ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

覚えていますか、第五福竜丸

2006-10-30 | art/exhibit/museum

先日夢の島公園に行った時、久しぶりに
第五福竜丸展示館を覗いて来ました。
1954年に太平洋のビキニ環礁でアメリカによる
水爆実験により被爆したマグロ漁船です。
偶然「ベン・シャーン」の絵を少し見ることができました。



今月発売されたこの本の挿絵のコピーが展示されていた
のですが、絵の横に添えてある詩が、
アーサー・ビナード氏のものだったのです。
彼のこともベン・シャーンの事も良くは知らないけど、
ビナード氏は雑誌「ミセス」の中の一ページ<ひとつの詩のはじまり>で
 クレーの絵の横に短い詩を書いているので覚えていました。
どうしてアメリカ人が日本語で詩を書いているのだろう、と
不思議に思っていたし、読んでも決して下手ではないし・・・
プロだもの、当り前かぁ~と納得してみたものの、
相手は日本人ではない。やはり、なんか引っかかります。
2001年に『釣り上げては』(思潮社)で、中原中也賞を受賞したり、
雑誌ミセスの特等席のような場所に連載で詩を、
それも大画家の絵と共に載せているだなんて。
日本語の達者な日本人にだって、詩を綴る事はけっして易しいことではないし、
私だって外国に14年居住したけど、その国の言葉がメインとなる
職業を持とうとか、持てるとか、思った事もありませんでした。
一方、
ベン・シャーンが、アメリカの「ハーパース・マガジン」に依頼されて挿絵として描いたのが
この第五福竜丸のシリーズでした。その他にも、

  • サッコとバンゼッティの受難(1931-1932)サッコ・バンゼッティ事件
  • 盲目のアコーディオン弾き(1945年)(ノイバーガー美術館)
  • リルケの『マルテの手記』より(1968年)

が、代表作と言われているそうですが、「フォーチュン」とか「エスクァイア」などにも頻繁に
イラストを描いていたそうで、デザイナーの憧れ的な存在だったようです。

会場には絵本の販売もありましたが、まずは小冊子「青春と読書」に100円を払い、
この絵本の装丁を手掛けた和田誠氏とアーサー・ビナード氏の対談、
《ベン・シャーンが描いた「第五福竜丸事件」》を興味深く読みました。

和田氏は大学一年の時に、「グラフィック展」でベン・シャーンの「ウイ・ウォント・ピース」
というポスターに釘付けになり、上記の洋書を古本屋で探し、
彼の絵を探し捲ったといいます。
探すといっても必ず見つかるほどの人気画家だったといいますが、
ずっと社会を見つめて描いていたようです。
また、アーサー・ビナード氏の、対談中の次の言葉に
同感の気持ちでいっぱいになりました。彼、この対談を、このとおりの日本語で
お話しされていたのかしら?驚きです。

 サッコとバンゼッティ事件は今や歴史の本を丁寧に読まないと出会えない。
でもベン・シャーンの絵は今見てもちっとも古くなく、「誰だろう、この二人」って
絵からその事件に興味を持つ人が少なくないはず。
ベン・シャーンが描いたおかげで、歴史がつながっているとも言えるような気がします。
*・*・*・*・*
文学作品や美術作品はそういう責任を担っています。
宗教でいえば、例えばカトリックからキリストやマリア様の絵を全部取り除いたら、
誰が教会に行くんですか?
ある意味でベン・シャーンはジョットみたいな存在かもしれないね。
この第五福竜丸の事件も、彼が描いていることでつながっていく。

*・*・*・*・*

9月23日 久保山さんの 心臓は とまった。
「原水爆の 被害者は
わたしを 最後に
してほしい」といって
かれは なくなった。
ひとびとは わかってきた――
ビキニの海も 日本の海も アメリカの海も
ぜんぶ つながっていること。
原水爆を どこで 爆発させても
みんなが まきこまれる。
                                 (絵本より抜粋)

館内の壁には来場者のメッセージカードが掲げられていました。
これらを読みながら、どういうわけか息子が何日か前に、懐かしくなって・・と言って
買ってきたCDの歌がリアルに蘇ってきました。
子供が5才にもならない小さい時に、家族して年中聞いていた曲。




 We are the world, we are the children

We are the ones who make a brighter day

So let’s start giving

There’s a choice we’re making

We’re saving our own lives

It’s true and  we’ll make a better day

Just you and me

 

 

 


夢の島のソバ畑

2006-10-26 | flower/green


         《ソバの花》 web上より拝借

先々週、東京都立夢の島公園で「そばの花」が満開、という情報を
ネイビーさんブログで知り、11日に母を誘い、見に行ってきました。
UPするのがいつものように遅くなり、新鮮さに欠けましたこと、お詫びします。
。。。な~んて言ってるといつもお詫びから始まるブログになっちゃうかぁ。

我が子が小さい頃は時々訪れた夢の島公園。
その頃は、今のように整備されておらず、ただ、だだっ広い印象のみ。
でも、そのもっと前の私の子供のころは、「夢」でなくて、「ごみ」の島だったんですよ。
ごみを燃やす焼却炉のエネルギーを再利用したスポーツジムが出来てから、
この辺りはどんどん変化していきましたとさ。

今回、そばの花をフェンス越しに見ながら、熱帯植物園に初めて入りました。
ここの大温室の暖房などのエネルギーも、焼却熱が利用されています。
高齢の母でも楽しんで歩けるほどの規模。中に軽食の出来る「食堂」っぽいカフェを
見つけたので、変な東南アジア系の名前の付いたチャーハンとコーヒーで早速ランチタイム。
東京都の施設の割にはこのカフェ、ちょっとダサい。
2階のテラスからはヨットハーバーが目の前に広がり、
  
パンパスグラスの穂がやさしく
風に揺れていました。この場所にカフェを作れば絶対に流行るのに。
でも、その前に入園料が必要ですか。
ちなみに、年間パスポートは1000円でした。

                   

       
  

植物園の入口横には大小様々な形のオバケカボチャが置いてあり、一番大きいカボチャの
重さ当てクイズを実施していました。
カボチャの上に座る人が後を絶たないようで、半ば崩れそうな物もありました。
最終日までもつかなぁ。

                

熱帯植物園を後にして、すぐ右側に出ると
ご覧のような一面のソバ畑。
畑の中は、キバナコスモスも仲良く同居。というより、キバナコスモスのが断然目立ちます。
何も知らずにぶらっと散歩してたら、その白い雑草のような花がソバだとは
きっと気付かなかっただろな。そのくらい地味でした。

  
 10月11日のソバ畑


それから約一週間後、会社の昼休みに、初めて歩きで見に行ってみたら、
14日(土)に刈入れをした後だったのでこのように束の山となっていました。
いくら夢の島に近いといっても、駅前のSUBWAYで10分で昼食を終わらせ、
すぐに公園に向かいましたが、中が広~いので ひたすら歩け歩け!でした。
職場に10分遅れで戻った時には全身薄っすらと汗をかいていた程。
毎昼食後に夢の島巡りをしたら、きっといい運動になるし、ベストプロポーションを
維持できるのにね。
・・・  うそだ~! 

 ←10月17日は刈入れ後でした


 
先土曜日の21日は、丸の内方面に出かける予定でしたが、「脱穀」の日だったので、
ホンのちょっと見たくなってしまい、ボランティアの作業時間の終わる筈、の頃に
到着し、見学させて貰いました。皆さんの作業風景を見ながらも、・・残っている束の山、
一体いつ終わるのだろうか、と心配になりました。ちょっとでも参加しようかと思ったのですが、
束をたたき台で叩いて実を落とす作業が、それなりの格好をしていないと、目や鼻や喉まで
埃で大変な事になりそうでした!見ているだけで、鼻がムズムズ・・・喉がゴホゴホ・・・。
でも、あの、つるつるのお蕎麦になるまでにはそのあと、何と、何をするのだろうか・・と
又々興味が湧いてしまうのです。
ツルツルとあっという間に食べてしまうお蕎麦でも、こうやって沢山の作業があってこそ、と
思うと、食生活をもっと大切にしなくちゃぁ、と、こんな年になっても知っている事の少なさを
強く実感したことでした。

  10月21日は脱穀の日

  
 ←ソバ畑が広場に!
 

        
   
        

        
                ↑              
            この地下足袋、かっこいい!
           ↓
        

                
         
         
この花の写真は「薬王園のソバの花」
         植物の写真が美しい、
青木繁伸氏のHPから拝借しました。

 

 





 


ダリってダリ?

2006-10-21 | art/exhibit/museum

 
             

一昨年、裏磐梯の、諸橋美術館に行った時のことをnettonさんにメールで伝えたら、
こう言われたのです。「ダリって、ダリ?」

               

「ダリ展に、ダリと行こうか?」なんて新聞までが書きたてて、本当に、ダリと行こうかなって思っていた所、友達から「招待券を持っているから行こうよ」と誘われたので水曜日に行ってきました、“生誕100年記念ダリ回顧展” 正確には今年で102年目なんですけど、世界規模での展覧会の順番待ちでこうなったのだかどうか・・・ダリか知っていますか?

   

ハタチのときにその作品に大いに煽動されてから、幾年月になるのかな。初めは、彼のシュールリアリズムー超現実主義といわれる絵画が瞼の裏に焼きついて離れなかったのですが、彼が髭をはやしていて、これほどまでに個性豊かな画家であるとは、その時、絵画は見るだけ、だった私には知るよしもありませんでした。とにかくウンチクなしで、作品だけを初めて目にした日々だったのです。
今は、初めて見るものでも、情報が豊富すぎてしまって、見る前にそれらが頭にインプットされ、純粋に物を見る妨げにさえ感じるときがあります。

  
今回は友達が、イヤホーンのお役目を果たしてくれましたよォ~。
諸橋美術館でガラの存在を知って以来、ダリの一途な人柄がいとおしく感じました。
白紙のキャンバスにダリのサインを書かせ続けたというガラ。ダリの妻であり、ミュールであり、プロデューサでもあり、恋多き女性であり、ダリだけでは満足できなかった女性。でもその全てをダリは最後の最後まで受け入れ、愛し続け、一度、彼の元を去ったガラを、彼は聖女として描き続けていました。それでも、年老いて戻ってきた彼女を迎え入れるのは、ダリのほうだったのです。
この二人は出会いの時から、自分たちは一卵性のカップルであると、自覚しています。それゆえに彼の作品のキーポイントの一つは卵なのです。言っておきますけど、ダリが25才のときに初めて出会ったガラは、ダリより10才年上の、子供のいる人妻だったんですよ、もォ~!


  ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで、裕福な中流階級の役人 の
  息子として生まれる。母親も富裕な商家出身だった。ダリ家には幼くして亡くなった息子が
  おり、両親は新しく息子が生まれるとその子に亡き子と同じ「サルバドール」という名を付けた。
  これが画家となるサルバドール・ダリである。亡き兄と同じ名であったことはサルバドール少年に
  大きな心理的影響を与えたと言われている。

生まれてすぐに亡くなった、自分と同じ名前の兄のお墓参りに行ったとき、ダリはどんなにか複雑な心境だったことかと察します。長男の再現として扱われてしまったのですもの。ガラとの結婚を期に、父とは不仲となりますが、彼の、故郷フィゲラスを想う気持ちは死ぬまで強く、彼の描く絵の遠景に現れたりしていましたし、終焉の地もフィゲラスでした。

ガラの存在を、絵画や写真を通してイヤになるほど感じました。
まず、写真ですが、彼が逆立ちをして、そのあごにハイヒールを載せている一枚。一方の絵画では、あちこちに杖が目立ちます。

 
「焼いたベーコンのある自画像」

杖なしでは、ふにゃふにゃになってつぶれてしまいそうな自画像。
ハイヒールに支配され、「作品のヒント」を与えられ続け、もうガラなしでは生きていけなくなったんでしょうか?ダリがダリをそうしたのか?
ダリはガラガラと崩れない為に、もはや杖なしでは生きていけない、と言っているようです。1982年にガラが88才で亡くなったあと、ダリの画家としての人生は終わりました。1989年1月23日死去。

卵の他に、彼の絵の中で目につくのが蟻、そしてフランスパン。
ダリは昔昔、コウモリを飼っていましたが、ある時、瀕死のコウモリを発見した時、体中、蟻に覆われていたそうで、それ以後、蟻には「死に至る」というイメージが付きまとったようです。
パンの絵は一風変わっていました。パンに靴下を履かせたような絵だったので、まるで足のようね、と私が言うと、友人は別の物に見える、と言いました。
後でわかったのですが、パンと言うのは焼きたては温かくやわらかい。時間が経つにつれて固くなり、最後にはぼろぼろに崩れていく・・・

「それは年とともに皮膚が固くなっていく人間という存在を象徴しているのである。それはまた、《焼いたベーコンのある自画像》におけるベーコンにおいても同様である。」又「それは、ふだんは柔らかく、勃起すると固くなり、やがて力を失う男根と同じである、と彼は考える。このようにして彼は生きるために必要な、聖なる存在でもあるパンに新たなる意味を付け加えたのである。」

と、【ダリ回顧展の見どころ】で、岡村多佳夫氏が書いています。
もう一つ、彼の絵や彫刻に頻繁に登場するクニャッと曲がった時計、これは回顧展のチケットとパンフレットに使用された「記憶の固執の崩壊」の絵にも描かれていました。私の頭も固くなってきているのか、なんだろう~?と疑問符ばかりでしたが、この件についても岡村氏は見どころのなかでこう言及しています。

「・・・そして、ダリは原子核の崩壊に思いをめぐらせつつ、それが人間という物質の崩壊を、さらにはその記憶の崩壊までも視野に入れてこの作品を描いたのであった。そこでは、死を象徴する枯れた木の下半分を含むほとんどのものが海の中にあり、その中で時計や人間の頭などすべてが壊れ、変化し始めている。表面の下では何が起こっているか、あるいは何があるかもわからない。あらゆる事象の表面をめくってみること。そこには時間も空間も超越した存在があるかもしれない。あるいは何もないかもしれない。そのようにして、ダリは見ているものの向こうにあるものを見る、あるいは見えないものを見ることが如何に重要かを示すのである。それはまさに、想像力の全的解放を謳うシュルレアリスムの考えを具現化したものであるといえる。・・・・・」

一枚の絵から二枚目の絵に移るのにー人が動かないのでーたいそう時間のかかった回顧展でしたが、それだけ、興味深く、面白いからなのでしょうね。私は大いに楽しめました。会場ををあとにし、紅葉にはまだ早い上野の山を、久しぶりに西郷さんの像方向に歩きながら、お昼をどこにしようか、と話し合い、トンカツの老舗「双葉」で頂くことにしました。私ははじめてなのですが、鈴本演芸場の先を右に曲がったところにある、全くふつうの、私なら絶対通り過ぎるだろうなぁと思う造りのお店。メニューをみてびっくりしました。だって、「トンカツ」か「トンカツ定食」の2種類しかないんですもの。
お値段だって味噌汁とご飯にお漬物つきの定食が2940円!ご飯のお代わりが200円!私、お替りサービスの所しか知らないし、大体お替りなんてしたことないしね。とんかつは、赤身ばかりでさっぱりと揚げてあり、美味しかったですよ。でも、お店に入る前にお値段がわかっていたら、私、入ったかなぁ。付け合せはご覧のとおり、キャベツの千切りでした。

 

帰り際にタウン誌を頂きました。このなかで、上記、岡村氏の記事を見つけたのです。
図録を購入しなかったので、見終わったあとでしたが、「見どころ」がちょうど、私たちの知りたかったことと重なり、、やはり~老舗でお食事~もいいもんだ、と思ったことでした。

 

  

 

 


再会

2006-10-16 | family

        

13日の金曜日、ユナイテッド航空で帰国した娘からのお土産は、Teavanaのハーブ茶と、
スーパーで買ったという、Pepperidge Farm缶入りスティック状のお菓子でした。缶入り「Pirouette」の写真が光ってしまって上手く撮れず、HPから画像拝借です。我が家にはたった一缶だけ。チョコレート・へーゼルナッツ味でした。

NY滞在中は、私たちがサンパウロにいたときの友人で、家族してNYに引っ越された方のお宅に、友人と2人して居候したそうです。私はそれをあとで知り、言葉も出ませんでしたが、お仕事を持っている奥さんは飛び切り明るい方で、合鍵を渡して下さったようです。
LOSでは何と留学中の友達のところに押しかけたようで
、開いた口が塞がりませんでした。

旅行中、いろんな方のお世話になり、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。

                                   ハーブ茶といえば、オレゴン州にいる知人からいただいたティーバックがまだ沢山残っていました。使い勝手がよく、ハチミツスティックが添えてあり、なかなか気の利いたギフトです。グッドタイミングなので画像を載せますね。香りや味も、それほど強烈ではないし、一人でいただくにはティーバックは手軽。

まぁ、お土産はどうでも良いのですが、一番の収穫は、彼女のサンパウロ時代の大親友、
コンスエーロとNYで
連絡が取れ、8才になる半月前に日本に帰国して以来、初めての再会を果たせたことではないか、と、母親としても拍手喝采したい所でした。

二人は2才半の時から、家から2分の所にあった、プレ幼稚園で学んだ時の友達。
この幼稚園は、家の近くにあったので偶然入園したのですが、ポルトガル語と英語の2ヶ国語で遊ばせる所だと後で知りました。
コンスエーロはイタリア人を親にもつ一人っ子。母親はジュエリーデザイナーで感じいい方。

もう一人の友達はフランス人のナタリー。そして同じ通りに住んでいたクリスティンはドイツ人の家庭の子。彼女は子供のいないドイツ人夫婦に貰われたブラジル人の子。ですが、ドイツ語できっちりと育てられていました。皆、家庭で母国語をしっかりと教えています。なので、その幼稚園で2年半学ぶというか、遊んだ後は、夫々の希望の学校の付属幼稚園に入学しました。それぞれが自分の母国系列のブラジル人学校を選ぶのです。
うちの子は、と言えば、その頃日本に帰国する、という予定も何もなかったので、アメリカ系のクリスチャンアカデミーを選んだのです。クリスティンも同じでした。というのも両親がドイツからアメリカへ渡り、仕事でブラジルに来ていたので、ゆくゆくはアメリカへ戻るつもりだったようです。
でも、もちろん、ブラジルに滞在中の共通語はポルトガル語でした。

コンスエーロは今、母親とNY住まいで、マーケッティングの仕事をしているそうで、出張から帰ったばかりの時に娘からのメールを受け取ったので、これも偶然性が大いにかかわった事でした。
「NYの高級イタリアンレストランでご馳走になっちゃった!ワインのボトルを2本も頼んでくれたんだよ!彼女、すごく興奮して喜んでくれたよ。気持ちが、昔のままの、全然気取らないコンスエーロのままだったよ!」との熱い報告。
私もそばで彼女や、その母親に会ったような錯覚に陥り興奮してしまいました。

彼女の父親も知っていましたが、とっくの昔に離婚。うちの子は、サンパウロでも、コンのうちに行ったり、お父さんの家に連れて行かれたりしていましたから、いい関係を築いているのでしょう。
来月はお父さんの誕生日なので、ブラジルまでお祝いに行くと話していたそうです。

  
2006年秋

                                

この頃は、子供の日々が私の日々でした。
プレ幼稚園でいただいた、画用紙の大きさの英語の詩と
我が子のフィンガープリントをここにUPしてみます。
和訳が上手に出来ないので、原語のままで。





 

 


平凡な3連休

2006-10-11 | visit/drive

         
                         みにくいあひるの子

この三連休は、嘘のように平々凡々に過ぎ去りました。
子供2人は、それぞれのお出かけで不在。

こんな時が一番出易いはずなのに、決断できなかったのは何故?
家でやる事が満載。でも出かけたくてたまらない私。無言のパパ。
母はどう過すんだろう、とか、甥が連休最後の日から長期出張だ、とか
色々考えていたら出れなくなってしまいました。
軽井沢一泊か、バラクライングリッシュガーデンか、清里か、箱根か・・と
頭の中を行きたい先々がぐるぐる回転し、しだいにウンザリして来て ヤーメタ、
となったのです。でもすっきりヤ~メタ!でないので、家でやらなきゃならない
ことも手につかず、非常に中途半端この上なし。

甥が出張に出かけた連休最後の日の午後、やはり出たくてうずうずしていた
姉から電話があり、どこかの公園に母を連れて出かけよう、と言う事になりました。
行き先は、直前に、私の口から出まかせに発した言葉、
アンデルセン公園にいってみようよ!」で、決まり。

船橋市の北部にあるこの公園のことは知っていましたが、行ったことはないんです。
地図を見たら、なんてことない、以前走った事のあるルートだったのでホッ。
片側一車線の道は、渋滞だと動きが取れなくなります。
船橋って、都会と田舎がミックスしたような所なので、住宅が続いたかと思うと
梨や野菜の販売所があったり、富豪農家の名残のような立派な民家があったり、
ウゲ~ッと思うような強烈な色彩の看板があったり、踏み切りがあったりで、
わが町とは全然違います。が、走っていると畑が広がり、空が天高く感じられ、
ウヮ~郊外に来ちゃったァ~♪って気分になります。湾岸 の町にはない長閑さ
があるのでしょうか。

キョロキョロしていて、あっ、道まちがえちゃった。 というのも一度強。
道を間違えたらuターンしないと、とんでもないことになる道が多いんだから!
結局到着したのが、閉園一時間前となりましたが、せっかく来たから、と
入園料各900円ずつ払って入園することにしました。(65才以上は無料です)

 
     ◆コミュニティーセンター↑                                  ◆ラベンダー
                                この燃ゆるような植物は何?↓       ◆農家
 
       
              
                       ◆太陽の橋より、太陽の池を見下ろす↑↓

        

         
   
5時のチャイムの頃には、風車がシルエットとして浮かび上がり、映像美を感じました。
この公園は1987年に「ワンパク王国」としてオープンし、その後に併設館を増やし、
現在のようになったそうです。
急げないお年寄りが一緒でしたので、園内をお散歩しソフトクリームを食べて
時間切れとなりました。

もし、再び訪れる機会があれば、その時は子供のいない時間帯に思う存分
アスレチックして、ボートにのりたいな。・・って、だれとこうようかしら~?
写真では想像できないでしょうが、子供連れの家族がワンさかで賑やかでした。
写真って、やっぱマジシャンみたい。いや、本当なんだけど、ファインダーで覗いた、
その中に映っているものしか写らないんですものね。

       

一番奥の北ゲートのほうに行くと岡本太郎制作の「平和を呼ぶ」像があったのですが、
辿り付けませんでした。
              

こののどかな公園で、ふと、先日アメリカで起きたアーミッシュ学校襲撃事件
思い出してしまいました。あの事件は衝撃的でした。
上の子が下の子をかばい、「私を先に撃って!」だなんて、どうして言い得たのでしょう。
被害者側は、なぜ、すぐに犯人を許したのでしょう。
犯人の家族に、この地に留まるように懇願するだなんて、何が彼らをそうさせているのか、
たとえそれが信仰する宗教心から来るものであろうと、子供までがそこまで・・・なぜ、なぜ
と、考えてしまいました。








ここはどこ?

2006-10-07 | weblog

                                

今日は一日、よく降りました。仕事の用事で外出した折に、きっと土砂降りだから
すいているかも・・・と思い、昼食の為もあり、木曜日にオーブンしたばかりのここ
ちょっと覗いてきました。

デジカメは持ち歩いてなかったので、ガーデンへの出入り口のところでケータイでパチリ。
「店内は撮影禁止」と書かれていたけど、外向きならいいでしょ。
雨が強く吹き込むので外には出れませんが、遠くに見える橋が晴海大橋です。
まるで真冬のように寒々しぃ光景だこと!でもなんとなしにロマンチック
銀座4丁目の交差点から晴海方面へ真っ直ぐに走るとこの橋を渡るようになります。
以前突き当たりとなっていたところが豊洲までス~イスイと行けるようになったんです。
息子が以前、この橋からの眺めがイイんだよなぁ・・と言っていたまさにその橋。

不動産を見て回る時の話しですが、その建物のよしあしを見るのには悪天候の時に
限る、と言いますが、それ本当に当たっているなぁと思いました。
アネックスの駐車場のほうに誘導されちゃって、連絡通路を歩く羽目になりましたが、
屋根はあっても雨が吹き込んできたし、帰りは駐車料金精算機の上に屋根がない。
これじゃ安普請に見られてもしょーがないじゃ~~ん。

ショッピングモールは沢山見ていますが、大体似たり寄ったりのチェーン店で埋まるし
ファッション関係は若い人向きのばかりだし、レストランは開店2日目のせいか、どこも
行列だし、余り魅力は感じませんが、ニューオープンと聞くと見たい行きたい、に、つい
なってしまうんですよね。

目的は見ることだけなので、駐車サービス券をどうしようか、スーパーはないのかしら、とか
思いながらウロウロしてた所、紀伊国屋書店を見つけました。
本屋を見つけるとなぜかホッとするのです。
(先日もアキバのヨドバシカメラの中で有麟堂を見つけてヤレヤレの気持ちでした。)
買うものがないけど駐車サービス券が欲しい時は図書カードが買えるし、本屋さんの
空間って昔からさほど変わらないでしょう?

もう一つよかったのは、手芸屋さんがあったこと。手芸は今はそれ程しませんが、
やっぱり相も変わらずに毛糸等、手芸材料が・・当たり前だけど・・沢山置いてある、
ういう場所も私にとっては落ち着く所。店の名前はマーノクレアール といいますが、
okadayaと言ったらきっと、あ~ぁ、と思うでしょ!

         

このショッピングモールの、私にとっての魅力は、もしかしたら中よりも海側のガーデン
かもしれませ~ん。フロアガイドにこう書かれてありました。
「世界的に著名なダニエル・オスト氏が日本で初めてデザインする庭園がつくられます。」と。
ということは、まだ作られていない、ってことかしら?

本日は、・・ってもう昨日になってしまいましたが・・雨天なので、上の写真の場所どまり
で残念でした。お昼だってやっと見つけたサンマルクカフェで、残っていた最後の一つの
サンドイッチにありつけた次第でした。そのあとは大急ぎで職場にUターン。

手芸で思い出しましたが、水曜日に用事があり東京駅へ出かけたとき、三越まで足を
伸ばして「モードとしての編み物展」を覗いてきました。
第一部では1954年から75年までに発行された編み物本のなかから優れたデザインと
技術を持った100点余りを復刻、展示。第二部では現在のニット作家として最高峰の、
広瀬光治氏と下田直子さんの作品の紹介がありました。編み物をしている方が数多く
見えていることは、その方たちが自作のニットを着ていることでわかります。
会場内でちょうど広瀬氏のギャラリートークが行われている所でし
た。スピーカーから聞こえる
声が誰だか、それがテープから聞こえているのかさえ分らなかったのですが、出口近くで
やっとご本人を見ることが出来ました。そして、何とあとで、ツーショットで写真まで
撮っちゃったんですよ。サイン会を終えた広瀬氏がどなたかに捉まって一緒に写真に
納まっていたので、私もお願いしてみたら、すんなりと!
今のニット作家のことなど全く知らなかったのに、なんだか嬉しくなりました。
お一人だけの写真と彼の作品をUPしますね。
何かを見ると、それをやりたくなる。ダメな私は、今、編み棒を持ちたい気分♪
 
    

  


いのちのスープ

2006-10-05 | weblog
    

昨日の朝、皆を送り出し、一人朝食を取っていたら、NHKで “いのちのスープ”をつくる ~辰巳芳子 新たな挑戦~ という番組が始まっていました。

 いのちのスープ      

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

出勤前の忙しい時間帯。今年になってからはテレビもめっきり見る回数が減りましたが、
内容が興味深く、ついチラチラと、途中までですが 見てしまいました。
高知・近森病院の北村龍彦医師が、料理研究家の辰巳芳子さんへ、病院の600人の患者さんに辰巳さんのスープを提供したい、との手紙を送ったこと、それが辰巳さんの
協力で実現した、という内容のようでした。

辰巳芳子さんは、34年前に脳梗塞で倒れた父親の介護を通して、「高齢者や病気の方のためのスープ」を研究・実践するようになり、その野菜を中心としたスープは「いのちのスープ」と呼ばれ、著書にもなっています。
北村医師は、自分の友人が末期がんになり、食欲が全くなかった時に辰巳さんのレシピによるスープを作ってもらい、それを彼女を励ますお食事会か何かの時に色々なご馳走と共に出したら、食事はどうしても手がつけられなかったのに、そのスープだけは「おいしい」と最後まで飲み干したのでした。

実際にその場面が放映され、喜んで頂いている女性の姿がそこにありましたが、三ヵ月後に彼女は他界してしまいました。
それからは、北村医師が、ご自身の患者さんに、少しでも生きている喜びを感じてもらいたい、とスープ作りに試行錯誤を繰り返し、辰巳さんのアドヴァイスを受けながら完成させていくのです。例えばにんじんの甘みを引き出すには、どのような切り方をし、何十分かけて炒めると良いか、などなど、たった一つのプレートのためにこんなにも心を砕くのかぁ・・と
感心し、呆気に取られて見ていました。

並行して辰巳さんのお話しが続きます。うろ覚えの内容の一部はこんな風でした。

・・・皆、見えるところに一生懸命手をかけるけど、見えないところに手をかけなくてはダメ。
   基礎をしっかりと理解すること。
・・・人から教えてもらうというのではなくて、「伝承」から学ぶべき。
・・・お料理をおいしく頂く、ということは、病気の人を励ますし、介護する側も励まされる。
  美味しいと言うことは、幸せの一つなのです。

出勤前の少しの時間でしたが、いいお話しを伺えたことで一日のスタートラインは
辰巳芳子さんって、母と同じ年なんですよね。この時代の女性には参ります。

そして北村医師のようなお医者さんが、今後、どんどん増えていって欲しいと心から願わずにいられません。


辰巳 芳子
                                                 

1924年生まれ。
料理研究家の草分けだった母・浜子さんのもとで家庭料理を学ぶ一方、
西洋料理の研さんも重ねる。父親の介護を通じてスープに開眼する。
高齢者へのスープサービスにも力を注ぎ、鎌倉の自宅などでスープ教室
「スープの会」を主宰する一方、近年は風土に根ざした食材を守る活動
として「大豆百粒運動」も提唱している。NPO「良い食材を伝える会」
代表理事。著書に『あなたのために いのちを支えるスープ』(文化出版局)、
『辰巳芳子の旬を味わう』(NHK出版)、DVD+BOOK『NHKきょうの
料理 いのちを養う四季のスープ』(NHK出版)、『手しおにかけた私の料理』
(婦人之友社)など多数 
 《写真共にweb上より拝借》

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数日前にアトレのお買い物券が期限のその日だったことに気が付き、YURINDOが
閉店になる30分前に駆けつけ、本を物色しました。手っ取り早いのはお料理の本だ、
と思い、辰巳さんと栗原さんの間で揺れてしまいました。が、結局購入したのは、これ。


 
 ◆テレーサさんに教わったグラデーション、イェ~イ、できたぁ~!ありがとう、テレーサさん