ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

エクササイズの秋

2010-09-23 | weblog


・・・・・・・・・・ 表情筋 ・・・・・・・・・・

4月から始まった月約一回のエクササイズ。どういうわけだったか初めからお休みしていました。今日は「小顔・美人スマイルストレッチ」というタイトルに引かれ、早々とカレンダーにマークを付けていたので忘れずに参加してきました。
要するに顔の筋肉~表情筋~の筋トレということなんですね。手鏡を持ちながらトレーニングしたのは、沢山ある表情筋エクササイズの中でも特に基本となる四つの体操でした。

【基本の四つの体操】
① 舌をベーと突き出して広げたり細くしたり内頬押しをして舌の筋トレをする。
②「あ」の口をして目と口をおもいきり見開く。
③「い」の口をして広角をおもいきり上げる。
④「う」の口をして唇をおもいきり突き出す。

広角をおもいきり上げる「い」は、お腹がよじれるほど可笑しいときの笑いなので、無意識に行っている動作ですが、「あ」と「う」は人まえではめったにしない、というか、出来ない動作ですよね。意識して顔中のあらゆる筋肉を使うことで顔全体が引き締まりたるみが消えるのだそうです。非常に納得。
年とともに体じゅうが引力の方向に向かって下がっていくのが当たり前、ではなかったのです。男女ともに思ったときがスタートラインです。表情筋を鍛え、いつまでも若さを保つにはやはりトレーニングをするっきゃないんですね。

顔のエクササイズのほか、いつもの体操やストレッチなども組み込まれ、ほど良い汗をかいてきました。蒸し暑さでの汗でなく、体を動かしての汗はとっても気持ちがいい~!

又、当夜は雲が厚く中秋の名月が見えないとわかっていたので、満月前夜、しっかりとお月さまを拝みました。その日が真夏日の最後だったのですね。

秋分の日は小雨の中、墓地公園までお墓参りです。濡れた空気がすがすがしく体のなかに浸透するのがわかりました。今年の秋は、夏への未練など皆無、一気にやってきましたね~。

 


家族会で思ったこと

2010-09-21 | family

敬老の日には去年同様、義母の入居している施設で行われた敬老の集いに二人で参加し、お昼のお弁当を一緒にいただいてきました。義母はもうすぐで米寿ですが、後ろの席には白寿の方が居られ、耳は遠そうですけど返答がしっかりなさっているのでつい、すごい!素晴らしい~!と歓声をあげてしまいました。入居者の平均年齢は85歳位ですが、90代の方が増え続けているとのこと。ということは、長期入居者が多いということです。

昼食後に参加した「家族会」では延命・看取りについて、重いテーマでのお話がありました。先日70代の利用者さんがくも膜下出血を起こし、病院に運ばれ、結局はお亡なりになったとのこと。突然、病院から電話でご家族に延命措置を望むかどうするかを聞かれるので、普段から本人との何気ない会話の中ででも、もしもの場合どうしたいか、意向を引き出し確認しておいたほうが慌てず対処できるのではないか、施設としても、ご家族から看取り介護についての同意書を提出して頂ければその意向にそって援助していきたい、等々。延命措置をどうするかは、家族のなかでも意見が分かれたり対立することも多いようです。なかなか切り出しにくいテーマですが、緊急時、パニクらないためにも、家族全員で話し合っておいたほうがいいのかもしれません。そのあと三つのユニットに分かれて意見・体験などを話し合い、最後に各ユニットリーダー(施設の方)が総括しました。家族の皆さんの様々な経験談は本当に参考になりましたが、出来ればそのような体験はしたくない、と思わざるを得ませんでした。延命はいったいだれのためなのか、人工呼吸器や胃ろうの手術で人生の最期を苦しませていいのか・・・。延命させたことについて、「最後は親孝行をしたかったのに、その逆で親を最後まで苦しませてしまった。自分は取り返しのつかない親不幸をしてしまった」と嗚咽し涙ながら語った男性もいました。一方、一たん胃ろうなどで栄養を注入したことで徐々に体力がつき、口から食べられるまでに回復したという、奇跡的な体験をされたかたも居り、その人は親でなく夫なので年齢的に若かったからということもあるでしょうが、ケースバイケースで対応のしかたも異なるんだ、と理解しました。
看取りの場が施設になるか病院になるか、避けては通れない選択の鍵をにぎるのは私たち子供なのだ、と、改めて考えさせられた家族会でした。

父が最後の入院をしていたときのことが、ふと浮かんできました。
「(誰もいない)今ガチャンスだ。家に帰ろう!」と、病室のベッドから降りようとしたのです。体のあちこちを管で繋がれているというのに・・・。あのとき、管なんか外してでも、万が一のことが起きようとも、(私一人ではきっと、どうにもならなかっただろうけど)なんとしても連れて帰りたかった。医療行為は人の心を癒せないのです。
私も無力でした・・・。

 


孤高の画家

2010-09-18 | art/exhibit/museum

爽やかな秋晴れの昨日、久し振りに美術館に出かけました。
千葉市美術館で先月から開催されている 「田中一村 ~ 新たなる全貌」展。猛暑が一段落してからにしよう、とチャンスを窺っていましたが、やっとその日の到来です。しかしまだしつこく日中の日差しは強烈で、日傘を忘れたのでシミの増えることを気にしつつ、駅から美術館までの、あまり好みでない区間を、必死でこっちの日陰あっちの日陰、と飛び歩きながら行きました。画像は美術館兼市役所の入口です。太い柱に巻いてあるポスターを柱二つ分入れると一方の絵が見にくくなるので別々に撮ってくっつけてみたものです。

田中一村(1908-77)は、栃木県に生まれ、千葉市に20年住み、
奄美大島に渡って亜熱帯植物を題材にした日本画を描き、生前
それらの作品を公表する機会もなく無名のまま没した画家です。
没後の1980年代、テレビの美術番組での紹介が空前の反響を呼び
広く全国に知られるようになりました。

パンフレットにはこのような説明がありましたが、私がこの画家を知ったのは去年か一昨年、友人を通してでした。田中一村記念美術館に行くだけの目的で奄美大島まで飛んで行き、日帰りした彼女から、行った甲斐があった!という話をきいていたので、新聞で展覧会があるのを知り、この画家の絵との出会いにワクワクしていました。

美術館に着いて、その混み様にびっくり。中高年がとても多いことにもびっくり。もしかしてテレビで特集でもあったのかしら・・と思ったら、先週の日曜美術館で紹介されたようですね。19日(日)の夜8時からは再放送されるとのことです。

展覧会の構成は:

第一章「東京時代」 1-1神童 「米邨(べいそん)」
          1-2東京美術学校退学後の大活躍
          1-3昭和初期の新展開
第二章「千葉時代」 2-1千葉へ
          2-2千葉寺風景を描く
          2-3「一村」への改号(昭和22年 戦後の新しい出発)
          2-4公募展への挑戦
          2-5襖絵の仕事
          2-6やわらぎの郷 聖徳太子の天井画制作
          2-7四国・九州への旅
          2-8千葉との別れ

第三章「奄美時代」 3-1奄美へ
          3-2スケッチについて
          3-3奄美での作品

資料も含み250点、と、過去最大規模の展観で一村の画家としての実像に迫った展覧会です。神童と呼ばれただけあり、会場に入ってすぐの短冊に描かれた「蛍図」は、8才の子供が描いたとは思えません。後に続く作品でも、これが十代のときの作品か、と、画家の年齢と絵とを見合わせながら誰も彼も感心していました。

千葉時代に移り、米邨から一村へ改号するきっかけとなったのは、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選してから。しかしその後出品した「秋晴」と「波」のうち、「波」が入選し、自信作だった「秋晴」が落選したことで「波」の入選を辞退。川端龍子と意見が合わなくなり青龍社から離れます。このあたりが一村の性格というか、生き方を象徴しているように思えました。その後の公募展は落選が続き、中央画壇からも離れ、奄美大島へ、と移住することになります。こんなことはきっとwikiで全部わかることですね。

(白い花)

見ていてゾクゾクする絵も沢山あるし、あれっ、と思う絵もありましたが、奄美時代はハッとするような南国の風景画が続き圧巻でした。左下は奄美時代の最大の作品である「不喰芋と蘇鉄」。美術館入口の柱の絵の一つです。

《背景が神の時間と言われる夕暮れの空
クワズ芋は花芽から実が朽ちるまでの姿が描かれ、
四季を表わすとともに、誕生から死までの時間の
経過もこめられているかのようだ》

との解説を読んで、はじめてそうだったのか~、と尽々見つめてしまいましたが、皆さん同じ思いのようで、ここで流れが止って渋滞でした。この隣には入口の柱の左側の絵「アダンの海辺」があり、それにも色々な意味が含まれているようです。

生計を立てるため、地元の紬工場で染色工として働きながら最後まで絵を描き続け、お世話になった人には描いた絵をお返しにし、生前一度も作品を公表することなく無名で独身のまま没した田中一村。もし彼が中央画壇に認められていたら、きっと奄美大島には行っていなかったかもしれないし、このような南国の風景は描き得なかっただろうし、「孤高の画家」などとは言われなかったし、・・・と考えて行くと、人生ってアッ、と思ったときはすでに遅しだし、だからと言って戻って別の道に進んだほうが良いとは限らない。最後は自分との対話のみかも。

奄美の美術館に行った友人からお土産に貰った絵ハガキの絵はこんなでした。

「奄美の杜①」~ビロウ・コンロンカに蝶~

又、そのとき貰ったパンフレットに書かれていた一村の言葉は;

私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティで
あろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であ
るとも邪道であるとも何と批評されても私は
満足なのです。それは見せる為に描いたので
はなく私の良心を納得させる為にやったので
すから・・・・・・。(田中一村の手紙より)

見応えのある展覧会でした。
一村さんについてもっと知りたくなりました。
美しい独身のお姉様のことも知りたくなりました。



蛇足:
このとこるずっとマウスの調子が悪く、目指している場所にすんなり動いてくれずイライラしていたのですが、今日とうとう動かなくなりました。マウスが使えないとパソコンが使えないんだ、と初めて認識。寿命だったのでしょうか。慌てて息子の使っていないPCからマウスだけ拝借して、やっと投稿にこぎつけました。スイスイと動くマウスは快適だ~、と、あたり前のことを喜んでいます。次はパソコン本体かなぁ。その前にデフラグとかクリーンアップをやってみようと思っているのですが、私、出来るかどうか。

 


変わる銀座

2010-09-12 | visit/drive

数日前の朝刊に、

世界一
美しい
わがままを。

というキャッチフレーズで
デパートのチラシが入っていた。
チラシって言っても
見開きで5枚だから、20ページもある。
裏の駐車場だったところにビルを増築したから
今までの銀座三越がぐっと広くなった。
西側と東側のあいだの入口を
《1階パサージュ口》といい、
9階には《銀座テラス》がある。
芝生の上で寝転べる空間だ。

どんな風になったのかしら~?
知りたい!見たい!行きた~い!

ということで、
当日の夕刊で記事を読んだあとだから、昨夕5時過ぎ頃、
JRに乗って行って来ました。

チラシと同じイラストの垂れ幕がパッとしないが、その下に
群がる人の数は6時近くでもかなり多く、デパート側の係員の数も目立つ。

上がパサージュ側の入口。こちらは新しく増築しただけあり、
正面よりずっと今風で、東側にはフラワーショップとカフェがある。



ひっそりした裏通りの雰囲気が見事なほど変わった。
お隣のレストランみかわやさんだって建物の一部に吸収されていた。
銀座の東側も、並木通りなどのある西側のように
今後 よりお洒落になっていく予感が。

閉館まで2時間。各階を急ぎ足で回りながら、9階のテラスへ。
芝生広場から、すぐ前に和光の時計台が見えた。
どうせならフェンスをも少し低くしたらよかったのに。



11~12階はレストラン街だが、当日は時間的にパス。
そのかわり、8階催し物会場で開催の

運命の鍵と出会う。
輝く女性たちと、その人生の扉を開いた、愛用の品々

THE STORY
-時代を創った女性たちー

という、婦人画報主催のイベントに立ち寄った
無料だしサッと見て回れる規模でちょうどよかった。

2階の靴売場では、高級なデザイナーもの以外の、
私のご用達のメーカーも、まさかと思っていたが
扱っていたので嬉しかった。6丁目の某デパートでは、
1階の靴売場をなくした、と聞いたのでショックだった。
靴と言えば銀座ならそこか、今は無き有楽町のSデパートだったから。
銀座はどんどん、購買力のある若者向けに変わりつつある。
が、今回のこのデパートは前より我ら中高年でも
楽しめるように工夫したかも、と思った。
われらを粗末にしたら生き残れませんよ~!な~んてね。

3階のル・プレイス内にタリーズコーヒーが
小スペースながら、あったのでそこで一服。
ブラウン系のjazzyな、落ち着いたカフェのイメージではなく、
カラフルでポップな明るい空間の中の、ホワイトなキッチンスタイル。
タリーズらしからぬ展開だ。
(そういえば日比谷の7ELEVENだって白一色だった。)

ヤング向け売場のど真ん中で、落ち着かない場所だったけど、
落ち着いてしまえばこっちの勝ち。

最後に地下食品売場を一回りし、
夕食用のお惣菜を少々購入していたら閉館時間に。
それにしてもみんな良く買物していたなぁ。
見るからにリッチな客層が多い中、
biancaおばさんの財布のひもはきつかった~。

帰りにちょっと寄り道したところ、こんな光景に出くわした。
日比谷の宝塚前で、黒に白いベストの人たちが坐りこんでいる。
練習生?が出てくるのを待っている様子。
このとき私も白と黒の、ほぼ似た色を着ていたので居心地わるく、
その場をそそくさと通りすぎずにいられなかった。

銀座松屋の入口もお洒落になっていたし、
どこもかしこも低迷を脱する工夫の為、変化が激しい。
デパート大好き人間にとっては、願わくば共存共栄だ。
それぞれの老舗がそれぞれの個性を生かして
ずっと発展して欲しいな、と思う。どこも生き残ってほしい!

政治家だって同じだ。皆、力を合わせて共に栄えてほしいのに、
今回の党首選っていったいなんだろう。意味がわからん。
共倒れ(国倒れ)にならないことを祈らずにいられない。
夕方、母の家で夕刊を読んでいて、こんな記事を見つけた。

「1年で3人、5年で5人、過去20年で14人・・・」
ニューヨークタイムズ社説“日本のメリーゴーラウンド首相"
の記事だ。
「(今回また交代すれば)12ヶ月で3人だ。こんなに短命では、
とても新たな政策を打ち出すとか、ましてや成果を上げる
などということはできない。どの国であっても同じだ」と指摘。

結果は如何に?


 

 


東京ビッグサイトへ

2010-09-10 | visit/drive

ビッグサイトで開催中のイベントに行って来ました。
長かった猛暑から、土砂降りの日を境に一気に秋の気配が感じられる日でしたが、日中はそれでもまだ暑い。ビッグサイトって、電車でも車でも、どちらで行こうと会場までテクテク歩かなきゃならないんですよね。歩く人の身になって建てていない、と同行者に文句を言いながら会場に向かいました。

東展示棟の奥の駐車場を利用しましたが、その前は海。遠くに見える建設中の橋は臨海大橋です。来年開通予定のようですが、第二湾岸としてわが市まで繋がるようになるのでしょうか?早く繋がってくれないと、加齢で更に視力も衰え、運転出来なくなるんですけどね~。

この日はグルメ&ダイニングスタイルショーとギフトショーが目当てでしたが、バイヤーなど、その職種の関係者が多いなかで、私は一体何しに来たんだろう~?って気分にさせられました。

それでもグルメ会場では色々試食・試飲したり、開発中の食品もあったりと、それなりに面白かったです。祖父江町の銀杏コロッケ、土佐の鰹カツとか、青森のリンゴサブレー、山形の柿酢など、いったいどれほど試食したかしら?圧巻だったのは日本全国美酒鑑評会での日本酒の試飲でした!ずらりと並んだ日本酒(冷酒、お燗、個性派の3部門)の中から選んで付属のスポイトで吸い上げ、カップに入れて試飲します。人気のお酒(というか値段の高いもの)はスポイトの先がお酒に届かない。試飲後に用紙に書き込んで鑑評するわけですが、飲み逃げしました。(笑)あ、車で来たんだっけ。きゃっ!と思ったけどあとの祭り。まぁ、何時間もいたから問題なかったけど。
会場は撮影禁止となっていましたが、写真を撮らないとこんなに忘れるもんだ、と、自分の記憶力低下にショックを覚えました。そんな中でも、金平糖入りのカラフルなジェムシュガーが、なぜかとても印象に残りました。私、コーヒーはシュガーレスなんですけどね。

次はギフトショーの会場へ。私がショップを持つとしたら、を頭に描きながら、バイヤーになったつもりで見ている自分。だって会場内ではすぐに、小売店のかたですか?など訊ねられるんですもの。晴海が見本市の会場として使われていた時代から、時々親と一緒に来ていました。こういう場所、好きな方なんですね、きっと。
上代の〇〇掛けで・・など、あちこちから聞こえ、ますますバイヤー気分。お店やさん(ごっこ)、楽しいぃ~!って小学生じゃあるまいし。雑貨、アンティーク風、ハワイアン、玩具、アクセサリー、布、クラフトなど、試作品も含めてみれるのが見本市の楽しさかもしれません。試作のものはアンケートなど書くと何かもらえたり、でしたけど、思考錯誤しながら新商品を創り出しているんだな~、と、良くわかりました。

10日が最終日となりますが・・・もうその日になってしまいました!

会場が広く、東棟を見るだけで精一杯。西棟まで足をのばせませんでした。歩き疲れて筋肉痛に・・。いや、まてよ、そんなわけないよね、と良く考えた結果、前日の体操が原因だ、と気が付きました。
暑すぎた夏の日々、家にいる事が多く運動不足=体重増加、だったのでラジオ体操でもやってみようか、と12時のNHK第二のラジオ放送に併せて体を動かしたからのようでした。ラジオ体操で筋肉痛だなんて恥ずかしすぎですね。けど、少し続けてみようかな。恐怖の「食欲の秋」到来ですもん。

 


今日は土砂降り、そっちはどう?

2010-09-08 | family

待ちに待った?土砂降りの一日でしたね~。
恵みの雨も、降り過ぎれば凶器に。なかなか丁度いい按配には行かないものです。
こんな雨天の日にやりたかったのが玄関先と外廊下洗い。普段めったにやらないことを、娘のピンク色のビーチサンダルを履いて、ピチピチジャブジャブランランラ~ン♪
浴槽からバケツに何杯水を運んだでしょう。お隣さんが、いったい何事か、と、玄関から顔をだしましたが、「すごい雨ですねぇ」の会話どまり。クレームでなくて良かった。

娘のバースデーにカードとプレゼントを送ったのに、何も言ってこないので気になっていました。ずっとあとで気が付いたのですが、外廊下を洗っていたとき、バッグに入れっぱなしのケータイに彼女から電話が届いていたのです。明日また電話する、とのメッセージがあり、声が聞けて一安心でした。

ウフフ・・・これウン十年前の写真です。臨月のママと、生まれて三日目で退院した赤ちゃん。そしてお祝いのお人形さん。真ん中の帽子を被った二つの人形は、以前ブログに載せたかどうか忘れましたが、私のお手製です。
親が日本人だから当然子供も日本国籍。でも、その国で生まれた、ということでパスポートを出してくれるので、日本に一時帰国したときは、子供だけ二つのパスポートを持って行きました。20才を過ぎようと、どちらかの国を選ばなくてもいいのです。面白いですね。そんな彼女も太平洋の向こう側で、家族から離れて誕生日を迎えています。日本のいいところや向こうの良さがいっぱい見えている筈。だけど向こうに居ついちゃったらどうしよう。はたまた未婚の母で帰国したらどうしよう。どうしよう。どうしよう。一体どうなってくれれば「どうしよう」と言わないで済むんだろう私。
っていうか~、子のほうが、この親どうしよう(もない)って思っていたりして。

とにかくオメデトウ。