴犬のだいちゃん
    

ここはもともと西武の土地で、引っ越す前は山でした。
すぐ近くには、6月いっぱいで閉鎖に追い込まれた横浜プリンスホテル。
新聞、雑誌で散々書き捲られたのでこの件に関しては書きたくもありません。
(って言うか、知識不足デス。
歴史あるものがつまらないことでいとも簡単に消滅し、跡地にマンションが
建ってしまうのです。金! 金! 金! 金に換えろ~~!と叫び、
あれよ~と言う間に、薄っぺらな何処も彼処も似たり寄ったりの、
文化もへったくれもないような国になっていくのでしょうか。寂しいなぁ・・・。

実家の庭は父の趣味で(?)手入れもされていないそのままの状態です。
その昔、引っ越し祝いに頂いた大きな石や灯篭も、トラックから降ろされて
お庭の真ん中にドンと置かれた状態のまま。
その周りを雑草がはびこり、秋にはすすきヶ原と化します。その頃飼っていた
アイヌ犬のジローとマリはよろこんで、石から石へ飛び回っていました。
ってより、私が飛び跳ね、犬たちがまねして追っかけて来たってことかな。
でもみんな、こんな庭を結構気に入っていたんですよね。
「ジロー!」って呼ぶと、左隣の同名のおじさんがくしゃみをし、
「ヒロシ~!」と(この家に住んでいた甥っ子の名)呼ぶと、右隣のYさんが
「はい、はい。」と返事をしている、とその奥様から聞かされましたよ。

ちょうど庭の白いサクラの木が一本、大きく育って満開でした。
私の住んでいた頃はお庭から海やJR根岸線の線路が見えましたが
いまはすっかり建物が増えてしまい、辛うじて隙間から見える程度です。

横浜プリンスホテルに向かう坂道はこんなに素晴らしい桜並木でした。
その昔、私が住んでいた頃のホテルは小じんまりした3階建。
そのまん前に海を見渡せる広い芝生のホテルのお庭があり、
そこに姉たちの子供の小さい頃には
、学校の歩き遠足で来てはお弁当を
広げたとか。のどかな時代だったのですね。



★プリンスホテルへ続く坂道

  
★ホテルの2階より階下を見下ろす   ★ラウンジ もみじ         ★来賓館
 
このホテルが解体されてしまうとは 何たる事! もぅ~絶句。
実家の帰り道、ラウンジでコーヒーを頂いてから帰路に向かいました。
6月までに又お別れにやって来ますからね。



       
* ちょっと長い 蛇足 です * 

  横浜プリンスホテルの解体がどうしても、腑に落ちず、建物は古くないのに、
  再利用されずに跡形もなく壊されるということは、どう理解したらいいんだろう。
  ・・・もちろん営業上、(金銭上)止むを終えずなのだろうが・・・と、
  ない頭で考えていましたら、
  きょう、(4月3日)の朝日新聞に、藤原正彦さんの(談)が載っていました。

  彼は、私が愛読した、「アラスカ物語」の著者である新田次郎と、藤原ていの
  次男だと、今さっき、藤原氏の本は全部読んだという、うちのパパから聞いたばかり。
  そして、これなんだ、私が感じているのは!と、嬉しくなりました。
  著書「国家の品格」が100万部数を越えたのはどうでもいいけど、彼は談の中で
  次のように語っています。(以下、“きょうの論点”より)


   バブル崩壊後、日本では政府ばかりか国民までもが「経済を回復させるためなら
  何をしてもいい」と考えるようになった。貧しい者や弱者、地方が泣かされるという、
  非情な格差社会が日本にも生まれた。会社は社員のものでなく、株主のものとなり、
  禁じ手だったリストラも平気でされるようになった。
  この勢いは経済の領域を超え、社会全体に拝金主義や「勝ち馬に乗れ」といった
  風潮を蔓延させつつある。利害や損得によって自分の信条を曲げるのは本来最も
  恥ずべきことだったはずだ。
   さらに、日本人の繊細な感性を育んできた日本の美しい自然や田園も、開発と言う
  名の破壊を受けて見るかげもなく、子どもたちの教育も混乱を極めている。
        中略
   「愛国心」という言葉には、、二つの異質なものが含まれている。
  その一つが「ナショナリズム(国益主義)」。これは、自分の国さえよければ他国は
  どうでもいいという、戦争につながりやすい危険な考え方であり、私は「不
潔な思想」  
  と呼んでいる。
   もう一つが「祖国愛」(パトリオティズム)だ。自分の生まれた国の自然や文化、
  伝統、情緒といったものをこよなく愛する考え方。祖国を愛する気持ちが深ければ
  深いほど、相手の同様の祖国愛もよくわかる。こうした祖国愛を大切にしながら、
  「惻隠」という美しい情緒を、論理や合理に凝り固まった世界に広めることが日本の
  果たすべき役割なのだ。

   ★ここに抜粋を載せるのは著作権に引っかかるかどうかよく判りませんが、
    本当は全文、どこかweb上で見つけたらリンク付けできたのに、と思いました。