ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

ウッドストック40周年

2009-10-28 | family

先の映画を見に行った日、イクスピアリで見つけた花々です。
寒くなってきたのでお花も少ないかな、と思いましたが、手入れされていますね。
早々のクリスマスツリー登場には驚かされました。まだ寒々しさしか感じませんがいつものようにステージでは若ものグループが歌っていました。

 

 

先日、娘から“ウッドストック40周年無料野外コンサート"に行ってきたとのメールあり。その内容にクスッとしてしまいました。だって、あのころの若者の現在の姿を面白がって、我が青春時代?を勝手に想像しているんですもの。ニューヨークでは実際にコンサートが行われた8月15日にあわせて40周年記念ライブを行ったようです。

下のは娘からのメールの一部です。どんな雰囲気だったか、なんとなく見当付つきませんか?(ご参考までに、これが当地フェスティバルのwebサイトです。) 

  

サンタクロースのおじさん表現は言えていますね。あのころの若者でもちょっと年長だったら白髪か禿げの方はきっと多い筈。ですが、頭は禿げても髭ってけっこう勢いよく伸びるんですよね!あのころ、ジーンズが若者の間でファッションとして定着し、ヒッピーとそうでない人との差なんて、見かけだけでは判らなかったと思います。ヒッピーの年代だって10代から20代後半までと、世代の幅は広かったですからね~。

40年前のウッドストックフェスティバルの様子をドキュメンタリーにまとめた映画が一般公開されたとき、若~いbiancaは、当時姉のいたシンシナティで、この映画を見たのです。その編集者がマーティン・スコセッシ監督だったとは今まで知りませんでした。この映画はドキュメンタリー部門でアカデミー賞を獲得。昨年上映されたローリング・ストーンズのシャイン・ア・ライトも同じくスコセッシ監督の作品だったとは・・・時代の流れを感じますねぇ。そして私との縁も何だか少しはあるような気がするのですが。

もし写真が送られてきて、それが良くとれていたらブログupしますね!





         
       ↓・↓・↓

は~い。送られてきました。けれども・・・写真がどれもイマイチでしたね。
当時の若ものをもっとアップで見たかったな。

              

       

       

       

 


世界最古のバレエ団

2009-10-27 | cinema

楽しみにしていたこの映画、週末にイクスピアリで観てきました。
フランスのルイ14世の時代に創設された世界最古のバレエ団パリ・オペラ座。

エトワールと呼ばれる最高位のダンサーたち154名と
1500名のスタッフを抱えた350年の歴史あるバレエ団の現在の日常風景を、
ドキュメンタリーの巨匠フレデリック・ワイズマンが、
オペラ座の全面協力を取り付け、84日間に及ぶ密着撮影を完結させました。

ワイズマンの映画をみるのは初めてでしたが、字幕説明やナレーション、
インタビュー、効果音などを全て排除したドキュメンタリー作品をみるのも
確か初めての気がします。被写体となるのは一般人が見れない部分のみ。

淡々とした視線でオペラ座の内部を、様々な角度から映し出しています。
館内を掃除する人、修理する人、美術や衣装の係、事務局の人、芸術監督など、
オペラ座で仕事をしていても表面には出てこない人々。そして
現役ダンサーによる、あるがままの練習風景やリハーサルの数々。

昔の16mmをみているように感じたのは、余りにも演出さがないから
でしょうか。同じような場面がいつまでも続いたか、と思えば
逆に場面がちゃっちゃっと変る。踊っている演目がごちゃごちゃに
なりそうでした。興味津々なのに正直な話、途中一瞬ですが眠くなりました。
つまらないからではなく、前の晩の寝不足も影響していたと思いますが、
この撮り方で160分というのはちょっと長いな、と感じたのです。
5分ほどのトイレ休憩があれば・・と思ったのは、年のせいですかぁ?

オペラ座のダンサーは国家公務員で、定年が40歳。年金も40歳から
即、受け取れるという特別待遇があることを映画のミーティングの
場面で知りました。
しかし制度というのは今後どう変るかわからないので、
常に危機感を持ち、今受けている待遇を今後も維持できるように
各人が意識して質を高める努力を決して怠らないこと、そうでないと
あなた達に安定という未来はないのよ、今の立場が別のバレエ団に
すりかえられてしまうのよ、といったニュアンスの内容を、
芸術監督のブリジット・ルフェーブルが再三ダンサーたちに訴える
場面が印象的でした。又、別のミーティングでは大口寄付者である、あの
リーマンブラザースの名前が出て、彼らを招待する為の特典を考えたりと、
営業・経営面でのオペラ座としての姿もチラッと垣間見れたりするので
説明など一切なくてもバレエ団の実態が少しずつ浮き彫りにされるのです。

練習の演目などは「パリ・オペラ座のすべて」HPに載っていますが
簡単には以下のとおりです。(パンフレットより)

ジェニュス
* 
くるみ割り人形
*
メディアの夢
*
パキータ
*
ロミオとジュリエット
*
ベルナルダの家
*
オルフェオとエウリディーチェ

 

メッセージを伝えたいなら電報で事足りる。
私は観客が考える為の情報を伝える為に映画を撮る。

というワイズマン監督は37歳のときに弁護士から
ドキュメンタリー監督になった変り種。
その理由は弁護士より映画のほうが好きだったから、だとか。
なぜテロップやナレーションを使わないのか、との問いに、


説教くさい説明は実は作り手が観客をバカにした行為だと思う。
私は自分の目で見た事実をそのまま観客に伝えたい。
観客とともに考えたいのです

自分の信念どおりに作品をつくりだすワイズマン監督。
「もと弁護士」の視線が映画作りにも反映しているのかもしれませんね。
それにしても日常の練習と比べ、本番は別人のように変身する
エトワール(星)たちの優雅な姿に惚れ惚れさせられた映画でした。
今度はレンタルで再度ゆっくり(トイレタイム付きで!)観たいです。

ですが、この映画はバレエ映画というより、オペラ座の内側がどのように
なっているのか、オペラ座バレエ団とはどんなものなのか、そして
指導方法は・・などなど・・を見るつもりで行ったほうが正解でしょう。
失敗を怖がり、ダンサー達が古典ばかりを踊りたがることに疑問を感じる
芸術監督は、現代ダンスへの挑戦を薦めます。それが吉と出るか凶と出るか
全く想像できないのは、バレエ界が、そしてバレエ愛好家がいまだに
古い考えを持った人ばかりだってことだから。
しかし、オペラ座も少しずつ新しい試みを取り入れているようです。
どの職種にしても、相手はお客さまです。古いものの上に胡坐をかいていては
愛想付かされ取り残されますよね。古き良き物は大切に残し、現在に
相応しい発想を取りいれられる柔軟性は、バレエ界においても
求められていることなのだ、と、、、、


このような感想になるような映画とは思わず、去年のパリ旅行で
見れなかった部分を再発見したい気持ちで見に行ったbiancaでした。

来月下旬で一年が経つのに、まだ旅行記が2回分残っているなんて、
どういうつもりでしょう。あはは・・そろそろ終わらせなくては!



 

 


続・夕暮れの空を見ながら

2009-10-22 | weblog

 

20分もそこにいたかいないかの「ふれあいの森公園」だったが
帰るときに見上げた空はピンク色にそまっていた。
家から10分ほどの公園からで充分だ
たまには一日の終わり際を、ただ見つめているのもいいもんだ。
私は、私たちは、だれが何を言おうと太陽に生かされている、
あらゆる自然に生かされているんだ、
と再確認することで 多少なりとも謙虚になれそうな気がして。



今週はサンフランシスコの娘とスカイプでお喋りした。
こちらの時間から4を引き、午前と午後を逆にすればいい、という。

5年前にパソコン教室で習って以来なので、
コンタクト先のスカイプ名には
懐かしきクラスメートの名前がそのまま!
ブログを始める前に習ったんだ・・と感慨にふける。
そう言えばあの授業のとき、別の部屋の男性と
スカイプを通してレッスン会話をしたんだ、
顔も知らぬままだったな・・と思うと懐かしい~。


最初PC画面で相手の顔が写らなかった。
それって、もしかしてバージョンアップしていないんじゃないの?
と娘に言われ、教えてもらいながらやってみたら見れた!
それから今彼女のいる部屋をざっと見せてくれた。
今年いっぱいは慣れない環境で忙しそうだけど、授業にどうにか
喰らいついていければいいな。

夜、息子が帰ってきて、
私の使っているパソコンに割り込んできて、
なにやら検索し出した。
なになに?と言いながら二人で見たのは
ベルギーのとある駅で起こったパフォーマンス。
こんなことが可能だってことが凄い!
下にコピーした【詳細】によると、
テレビ局プログラムのプロモーション用との
ことだが、もしも東京駅だったらどうだろう?
迷惑条令とかで禁止されるかなぁ。
若者だけでなくて、老若男女入り混じっているところが実にいい。
見ている側だって、迷惑がらず、楽しんでいるものね。

Sound of Music

Central Station Antwerp(Belgium) 

More than 200 dancers were performing their version of
"Do Re Mi", in the Central Station of Antwerp.
with just 2 rehearsals they created this amazing stunt!
Those 4 fantastic minutes started the 23 of march 2009, 08:00 AM.
It is a promotion stunt for a Belgian television program,
where they are looking for someone to play the leading role,
in the musical of "The Sound of Music". 「詳細」より


夕暮れの空を見ながら

2009-10-21 | weblog

れあいの森公園にしばらく行ってないので
母を誘って
行こふうとしたら電話が鳴り、お喋りに数十分。
日の暮れるのが早いので焦ってしまった。

 公園に到着したのは、
真っ赤な太陽が
地平線から姿を消さんばかりの時。

ベンチに腰掛け、幾分冷たく感じられる風を肌に受けながら、
遠くを走る電車や
お散歩中の人や犬、子供たちのすがたを
ボーっと見ているだけで気持ちよかった。




去年、テレビドキュメント「消えゆく妻の記憶・・・」での姿が
私にとって最後となった南田洋子さんが今日亡くなった。
認知症を病んで数年。くも膜下出血が原因だった。



たまたま、以前行ったコンサートでどさっと貰ったパンフレットを
さっき整理しながらふと目にとまった一枚
~大腸がん撲滅キャンペーンコンサート~“Brave Circle Live 2009”
来月行われるはずだったが、
このパンフレットの中に加藤和彦さんの写真を見つけた。
早過ぎるまさかの最期を自ら選んだ。
(コンサートは中止となる)



友人からは
「さっきメールを送ったばかりの親友が、自宅の火災で
母親共々亡くなっちゃった。母親思いの彼女のことだから
きっと足の悪い母親を助けようとしたんだわ。
送信したとき、彼女はもう亡くなっていただなんて
もうショックでショックで・・・」と
悲痛なメールが今月初旬に送られてきた。
その日の夕刊に記事が掲載され、私もショックを受けた。
彼女も母親と同居しているし、私も一人暮しの母がいるし、
・・・お互い気を付けようね、しか言えなかった。 

・・・千差万別な人生の最期・・・


その一方、お孫さん誕生で大忙しの友人や知人もいる。



雲や風のように、日々変化の連続だ。
 

 


tic tic tic tic tac♪

2009-10-16 | music
父が亡くなって以来、毎年母の出す年賀状は裏の文面だけは私がパソコンで作成・印刷し、母はそれにひと言付け加え、表の宛名を手書きしていました。それがここ数年、年賀状書きにプレッシャーを感じていたようで、同じ人に二通出したり、書いたかどうかわからなくなることが増え、戸惑っていたのです。その都度母に、「届いた年賀状にだけ返事を書いたらどう?それも大変って思うのならいっそのこと止めたら?」と話しましたが、やめることを考えただけで猛烈な淋しさに襲われるようで、決心しかねていました。

そんな母が先日言い出しました。「字が思うようにスラスラ出てこなくなってきたので、もう年賀状は今度で最後にしたい」と。

高齢を理由に年賀欠礼する知人・親戚はいますが、とうとう母も・・・と考えると、「もうやめてもいいんじゃない」と言い放ってきた自分の軽い口にチャックをしたくなりました。何気ない気持ちで相手に投げかけた言葉や一筆は、どんなに後悔しても、相手にキャッチされてしまい、もとに戻りません。こっちがすっかり忘れても、自分の言った言葉がずっと相手の心をグサッと刺し続けていたら・・・そんなことを考えていると気が滅入ってしまいます。(すぐケロッとする性格だから、思ったときに書き残さなくては!)

母から2年分の年賀状を預かり、ぼちぼちとパソコンで住所録を作成しています。ついでに自分のぶんも。なにぶん字は下手でも私、手書き派なものですから、PCでは住所録を作ったことがないんですよ。来年用の母の年賀状はそれをもとに表も印刷することにし、母は一筆添えたければそうすればいいし、気が乗らなければそのまま出せばいいし、と思いました。(が、初めての「筆王」での作成にオロオロ気味でっす。)

10月4日のマイブログにFAFAの曲を追記したとき、You Tubeの彼女の曲のリストの中に紛れ込んでいた「Carrapicho」を見つけ、いっぺんでその曲のとりこに。あたまの中が酸欠状態のときや気持ちが煮詰まってしまいそうなとき、このブラジルの曲を聞いているとすべてすっ飛んじゃってスカーッとします。ダンスをマスターしたいな!

Carrapicho





おまけの「Kaoma Lambada」
ランバダ-Wikipedia

いってらっしゃ~い!

2009-10-12 | family

台風一過の翌日が娘のサンフランシスコへ旅立ちの日。
一日ずれていたらどうだったのだろう。
家まで友人3人が来てくれて、成田空港まで見送ってくれた。
スーツケースが二つになってしまったので、
二台の車で一つずつ運ぶことができた。
仕事を休んで!車を出してくれたS君や、
家に来て手伝ってくれた二人のAちゃんに感謝でいっぱい!

別に娘を嫁に出したわけではありませ~ん。
いやむしろそのほうが良かったかもしれませんが。
よくぞ部屋を片付けもせずに出掛けたな~!
と、空港から戻り彼女の部屋をのぞいて大きなため息。
リフォームするかもしれないし、引っ越すかもしれないからね、と
脅かしたのに、出発前夜まで外出ばかりで、
持って行く荷物を揃えるので手いっぱいの娘。
ったく~!

今回は仕方なくの学生ビザでの滞在なので、来年一たん帰国し、
出来れば就労ビザを取り直して再び米国へいくつもりらしい。

重い手荷物を搭乗口までS君に持たせて、女三人が先を行く・・・
(ゴメンネ、Sちゃん!)
そして、この後方には私と母(おばあちゃん)が歩いていました。


愛用のMacを持って、
「行ってきま~す!」



皆さん、お見送りいただき、本当に有難うございました。
素敵なお友達に私も母も感謝感激しています。




 


台風通過の日

2009-10-09 | family

今回の台風18号で、はじめて夫を職場まで送っていった。
京葉線、東西線ともに不通だから、マイカー通勤族ならともかく、
通勤したくても行けない人は行けない。
タクシーを使ってまで出勤する人もいるそうだがウチは
どちらかというと必死で行こうとしない傾向があり、
ヤキモキするのは決まって私。

東西線が東陽町で引き返し運転をしているとのことで、まず人間
相手の仕事に就いている息子を東陽町まで送ることにした。
が、な、なんと、行きだけで一時間半掛かってしまった!
湾岸を通るか、やなぎ通りから行くか、いつものように悩んで
いるうちに分岐点を通りすぎ、やなぎ通りを走っていると、
湾岸の方がよかったのに、と言われた。が、以前湾岸道路で10分
で着く所を1時間かかった話をしたので、同時に二ヶ所を走り比べ
出来ないから何とも言えないね~で収まった。が、動かない!
SUNAMOの方に出る新しい方の道路でいこう、と、あっち行き
こっち曲りしたが、こんな時に限り、皆同じ考えなんだよね。
葛西橋を、強風と戦いながら手すりにすがって必死に歩きで通勤
しているOLや、死に物狂いで自転車を漕いでいる男性などを目の
当たりにし、どうか事故に繋がりませんように、と思わず祈る。
車に乗っていたって揺れがひどくて怖い位なんだもの。

やっとのことで息子を東陽町のメトロ前で降ろし、Uターン帰宅後、
半ば休む体制でいるパパに声をかけ、こんどは反対方向へ向かう。
こちらはスムーズに送り届けることができた。なんだ、こんななら、
パパに息子を送ってもらい、そのままマイカー出勤して貰った方が
よかったかしら。

帰り道、景色のいい海浜大通りを通ったが、海面がかなり荒れ、
台風の影響がそのまま波のうねりにあらわれていた。
花見川(?)の手前あたりで車が数台停車していたので私も停車。
写真でも撮ろうと車外に出ようとしたら、青空に似つかず外は
強風が吹き荒れていた。
怖かったけどエィッと外に出て、
風でよろめき乍ら、髪ボサボサになりながら一枚をやっと撮った。
上のがその一枚だけど、風を感じない静かな画像に見えません?

二人を送り届けて家に戻り、ふぅ~っ、やっと一人になれた~!と
・・それが目的で二人を必死に送り届けたでしょ、ですって?
いえいえ、家にはもう一人、あす出国する子が待機していました。


雨の日本橋・デパートはしご

2009-10-07 | art/exhibit/museum

台風の日の前日は一日雨だったから、外出したくなかったのですが、思い切って二つのデパートに寄り、開催中の写真展と美術展を見て来ました。9日に娘が米国に発つので、お土産を買うことが本来の目的でした。

まずは島屋で開催中のウィーン世紀末展。ウィーン・ミュージアムのコレクションの中から約120点が公開されていました。クリムトやシーレ以外はほぼ知らない画家の絵でしたが、結構見応えがありました。

左の絵がエゴン・シーレの自画像ですが、今回マックス・オッペンハイマーの描いたシーレも展示されていました。どことなく似ている・・と思って説明を読んだら、まだ描き出しの貧しいころに、共に絵具を分け合って描いた隣人同士だとのこと。なるほど、影響って知らないうちに受けているものなのでしょうね。
28歳で亡くなったシーレの絵ですが、上手いとか下手とかの評価では表わせない彼独特の表現手法で描かれた作品は、鑑賞する人の目にしっかりと焼き付いて忘れられないものになるだろう、と感じました。心が伝わってくる絵なんですね。

クリムトの作品は、以前の展覧会で沢山見ているので、もっと大作があってもよかったのに、と思いました。

次に向かったのは三越新館。長倉洋海写真展「微笑みの降る星」が開催中でした。写真展は、長倉氏が20年以上にわたって世界中でとらえた子供たちの姿をテーマとして、

 「紛争地の子どもたち」
 「アフガニスタン・山の学校」
 「子どもたちの大地」
 「ザビット一家 家を建てる」

の四つの章から構成。 

長倉氏の写真展は初めてでしたが、様々な国で、様々な環境下に置かれた子供たちの屈託のない笑顔を、どのようにして引き出したのかを思うと、最後は長倉氏ご本人に目が向いてしまいました。

 

ちょうど写真展を見終えたころ、サイン会が始まったようで、写真家本人にお目に掛かることができたのです。一般的にサイン会は、図録を購入した方だけの特権ですが、このとき場内でのアナウンスでは、「絵はがき一枚でも構いません。」だったので、嬉しい気持ちになりました。絵はがきを探している内、本の方が欲しくなり、それにサインしていただきました。

        

   握手を求めると、はにかみながら小さな手を差し出してくれ、
   さっきまで泣いていても、いやなことがあっても、「やあ!」と
   明るい声をかけるとすぐに笑顔を浮かべてくれる。
   決して楽な環境ではない。だからこそ「今」を懸命に生きていた。

「初めての土地で不安がいっぱいの心を、ふっとなごませ、いつも友達になってくれる子供たち」のことをこんな風に捉えているカメラマンは、やはり子供たちが笑顔を返したくなるような温かみのある方でした。だってこんなに素敵な笑顔を、ぜ~んぶ長倉さんが、少なくてもその瞬間は、独り占めにしているんですものね。

写真展を見て感じたことは、本当の豊さは、心と心の触れ合いからしか生じないということです。内乱で全てを失った家族が、経済的には最悪の状態なのに、皆で助け合いながら笑顔で家を再建しているすがたは、過剰な物質に潰されそうに生きている私たちから見ると、哀れむどころか羨ましくさえ思えました。きっと、何もないところからの眺めは、微笑みの降る星でいっぱいなのかしら。

    
 ←これがサインしていただいた本。

 最後ページに長倉氏のイラスト入りの
 こんなハンコウを押してくれました。

 急ぎ足で見るにはもったいないほどの
 良い写真展でしたが、会場をあとにした
 時の 何とも言えない爽やかな心地は、
 被写体である大勢の子供たちの、純粋な
 笑顔のお陰でした。
 
 7階で英国フェアを覗き、地階で買物を
 済ませ、雨の降りしきるなか、満足して
 帰路につきました。


来日中は雨日和

2009-10-07 | family

      

雨の日に成田に到着し、雨の日に発ったのは 息子の台湾の友達。
ネットを通して知り合い、7月の台湾旅行のときが初めての生対面でした。
交換留学生として日本に滞在していただけあり、
日本語はほぼ理解しているから、意思の疎通はばっちりのよう。

 運悪く、ディズニーランドに行った日も雨。横浜散策の日も雨。
晴れ上がった日と言えば、私たち家族と一緒に食事した日だけ。
食事なら雨日でもよかったのに、うまい具合には行かないものです。

秋を感じさせる上の花写真は、ブライトンホテルのロビー階でのもの。
グロリオーサの華やかさに負けずと、パンパスグラス(?)が秋を主張し、
下で小さく「10月の主役は私たち~♪」と、プチカボチャが呟いています。



息子が台湾旅行をしたときに、彼女(はい、女性です!)のご家族全員
ともお会いして食事を共にし、お土産まで頂いた、とのことで、
さて、こっちとしてはどのような対応をしようか、と、迷いましたが、
歩いていける近場ホテルで気楽に、と、「カシュカシュ」の
ランチバイキングにしたのですが正解でした。だって一時半に予約を
入れておいたのに、出先から二人が着いたのは二時過ぎでしたから!
バイキングの終了が三時なので、初対面にもかかわらず、
“お話しよりも、まずはどんどん食べよう”てな具合でした。

彼女、別にフィアンセでも何でもないし、親の出る場合かなぁ、とも
思ったのですが、写真で見るよりずっとチャーミングで良い子なので、
この先二人は果して・・・とか勝手に考えちゃったり・・の私。
しかし~、一体全体何回目のことか。(笑)

お土産をいろいろ頂戴してしまいました。
椿の絵の箱はウーロン茶二缶が、黒い箱に赤い帯の付いた箱は
鳳梨酥(パイナップルケーキ)、そして、まぁるい焼菓子は太陽餅です。
太陽餅は台中の伝統菓子のようですが、ボロボロと皮がこぼれて
食べにくい、なのに、なぜか止みつきになりそう・・。

 

 


2016年はリオに!

2009-10-04 | news


10月2日にコペンハーゲンで行われた国際オリンピック委員会の総会で、
最も多く票を獲得したのは 三度目の挑戦都市、リオ・デ・ジャネイロでしたね。
南米大陸での初めての五輪となるそうですが、決まった瞬間、
海の向こうからサンバのリズムが聴こえてくるような気がしました。
昔、労働党党首だったルラも、「世界の」ペレーも年取ったけど、
招致のため、一致団結してのアピール度は強力でした。
オリンピック招致のために作られた各都市のHPも面白いですよ。
これも評価の対象になっていたとしたら・・・どこのHPがグーでしょう?

CHICAGO × TOKYO × RIO DE JANEIRO × MADRID

7年後は・・・私は、母は、日本は、世界はどうなっているのかを
チラッと考えましたが、変化が多そうで想像するのはちょっと難しいかも。
というか、思い浮かべたくない部分ばかりなんですよね。

リオはシドニー、サンフランシスコと共に、世界三大美港の一つに
数えられているだけあり、景色は最高ですが、私がブラジルに居住して
いたころは、夜遅く車で走る場合、「赤信号でも止まるな危険」的に
言われていたので、へぇ~大丈夫かなぁ・・と思いましたが、きっと
国をあげて警備に徹することでしょう。国を、国旗を愛して止まない
愛国心の強いお国柄ですし、南米の中で唯一ポルトガル語を話すこの国は
貧富の差こそあれ、みな陽気ですから。2016年を楽しみにしてましょう!

FAFA DE BELEM(ファファ ジ ベレン)の歌うブラジル国歌が昔から
好きでしたが、だいぶあとになってからのをYou Tubeで見つけました。
可愛かったファファも、私同様!すっかり年取りました。
ルラ大統領も一緒に出てきますので、ご興味+お暇のある方はどうぞ。

ただ、以前ご紹介したような、しないような・・・
ブログも5年目になると、何をupしたか忘れちゃうんですよね。


【追記】

こちらが一般的に歌われるブラジル国歌ですが、
イントロが長~く歌詞も長い!

★ローマ法王のヨハネ・パウロ2世がブラジルを訪れたとき、
FAFA DE BELEMが歌った「Ave Maria」も良いですよ。