ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

アリベデルチ トリノ

2006-02-27 | weblog

 

夕食後、突然パパが ハーブ・アルパーツ・ティファナブラスの「蜜の味」をかけ始めました。おっ、久しぶり。でもどうしちゃったの、パパ?
パパッ、パパパッ、パパパ~~ッパ~ァ♪とつい口ずさんでしまいます。こっちの気分が乗ったところで、なぜか今度は
アンドレア・ボチェッリのCDにすり替え、「トゥーランドット」をさらに大きな音でかけ始めたのです。

  Nessun dorma!                  何人も眠ってはならぬ、         
  Nessun dorma!           何人も眠ってはならぬか!
  Tu pur, o Princepessa      やはりあなた自身も、姫よ!
   nella tua fredda stanza      あなたの冷たい部屋で
  guardi le sstelle・・・・        星をご覧であろう・・・・

ボチェッリは、彼のお気に入りで、よくかけているので私も曲名も知らずにハモったり(唸ったり?)していますが、私たちの交わしている会話によって、彼はそれに合うBGMを探してはかける、というか、聴かせるのがお好きなよう。

「トゥーランドット」は女子フィギュアスケートの金メダリスト、荒川静香選手の演技で一躍その歌劇のストーリーを日本全国に知らしめましたが、私にとって、「トゥーランドット」といえば、アークヒルズにあるチャイニーズレストラン。世代の違う若~い従弟のウェディングパーティーがそこで行われたので、忘れはしません。アークヒルズの駐車場から一階に入ると広々した吹き抜けの場所にスターバックスがありますそこからコーヒーの香りが満ち溢れて、とても好感の持てる場所だな、というのがファースト インプレッション。

トリノ冬季五輪も、やっと日本が金メダルを一つ獲得して、その興奮冷め遣らぬ中で幕を閉じました。メダルなど、とっても取らなくてもどっちでもいいや、と思っていたのですが、しなやかで華麗な演技と喜びいっぱいの受賞者の表情を見ているうちに、よかったなぁ~!と熱い気持ちになりました。「イナバウアー」すごーくかっこいい。
メダルに関係ない選手たち、例えばフォンターナ選手なんか実に楽しそうで、そういう心の余裕って、見ていて気持ちがいい。“オリンピック” はこうでなくちゃね。
今回の冬季五輪はニュース程度でしか見ていなかったので全体の様子はイマイチわかりません。
ただ、私が中二の時に初めて英語で文通を始めた相手が、トリノに住んでいたイタリア人のLUCIANA(ルチャーナ)でしたので、今回のトリノ冬季五輪は気持ちの上ではチョッと特別でした。
彼女は結婚後ミラノに移りましたが、文通は私がブラジルに行っていた間も続き、やっとこさの拙い英文で手紙を送ると、便箋の裏表にびっしりと、何枚も書いてよこしたものです。お互い結婚して、子育てをして、話題が込み入ってきて、私の英語力では書きたいことが書けなくなった頃から(私のせいで)クリスマスカードの交換だけになって今日に至っています。
LUCIANAはミラノの高校で英語の先生をしているから、太刀打ちできないのは仕方ないとしても、勉強をしないと進歩ってしないものですね。

この五輪がきっかけで、いつもカードに「あなたからの手紙、いつになったら届くことやら。待ちくたびれたわ」と書いてくる彼女と、再度文通できるようになるかしら?
  いや、だめだ~!

さてと、次回は4年後のバンクーバー大会。
私はいったいいくつになるやら、トホホ・・・


 


パウル・クレー展

2006-02-25 | art/exhibit/museum

《芸術とは目に見えるものの再現ではなく 見えるようにすることである》  パウル・クレー

   
  「ピラミッド」1932年 

友人に誘われて大丸ミュージアムまで、パウル・クレー展を観に行ってきました。
今回の展覧会は、昨年6月に完成したパウル・クレーセンターの開館を記念しての特別展。このセンターは、大雑把に言えばベルンの外科医ミュラー博士が建物を提供し、クレーの孫の代になる遺族が作品を提供、更に国民投票によって、今後、センターの運営への多額の公費の使用も承認されたというのです。
ミュラー博士はこの設計をイタリア人のレンゾ・ピアノに指名。場所も、クレーの住んでいたベルン郊外を指定しました。ベルン市民の情熱に支持されてこのようなセンターが出来上がるとは、なんてステキな国なんでしょう。
(レンゾ・ピアノは、ポンピドーセンターや関西国際空港の設計を手掛けた方です)
また、昨年はアインシュタインが1905年にベルン市に移住して相対性理論を完成させてから
ちょうど100年目にあたり、同市では大規模なイベントが同時に2つも開催されたということになります。それにしてもこの2人、1879年という同じ年に生まれ、同時代にベルンの街中を歩いていたのだと想像すると、なんだかゾクゾクして来ます。

  
  
「情熱の庭」

彼の持つ独特の色合いとシンプルな抽象画は、学生の頃、シャガールの絵と共に、一度見ただけで心の中に残り、K書店の横浜営業所でちょっとばかり営業アシスタントをしていたとき、2割引で購入できる特典があったので、大判の美術全集の中からシャガールとモネ、そしてクレーの3冊を選んで購入したものです。一見、子供でも描けそうな、線と色彩で作り上げ た絵画は濃厚な油彩と違い、グラフィックデザインの要素を多く持っているように見受けられました。 色彩はどれも押さえ気味の、どちらかといえば日本人好みかもしれません。

    
 「目に見えるものをそのまま画面に写しとるのではなく、
        内面にあるイメージと、 どのように折り合いをつけるべきか」 

クレーは生来、研究心旺盛で、あらゆる素材や画材、技法を駆使して自己の表現力を探り続け、 その芸術性を高めていきました。彼の作品の中には何を使ってどのように描いたものか、長い間不明のものも沢山あったといいます。あるプロセスを越えて、目標に達してしまうと、さらに次への創造への探求が始まり、彼の創造への探究心は留まることを知りません。

     「重要なのは〈存在する〉ことではなくて 〈存在へ至る〉過程の方である。」

と言っているように、作品そのものよりも、プロセスに身も心も熱中したようです。

しかし、画家としてのクレーしか知らなかった私は、彼が、高校を卒業する頃に、音楽家になるべきか、画家の道を選ぶべきか相当迷ったということを知り、 吃驚しました。というのも彼の父親は音楽教師、母はオペラ歌手ということで、家庭は常に音楽に溢れていたのだそうです。幼少の頃から習っていたヴァイオリンで頭角を現し、11才の時にすでに、ベルンのオーケストラに籍を置くまでになったのです。

そうなんだ。彼の絵を見ていると、それはあるときは音楽のようで、また、ある時は詩そのもの。

神奈川県立近代美術館の水沢 勉氏が、“恥ずかしがり屋の「謎」” というタイトルで、私が何となく感じた思いに似たようなことを実に上手く表現しています。

   「
・・・・・・・展覧会会場で観るクレーは、いつでも余所行きの顔をしている。
   遠くからみえてしまうことは、 クレーの作品の場合、余りアドヴァンテージには
   ならない。それが立派な美術館であればあるほど、この繊細敏捷な小動物は、
   ますます身を強張らせ、小さくなってしまうのだ。パリのポンピドゥーセンターや、
   ニューヨークのメトロポリタン美術館に並んでいるクレーは、まさに「借りてきた猫
   であったに違いないと思う。 小さな美術館での予期せぬ出会い、不意打ち、
   こそが、クレーとの出会いにはうってつけではなかろうか。
   ・・・・・・・
   若き日の「クレーの日記」を読んでもわかるように、クレーはまれにみる読書家で
   あり、またヴァイオリンの 名手でもあり、いつも書物と楽譜とともに暮らすひとであった。
   ・・・・・・・
   クレーの絵画は、あたかも 書物のようではなかろうか。それは手に取り、
   その温もりのなかで、暖められるべき性質のものなのでは なかろうか。
   ・・・・・・・・
   クレーの恥かしがり屋の「謎」も、書物のように受けとめるとき、そのヴェールを
   少しだけわたしたちにそっと脱いでくれるのである。」

クレーの作品の横には彼の日記よりの抜粋文や詩が紹介されています。読んでは観て、観ては読んでいるうちに、彼が画家であり、そして音楽家でもあり、さらには詩人であったのだ、と確信してきます。

                  
ぼくたちが形あるものを観察するのは
              芸術の表現のためであり
           
そこに、ぼくたちは自身の魂をも
        のぞき込むことが出来る。
    哲学と人はいうが、たしかに哲学には
        芸術に似通ったものがある。
            はじめは哲学がどれほど魂を
                観察できるかを知って
                    ぼくは驚いたものだ。
                                                                                                                                                                                                             
                   ▲   
   ▲   

                  
ぼくは
             手を休める。ぼくのなかで
          奥深く、優しくわきおこる思いがある。
     ぼくはそれを感じる。苦労もなく自信に満ちあふれた何かを。
 色彩がぼくをとらえたのだ。ぼくの方から追いかける必要もない。色彩がいつ
      でもぼくをとらえるだろう。これが幸福というものだ。色彩と
          ぼくはひとつになった。ぼくは絵描きなのだ。

                  ▲      ▲ 
           
     創造とは、作品の目に見える表情の陰で作用する生成のことである。
         知的な人間はみな、それが起こった後になって知るが、
              創造的な者は前もって知っている。



    
彼が総合工芸学校バウハウスで教鞭を執っていた頃に書かれたというクレーの日記文を読みながら、ミュージアムの中を行きつ戻りつしていましたが、そんな中で わたしの興味を引いたものの一つに、「文字絵」がありました。 これは一つの試みとして、文字を描き込み、それに彩色したもので、言葉と絵画を直接結びつけた作品です。下の文字絵は、中国の王僧孺の詩のドイツ語訳をテキストにした絵です。小さな絵ですが、素敵だと思いませんか?

     
       ・・・ああ、私の苦悩をさらに苦くするもの、それは君が私の心を予感だにしないこと・・・

彼について、ちょっと触れて知り得たことだけでも書きたいことが頭の中いっぱいに広がってしまいました。
健忘がちな頭の中を整理するのにブログは打って付けなので、読んでくださる側の大変さも考えずに(ご免なさい!)つい打ちまくってしまいますが、まだまだ書きたりない気分。パソコンの不調もあり遅れた分、早くアップをしないと新鮮さが失われるようなのでこの辺りで・・。ふぅ。。

★この展覧会の最終日は2月28日です。また、佐倉市にある川村記念美術館でも6月24日からパウル・クレー「創造の物語」展を開催するようです。ちょっと遠いけど私の好きな美術館の一つです。

      ■                    ■

いつものように、展覧会の後のお楽しみは友人とのランチタイム。
今回は友人の娘さんの勤め先のある東京ビル(TOKIA)に、娘さんお勧めのお店があるとの事でそこに決まり。
TOKIAは東京中央郵便局と東京国際フォーラムの間にあり、線路を行き来する電車を眺めながら、3階にある自然食彩ビュッフェ「食彩健美 野の葡萄」で、野菜たっぷりの食材の数々を頂きました。ランチが一律1600円で、時間制限1時間半です。

2階には線路側に向けて、休憩のできるゆったりした赤いイスが5ツほど置いてあります。
ずべてふさがっていたので、3階のベンチで様子を見ていましたが皆イスにへばりついて、ちっとも空きができませんでした。


 
                    
                         うわ~欲張ってるゥ~!きもワリィ~! 
  
     

 


ニコライ堂と御茶ノ水界隈

2006-02-19 | visit/drive

  

 父の伯母が亡くなって四分の一世紀が過ぎました。
子供の頃、駒場東大前にあるそのお宅に遊びに行くのがとても楽しみでした。
私のもっと幼少の頃の一時期、別の地区ではありましたが、同じ屋根の下で過した事があります。
襖一枚の向こうとこっち
で2家族が生活してましたので、好奇心旺盛な小さなbiancaは、その襖を開けるのが楽しくてしょうがありません
。ある時、いつものように中を覗きたくて、がらっと襖を開けたら、そこには四つんばいの虎になった伯父さんがいて、「グヮオ~~~!」と、叫びながら向かってきたのです。よほどおどろいたのでしょう、今だにその光景が瞼に浮かんできます。
その伯父さんは、満百歳まで、豪快に笑い、ボケもせず、杖も使わず、亡くなる数ヶ月前までゴルフ場に足を運んでいました。ちょうど3年前のことです。風邪をこじらせ、あっという間に肺炎で亡くなってしまった伯父さんの遺灰は逗子マリーナから船で沖合いの海中に散骨されました。

伯母は、その伯父さんの奥さん。たまに遊びにいくと、手づくりの洋食にデザート、そして必ず紅茶を入れて下さいました。今の時代なら取り立てて言うこともないでしょうが、あの時代、フローリングの居間にソファ、肘掛け椅子にレース編みのカバー、芝生のお庭では、育てているバラが満開・・・と言うお宅はそう多くはなかった気がします。しかし生活は質素そのものでした。伯父の描いた油絵が壁に掛かり、自家製の肥しで!お庭の植物を育て、お二人で芝を刈ります。花柄の食器類はどれも年季の入ったもの。大切に使っていらっしゃる様子が子供の目でもわかりました。
クリスチャンの家庭で育った伯母は私たちを集めては、キリストの紙芝居をお話しながら見せて下さいました。
「良きサマリア人」と、あとなんだっけ・・・。人を表向きだけで決めちゃだめなんだよ、って、その紙芝居の影響で、小さい心は正義感でいっぱいになったものです。チンコーンと、ベルを鳴らして訪れる、ぼろを纏った人はもしかしたらイエス様。
クリスチャンでなくても、そうかもしれないなぁ・・と思ってしまいました。
今だったらどうでしょう?人を見たら泥棒と思え・・・のような時代って、本当の豊かさとはかけ離れていますよね。

伯母が亡くなってこの16日がちょうど25年目。私の仕事のお休みの日に合わせて親戚の女性4人で
ニコライ堂まで初めてお参りに行って来ました。

  御堂の入口

 上階に上る途中の階段より

ニコライ堂の正式名は「東京復活大聖堂」。
1861年に函館府の領事館司祭として、25歳の時日本に正教会の布教にやって来たロシア人、聖ニコライにより建てられました。関東大震災により、大聖堂の中にあったものは、ハリストス(キリスト)の聖像を除いてすべて焼失。今ある聖像(イコン)は震災後の修復後に安置されたそうです。

大聖堂の入口を入って左側の部屋に入り、上階まで階段を上っていくと、そこに鍵のかかった部屋があります。付いて来て下さった、とてもご親切な教会の女性の方が開けてくださると、その中はロッカールームそのもの。伯母の名前が書かれたロッカーの鍵を開けていただき、やっと何十年ぶりかで、分骨され小さな袋に入ってしまった伯母と対面することが出来ました。


お参りを終え、教会の独特な雰囲気の漂う中庭を歩きながら駐車場まで。
(私は運転手として駆り出されたようですヮ!)
そこから歩いても数分の
山の上ホテルでお昼をいただくことに決定。簡単にランチセットをいただけるコーヒーパーラー「ヒルトップ」にて、運ばれてくる、それぞれ違った柄のプレートやカップ&ソーサー、シュガーポット等を目で楽しみながら古きよき時代の話しに花が咲きました。
作家や文化人たちご用達の
このホテルの本館は、アールデコ調のつくりで私好みです。
○○文学賞授賞式の前には、ここに泊まると受賞の可能性が高い、というジンクスを信じて宿泊する候補者が後を絶たないようです。

    

 

このあとは、欲張って 湯島天神まで梅を見に行きましたがまだほんの一部咲き。
合格祈願の絵馬が所狭しとばかりに吊るされ、そこに書かれた文面を読んではニンマリ。
なつかしい!

            

 

 

 

 


マイ バレンタイン

2006-02-15 | music

      わが作品で~す!

HAPPY VALENTINE'S DAY

きょうはあと数分で明日になります
チョコレート狂想曲は鳴り止み
余ったものはどうなるんでしょうか、余計な心配をしてしまいます
娘が昔通っていた南米のある学校では
このバレンタインの日には 友だちとカードの交換をしていました
もちろん 好きな子にも上げますが
大多数は、沢山のお友だちに平等に、男女関係なく
手作りの  I  LOVE YOU  カードを送ります
そういえば先生にも差し上げていましたね


このようなやり方だったら、私もあの人に、この人に・・と、カードを差し上げられるのに

好きな人でも、意識せずに渡せるのに・・・



な~んてね

ところで、私は12日(日)に 堀江にある「Flowery Cafe」での
“St. Valentine's 
Concert '06”に行って参りました
久しぶりのジャズ・トリオの生演奏です
cloozzさんはコントラバス担当・・・彼にとってバレンタインは記念すべき日
ハスキー声が耳に心地よいYumikoさんのヴォーカルと楽しい語り
もと美術の先生だったという、多才なギタリストのNoseさん
3人の個性がミックスして編み出されるジャズやボサノバは聴いていて楽しく
日曜日の昼下がりの3時間が瞬く間に過ぎていきました

豪華なケーキとフルーツの盛り合わせをいただき
それぞれが好みの中国茶を注文しました
私は世界三大紅茶の一つ 
祁門(キーマン)
娘はフルティーな香りの東方美人
nettonご夫妻はなんだったのかな?

心もおなかも満ち足りたステキなプレ・ヴァレンタイン デーでありました




 

 





 

 

 


砧公園からいらか道へ

2006-02-12 | visit/drive

これで3回目の書き直し!もういやんなっちゃう。バックスペースキーでイラストを削除したら、全文が消えちゃったのです。ブログを始めてから何度同じ失敗を繰り返した事でしょう。こまめに投稿、またはワードかメモ帳に打ち込んでコピーして張り付けると良いのでしょうが、わかっちゃいるけどこれがアホなんですね、私。いつもぶっつけ本番なので大変なのです。2回目、3回目とやり直しているうちに、書きたいことを忘れたりします。それで、あとで追加したくなるのです。

書き出しが長~い!でも、アホ・・と書いて、昨日の「三枝の笑ウインドウ」を思い出しちゃった。

       ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★        
         
       ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★(朝日新聞より)

さてと、美術館の前に広がる砧公園は、この時期、ご覧のように寒々しい光景です。でも家族連れや友達同士、ジョギングの人などが、広々した公園の中に散らばっていて、思わずシャッターを切りたくなってしまう場面の連続でした。長~い枝を張った桜の大木群はお見事で、開花の時期にはゼッタイに見に来なくちゃ、と思ったほど。その時はどうか地面がブルーのシートで覆われていませんように・・・と、祈りたいですね。

    

         

    

用賀プロムナードがどの辺かわからなくて、犬の散歩をしていた若い、私好みのお兄ちゃんに訊ねましたらとても親切に教えて下さいました。ヘッヘ~ェ、そうか。話しかけたいなぁと思う人と出会ったら、道を尋ねるって手があるんだ・・・なんて、ばっかな事をすぐ考えるんですよねぇ~。

 舗装に使った瓦から「いらか道」と呼ばれるこの道は、
  ”楽しく歩けるまちづくり”の一環として昭和61年につくられました。
  田園都市線の用賀駅から世田谷美術館のある砧公園まで続く約1kmの
  所々には、人工の流れや噴水、休憩のためのベンチ、木陰に覆われた
  並木道など、さまざまな工夫がされています。
  舗装の瓦をよく見ると文字が刻まれています。これは、鎌倉時代初期の
  歌人、藤原定家によってまとめられた
小倉百人一首という歌集の中に
  入っている和歌で、今ではお正月のカルタでお馴染みになっています。
  歌を読みながら道をたどれば、目の前に新しい用賀の顔、世田谷ビジネス
  スクエアの高層ビルが現れます。

    

     

    

    

 

いらか道は、商店街ではありません。住宅の中にこんなしゃれたお店を発見。しゃれた、といっても町工場をリフォームしたような外見です。近寄ってみると「工房花屋」と書いてありました。薄暗い店内に、ごちゃごちゃと骨董品だかガラクタだかわからないような物が所狭しと置いてあるんです。喫茶店も兼ねているのかなと、聞いてみたら、土日だけはコーヒーがいただけるとの事。次回の楽しみが出来ました。

そんなことで、とても実り多い一日を過したのですが、今度は母をドライブに誘って、再度!行って参りました~。 わが町から首都高を走り、東名に入る手前が用賀出口です。道路がすいていたので30分で着いてしまったのです。出た所がまさに砧公園。お散歩を少ししただけで帰宅したのですが、遠いかな、と思っていた場所が、日本橋辺りに行くのと同じような時間で行けて嬉しかった!でも道路状況によってはその2倍3倍と、かかる時があるかも知れませんね。 

帰りに首都高を走っていたら、目の前に六本木ヒルズが見えたので思わず片手でパチリ。
あぶない危ない。ピーポーピーポーとサイレンの音が私だけに聞こえました。

 

 


 


世田谷美術館へ

2006-02-11 | art/exhibit/museum


 《絵画探求60年の足跡とその未来 1945ー2005》

堂本尚郎展に行って来ました。
用賀駅から歩いて行くつもりが、「美術館行き」のバスを見つけてしまい、
まぁ、行きだけは・・と、乗り込んでしまいました。
ぐるりと回っては戻るようなルートで、もしかしたら歩きのが早そうです。

世田谷美術館は約40万平米もの広さの砧(きぬた)公園の中にあります。
是非一度行ってみようと思っていた所、偶然、Kimiちゃんから招待券を
いただいちゃったのです。 うれしかったぁ~ 
                 

1928年生まれの堂本尚郎氏は、23才の時に日展特選を受賞するなど、
日本画家として華々しくデビュー。学生時代に敗戦を迎え、価値観が
すっかり逆転してしまった事と、新しいフランス絵画の魅力、
既存の権威
を疑い、グローバルな視野の上に立ってアートに取りくむという姿勢が、
その後の彼の画業のベーッシックな部分を形作るようになったといいます。

 1953
年「街」 顔料・和紙

24才の時に、日本画家である伯父、堂本印象と共に半年間にわたって旅した
ヨーロッパは、彼にとって強烈な刺激となり、帰国後すぐにフランス留学を決意。
1955年からの留学は表向き、日本画との訣別を意味しましたが、学生時代に
学んだ日本画は今日までの彼の画業に様々な影響を与えたようです。
1967年にパリのアトリエを閉鎖して帰国するまでの間、パリのスタドラー画廊では
3回の個展をし大好評。
NY に長期滞在中に個展を行った時は、イサム・ノグチが文章を寄せたそうです。
68年には世田谷深沢に住居とアトリエを構え、大阪万博ではワコール・リッカー
ミシンの室内構成を担当。私もその昔、大阪万博には行きましたが全然思い
出せません。なにせ35年も前のことになってしまいましたものね。


今回の展覧会は堂本氏の60年の画家としての歴史を振り返るべく、あらゆる
年代の作品約100点を集結させた見応えのあるものでした。

作品は、6つのセクションに分かれて展示されていました。
①初期の日本画から、
②パリで旋風を巻き起こしていた抽象絵画「アンフォルメル」
の時代へ。絵具をカンヴァスに叩きつけるような描き方で、過激なイメージなのですが、

その力強さには目を見張るだけのものがあります。
③二元的なアンサンブルから、「連続の溶解」へ。この頃からモチーフである円が背景
として登場します。円の組合せから成る模様の連なりと色使いが鮮やかでとても美しい。
④「惑星」から「蝕」へ。この頃のタイトルには「百輪」「流星」「宇宙」「自蝕」など、
天体に関連する言葉が多く用いられています。
⑤「連鎖反応」から「臨界」へ、
⑥そして、2004年からは、「無意識と意識の間」というテーマ。これは、カンバスの上に
油絵具を垂らしてオートマティズムの手法で制作。私から見れば、ただポタ~ッと絵具を
垂らしただけにしか見えなかったのですが、きっとテーマに沿った深い意味があるのでしょう。

アブストラクト絵画は解り難いものですが、解ると思ってみている絵でも、作者の意図と
外れた見方をしているかもしれません。そう考えると素人の私は、楽しめて想像力を
膨らませるだけでもいいかな、と、気楽に鑑賞します。堂本さんの絵は、現代アートなの
ですが、モダンジャズを今、懐かしく聴くような感じに似た、一種の懐かしさを感じました。

1957年「アンスタンタネイテ」

 1978年「宇宙1」

 彼の作品はフランスの高級ワイン〈シャトー・ムートン・ロスチャイルド〉のラベルにもなりました。
これには過去に、ピカソ、ブラック、ミロ、ダリ、カンディンスキー、ウォーホールなど、著名な画家たちが名を連ねていますが、1979年に日本人画家として初めて依頼されて制作したのですって。こんな事を知ってしまうと、ワイン通でなくてもなんだかコレクションしたくなりますね。ワインショップに立ち寄った時など、ちょっとまてよ・・・と、キョロキョロしそうです。

 佐藤助雄 「桃源」 1983年

展覧会を見終わった後も、美術館の庭を歩いていて、あちこちで素敵な彫刻に出会いました。 下の右側の彫刻は船越保武氏の「杏」といいます。これを見つけた時の驚き。大好きな 「EVE」に表情がとても似ていたんですもの。
この彫刻はレストラン「ル ジャルダン」の窓越しに見えます。芝生の中は立ち入り禁止となっていましたが、無視してそーっと近寄り、数枚写してすぐに引き返しました。
 あとでレストランに入ったら、お客さんから丸見えの場所だとわかり、どっと冷汗

    

  

帰りは公園内を散策し、久しぶりに、都内なのに郊外に
足をのばした時のようなすがすがしい気分で時を過ごす
事が出来、明日への活力さえ感じました。
公園~用賀までのご報告は近日中に。

 

 

 



 


夜の銀座で

2006-02-03 | 飲・食・店

 
先日、銀座へ、昨年退職したKさんの送別会に行ってきました。
若い同僚と2人で花束を差し上げようと言う事になり、退社後まっすぐ有楽町線の銀座1丁目へ。
さぁ~お花屋さんを探さなくちゃ。
あそことあそこ・・・と頭の中で数箇所のフラワーショップを思い描きながら、まずは一丁目の
「オザミフルール」 → アフタヌーン・ティーThe General Store Ginzaの「
ジェーン・パッカー
→ フルール・ドゥ・プランタン。
ここでやっと落ち着き、(お値段が、です)ご覧のようなブーケを買いました。

 
       〈 
★この写真はプランタンのHP 上よりお借りしました 〉

ビアンカ(白)系のブーケが私のお気に入りでしたが、60代後半の方に、感謝の気持ちを
真っ白系に託すのもちょっとまずいかなぁと、オレンジ・イエロー系のを選びました。
6時半の集合時間にまだ、少し時間があったので、オペーク銀座の「フロレアル」へ。
ここは、オペーク丸の内にあるのと同じお店で、ステキ系が勢ぞろいです。
銀座松屋の前辺りなので、さぞお高い事だろうと、最後に見ることにしたのですが、
色系統が、お花の種類が・・・・・色々と揃って、お値段も変わりなかったのです!
あとでわかったことですが、あの、青山フラワーマーケットのショップだったのですね。
そして、なぜか、”
KIRIN” につながっているようですが・・・?
お花屋さんを見ていると時間の経過をつい忘れてしまいます。
銀座に花屋が多い、と言う事も頷けますね。社用が圧倒的に多いし、開店祝い、
個展のお祝い、送別会など、店舗の数だけ利用数があるのでしょう。

Kさんの送別会は銀座5丁目の「加賀屋」にて。
夜の銀座のレストランなんて、滅多に行きません。
生まれてこのかた、十本の指を折っても余るほどです。
お昼の銀座はレストラン激戦地区なので、わが町よりも良いものをよきロケーションで
お安く利用できるのですが、夜となると全くの別物。

加賀屋はその名の通り、加賀料理の専門店です。
お近くに大志満とか、ありましたねぇ・・。
Kさんも、ここは初めてのようで今日を楽しみにしていました。
銀座コアのすぐ近くにある入口を地階に下りた店内は、和洋折衷とも言える
しつらえで、
落ち着いた雰囲気です。
加賀の懐石料理をいただく前に、ビールやワインでカンパ~イ。
器がモダンで、お椀は輪島塗。
チョコチョコと色々なものが運ばれましたが、目が悪くなった事を痛烈に実感。
目で楽しむ事は今のうちにしておかなきゃあ・・・と真剣に思ってしまいました。

当日のメニューのほんの一部を、見にくい写真ですが、ご紹介しますね。

    

食道楽とは正反対の、毎日がお子様ランチでも一向に構わないbiancaでありますので、
印象に残った食べ物というと、最後に出たお抹茶とお菓子だったのです。(笑)
が、バッテリーの充電不足でカメラに収められませんでした。ああ、なんとも残念だこと!

お菓子の名前は、あとでで問い合わせて、「うぐいす」か、「さざんか」だということが
解りましたが、これが絶品。
満腹まんぷく~~~。ビールとワインでじつにいい気分。
Kさんの昔話もた~くさん聞けて、和気あいあいの雰囲気の中、
今度又、Kさんがお話をしたい人をみんな集めて
ここ、銀座で(部長の母校のクラブがあるというので)ご招待以外は会費制で(うぅっ・・!!)
集おう、との話しでお開きとなりました。
現社長が生まれた年に入社したKさん、あなたは会社の生き字引きなんですね。

    
          ★加賀屋のHPより拝借 (どうしたらこのように写せるの?)