ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

水に流して・・

2009-02-25 | weblog


永代橋から川面をのぞく

先日投稿した「パリ二人旅 2~モンサンミッシェルへの旅~」が、
同じものがダブって投稿されていることをさっき発見しました。

もう、ドジってしまって・・恥ずかしいぃ・・・!

一つはトップ記事として、コメントも頂いてしまっていたのです。
このシリーズは2008年11月27日から12月7日までの旅行記なのですが、
本人のやる気のある時にぼちぼち書いているので、遅れに遅れ、
余りにも遅れすぎる予想から、投稿日時を偽って、12月のなかに
入れ込んでいるのです。先日投稿した時、写真が多過ぎて、
10000文字をオーバーしていたので、投稿不能となりました。
それから削除したり、少し手直したりして再投稿しました。
次の日に打ち間違えを見つけて直したりしたのですが、
それがどっちなのか、又何故二つになってしまったのか
私のブログ知識では皆目見当が付きません。
コメントを頂いたあとになり、実に申し訳ないのですが、
一つは削除し、出来ればコメントをいただいた方の分は
12月24日として投稿し直すことにしますのでご了承下さい。
できないかなぁ。



はい、出来ました!(2009/02/27追記)


投稿日をインチキしているので、「パリ二人旅」の項目を
全部が終了するまでの間、カテゴリー欄のトップに置きます。
数字が増えていればupしたことになりますので、
時々チェックしていただくとうれしいです。

でもでもでも、、、本当にゴメンナサイ!




プレゼント選び

2009-02-25 | プレゼント・お土産

ある方に差し上げる、気持ちばかりのバースデープレゼントを
探しに東京駅近辺まで行ったとき、本命のプレゼントに迷い、
近くの花屋さんで、こんなヒヤシンスを二つ買ってしまいました。
一つは家用です。球根一個
がラッピングされていますが、蕾が
固かったので何色かわかりませんでした。それが・・・

 

あっという間に大きくなって、更に横からも茎が伸びて・・・

こんなに小さくても強烈な香りを発しています。
今は後から伸びた方だけになりましたが、
家の中はヒヤシンスの香り漬け。



ある方へのプレゼントですが、グランスタの酒屋さんを
見た後、丸ビルのM屋さんに寄り、適当にフランスワインを
選びました。その時に近くにいたご年配のご夫婦の
奥さんの方が!
ハシゴに登ってワイン棚の高い所から
ヴィンテージもの?ワインを取っていたんですよ。
「あなた、これ値段がついていないわよ。いくらかしら?」
「お客が外人って言ったってさ、きっと田舎者だよ。
そんなに高いものでなくていいさ。味なんかわからんよ。」
と、話していたので可笑しくて笑ってしまいました。

その店で、以前、その「ある方」からいただいた
「ひとくち
梅酒」を発見。ひとくちサイズですから、のんべぇ
には物足りないでしょうが、結構おいしいんですよ。
今は200ccの紙パックワインも出ているのですね。
参考までに購入し、ひとりで飲んでしまいました。



 


春の足音

2009-02-12 | visit/drive

母を誘い向かった先は、松戸にある「戸定邸」。
何年も前に、新聞に藤の花が見ごろだと書かれていたので、誰かを連れて行くときの下調べを兼ねて一人で行ってきましたが、なんと鉢物が並んでいただけなのでガッカリしたことがあります。今回は駐車場の横に売店があり、「徳川将軍珈琲」なるものがありました。帰りにでも、と思ったら市民ボランティアの松戸シティガイドさんたちが運営しているようで、もうすぐ店じまいをする時間だとのこと。で、先にいただいてみることにしました。最後の将軍、徳川慶喜が外国人を接待した際、フランス料理やコーヒーでもてなして相手に喜んでもらい外交をうまく進めようとしたにちがいない、と、ひ孫で徳川慶喜家の4代目当主でもある徳川慶頼氏は語っていますが、そのときのコーヒーを現代に再現することにしたとのこと。寒空の下、紙コップでしたが結構美味しく頂きました。 

 
                              建物入り口にある一本の梅の花が、ご覧のように満開の姿で私たちを迎えてくれました。戸定邸とは、水戸藩最後の藩主、徳川昭武の別邸で、明治17年に建設されています。1951年にこの邸宅と敷地は昭武の子、武定から松戸市に寄贈され、1991年になって戸定が丘歴史公園として一般公開されたそうです。明治期の旧大名の別邸としては貴重なもので、国指定重要文化財ともなっています。又、戸定とは古く中世からの地名だとのこと。           

       

 
 
 
庭園の彼方には江戸川が流れ、お天気次第で正面に富士山が見えるのです。広々した畳のうえで富士山をみながらゴロンとしてみたくなりました。敷地内の奥には梅園もあるようですが、今にも雨が降りそうな雲行きだったし、年々寒さに弱くなる母と一緒なので行きませんでした。松戸シティーガイドさんのお話では、桜の時期には「緑の回廊・千葉大園芸学部庭園ツアー」なるものが行われるそうで、3月28日(土)と29日(日)の各10時と13時を予定。ツアー会費は200円。戸定が丘歴史公園内受付に15分前に集合とのことです。土曜日は松雲亭においてお茶、日曜日には将軍珈琲による接待(有料)があるそうですよ。戸定邸の真後ろが千葉大園芸学部なので、園芸好きには楽しい企画ではないでしょうか。私も予定にいれようかなぁ。

今月に入り、母とは葛西臨海公園へ水仙を見にも行っているんですよ。あの日はお天気は良かったのですが、風が強い寒い日で、サッと見てすぐに中にあるホテルでお茶をして帰宅。写真も母の写っているのを除き、二枚しか撮りませんでした。
   
   

先週末にやはり母を誘って姉と共に佐倉方面へドライブした時、お洒落なレストランに寄ってきましたのでご紹介しますね。家で昼食をすませた後のドライブでしたからカフェだけ頂いたのですが、このお店、実は伯母が、とっても美味しかったと言って教えてくれたイタリアンのお店なのです。近場まで行って道がわからなくなり、3度も通行人に聞いてしまいましたが、どなたも知っていてすぐに教えてくれました。なのに何故3回も道を尋ねたかって?地図を見て道を尋ねた人がドライバーである私じゃなかったからもありますが、、まぁ行って見ればわかるでしょう。
お店に着いたら・・そこはもう“春”のような雰囲気でした。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中は広々してお客は居ず、夜に向けてテーブルセッティングをしている最中でした。あれっ、ティータイムってないのかな、と思いましたが、デザートセットでいいですね、と言われたのでそれを頼んでみました。そのあと、ランチタイム最後のお客さんとみ受けられる数人が奥の方から出てきました。

このあたりは以前訪れた「佐倉・草ぶえの丘」よりも手前に位置するので、わざわざ食事だけを目的に出かけるにはちょっと遠すぎです。今度は川村美術館や、ローズガーデンに行ったついでに寄ってみたいですね。
もちろんお味次第では、わざわざ出掛けたくなることだってあるでしょうけど。下にお店のHPをリンクしました。HPの中にある「レタスクラブネット」でレシピの動画が見れますよ。

    
   ◆リストランテ・カステッロ
 


CHE

2009-02-09 | cinema

   
    ★ERNESTO CHE GUEVARA

1月に「チェ28歳の革命(L'ARGENTIN)」を見に行き、戦闘場面の連続に疲労困憊。なのに、やはり第2部である「チェ39歳別れの手紙(GUERILLA)」を見に行かずにはいられませんでした。第2部はCheの最後を見なくてはならないので始めから苦痛でした。それに至るまでの、ゲリラ戦が次第に孤立化し、当てにしていたボリビア共産党からは何の支援も食料調達も得られないばかりか、民衆の支持をも得られず、密告、脱退、過度の睡眠不足や疲労による士気の低下などで次第に追い込まれて行く過程も辛いものですから。

バティスタ独裁政権に苦しむ母国キューバを救おうと決起した若き活動家、フィデル・
カストロとの出会いがあり、共に戦ったキューバ革命での勝利とは雲泥の差の第2部。より静かであるのは、より絶望的なシナリオだから。スティーヴン・ソダーバーグ監督はこの映画を、皆が余り知らないボリビア時代に焦点を絞ろうとしたようですが、それを描くにはまずキューバで起きたことを見せないとボリビアで起きたことを位置付ける文脈がなくなってしまう。それでニューヨークでの国連演説などを追加していったら、どんどん大きく膨らんでしまい、結局二部作となった、と語っています。ゲバラとキューバ革命を情熱的に描いた理由は、との問いには、自分は革命にではなく、Che自身に興味があるんだ、と言っています。これ!なんですよね。
この映画はゲバラを英雄的に描くのではなく、事実に忠実に実像として捉えている、と、誰もが語っているように、淡々と描いている為、娯楽の要素は皆無です。

第2部の舞台であるボリビア潜伏中に書かれた「ゲバラ日記」は、夫も私も、その昔に読んでいました。学生運動をしていたとか、政治的に共鳴した、と言うんではなく、チェ・ゲバラが、一人の人間として余りにも魅力的だったからです。映画の中で喘息に苦しむ彼を見て、胸が痛くなりました。息子が幼少の頃、喘息の発作に悩まされ、母親である私は一晩中寝れない夜が多々あったのですから、その苦しみが再現されたようで辛かったです。特に、ボリビアの2000メートルの高地で、呼吸困難になりながらも政府軍に捕まるまで生き延びていた現実が、彼の生命力の強靭さを表わしている気がします。

ゲバラ役のベニチオ・デル・トロ(プエルトリコ生まれ)は、7年間を費やして役作りをしたといいます。作品を制作する上ですばらしかったのは、チェが亡くなる直前まで彼と行動を共にした人がいまだに生きている、ということだったそうです。役作りのために25kgの減量をした彼は、「ゲバラの服を着てまるで物まねをしているように見えるのだけは避けたかった・・・究極的には自分の人生を犠牲にして人のために死んだという所に引かれたんだ・・」と語っていますが、本当にその役作りに特別な思いを入れ込んでいますし、プロデューサーも兼ねていますから、相当な力の入れようだったと思います。ただ、ベニチオを初めて見た私は少しばかり戸惑いました。だって、ゲバラがカッコよくて男前なのに、その役者がちょっとオジサンッぽく、眠たい目をした男(失礼!)だったのですから。
次第に目が慣れ?本物として感じてきたのは彼の、演技以上の強い思いいれが伝わってきたんだと思います。カストロ役のデミアン・ビチル(メキシコ生まれ)も話し方といい本物の味をよく汲み取っていますし、その弟ラウル役のロドリーゴ・サントロ(ブラジル生まれ)はすっごくカッコいいので検索しちゃいましたら、「ピープル」誌の「世界で最も美しい50人」に選ばれたとのこと!これから注目したい一人になりました。彼、シャネルのCMにもニコール・キッドマンと共演したとか。知らなかったぁ。

今年はキューバ革命から50周年にあたる特別な年。フィデル・カストロから、後継者である弟のラウル・カストロへとバトンタッチされたようですが、フィデルの誘いでキューバ革命に身を投じて亡くなってしまったのは、フィデルでもラウルでもない、アルゼンチン人医師であったゲバラだった、ということが皮肉に思えます。ただ、チェにとって、国というのがどれほどの意味をもったのかを考えると、彼は、世界という単位で物事を見つめていたのではないか、と言う気がするのです。
「チェ28歳の革命」の最後で勝利宣言を挙げた1959年に、彼は日本にも「アジア・アフリカ親善使節団」の団長として訪れているんですね。日本では、ノーネクタイでラフな格好のチェはたいして相手にされなかったようでしたが、(というより、日本の主要人に人を見る目がなかったんでしょう!)各種工場の視察の合間に広島を訪れ、原爆慰霊碑に献花したのです。広島行きを切望していたのに、日本政府側が躊躇していたといい、自分で行動したそうです。被爆の悲惨さを目の当たりにしたゲバラは、
《日本はこれだけのことをされたのに腹が立たないのですか?》と発言。

同年は、チェにとって、前妻イルダとの別れと、ゲリラ活動を共にした、アレイダ・マルチとの再婚という、個人生活の上でも変化がありました。アレイダは「チェ28歳の革命」のなかでも登場しましたが、イルダ同様、妻以上に「同士」の印象が強い気がしました。朝日新聞の2007年11月3日の「愛の旅人」でも取り上げられ、偶然web上でその記事を見つけましたので、興味おありでしたら是非一読してください。あっさりと身を引いたイルダ。本当に好きだったから出来る行動だと思います。イルダの娘はイルダでアレイダの娘もアレイダと言う名前なのが面白い。アレイダは半世紀にわたる沈黙から『回想録 チェとともにした我が人生』という本を出版し、娘のアレイダは去年、父親の足跡を辿り訪日を果たしました。

見た映画の内容とは関係ない事がどんどん繋がってきてしまいます。
フィデル・カストロはインタビューで、「子どもたちにどんな人間になってほしいかと言われれば、私はゲバラのような人間に、と答える」と発言したし、ジャン・ポール・サルトルに「「20世紀で最も完璧な人間だった」と言わせ、「あの頃、世界で一番カッコいい男だった」とはジョン・レノンのことば。アンディ・ウォーホールが“ゲリラヒーロー”をモチーフにし、その作品を全世界に広め、マラドーナが自分の腕にタトゥーを刻み、ジョニー・デップがいつも身に付けているペンダントにも彼の姿がある、と知り、思想や国境、言葉などを越えて今も絶えず人々の心を打つのは、彼のぶれない正義感と人間愛なのだ、と理解しました。

全編スペイン語で通した米国人監督の、商業的な成功ではなく長年温めていた思いを、事実を基にし、受け狙いを考えずに制作したこの作品。どれだけの評価を受けるかわかりません。が、私が生きている間に、彼の歩みのほんの一部を、事実重視の映画を通して見る事ができたのは幸運だったと思います。しかし~辛くて疲労感いっぱいの映画だったです!ゲバラの苦悩をすっぽりと、ノンポリ人間が味わうのですからね。

最後にアルゼンチン歌手メルセデス・ソーサが歌う[BALDERRAMA]が、ボリビア政府軍に捉えられ、翌日銃殺されたゲバラの、長年不明だった遺骨の場所がわかり、1997年、死後30年の時を経てキューバに帰還されたことにたいする、アルゼンチン側の鎮魂歌のように聴こえてきました。
メルセデス・ソーサ自身も社会変革を歌で訴えたことから、当時軍事独裁政権下の母国からの亡命を余儀なくされた一人。ブラジル時代から夫が時々聴いていた彼女のCDがウチにも何枚かあります。

チェは革命の最中でも書物を持ち歩いたほどの、詩や文学を愛する文化人でした。詩を書き手紙を書き、日記も捕まる直前まで書いていたそうです。革命は、いくら正義の為の革命といっても多くの人間を、愛する同士をも死に至らしめます。流血は避けられなかったのだろうかと考えてしまいます。学生時代に友人と南米各地を旅行したことから、卒業後、軍医になるのがいやで、ラテンアメリカへと旅立つ彼。旅で得た多くの出会いと感動。その発端である当時の軍事独裁政権が正義感の強いゲバラの一生を変えてしまったといえるのでしょう。彼が今の世に生を受けていたら、どんな人生を歩んでいたかしら・・と想像したくなります。

   《子供たちへの最後の手紙》

   この手紙を読まねばならないとき、
   お父さんはそばにいられないでしょう。
   世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、
   いたみを感じることができるようになりなさい。
   これが革命家において、最も美しい資質です。
   子供たちよ、いつまでもお前たちに会いたいと思っている。
   だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。
   お父さんより
         (チェ・ゲバラ 1965年)


彼が子供たちに残した最後の手紙は静かに私の心を揺さぶりました。

以下のような「ゲバラ語録」も多く残されています。

    「もしわれわれが空想家のようだといわれるならば、
   救いがたい理想主義者だといわれるならば、
   できもしないことを考えているといわれるならば、
   何千回でも答えよう、そのとおりだ、と」

   「甘ったるいと思われるかもしれないが、
   言わせてほしい。ほんとうの革命家は、
   大いなる愛情に導かれている。
   愛のない本物の革命家なんて、考えられない

 



作家の戸井十月さんは、「永遠の旅人・ゲバラ」の中でこう書いています。

  「何をなすか、何を手に入れるかではなく、どこに向かって
  歩き続けるかが人生で最も大切なことだというメッセージを、
  死んで41年が経った今もゲバラは体現している。」

又、長ったらしくなってしまいましたが、最後にソダーバーグ監督がインタビューに答えた新聞記事で印象に残った言葉を・・・

  「映画を見て、革命はロマンチックなどという幻想は抱かない
  ようにして欲しい。リサーチの結果、全然そんな事はないと
  分ったから」
  「物質的な豊かさだけを中心に捉えた社会を続けるためには、
  搾取される人たちが必要になる。空虚さを感じない社会を作る
  には、成功とは何か、豊かさとは何かを再定義しなきゃいけない」
  ただ、行動に訴える場合には、単なる反抗ではなく代案を示す
  ことが大事、と付け加える。ハリウッドにも似たような構図から
  格差が生まれ、対立が強まっているといい、
  「欲の問題といえばいいのか。映画への投資などによって、
  じっとしていてもお金が入り続ける富裕層と、制作現場で働き、
  赤字を出せば問題になる人々。富の配分はもっといい割合が
  あるはずです」
   



 

        エルネスト・チェ・ゲバラ

     「チェ28歳の革命」「チェ39歳別れの手紙」

   


買い替えラッシュ

2009-02-04 | weblog

ついに電子レンジを買い換えました。左のは古い方ですがこれのコードの尖端部分が劣化し、ワイヤーが見えていたんです。 
こわっ!何年も前から、お知らせ音が鳴らなくなっていました。それ以外は問題なかったので、あたため機能がダメになるまで使おうと思っていたのに、引退の日は突然やってくるものですね。今年で22年目! K電気に電話で修理が可能かを尋ねると、メーカーに送って見て貰わないと何とも言えない、と言われました。で、何年型かを伝えたら驚いて、多分部品がもうないだろう、と言うんです。コードさえ取り替えればまだまだ使えるのになぁ・・。コードの交換だけでは割が合わないから、出来ないような作りにしているのかしら。もったいない!けど、20年以上も働いて手くれたんだから,ご苦労様、ですね。メーカーごとの様々な商品を見、機能を比べ、店員さんの意見を聞いて選んだのが(写真をクリック)これ。どれも一長一短なんですよね。「石窯」仕様ではありませんが、今まで同様オーブン+スチーム機能はあるし、トレーは二段使用可能なので、その気になれば(!)何かと便利。今まで色々なボタンが、例えばレンジならレンジを、オーブンならオーブンボタンを押す、というふうに一目瞭然でわかり易かったのに、今のはボタン一つで操作するんですね。20年も持つなら、もう最後の買物になるかも?と、「安いから買う」事をやめ、気に入ったものを買ったつもりです。値段は中位。ても、高いからいいとは限りません。見た目は変わらないのに値段の差のある理由を尋ねると、音声がついている等、不必要な機能が多いからなんですね。新しいレンジはレンジ出力が100~1000ワットの中で選べる。ってことはその時点で頭をちょっと使うことになります。500ワットのターンテーブルつきレンジに慣れ親しんだ身には、色々な設定ができる、ということは余計なお世話たい!と言いたかった。
家族も使うし、使い方の説明するのも大変だし。しかし、
これは頭の体操になるかも、と思い挑戦するつもりになりました。まだ温め機能しか使っていませんが、今度ピザを焼いて見たいです。石窯ピザにはかないませんけど、本当はそれを待ってブログupしたかったです・・。「クックブック」に手作りピザのレシピもあったし、発酵もレンジで簡単に出来ちゃうということが嬉しい!

なのに、お次は台所天井の直付照明器具がおかしくなり、蛍光管を取り替えても点かない!で、流し台真上の電気だけで作業しています。テレビ、ビデオ、インターフォン、照明器具、そして流しの蛇口などなど、もうぜ~んぶ取替えの時期。リフォームするまで待っていて欲しいのに容赦なく故障していきます。

ブログを書いて気が付きましたが、古いものを使いすぎているのはウチ位で、皆さんはとっくに新しい機能の製品を使用中かもしれません!!私の驚きに、何を今更、と呆れさせたらご免なさい。
 
 

遅い新年会はイタリアンで

2009-02-01 | 飲・食・店
1月下旬に地元の友達と新年会をしました。場所は暮れの忘年会の時と同じ店「Pizzeria Terme」。
開店時間の6時に予約を入れたという友人の話でしたが、到着した6時にはまだ開店していませんでした。おかしいな、と中を覗くと、窯にはちゃんと火が点いていたのです。そのうち中からオーナーシェフが現れ一安心。予約時間を8時と聞いていたので、と、あっさり言われました。
メニューの品数は、店の規模から見ても多い方だと思います。
黒板にはチョークで書かれたお勧めプレートがリストアップ。前回おいしかったのも混ぜて適当に注文。
乾杯は、まずイタリアビールで。ピザ、温野菜、フライの盛り合わせ、真鯛のカルパッチョ、パスタなどなど。どれもおいしく頂きましたが、帰るまでに店内にいたお客は私たちを含めて 2グループのみ。大丈夫なのかなぁ。やっていけるのかなぁ、と余計な心配をしちゃいました。珍しい薪窯はナポリから直輸入したものとか。材料にもこだわっているようだし、ナポリなどで修行したシェフの作るピザは、(載っている具は少ない気がしましたが)パリパリしておいしい。ピザはランチ時はやっておらず、週末は予約しないと混むようです。若夫婦二人で切り盛りしているこのお店、奥さんの方は育児中なのか?遅れて来るので、それまでは厨房もフロアーもシェフ一人きり。お二人とも商売上手ではない、というか素人っぽい。お料理が、ではなくてお人柄が。市内に「お気に入り」がふえないので頑張ってほしいな、と思いました。気持ち良いコミュニケーションって大切ですね。見守って行きたいお店です。そこの薪窯ピザが家庭的でおいしかったですが、食べるのに忙しく、写真をとったのは最初の温野菜のみ。なので忘年会にケータイで写してあったピザを取り込んでupしました。