ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

ミシンふみふみ

2007-03-29 | weblog


今月限りで今の職場を辞める息子が、お礼を兼ねて職場用にパソコンカバーを作るんだ、と、生地を沢山買い込んできた。一体いつ作るの?と聞くと、「本当言うともう時間がないんだけど…」てなことを言うので「しょうがないなぁ~じゃあ、作っておこうか?」と言ってしまった。昨日は仕事が休みだったので一気に作ろうと思っていたのだが、前夜に初めて服用した“コーラック”の効能がバッチリ過ぎて、それどころではない一日となってしまった。
夜にやっと落ち着き、渋谷TOAで買ったという数種類の布の裁断から始めた。「ヘェ~トーアかぁ、懐かしいなぁ!昔はよく行ったのよ」と言うとびっくりしていた。
さて、ミシンを久しぶりに取り出して動かしてみたが動きがのろくて音がガーガーとうるさい程。途中で止ってしまったり突然動き出したりと、正常なミシンには程遠い。たった一枚を仕上げるのが精一杯だった。あさっての朝までに果たして十枚を作り上げることができるだろうか?
明日も仕事があるし、夜からしか作業ができないし、あ~ぁ、安請合いしなきゃ良かった。外は桜が咲きだしているというのに・・・。
ということで、パソコンに向き合う時間が持てないので、久しぶりに、食卓テーブルの上に置かれた錆び付いたミシンの前で、ケータイから投稿しています。

子供から教えてもらったUNIQLOのこのサイトが面白かったです。きっと真似してみたくなるかも。
movie→mixplay movieと進みます。



【追記】 3月30日の送別会で寄せ書きの色紙を戴いてきました。私にではない
     のに、なぜか胸が熱くなってしまいました。名前がバッチリ書かれて
     いたのでぼかしました。職場の皆さん、大変お世話になりました!

     

                       <

自転車で、海へ!

2007-03-24 | weblog

      
                             ・・・ 高洲海浜公園 ・・・

「暑さ寒さも彼岸まで」 と言われますように、やっと寒さから解放されそうです。
今年は暖冬だったとはいえ、3月に入ってからの寒さのぶり返しは身に応えました。
とは言っても「○○は風引かぬ」諺通りの私ってどうなっているの?参っちゃうナァ。

彼岸の入りの日曜日。強風の中を、わが町の墓地公園までお墓参りに行ってきました。
息子はバイク事故で亡くなった友達のお墓を、ここを訪れる度に探し捲ります。
ものすごい速さで墓石が増え続けているので、父のお墓以外は、位置番号を覚えて
おかないと大変なんですが、それをしない○○もいるんですよね。
お中日には東京の祖父母のお墓をお参りし、親戚の家、2軒にも立ち寄ってきました。

母と一緒の移動は全て車だし、普段でも車で通勤の身。常に運動不足に悩まされます。
そうだ、チャリンコで走ってこよう!と思い立ち、お参りのあと、一人海へと突っ走りました。
ファウンテンテラスホテルの隣の総合公園を海の見える所までいき、さらに建築中の
パークシティグランデ新○○方面へ。ここはマンション、ホテル、介護付き有料老人施設、
商業施設棟などで出来た巨大な複合型施設。

     
                      
                   これはM不動産のHPから拝借の【完成予想イメージパース図】

川と海に囲まれた理想的な立地条件です。アァ~、きれいな所に引越ししたいなぁ。
車とちがい、自転車だと何でも目の前で見れるし写真も撮れるし~と喜んでいたら、
またまたデジカメの充電が不足気味でした。完成間近と言える位出来上っていましたね。

 
               ↑
ただ、外壁面がカラフルなのには驚きです。川に面しているのが左側、海側の建物は
ホテルになるのでしょうか?川側より低層で、真っ白い壁に何色もの明るい系統の色が
アクセントになっています。こういうのって、、、ま、好き好きですか。
商業施設はどんな風になるのかしら~とあれこれ想像しながら高洲海浜公園へと
チャリンコを走らせます。川べりの道はとても気持ちよく、堤防の向こうはもう海。

         

         「海が好き 海にうつった 空も好き」 
                      って、つい口ずさんでしまいました。

実はこれは去年の12月下旬の新聞記事でみつけた句をもじったものなんです。
小児がンと3年向き合い、迫ってくる死を目前に、両親と語り合いながら生き抜いた
山口県の有国遊雲君の最後の言葉「みんなありがとう。ぼくは往きます」
記事を読み、胸がいっぱいになりました。

  「よくなることは期待できない。死んでいくことがどういうことか考え始めよう」
  昨年6月、入院先のがんセンターの一室で、住職でもある父親が語りかけた時、
  遊雲君は黙って聞いていたという。
  右足首に腫れものができたのは小学6年生の時。
     「高校生の遊雲とは会えないかも
しれないな。」父親は彼に病名を告げ、そう言った。
     「つらいものから目をそらすのはまやかし。どんな状況でも今をいとおしく思って欲しかった」
     再発し、縁が切れるなら、と切断にのぞむも肺や骨盤に転移。この時ばかりは号泣した
     遊雲君だが、落ち着きを取り戻してこう呟いた。
     「出口と思ってドアを開けたら、まだ道がある」
     そんな彼に父はこうも言った。「父さんなら、やりたいことを全部するには300年かかる。
  間に合わなければ生まれ直すさ」
  創作が好きな遊雲君は病床でも物語を書いていたそうで、地元の清流を詠んだ句が
  国土交通省の河川愛護の標語に選ばれ、地元有志がその碑を建ててくれた。
  「これで一つ残せた」と、かれは喜んだ。
  その句が、これ。
 
              川 が 好 き
       川 に う つ っ た
            空 も 好 き

以上は記事を見ながら所々を選んで書いたのですが、このあとの記事も、せっかくだから
書いてしまいますね。(父とか両親のところは実名で書かれてい
ました。)

  抗がん剤は効かなくなりつつあったが、遊雲君は、抗がん剤の治験を選んだ。
  「支えてくれた人に何が返せるか。世の中の役に立ちたい」との思いからだ。
  11月。痛みを抑える治療に切り替わった。
  今月2日の未明。痛み止めが切れて目を覚ますと、母の手を握りしめた。
  「お母さん、ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね」。
  その夜、「ぼくは往きます」と言い残し、3日午前、息を引き取った。
  両親は、「死は終わりでないと教わった。遊雲はいつも『今』の私たちの中にいる」。

しんみりとしてしまいましたが、彼の句、何回詠んでもいい句だなぁと思います。
死は終わりでない。宗教的に受け取られがちな言葉ですが、素直にそうかもしれない、
と、思えた、悲しいけど心が洗われるような記事。切り抜いて取っておいたのですが、
こんな所で思いがけずupできたことがとっても嬉しいです。

高洲海浜公園で東京湾を一望したあとは、川に沿って、行きつける所まで走り、
今川橋経由で家に戻りました。からだポカポカで気分は爽快なり。
こーいうことを継続できるといいんですけどね~!




私の花 その3

2007-03-19 | flower/green

                     
                                              勅使河原茜展「私の花」
 その3

まる2日間、200人ほどのスタッフとともにそのトップとして展覧会を作り上げた茜さん。
オープンにこぎつけた時のご挨拶の中で、それまで支えて下さった皆さんへの感謝の言葉を
述べながら、感極まって声をつまらせていました。素敵な涙。やり遂げた人しか味わえない涙。
その光景が草月のHPのなかのムービーで見ることが出来ます。

小原流、池坊・・等々の違いも知らず、見るだけの無知なbiancaですが、茜さんは
草月流の華道家だけに留まっていられない才能の持ち主だなぁ、と感じました。

4月19日から、こんどは新宿タカシマヤで茜さんプロデュースのいけばな展
草月いけばな展
―未来への光―が開催されます。

 

これっぽっちで約5600文字ですって!こんな事初めてだわ。どうなっているの?
なんだか「もっと手短に書けや~い!」ってgooから言われているようです。



私の花 その2

2007-03-19 | flower/green

    昨日の投稿時、不都合が生じましたので3回に分けざるを得ませんでした。
今日も不都合が生じました。これだけで約10000文字ですって!ウッソ~!
10000文字以上はupされないので、文字数を見ながら写真や文字を増減させ、
再度挑戦しています。なんでだろう?なんでだろう? さっぱりわからん。 

勅使河原茜展「私の花」 その2

・・・・・「光の庭」変化する眼差し・・・・・
薄暗い中、竹で丸く編まれた大きなオブジェがあちこちに置かれたり
吊るされたりしてあり、家元が意図したように、見る側の視線がおのずと
会場全体に行き渡るように仕組まれています。
この写真は「光の庭」のほんの一部ですが、広い会場に夜桜の舞?が
まるで舞台装置か空間デザインのごとくに繰り広げられていました。
今年の桜の開花は今週末あたりとか?たのしみですね。

 
 

・・・・・「あしたの花」 緑にそまる白い心・・・・・
これが最後のセクション。あなたの色に染まりたい~♪と思っているかどうかは知りませんが、
白いお花たちを見ていると「無」の境地になれるような気がしてきます。


 


あとで知ったのですが、初日の8日朝に美智子皇后がご来場されたそうです。
同日夜には高円宮妃久子殿下がお見えになったと知り仰天しました。だって前回ブログで
書きましたように、同じ日の夜に娘と約束して靴を探しに、ここに来ているんですもの。
屋上駐車場に車を止め、階段で8階へ降りていたら、目の前に上品なご婦人が
ショーウィンドウを覗かれていらっしゃいました。その数歩下がったぐるりには付き人だか
デパートの方々だかが彼女を囲むようにしていたので、どなたかしら~と興味津々でした。
待ち合わせをしていなければ、きっと野次馬になっていたでしょう。


私の花 その1

2007-03-17 | flower/green

今週はパソコンを思うように使えませんでした。前にも書きましたが、子供の部屋にあるパソコンを使用しているので、彼女がPCを急ぎの仕事の為に使う時は、なかなか順番が回ってこないのです。こんな時はブログもお休みして、ゆっくり部屋の片付けとか読書などをしよう、と思ったのですが、思ったようには行きませんでした。雑用はきりなくあり、夜はさっさと更けていっちゃうんですもの。

居間にある古いIBMは動きますが時間がかかりすぎる!
でもこのIBM、父が、「子供にパソコンぐらい買ってあげろよ。これからの時代になくてはならないものだ。どんどん使わせなきゃな。」と言って買ってくれたものなんです。父はその昔、ワープロが出た時もいち早く買いました。私はそれを貸してもらい、ちょうど小学校のPTAで役員をしていた時だったので、《運営委員会便り》を中味はともかく、12回分、ワープロで作成しました。それまでは手書きだったのです。目的があるっていうことは、早く覚えるいいチャンス。それ以降、そのワープロは娘が使い、我が家にチャッカリと居座ってしまいました~とさ。
息子は我慢して古いIBMを使っていましたが、先週末に、自分用にと、突然ノートパソコンを買ってきちゃいました。お金がないはずなのに。転職するっていってるのに!VISTA搭載なんですよ。も~~っ!Core2Duoとか言っちゃって!これで存分にゲームをする気でしょうか? 宝の持ち腐れだわ! キミィ、ネ、それを居間におきましょうよ、ね。
という事で、私のパソコンライフ、ちょっと惨めな状態です。さっさと買い換えればいいのに?そうなんですよね。でも娘も「仕事でも使うのでママと共同で使いたくない。近々自分用のノート、買うからね。(ヘタにいじられたり変な事をされて調子わるくなったら困る!)」ですって。となると、このDellが余ることになるでしょう。で、ジッとしているより他ないんです。

出だしから、又、長ったらしく書いてしまいました。
え~と、カテゴリーは「パソコン」ではなく
「flower・green」。

3月13日火曜日の最終日、

勅使河原茜展「私の花」に、仕事を早く済ませて?行ってきました。
「私の花」という優しいサブタイトルと、いただいたチケットの色に引き付けられてしまったんです。
2001年の草月流第四代家元継承後、初めての個展とのことでした。

 webよりの画像

・・・・・「はじまりの波」6万枚の経木の波・・・・・
経木(きょうぎ)だけで覆われたトンネルをくぐる時から、
この先何が現れるかにワクワク。アッ、見えてきました!
絢爛豪華な花の乱舞!!

・・・・・「色彩のかたち」草月コレクション・名品にいける・・・・・



 
                

いまどきの華道家元の展覧会って、やたら大きな木や枝やら流木などを使い、
ライティング効果を組み入れたりオブジェを使ったり、と、アーティストのイメージが強く、
それを各流派が競っている風にさえ感じられます。時にはうんざりするほどで、
なんだなんだ!これが華道かぁ、と思ってしまいますが、時の流れなんでしょうね。

とは言いながらも、今回の勅使河原茜展は楽しめる要素や驚きがいっぱいあり、
彼女の、家元としてよりも、芸術家としてのセンスを垣間見ることができた気がします。
それもそのはず、父であり、第三代家元である勅使河原宏氏も、
カンヌ映画祭特別賞を受賞した「砂の女」では映画監督を務め、
オペラの舞台美術や陶芸なども手がけた多才な方。
茜さん自身もいけばなの他、各展示会の企画・プロデュースや、
能舞台などの舞台美術に加え、ジュエリーデザインを発表したりと
親譲りの多才さを色々な分野で発揮しているんですね。
知らなかった!

日本語では勅使河原茜展「私の花」なのですが、英語でこう書かれていました。

* * * 
Akane
Teshigahara 
Solo Exhibition 
“Ikebana Through My Eye”  
* * * 

・・・・・「カレイドスコープ」【万華鏡】・・・・・
このセクションでは周囲の壁面の色が次第に変わっていきます。
周囲の色の変化によって、同じ筈の花も見え方が変わってくる、
そんな楽しみのできる仕掛けですね。まるで人間のよう!
シンプルな活け方が冴え、珍しい花々と花器が、目を楽しませてくれました。

 

 

そして次の間へ・・・


・・・・・「闇の花」漆黒に浮かびあがる花たち・自作花器にいける・・・・・

   

また、次の間へ・・・と、続きます。

 

 


富本憲吉展

2007-03-10 | art/exhibit/museum

          

先月、国立新美術館に一緒に行った友人に、「富本憲吉展」とっても良かったから是非行ってくるといいわよ、と言われていました。そんな矢先、kちゃんから 「富本憲吉展、あるけど行くなら送る」 というメールを受け取ったのです。すごい!これぞ以心伝心というもの。で、今水曜日に行って参りました。
        
               
   水曜の夜はパソコン教室があり、目が疲れ過ぎたし、木曜日は仕事のあと、娘と 
   日本橋Tで待ち合わせて結婚式用の靴探しに付き合いました。さらに銀座Mまで
   見に行き、その日はパソコンどころではなくなったのです。そして昨夜は・・・パソコン
   に向かって少し作業を始めていた頃にパパが帰宅。次に息子。そして最後に娘。
   金曜日なのに全員家食でした。夜半近くから、娘がこんどは何を着て行こうか、
   バックはどうしようか・・・・で、夜中の2時まで大騒ぎ。それに巻き込まれました。
   もう決めていると思っていたのに、ヤレヤレだぁ。大して持ってないので大変そうだけど。
   式と披露宴と二次会に出席なので、着替えも必要だし、で、私が20代に着た服
   まで登場し、それにする!って言い出しました。それはミニスカだったので、式には合
   わないんじゃなぁい?と言いましたが、今朝、三着をカバンに詰め東京ドームホテル
   まで向かいました。向こうで決める、ですって。地方からやって来る学生時代の友達
   と一緒にこのホテルへの宿泊付きご招待だったんです。2次会は麻布。いいなぁ。
   来月も、こんどはわが町のブライトンで結婚式があるので、うぅっ・・お金がないよ~~
   と、頭をかかえていました。
   ・・・?? なんだか横道に逸れてしまいました。
 そうかぁ、アップできない理由を
   羅列しちゃいました。出来ない理由って、スラスラと沢山出て来るもんですね。
   ど~も、すんまへんでッす。

          
                    大和時代の憲吉の写真です。
                         男優もビックリじゃあないですか。

富本憲吉は1886年に奈良の安堵村という所に生まれ、去年が丁度生誕120年でした。
今回はその記念すべき展覧会にあたります。彼は陶芸家だとばかり思っていましたが、東京美術学校図案科では建築を専攻し、室内装飾を学んだとのこと。
卒業制作を早々と終わらせて、卒業前にはすでに、憧れのウィリアム・モリスのいるイギリスへ留学し、そこで図案や模様のスケッチを学び、さらにステンドグラス科にても学びました。
なぜ、陶芸を・・・?と思いましたが、それは全くの偶然の出会いによるものでした。
留学先から日本へ帰る船の中で、少年時代からの親友であるバーナード・リーチを訪ねるために日本に向かっている
という画家レジナルド・ターヴィー
と知り合いになったのです。

  そのときの出逢いが・・・という、相田みつをさんの言葉が頭をよぎります。

かねてからリーチの事を先輩などから聞いていて関心を抱いていた憲吉でした。ターヴィーのお陰でいち早くリーチに出逢い、深い交友関係を築いていく事になります。
リーチが楽焼に興味を持ち、六世尾形乾山に入門を乞う時は同行し、その後もリーチと師の間で言葉の問題が生じた時などには中に立ち手助けをしていたようです。そのようにしているうちに、自身も楽焼を体験する必要が生じ、乾山から持ち運び可能な楽窯を送ってもらったのが1913年、27才頃でした。
同年、津田青楓との二人展では、木版画、染織に加えて、もう楽焼を発表したといいます。

そのような稀有なきっかけで陶芸への道を歩み始めた彼は、陶芸家の弟子になるわけでもなく、いわゆる陶芸界とは一線を画し、全くの独学で独創的な境地を求めていったのです。

  1963年に他界するまでの約50年にわたる多彩な作陶活動は、
  「模様より模様を造る可らず」 という信念のもと、オリジナルな形と模様をひたすらに
  追求し、用と美の結合という工芸のあり方を求めて格闘した遍歴の軌跡でもあります。
  (パンフレット文中より抜粋)

       色絵金彩羊歯模様大飾壷                     染付「老樹」模様陶板

この展覧会は次の6つのセクションから成り立っていました。

     Ⅰ 東京美術学校から留学、帰国 1908~1912
     Ⅱ 大和時代 1913~1926
     Ⅲ 東京時代 1926~1946
     Ⅳ 京都時代 1946~1963
     Ⅴ 書、画巻、デザインの仕事
     Ⅵ 関係者との交流

東京時代、自宅の玄関脇の定家葛(ていかかずら)の5弁の花から展開された四弁花模様や、京都時代の4枚の葉を組み合わせた羊歯(シダ)模様は、特に代表的な模様ですが、すべて自然の中を歩きながらのスケッチから生み出されたもので、伝統的なものや、海外から入ってきた模様をアレンジするのではなく、独自の作品を作り上げることに全力を費やしたんですね。
どれもが興味深い素晴らしいものでしたが、ブログ序盤からすでに長すぎ、時間が掛かり過ぎましたので、ご興味のおありの方は是非web上や図書館などで、富本憲吉の軌跡や作品、書などをご覧下さい。

生活すべてが独創的で、彼の交友関係の幅の広いことに驚きます。私が知っている人だけでも挙げてみると、学生時代、マンドリン同好会で一緒だった藤田嗣治をはじめ、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎などはわかりますが、有島武郎(作家)、朝倉文夫(彫刻家)西村伊作(教育者・文化学院創立者)、水原秋桜子(俳人・医学博士)などなど。羽仁もと子も、自由学園一期生を引率して安堵村を訪れたといいます。
                      
       

Ⅵ 関係者との交流] の中では、、
  ①生涯親交を結んだ、バーナード・リーチ、
  ②中学校の恩師である水木要太郎、
  ③ロンドン在住の時に知り合ったという洋画家で、尾竹一枝と憲吉の結婚媒酌人を
   務めた白瀧幾之助、
等々に宛てた沢山の絵手紙も展示されてあり、それらの絵文字のなんと洒落た事!
日本語の字体も、アルファベットの字体も、とても味があると思いませんか?

   
          ①                ②               ③


   
        色絵紫四弁花模様飾筥                       「花」字皿と飾筥の絵

上の二点は、私の買い求めた絵葉書です。もう買うまいと思っていたのに、又、買ってしまいましたよ~。母と姉を誘って行って来たのですが、「やきものかぁ~」なんて言ってた人でも、見終わってみれば彼の作品の虜になっていました。手書き模様の施された器の美しいこと。小さな箸置き一つでさえ、手作りの温かみが感じられてとてもよかったなぁ~。成城学園卒業記念ブローチ(1932~44)は、缶バッチの大きさなのですが、素敵でした。卒業生たちはまだ居られるかしら。きっと自慢の卒業記念品だったでしょうね。

大満足して、遅いお昼をミュージアムレストランでいただきました。ここはお味は普通ですが、ガラス越しに見える眺めがとってもいいんですよ。あと少ししたら、一面桜のピンク色で覆われて華やかになるでしょう。
   

            kちゃん、招待券を有難うございました!

                                                   まだあるゾ! もういいかげんにしぃ・・・・!

 

         

 最後に美術館便りの表紙を飾っていたこの彫刻に心を奪われました。
  
+ + + + + 
舟越保武 《その人》 1995年 + + + + +

数々の美しい女性像を作り続けた舟越保武は、1987年突然の脳梗塞で
右半身不随となりました。しかし入院中でも左手で少しずつデッサンをし、
彫刻制作も始めるようになります。「これが最後の作品でした。時間を惜しむように
取り組んでいました。」(2004年7月3日東京新聞「私のオアシス」道子夫人の言葉より)
死の直前まで製作し、2002年に永眠した舟越保武にとって、額にくっきりと十字を刻んだ
「その人」は、長い彫刻家人生をかけて獲得したひとつの結果だったのかもしれません。
(世田谷美術館"NEWS LETTER”より)
  

 

1963年、肺癌のため77歳の生涯を終えた富本憲吉の遺書には、
「墓不要。残された作品をわが墓と思われたし」と記されていたという。

 

   


おひなさま

2007-03-03 | weblog

 

桃桃桃桃桃・・・ 句 ・・・桃桃桃桃桃

 

桃今年もnettonさんのお母様 手作りのおひな様を飾りました。
母の家でも、お母様にお願いして桃沢山作っていただいた
かわいい雛人形達が
玄関先に飾ってありました。(右側です。)桃
雪洞も桜橘もすべて手作り。桃雛台だって、収納箱として利用できる優れものです。
nettonさんのお宅から浅草橋まで、材料を求めに桃お一人で出かけられていた日々が
つい先日のように桃思いだされます。どうかいつまでもお元気でいて下さいね~!!桃
桃


 

桃
桃下のおひな様は、私の父が娘に買ってくれたもの。
小学2年生の時から日本での生活を始めましたが、桃マンション住まいでは
置く場所にも桃しまう場所にもこまるので、つい文句を言ってしまったものです。             

 もっとこじんまりした気の利いたおひな様がよかったわ!桃
桃  なんて、親だと思うと、ズケズケと平気で言ってしまったんですよね。
今回は、もはや弾く人のいない、桃まだ処分できない ピアノの上に飾りました。
雪洞の灯りでお顔を尽々拝見しましたが、思ったより美しい・・・。桃
             


 

桃の節句の由来

[bee] [beeline][jyuji]

 

               遅すぎのアップでご免あそばせ! 


えっ、中村屋?

2007-03-01 | weblog

イョ~~ッ!



昨日の夕食の時間に、「
かぐやひめのぼちぼちいこか日記」(2月23日)で
初めて知った「中村屋」の事を  息子に話したら、
「え~っ、どうして知っているの?」と言われたたので、反って驚いた。

「ちょっと待って・・」と言って‐podをスピーカーに繋げて聞かせてくれたのがこれ
あれぇ~っ、何かが違う・・・・・と言いながらも、笑いをこらえ切れず
噴出しながら聞いていたが、彼の知っていた「中村屋」は “弔辞編” だった。
弔辞をお笑いにして~~不謹慎この上ない!と言いつつもお腹がよじれるほど笑った。
「なにで知ったの?」と聞いたら、たまに行くライブによく名前が載っていたけど、
聴いた事がないので、どんなグループかと思ってCDを借りてきたそうだ。
それが、グループ魂の「嫁とロック」。えぇ~ッ、CDの中に入っていたのォ~?

彼はCDでしか知らなかったので、次に私がかぐやひめさんブログでの「おまけ」
「中村屋・祝辞編」パソコンで見せた。そして次に「中村屋・弔辞」も
webで探し、二人して顔くしゃくしゃにして、涙流して見てしまった。


しらふに戻り、「あなた、バイクに乗りながらこんなの聞いているの?」と聞くと、
「そうだよ!」と、すまし顔。
大丈夫なのかなぁ・・・まだ足にプレート入れたままなのに、バイクを又乗り始めた息子。
中村屋を聴きながら、どんな顔して乗っているんだろう、、、と思うと
心配と同時に、又、おかしくてたまらなくなった。