ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

B面のブログ

2009-09-30 | family

昨日の天声人語の記事は、黛まどかさんの初句集「B面の夏」を、総裁選やレコードのシングル版に発展させた内容で、さすがプロの物書きだ~と、感心しきりだった。
そこで気になったのが、中途半端のままUPはおろか終わらす意欲もないブログ記事。こちらは物書きならぬ、物好きブロガーの記事ですから、飛ばしてくれて結構ですが、いつまでも草稿のまま保存しておくのも何だしなぁ~と思っていたので、「B面」フレーズいただき~!の勢いでupいたします。

       古い内容ですが、どうかお許しを・・・┐(´~`;)┌


B面その1:

7月27日のマイブログに書いたように、九段のうつわ屋さんからの連絡を待っていたら、思ったよりずっと早く入荷しましたとのメールが入った。すぐには行けなかったが、 盆休中の終戦記念日の前日、何かに背中を押されるように一人電車に飛び乗った。靖国神社のまん前の店なので、帰りに神社にお参りしようと境内に入ったところ、大型バスが沢山停まっていて、人で混雑していた。全国からの戦没者遺族が追悼式に出席するため集まってきているようだった。今まで桜の時期かお正月あたりにちょっと立ち寄る位だったが、これほど多くの人々が集まっている靖国神社を見るのは初めて。終戦記念日、靖国、戦犯(=戦争犯罪人)なんたらかんたら・・・と繋がって、国家の代表や国会議員が参拝することが物議を醸す原因になっていることは小泉さんが首相だった時代、特に強烈に印象に残った。戦後64年が過ぎた今もこうして全国から、高齢になった遺族が一堂に会する靖国神社。戦争は国家の犯罪だろうけど、兵として戦場に送られた若者は犠牲者でもある。

私の父は幸運にも、病気がちだったので徴兵されなかった。3才年下の父の弟は満鉄にいた叔父の勧めなどで、中国に渡ってハルピン学院という所で勉学に励んでいた。

ハルピン学院について:
哈爾浜学院設立当初は外務省所管の旧制専門学校であったが、1940年以後は満州国所管の国立大学となった。日露間の貿易を担う人材養成を標榜した。 1920年:日露協会学校(1907年発足)としてハルピン市に設立。 1932年4月:ハルピン学院と改称。 1940年3月:大学に昇格し満州国立大学ハルピン学院と改称。修業年限4年 1945年8月:日本の敗戦に伴い解散。
(ここまで8月19日記。以下はぼちぼちと・・)



終戦までの混乱の中で、学生達は多分「学徒動員」されて勉強どころではなくなったのだと思う。奥地へと逃げ隠れしていたときに終戦を迎えたが、終戦を知るすべもなかった。その一日後、様子を窺う為、茂みから道路へ出たところでロシア軍に殺された。享年21才。
何故それがわかったかというと、一緒に逃げていた一人はなんとか生き残り、日本へ戻ることが出来たから。もしやロシア語がわかるのでスパイかと思われたのかもしれないが、同期の学院生は皆、日本に帰国出来たのに、なぜ叔父だけが殺されたのか・・・と思うと悔しくてたまらない。
東京の親の元には何の遺品も遺骨も戻ってこなかったが、上の写真は私が物心つく頃から祖父母の家にあり、新年を迎えるとハルピンでの同期生が祖父母宅に大勢集まり賑やかに飲食をし歌をうたっていたことが印象的だった。誰からも慕われ、「彼女」との交換書簡も残っている。19、20才の年頃の、ウットリするような達筆な字で書かれたそれらの中に、「彼女」に送った書簡も残っていたってことは、きっと結婚を機に、遺品の一つになるとおもって実家に届けてくださったのだろうか。
「彼女」は現存していて、私の叔母と電話で話をすると今でも決まって叔父の話をすると言う。
叔父の写真は現在、私の母の所にある。兄である私の父は、「弟思い」にかけては誰にも劣らぬほどだったので、ロシア語を、そしてハルピン行きを勧めたことをどれほど悔やんでいたか、今、考えると頭がクラクラしてしまう。

叔父の手紙類、学生時代の成績表、日記帳、絵などがまわり回って母宅にある。
今後それらは保管する人がいなくなり、記憶する人も、話題にする人もなく消えていくんだろうな~と思ったら悲しくなってしまった。戦争を知らない時代に生まれた私には叔父との接点は当然無いのだけど、私たちがぎりぎり最後の〈回想者〉となるのはもはや明白なので、たとえ誰も興味を示さなかろうが何かを書き残して置きたかった。
けど、それが的を得ないド下手な書きかたなので一向に進まず、終わらない。

母は今年も叔父の命日(終戦記念日の翌日)に、大きな写真の前に花を添え、私たちは一緒に手を合わせた。戦争とは、どう関わろうと、かけがえのない生身の人間を負傷させ死に至らしめることである。

さて、靖国参拝のあと、初めて遊就館を拝観した。入口を入った所に戦闘機が展示されてあり、エスカレーターで二階に行き展示室1~10までを回ってから一階にもどり、更に展示室室11~19までを回った。戦争に関わる史・資料や遺品などが主だが、中でも特攻隊員として一生を終えた若き英霊が家族に宛てた遺書はショックだった。隣にいた若い男性は、その場に身動きせぬまま佇み、目に涙を溜めてすすり泣いていた。

多くの遺書のなかでも、古谷眞二氏の遺書を読んだ三島由起夫は「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」と言って声を出して泣いたという。それは折りしも彼が市ヶ谷自衛隊駐屯地で決起し、自決する一ヶ月前のことだったそうだ。そして古谷中尉は、昭和20年5月11日、「第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊長として、特攻兵器「桜花」を搭載した一式陸上攻撃機に搭乗し、鹿屋基地を出撃、南西諸島洋上にて散華された、と、記されていた。(これだけはメモしてきました。なのに・・web上にもありました!)

思いもせぬ場所に立ち寄り、建物を出てきたときは何ともいえぬ気分だった。なんといったらよいか、まんまと右翼の世界にどっぷりはまってしまい、そこからどうにか抜け出てきたと言ってもいいような気分になったのだからすごい。戦争を美化している等、言われて問題もあるようだが、要は個人個人が自分の頭でしっかり考え、反戦の思想を隅々まで行き渡らせることに努めるべきだと思う。誰だって戦争に巻き込まれたくないもの。誰だって大切な人を失いたくないもの。

 

 


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