観測にまつわる問題

政治ブログ。政策中心。「多重下請」「住宅」「相続」「農業」「医者の給与」「解雇規制」「株高で円高」を考察する予定。

環濠集落と鳥居の関係性を踏まえた伊勢神宮神明鳥居と外宮の豊受大神の謎解き

2019-04-15 23:07:50 | 日本地理観光
正宮 内宮 鳥居(2014年3月8日撮影)江戸村のとくぞう

鳥居の起源ですが、諸説あるようですが、筆者は弥生時代の環濠集落の門が起源なんじゃないかと思っています。古墳時代には首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体されたようですが、弥生時代の集落は環濠集落で特徴づけられます。勿論弥生時代と古墳時代に民族の交代のような画期を認める説はまずなく(騎馬民族説も古墳時代の中での話です)、環濠集落をつくっていた弥生人はそのまま古墳時代人になっていることが前提です。何故環濠集落なのかと言えば、絶対に門が存在するからです。環濠とはつまり堀と柵で囲まれていますし、要は必ず出入り口があってそこに門が存在するでしょう。鳥居を一種の門と考えるなら、原型は弥生時代にあったと考えることが出来るはずです。環濠集落は弥生時代の全国的な住文化です。木と木を縄で結ぶのような結界説は注連縄の起源としては考えられても、どう見ても鳥居の起源ではないと考えられます。古墳時代に外来文化で入ったと考えることも出来るかもしれませんが、まず似たもの、時代があうものがないようですし、後述しますが鳥居は和語で外来語ではないことも踏まえねばなりません。環濠集落の門に起源があるとして、環濠集落解体後に消えたかと言えば、門に宗教的意味などあれば、何らかの形で残るとも考えられます。門とは入り口であり、区切る境界でもあります。神社の形式が整うのが仮に8世紀ぐらいだとしても、その間に宗教施設がなかったとか門がなかったとか考えなければいいだけです。弥生時代の環濠集落の門が全国的に必ずあった文化だから怪しいとして、何故そこまで決め打ち出来るかもう一つ理由を述べると、その名前と形、それに伴う文化となります。

環壕入口(吉野ヶ里歴史公園)
門と鳥形(吉野ヶ里歴史公園)

>弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。
>大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。
>鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。
>天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる

素直に考えましょう。鳥居とはそのまま鳥(鶏)の止まり木を意味するに違いありません。これが理解できないのは現在の鳥居の形が止まり木に見えないからでしょうが、まず何故鳥(鶏)に止まり木が必要なのでしょうか?それはニワトリは止まり木で寝るからです(参考:ニワトリは止まり木で寝る なんてこったィ !! ナチュラおじさん Blog)。ニワトリは鳥なので本能的に木で休息しようとし、基本的には外敵に襲われる平らなところや床下では寝ないようで、止まり木があるとそこに群れて寝るようです。スズメも電線に群がりますよね。家禽(ニワトリ)の起源は紀元前8000年前から起源前4000年前まで諸説あるようですが、いずれにせよ弥生時代には既に出現していたことは間違いありません。弥生時代における出土は少なく、鳴き声で朝の到来を告げる「時告げ鳥」としての利用が主体だと考えられており、食用とされた個体は廃鶏の利用など副次的なものであったようです(個人的には雌鳥の卵の利用も同時にあったでしょうし、肉食も一般的だったと考えます。鶏の肉=かしわは和語で拍手(かしわで)との関連が怪しく、神聖なものを寧ろ食べる文化は動物崇拝(コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))で見られる考え方のようです(>トーテム動物のなかには普段は食べることが禁止されているが、トーテムの儀礼のときには食べることが積極的に認められる例もある。日本の例では食用ではありませんが、アイヌが熊送り(イオマンテ)をするため熊を飼う事例もあったようです。後に広まった肉食を禁じる仏教の影響でタブーになって分からなくなったのでしょう。食糧事情が厳しかった古代において、そもそも鶏が珍重されたのは食料としての用途があったからだと思います。大量に飼育されなかったのは、餌をやらないといけなかったからで寧ろ収支はマイナスだったかもしれません。そのマイナスを補うためにも食べられていたという訳です。魏志倭人伝に牛馬なしと書かれていますが、少なくとも出土している鶏や豚は牛馬ではありません)。時代が降りますが、記紀の天岩戸伝説において、常世長鳴鶏を集めて鳴かせたという記述があります。つまり鶏の飼育があれば、止まり木があって当然で、鶏の飼育は規模は大きくないものの存在したのであり、その名前は「鳥居」だったと考えて良さそうです。時告げ鳥は貴重だったでしょうし、実際に伊勢神宮には神鶏の文化が存在しました(伊勢神宮の鶏が神鶏(しんけい)と崇められる由来 みんカラ >神宮の神鶏には名前はありませんが「尾長鶏」「尾鷲鳥」「小国鳥」の種類が見られます)。だとすればその止まり木が神聖でも不思議はありません。神の家とは神聖なものです。

だとして何故鳥居をくぐるかですが、鶏が早朝に鳴くことから1日の始まりと見られていたかもしれません。鶏の鳴き声で起きて農作業を開始することで鶏が時間の始まりを意味することになり、その家=鳥居が空間的な始まり=入り口を意味するようになったという訳です(NIPPONIA(Web Japan)によると、「日本にやってきたニワトリは、中国文化の影響もあるだろうが、昼夜の境を告げる霊鳥として扱われた。ニワトリの時を告げる声は、一声がとても長く大きいので、現在よりもずっと印象的だったことだろう。1日3回、日の出の前、太陽が昇った頃、そして日没の前に、かなり正確に鳴くことから、時計としての価値が高く、また、長く鳴くものほど大切に扱われたらしい。実際、日本では、暁と日の出の鳴き声を、一日の始まりとしてきたのである)。暁・日の出の重視は日の出信仰(一年の始まり元日の初日の出・高山の頂上で見る荘厳な日の出である御来光・伊勢など日の出の方向=東の宗教的重視)や日本という国号にも繋がりそうですし、伊勢神宮の鳥居は神明鳥居と言い、暁とは明け方です。ちなみに「コケコッコー」ではなかった!ニワトリの鳴き声の変遷(山田ガーデンファーム)参照で室町時代以前に鳴き声はカケロと言われていたようです(ウィキペディア「ニワトリ」(2019/4/16)によると>ニワトリという名前については日本の古名では鳴き声から来た「カケ」であり古事記の中に見られる。雉を「野つ鳥雉」と呼んだように家庭の庭で飼う鶏を「庭つ鳥(ニハツトリ)」(または「家つ鳥(イヘツトリ)」)と言い、次第に「庭つ鳥」が残り、「ツ」が落ちて「ニワトリ」になったと考えられる。また「庭つ鳥」は「カケ」の枕詞であり「庭つ鳥鶏(ニハツトリカケ)」という表記も残っている。別の説では「丹羽鳥」を語源とするのもある・・・ですが、ニワトリとは即ち庭鳥でカケと関連付けられますが、ここで気になるのは丹波の語源です。『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓んでおり、古形はタニハであり、ハとワは通じますから、田庭説が有力視されるのは納得できますが、意味を「平らかに広い地」とするのが誤りでしょう。そうではなく、箱庭でも分かるように庭はミニチュアの意味があって、丹波の盆地を畿内の平野に比べてミニチュアだと見て、田庭としたと考えるとストンと落ちるものがあります。丹(辰砂)はニであり、大産地は寧ろ畿内にほど近い中央構造線沿いであり、字面に引っ張られるべきではないのかもしれません。田はありふれてますし国名での使用が見られず、丹が好字とも考えられます。そう考えると、但馬も田島で全く同根なのかもしれません)。また、おんどりの朝の鳴き声、序列の高い順から 研究(afpb 2015年7月24日)参照ですが、鶏に序列があったことは当然意識されていたでしょうし、鳴くのは縄張りを誇示するためだったようです。これは鳥居が門/境界であることに通じます。いずれにせよ環濠集落に門は必要ですし、鳥の止まり木=鳥居に似ていることは直ぐに意識されたでしょう。

具体的にどんな鶏を飼っていたかで言えば、考古学的・動物学的に調べられるべきでしょうが、「尾長鶏」「尾鷲鳥」「小国鳥」の内、小国鳥が気になります(日本鶏の紹介 日本家禽学界 >闘鶏の一種として古くから飼われ、多くの日本鶏の成立に関わった。昭和16年に天然記念物に指定された。三重県、京都府で多く飼われている)。闘鶏の意味が当時あったか分かりませんが、弥生時代は銅剣・銅矛・銅戈・環濠集落でも分かるように戦乱の時代でもあって、喧嘩する気性は寧ろ好まれた可能性もあります。いずれにせよ、多くの日本鶏の成立に関わったというのが注目されます。尾長鳥は江戸時代の土佐(高知県)に起源があるようですが、鶏の美しさを競う文化があったのが注目されると思います。古い文化の残存かもしれません。尾長鳥で印象的なのは止まり木でもあります。尾鷲鳥に関しては伊勢近隣の尾鷲の鶏といった意味であり、供給地であったかもしれませんが、よく分かりません。ちなみに尾鷲とはそのまま鷲の尾を意味するような気がします。矢羽で鷲の手羽・尾羽が利用され、どちからと言えば、尾羽の方が丈夫で重要だったようです(黒鷲と黒手羽って何が違うのですか? yahoo知恵袋 >手羽(てばね)というのは手の羽の事です。尾の羽は尾羽(おばね)と言います。一般的に手羽のほうが柔らかいので耐久性は悪いが値段が安く、尾羽のほうが耐久性が良いですが値段も高いです)。弓は弥生時代どころか縄文時代から出土しするようです。オワセであってオワシではありませんが、ウィキペディア「尾鷲市」(2019/4/16)を参照すると、1942年当時の尾鷲駅。表記が「おわせ」ではなく「をわし」となっており、「おわしぇ」と地元では呼んでいたという記述が見られます。弥生時代の鳥信仰で鷲もあるいは関係あったかもしれません。

さてここで鳥居の形に注目しましょう。鳥居には神明鳥居と明神鳥居がありますが、ここで伊勢神宮の神明鳥居をその起源とします。明神鳥居の破風(はふ)は装飾的で城にも破風があって日本人の文化的好みではあるでしょうが、鳥居のルーツではないと考えます。止まり木に破風はいらないからですね。神明鳥居が成立してから装飾的な明神鳥居が後で誕生したのでしょう。元々は木で鳥居をつくっていたと考えれば、現存する鳥居の形はあまり関係ないかもしれません。伊勢神宮が古い文化を保存しているというのは普通に有り得る話です。門が起源として、直線的な笠木がそもそも止まり木というのは分かりやすいところです(笠が被る笠ではなく直線だということが注目されます。笠沙の御前(みさき)とは直線的で弥生時代の発祥の地で中国と通交していた倭国の所在地博多の湾に(直線的に)突き出している砂浜である海の中道ではないでしょうか。沙を砂と見る訳です)。問題は笠木の下の貫(ぬき)であるに違いありません。これは鳥居を門として大きくつくった時の建築術上の要請と見ます(「鳥居」に見る日本の建築技術の基本 建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える 下山眞司 >着目点の二つ目は、笠木の下に設けられた横木。これも貫で、柱に対して、楔を打って固める。これによって、二本の柱は、一本の笠木だけの場合に比べ、より強くつながり、しっかりとした、簡単には変形しない門型を構成することになる)。弥生時代の土器の絵に重層建物があったようですし、縄文時代の三内丸山の柱穴もありますが、日本では古くから建築術はあったと考えられます。門を大きくつくるのに貫をつけるのは当然の発想だったかもしれません。鳥居と沓石の免震構造が知られるところですが(鳥居はなぜ倒れない? 社寺建築の豆知識)、法隆寺の免震構造もあって、この辺の技術は地震国の日本で縄文時代以来、長い時間をかけ発生し受け継がれてきたと筆者は見ます。ここで神明鳥居の形式をウィキペディア「鳥居」(2019/4/16)で確認すると、「笠木柱には丸材、貫には板材が用いられることが多い。笠木の下に島木がなく、貫は貫通せず、柱は地面に対し垂直に立てられている。」となり、これはそのまま止まり木(笠木が丸材であるところが特に。ただし現在の伊勢神宮の鳥居の笠木は丸材ではないようです)を板材で補強したものと理解すればよいと考えられます。この素朴な形式で鳥居はスタートし、他は装飾的なバリエーションだと考えられます。宗教建築が巨大化するのはありがちですね。

弥生時代の鳥に関する信仰ですが、鳥居と鶏を結びつけると、直接的には鶏以外の鳥は関係ないかもしれません。ただ、天照大神等に見られる太陽神信仰(恐らく農耕神だと思います)は確実にあって、その住まいは高天原に見られるよう勿論天なのであって、空を飛ぶ鳥が使いとして信仰されるのは当然の流れとして理解できます。八咫烏が記紀に見られる霊鳥ですが(咫(あた)は、中国および日本で用いられていた長さの単位で八咫とは大きいの意らしい)(三本足の記述は記紀になく後世の混入の可能性が指摘されます)、烏は知能が高いことで知られ、特に神の使いと認識されたかもしれません。穀霊という指摘もあるようですが、鳥は稲作の敵でもあり、日本にそういう習俗も見られないようで(狐が稲荷神として重視されるようです)、こと日本においては無さそうな気がします。恐らく(東南アジアと日本に同じものが伝播したと考える)長江文明直接渡来説と結びついた誤認じゃないでしょうか。

(弥生文化の源流の)九州の神名は全て日がつき、神名や天皇名等にも日は多く、皇祖神は太陽神です。古代日本に太陽神信仰があったことは明らかで、三種の神器の内のひとつである鏡は多く出土し、神社の神宝として多く所蔵されるようですが、鏡は光を反射します。そして太陽神の住処が天(アマ)であり、アマは海に通じますが、島国日本で太陽が昇るところは海です。中国の天帝信仰やモンゴルのテングリ(天神)信仰と日本の宗教を結びつける考え方がありますが、日本の宗教も海外に大きく影響は受けはしたでしょうが(鏡や鍛冶技術が日本にあったと主張しません)、日本のこうした信仰は中国・モンゴルに似ておらず(多分一番似ている可能性があるのはお隣だと思いますが、勿論民族は縄文以来長年違うとハッキリしておかねばなりません)、その源流を海外に求める考えは基本的に誤りだとも考えられます。「銅鐸」祭祀もそうですが、海外の宗教と日本の宗教は仏教以前は似たものが見つからないケースが多いように思います。

伊勢神宮内宮の主祭神は天照大神ですが、常世長鳴鳥(世界大百科事典 コトバンク)によると、「八百万(やおよろず)神が常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を鳴かせ,天鈿女(あめのうずめ)命に舞わせて,天照大神を呼び出す話」とあり、これは勿論鶏が朝に鳴く時告げ鳥でもあること、伊勢神宮の神鶏と関係します。時・天文と権力は一般的に結びつくものです。これが皇祖神として崇められ、伊勢神宮が最重要の神社とされるのは納得のいく話です。

ただ一般に謎なのが並び称される外宮の豊受大神(トヨウケビメ)の方でしょう。ウケは古語で食物のこととされ、大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)・稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と関連付けられますが、どうもウケ=食物論が日本人にピンと来るものがありません。食べるはタベルのはずです。これはもしかしたら逆ではないでしょうか?ウケという言葉ありきで、外宮の(由来不明の)豊受大神が重要だから、食物に結び付けられたと解する訳です。豊(トヨ)は豊作の豊です。ウケとは普通に考えて受身の受けです。ここは素直に受けを解すると何に対して受けかと言えば、天照大神に対して受けではないでしょうか?日本の史書では意味が通りにくいですが、有り難いことにこの辺は中国の記録もあって、台与をトヨと捉えて、豊受大神と理解すれば、卑弥呼(日御子・日巫女)に対する受けだと腑に落ちてきます。倭国の大乱を治めて日本がまとまったシンボルが台与です。記紀では王として扱われませんが、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性になります。こうして考えると、そもそもよく分からない豊受大神を皇祖神と並べて祀ることになったか理解できてきます。男性中心社会(特に先進地中国においては)の影響で記紀では見え難くなっているにせよ、日本としても皇祖神に近い時期に凄く重要だった台与を祀らないといけない伝承・史料が当時あったのでしょう。外国人は遠慮がありませんから、日本で女性が重要な役割を果たしていたのを寧ろ差別的に記録したのだと思います。台与(トヨ)は元々食料に関係する言葉ですから(鍬も稲作の道具です)、それで食料に関係する神だとされたのであって、受けは継承の方の意味だったのを後に誤解したような気がします。倭姫が祭られたのは大正時代でしたが、豊受大神と見られる豊鍬入姫命が祀られたのは伊勢神宮の創始に関係あるからでは実はなく、祀られるべき王としての事跡があったからだと見ることが出来るのではないでしょうか。祭祀に関係あるという伝承はこのあたりの事情がぼかされたと見ることも出来そうです。これは天照大神と見られる倭迹迹日百襲姫命も同じ事情だと思えます。倭迹迹日百襲姫命は突然死していますが(古墳時代と言いますが、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は古墳時代最初の大前方後円墳とされます)、日食が卑弥呼の時代にあったことが分かっています。これは天の岩戸の話にも関係するでしょう(呼び出されたのが同じ日巫女職である豊鍬入姫命と見る訳です)。崇神天皇ははつくにしらししみまきのすめらみこととされ、この辺りに日本のひとつの始まりがありましたと考えられますが、意外と派遣や紹介が多く本人の話がありません。それ以前が「欠史」ですから、男性中心視点で崇神天皇に事跡をまとめたと考えられます。倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の代の記載ですが系譜で二代前であり、卑弥呼は高齢と記され、崇神天皇の娘である台与が年若い宗女(一族の娘)だと考えられます。この辺は驚くほど符合するところです。まぁ台与は若すぎ象徴的なシンボルなのであって、実際には崇神天皇が(卑弥呼後、倭国大乱後の)リーダーだったかもしれませんが(台与の親だったからリーダーになれたのかもしれません)、中国の史書には女王がリーダーだったと記されています。「欠史」に触れたついでですが、筆者は欠史八代も何らかの歴史的事実を伝えると見ます。それは倭迹迹日百襲姫命を通じて崇神天皇以前の系譜が一部正しいことが分かるからであり、古墳時代以前も「銅鐸祭祀」を通じて大和が強勢だったと見られるからであり、卑弥呼の時点で北九州を圧する勢力を擁していたことが中国の史書でも分かるからです。神武天皇は日向(ここでは書きませんが、宮崎とは限りません)の出かもしれませんが、皇室は卑弥呼の前で六代ぐらいは大和で遡ると考えて良さそうです。誤りも含むものの一般に言われるよりずっと記紀は歴史的事実を伝えていると調べれば調べるほど理解できると考えています。

最後に明治天皇記に鳥居のコンクリート論があったものの明治天皇はこれを許可されず、質素な造営に先祖の建国の姿を知るべきと諭されたとのことです(伊勢神宮入門 幻冬舎 145p)。神明鳥居もそうですが、古い形をそのまま残していると、その時は(戦火で記録が失われることはしばしばありますし、流行に流されることもあります)意味が失われているとしても、後でその意味・知恵が理解できる時もあるんだろうと思います。何も変えないのが保守だと思いませんが、風雨に耐えた貴重な伝統文化をそのまま守ることは重要であり、これが守るべき保守精神ではないかと思いますし、明治天皇の立派な見識に頭が下がるところだと思います。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
鳥居の貫が示す建築技術 (管理人)
2019-06-04 21:23:29
弥生時代の建築物で高層建築があることが分かってきたことから、貫という技術があったと推定されているようです(住まいと建築 弥生ミュージアム http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/house.html)。鳥居にも貫というパーツがありますから、割合、高層建築は昔からあった可能性があるかもしれません。三内丸山の柱は海を見渡す物見やぐらだったかもしれませんし、環濠集落が戦争の存在を示すなら、やはり物見やぐらが必要だったんじゃないでしょうか。
明神鳥居の破風と大社造 (管理人)
2019-06-04 21:28:58
明神鳥居の破風は、個人的に出雲が起源としておきます。神明鳥居の伊勢に対する神道の一方の雄ですが、大社造(たいしゃづくり)は反ってますし、四隅突出型墳丘墓もヒトデというか何だか反ってます。出雲の建築って反らす癖があるのだとしたら、破風の起源が出雲にあってもいいような。

コメントを投稿