大学入試共通テストで記述式見送りが決ったようですが、筆者は記述式を大学入試共通テスト(旧センター試験)で導入すべきという考え方であり、何故そうなるのか考えたことをここに簡単に纏めておきます。
まず記述式そのものが重要です。公平不公平いいますが、適当に鉛筆転がしでたまたま点がとれかねない選択式こそ必ずしも公正な試験とは言えません(迷ったから必ず直感になり、迷うことが多いのが当然であって、本当に分かっているかどうかを選択式で問うのは原理的に不可能です。うろ覚えで正解にするのも実力の内で、ある程度理解度は計れると思いますが)。二次試験で論述式をやればいいという考え方もあるかもしれませんが、足切りがあるのであれば、ある程度共通テスト対策をやらねばならず、そこに記述式がない以上、記述式で養成される実力は(共通テストに記述式があるケースより)受験勉強で養われ難いことにどうしてもなってしまいます(時間は有限ですから)。足切りだけならまだしもなのであって、二次試験に合算すればするほど二次試験が記述式に寄らない限り、記述力が問われなくなってしまいます。
自分も受験生だったから大体分かりますが、楽な道があるとそちらに人間は流れるもので、二次試験も選択式の方が楽なのですから、記述力を問わない大学が有利になる可能性も否定できず、そうでないとしても、受験勉強が安易になる可能性があって、共通テストに記述式という柱があったら、どれだけ大学生になった時の学力が向上しているか分からないと思います。国語で記述力が問われない?読解力や作文力をどう問うのか?数学で記述力が問われない?式とかその人はかけるんでしょうね?英語で記述力が問われないのは国語と同じく大丈夫なんでしょうか?歴史や地理や公民の類だって、どう課題解決能力が養われるのか分からない話です。
私大は選択式が多いのだそうです(省力だと思いますが、試験日程をずらして膨大な人数が受験しており、これこそ抜本解決が難しいと思います)。私大のために共通テストがある訳ではありませんが、共通テストに記述式があれば、私大生の学力が向上しやすそうです(参加しない選択肢もありますが、受験して欲しい私大こそ足切りの意味があまりないのでは?)。受験生は割合早めに特化した勉強をすると考えられるからです。ハナからやらなくていいということが分かっていれば、やらなくていいやとなるものです。逆に言えば受験生は止めてほしい人が多いのか知りませんが、学力を養わない入学テストなるものは本末転倒も甚だしいのであって、過剰なお客様至上主義の出番ではないと考えます。
足切りそのものに関して言えば、他の国公立を受験できなくなる足きり制度そのものに問題があると言えます(大人の事情で受験日がズレる私立は足切りをあまりやらないようですが、これは止むを得ないと考えておきます)。大体足切りになるかどうか選択式なら計算しやすいかもしれませんが、実際に足切りにあう人が少なくない訳で(ギリギリと思ったら出願する人は多いでしょうし、ギリギリならば落ちる可能性も大きいものです)、記述式が無くなったところで抜本解決になる訳ではありません(記述式があるかないかは言い訳しやすいか否かに過ぎません)。対策としては①足切りを禁止する。労力は増えるかもしれませんが、共通テストで記述式があるなら、記述式を減らしたり、設問を減らすの対応も考えられます。だからと言って必ずしも学力が落ちる訳でもなく、全体で考える必要があると思います。共通テストの価値は大学間の格差を無くすことにあって、そこで記述式がないことに問題があるということで導入されたはずです。差別化したい学校こそ頭を捻って二次試験すればいいだけで、チャンスは与えた方が、自分の大学に合う特化型が通りやすくなって、没個性対策にならないとも言えません。足切りを廃止したら出願が集中する学校が現れる可能性も否定は出来ませんが、私学が選択式が多いとは言え、対応は出来ています。ある程度合格発表日まで余裕を持った日程を組むことも重要かもしれません。②余裕がある大学が第二志望第三志望を受け入れる想定があってもいいかもしれませんが、現実的に難しいとは思います。入社試験で人気企業は足切りのようなものがあってもいいかもしれませんが(例えば私学と同じで他の企業もあるものでしょう)、入学試験ぐらいはテストの点で勝負する世界(面接や高校の成績も加味するにせよ)であっても良く、チャンスぐらい与えたらどうかと思います。記述で自己採点云々で不公平感は話が小さく、根本的には足切りでチャンスを与えない方に問題があるんじゃないでしょうか?そのイライラは自己採点云々というよりは、本質的に受験に落ちたイライラであり、門前払いされたイライラだと思われます(自分の考えがあって出願するものです)。
まず記述式そのものが重要です。公平不公平いいますが、適当に鉛筆転がしでたまたま点がとれかねない選択式こそ必ずしも公正な試験とは言えません(迷ったから必ず直感になり、迷うことが多いのが当然であって、本当に分かっているかどうかを選択式で問うのは原理的に不可能です。うろ覚えで正解にするのも実力の内で、ある程度理解度は計れると思いますが)。二次試験で論述式をやればいいという考え方もあるかもしれませんが、足切りがあるのであれば、ある程度共通テスト対策をやらねばならず、そこに記述式がない以上、記述式で養成される実力は(共通テストに記述式があるケースより)受験勉強で養われ難いことにどうしてもなってしまいます(時間は有限ですから)。足切りだけならまだしもなのであって、二次試験に合算すればするほど二次試験が記述式に寄らない限り、記述力が問われなくなってしまいます。
自分も受験生だったから大体分かりますが、楽な道があるとそちらに人間は流れるもので、二次試験も選択式の方が楽なのですから、記述力を問わない大学が有利になる可能性も否定できず、そうでないとしても、受験勉強が安易になる可能性があって、共通テストに記述式という柱があったら、どれだけ大学生になった時の学力が向上しているか分からないと思います。国語で記述力が問われない?読解力や作文力をどう問うのか?数学で記述力が問われない?式とかその人はかけるんでしょうね?英語で記述力が問われないのは国語と同じく大丈夫なんでしょうか?歴史や地理や公民の類だって、どう課題解決能力が養われるのか分からない話です。
私大は選択式が多いのだそうです(省力だと思いますが、試験日程をずらして膨大な人数が受験しており、これこそ抜本解決が難しいと思います)。私大のために共通テストがある訳ではありませんが、共通テストに記述式があれば、私大生の学力が向上しやすそうです(参加しない選択肢もありますが、受験して欲しい私大こそ足切りの意味があまりないのでは?)。受験生は割合早めに特化した勉強をすると考えられるからです。ハナからやらなくていいということが分かっていれば、やらなくていいやとなるものです。逆に言えば受験生は止めてほしい人が多いのか知りませんが、学力を養わない入学テストなるものは本末転倒も甚だしいのであって、過剰なお客様至上主義の出番ではないと考えます。
足切りそのものに関して言えば、他の国公立を受験できなくなる足きり制度そのものに問題があると言えます(大人の事情で受験日がズレる私立は足切りをあまりやらないようですが、これは止むを得ないと考えておきます)。大体足切りになるかどうか選択式なら計算しやすいかもしれませんが、実際に足切りにあう人が少なくない訳で(ギリギリと思ったら出願する人は多いでしょうし、ギリギリならば落ちる可能性も大きいものです)、記述式が無くなったところで抜本解決になる訳ではありません(記述式があるかないかは言い訳しやすいか否かに過ぎません)。対策としては①足切りを禁止する。労力は増えるかもしれませんが、共通テストで記述式があるなら、記述式を減らしたり、設問を減らすの対応も考えられます。だからと言って必ずしも学力が落ちる訳でもなく、全体で考える必要があると思います。共通テストの価値は大学間の格差を無くすことにあって、そこで記述式がないことに問題があるということで導入されたはずです。差別化したい学校こそ頭を捻って二次試験すればいいだけで、チャンスは与えた方が、自分の大学に合う特化型が通りやすくなって、没個性対策にならないとも言えません。足切りを廃止したら出願が集中する学校が現れる可能性も否定は出来ませんが、私学が選択式が多いとは言え、対応は出来ています。ある程度合格発表日まで余裕を持った日程を組むことも重要かもしれません。②余裕がある大学が第二志望第三志望を受け入れる想定があってもいいかもしれませんが、現実的に難しいとは思います。入社試験で人気企業は足切りのようなものがあってもいいかもしれませんが(例えば私学と同じで他の企業もあるものでしょう)、入学試験ぐらいはテストの点で勝負する世界(面接や高校の成績も加味するにせよ)であっても良く、チャンスぐらい与えたらどうかと思います。記述で自己採点云々で不公平感は話が小さく、根本的には足切りでチャンスを与えない方に問題があるんじゃないでしょうか?そのイライラは自己採点云々というよりは、本質的に受験に落ちたイライラであり、門前払いされたイライラだと思われます(自分の考えがあって出願するものです)。