幼なじみの一人が風邪をひいてしまったので、三人で会う日を延期しよう、と思ったところ、別の用事があったので、ひとまず二人だけで会うことにしました。 古い木造家屋をカフェやショップにするスタイルは大流行の昨今ですが、石見銀山で廃墟と化した幾つもの古民家を再生している群言堂さんならお手の物です。 平日の、正午にならない時間だというのに、すでにテーブルが埋まりつつありました。 「イマ」を生き生きと楽しみながら、古き良きものを活かし新しい価値を提案する。
食後のカフェは、ネットを通して知ったところを提案。とにかく西荻は小さな店がひしめき合っている上、駅を降りて、さてどちらへ・・・といって見渡しても、広いメイン通りが見当たらない。なので、家を出る前にざっと手書きした地図を友人へ見せたのです。案の定、一年半前に出来たこのカフェを彼女はまだ知りませんでした。 靴を脱いでお邪魔し、カフェオレを飲みながら、頼んでおいた、彼女のお姉さん手作りのネックレスを見せて頂き、ビーズとフェルトの二点お買い上げ。昔から、袋物、バッグ、アクセサリーなどなど、何でも器用に作り、手作り仲間とショップに置いてもらったりしていたようですが、妹である私の友人に、上げるのではなく、買わせるそうで、これまでにどれだけ買った(買わされた)ことか、とこぼしていたけれど、その彼女から私は時々頂いていたんですよ~。お姉さんの手作り品はセンスがいいしお手ごろ価格なのです。ギフト用に使うかもしれないので写真は撮りませんが、前回会った時(ブログup出来ていませんが、日本橋三越での東山魁夷展を見に行ったとき)彼女がつけていたのがこれ。寒い冬に、とても暖かそうだし、セーターに合いそうなので、私もほしくなったのです。が、同じものは作らないのですって。
ゆったりした店内には、ちょっと手にしたくなるようなセレクト本が沢山置かれ、カフェを飲みながら自由に閲覧できます。小物などの販売スペースもあります。
お庭を見渡せば、この家の象徴ともとれる大きなツツジの木が目に飛び込んできます。
帰り際、オーナーとみられる若い女性とお話をしていると、「これから加山雄三さんがここにやってくるんですよ。今、西荻窪をブラブラしているようです。」とのことでびっくり。私は一目でも会いたいと思ったのですが、友人の「じゃ、早く帰らなきゃ!」の勢いに負けました。
このあとは友人の案内で、いつもの八百屋、ステーキ用の肉屋さん、孫の保育園、娘のマンション、ちょっとおしゃれなブティック、リサイクルショップ、骨董屋さん、和菓子ならここ、行きつけの美容院、水泳をしに通っているスポーツクラブなどなど・・・彼女の生活圏をなぞるように、すっごくよく歩きました。 帰りは彼女ご用達の、「カツを買うならここ」というお肉屋さんに寄り、美味しいというメンチカツを(ショーウィンドウの中は売り切れたのかカラッポだったので)その場で揚げてもらうことに。揚げてもらっている間も時間を惜しむかのようにあちこちを散策。個人の商店が多いこの街の魅力を肌身に感じながら、メンチカツを受け取りに行ってから駅に向かうと・・・・
六童子とは、2009年の春に西荻窪商店街がまちの活性化のために設置したブロンズの彫刻。せんと君で有名な藪内佐斗司氏の作品なので、アンティークの愛好家など彫刻の鑑賞を目的に西荻窪を訪れる方が増えるようにと、六体が西荻窪の様々な場所に設置されている。 埋立地の、鉄筋コンクリ―トで囲まれた中で、大型店舗ばかりでの買い物を主流とする生活をしていると、何かしら発見のある、昭和と平成が」入り交じっている街ってとっても楽しいです。 その日の夜は娘と二人だけの夕食だから楽ちん♪ だったはずが、「食べてくる」メールが入り、一人ボッチの残り物寄せ集めディナープラスαメンチカツで、一人にしてはちょっとにぎやかな晩御飯となりました。食事のお供は、ウィスキー のオン ザ ロックで。
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年末年始の休暇を少し延長して、娘が初めて旅したロシア。 外国とはいえども、空港でレンタルケータイを手に入れれば一安心なご時世です。「ママはたぶん掛けてこないよね」と言われた通り、掛けるのではなく、こちらからはgmailで充分でした。肝心なことはあちらから連絡ありますから。 帰宅したときの一声は、「今回のお土産は食べ物だらけだよ~!」 長さ35cm×2本のサラミに、別の種類のソーセージ。
知人の母親が作ったというキノコ漬けの大きな瓶! ヒラタケのように平たいキノコが瓶にぎゅうぎゅうに詰まっていますが、「これすっごく美味しいの。あっという間になくなるよ」・・・と言っていた通りで、気が付いたらカラッポ。お皿に盛り付けた写真も撮らず終いだったのでちょっと残念でした。
ガラスの密閉容器にぎっしり詰まったイクラ!
これは砂糖で固めたものの中に生の赤いベリー?が入った甘酸っぱいお菓子。 チョコレート菓子を包んでいる紙が、レトロっぽくてかわいいので伸ばして保存。
あ、それとウォッカもありましたが、写真撮り忘れました。 Vogueロシア版 家族宛てのほかにも数枚、絵ハガキを送ったけど、着くのは遅いかも、と言っていた通り、投函してから約20日後に受け取りました!確かに去年出したと言っているのに消印が今年になっているのは何故でしょう?
上は、「PALACE BRIDGE」、(サンクトペテルブルグ)
↑ウチに送られたのは、これ。 絵ハガキにはその場所のみ、英語でも書いてあったので判ったようなものです!
上は、「CHURCH OF THE SAVIOR ON BLOOD 」(サンクトペテルブルグ) 1861年に農奴解放令を出したアレクサンドル2世は、1881年3月1日、この地で革命家によって爆弾を投げつけられ、暗殺されました。
「愛の南京錠」 モスクワでは、ロシア美術のコレクションで有名なトレチャコフ美術館の近くに 写真の説明は全部を見せてもらったときに聞いていましたが、詳しいことがわからないからちょっと調べてみると、なかなか興味深いものです。 最後の一枚はマリインスキー劇場でバレエ「くるみ割り人形」鑑賞時。
そのほかエルミタージュ美術館や町のカフェや街並みなども興味深かったですが、一般市民の住宅はビックリするほどシンプルで質素だったそうです。 ・・・・・確かにヨーロッパ色が濃くてキレイな街ではあるけれど、ヨーロッパと呼ぶには洗練さが足りないかな、と思わなくもない。 私の中学生時代に影響を受けた、ドストエフスキーの住んでいた場所に、彼の本を読んでいない子が行けただなんて、ちょっとずるいわ~。ラスコーリニコフの足跡をたどってペテルブルグの町をさまよいたいわ~。
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電車に乗りながら行き先の順番を考えたり、行き先を変更したりすることってありませんか?この日は初詣にいきそびれていたので、日本橋の日枝神社にでも寄ってからデパートの美術展にいこうかなぁ~~と、頭の隅で薄っすらと考えながらJRに乗りました。そして、途中下車、するか、やめるか。どうしよう・・・と、直前まで迷っていましたが、八丁堀に着くや、えいっ!と下車してしまいました。 まずは茅場町方面へと歩き始め、歩道に沿ったところに、なぜこんなところに?と思われてもおかしくない稲荷神社を発見。
個人宅の玄関の前に稲荷神社とは・・・
八重洲通りが亀島川を渡る橋。架橋された年代ははっきりしていないが、元禄の時代に架橋され、赤穂浪士が仇討ち凱旋時に通った橋と伝えられているそうです。大正12年の関東大震災で被害を受け、昭和4年鋼上路アーチ橋として架け替えられました。
私が橋のたもとで見つけたのは、芭蕉の句。 八町堀を詠む
深川に芭蕉庵があったころ、ふらりとこの辺りにやってきたのでしょうか? 橋の向こう側には赤穂義士・堀部安兵衛武庸の碑があると、あとで知りましたので、写真をwebより拝借。
次は、新亀島橋です。船が浮んでいる風景って絵になりますね~。
その橋のたもとに、こんどはこのような追悼碑を見つけました。
右側の碑文には、 大震火災遭難者追悼碑 左側には、 戦災遭難死者慰霊碑(裏面) と、ありました。 大正12年9月1日午前11時58分、相模湾北西部沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大な地震が発生した。この地震で被災者は190万人、死者10万5000人、倒壊した家屋約10万戸、焼失した家屋が約22万戸にのぼった。 逃げ惑う人々が、あまりもの熱風に我慢できず、隅田川に飛び込むも、川の温度が熱湯のようになっていた、とか、その惨状はテレビや書物などを通して知っていましたが、このような碑を改めて拝見すると、身が引き締まる思いです。阪神大震災、東日本大震災、と、ここ20年のあいだに、日本列島は二つ以上もの大震災に見舞われたし、今後も更なる大震災が、かなりの確率で関東近辺で起こり得る、と言われ続けているのですから、本当に恐いことです。 ほどなく、前々から来たくてたまらなかった古い建物を見つけました!
1927年(昭和2年)に竣工とのことなので、関東大震災の後に作られたのですね。
中に入ってみますと、いたってシンプル。
とりあえず階段を上って行こう。
天井の配管、配線がむき出しの懐かしい構造! モノトーンの中に映える赤と青にペイントされたドア。 ショップの入口を撮り忘れましたが、目指す「森岡書店」は3階にありました。 展示品の中では、下の画像にある、小さなほうの額画が気に入りました。が、お値段聞きそびれました。
若い方々が昭和初期の建物の雰囲気を好んで利用する動きはとても心強いです。良いものをいい、と感じる気持ちに年齢はありませんね。 更に上の階へと上り、唯一、1階に案内のハガキが掲示されていたショップのドアを開けました。中が覗けないドアって、開けようかどうか考えちゃいますが、ここまで来たんだから・・・開けるしかないでしょう。
開けて中に入ると・・・うゎっ、フェミニン♪
フランスアンティークの布や裁縫材料、雑貨等を取り扱っている、週三日のみ営業のショップでした。
ところがところが、なんと、数日後に移転するとのこと。
霊岸橋から見た第二井上ビルです。前から見ても、横から見ても惚れ惚れしちゃうわ~。
次は、茅場町から永代通りを渡って、日枝神社日本橋摂社で遅い初詣。 ビルの谷間に位置するような、こじんまりとした神社ですが、寛永年間(1624-1645)に山王日枝神社の御旅所と定められ遥拝所が設けられたといいますから、歴史を感じます。
人出はほとんどなく、たまに境内に入ってくるのはほとんどがサラリーマン風。 それから向かったのは目的地の高島屋。コレド日本橋の、永代通りを挟んだ真ん前のビルも完成していたのですね。
下が高島屋を永代通り方面からながめたところ。
車で来る時は、このトタン張りの建物の前を通って、デパートの屋上Pに停めるのが常ですが、見慣れた風景も、どうがんばってもいつか消えてなくなるのでしょう。 がんばれ~っ、って言いたくなっちゃう!
やっと着いた最終目的地(前回ブログ記事)で、この日の途中下車の旅はお終い。 |
新年七日目にやっと都内へ外出しました。 こんなに長く地元で過ごすお正月ってきっと生まれて始めてでしょう。 そのあいだ、娘も帰国したりで三人三様の在宅・出勤日に振り回された「主婦業」が忙しかった?のです。放っといているつもりなんですけどねぇ。 さて、外出目的は、日本橋高島屋で開催中の生誕130年を迎えた版画家の回顧展となる「川瀬巴水展」。 日本橋 〈夜明〉 14歳のときに日本画を始め、25歳で父親の家業を継ぐも、画家になることが諦めきれず、27歳で日本画家 鏑木清方の門をたたいたが、年齢が行っていることで洋画の道を勧められます。 しかし、洋画の世界では挫折を経験し27歳の時、一度は入門を断られた清方に再度入門を申し出て許されると2年の修行を経て1910年(明治43年)に「巴水」の画号を与えられる。1918年には、師の清方が得意とした美人画で生き詰まり、同門・伊東浸水の版画「近江八景」に影響を受け、版画家に転向。 と、ほぼWikipediaからの紹介です。 写生帳や原画なども含めた展示数がとても多く、どれも小ぶりな上、色彩としては暗いものが多いので、人出が多いと見辛くなり目が疲れましたが、版画を通した日本の美しさは世界に誇れるものでしょう。かのスティーヴ・ジョブス氏も愛好家だったそうです。
街歩きを楽しみながらやってきた日本橋でしたが、次回は、順序が逆になりますが、八丁堀~途中下車の旅(大袈裟)~なぁんてね。
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家族に(息子に決まっているか)
教えられてつい何回も見てしまった動画。
かわいいぃ~~!
ヤギもヒツジも大人しい表情をしているけど
鳴き声ってけたたましいんですね。
群れているところで試したくなります。
謹賀新年
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ご無沙汰しているうちに新年を迎えてしまいました。 今年の元旦は家族三人で迎えました。一日ずれていたら、二人とも仕事が入っていたので私一人でした!「家で一人」は、四人家族をこんなに長く続けている身分としては、とても貴重な時間となるのですが、元旦となるとちょっと淋しすぎますね。今日はゆっくり家で過ごし、午後は初詣ではなく、お墓参りをしてきました。手が凍て付きこの冬一番の寒さではなかったか、と思った程でした。 娘は激安チケットが手に入った、と言い、暮れからモスクワとサンクトペテルブルグで休暇を過ごしています。マリインスキー劇場でくるみ割り人形を見たとか。いいなぁ~~! 母の入居している施設では目下インフルエンザが大流行。12月28日から、外部からの訪問は出来ない状態になりました。全員が予防注射をしているにもかかわらず、罹ってしまうんですね。スタッフたちの中でもダウンしている人が出ているそうなので、施設内の介護状態を考えるとちょっと不安になってしまいます。解除になったという連絡がまだないので、新年に母の所に行けず残念です。私は予防注射、したことがありませんが、幸運にもインフルエンザになったことがありません。
おまけ: インフルエンザ
娘の方は、羊に見えない~といいながら苦戦していましたが、やっと旅行の前夜に描き終えました。これもご紹介。 |