観測にまつわる問題

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斉(春秋)と日本の意外に深い関係(弥生時代)

2018-12-10 00:19:58 | 日本史
日本史の大きな謎のひとつに稲作の伝来がありますが、筆者は春秋時代の斉にその起源があるのではないかと考えます。

春秋時代の斉は紀元前1046年 - 紀元前386年の中国山東半島の最初の王朝。周建国の功臣太公望によって立てられた国と言います。莱(らい)と呼ばれる族がこの地域にいたそうです。殷が紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年。周が紀元前1046年頃 - 紀元前256年。殷の領域に山東半島は含まれていませんでした(言語学的な証拠はもはや見つからないと思いますが、個人的には莱族も一種の漢族ではないかと思っています。これは地理(山東半島と黄河流域の連続性)や歴史(何の問題も無く後の斉は中国の歴史に入っている)を踏まえた見方です。琉球もそうですが、古い歴史書の「異民族」が言語学的に系統を別にする訳ではありません)。古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれている島(山)である蓬莱(山)と莱に関係があるようにも思います。恐らく島伝いに朝鮮半島。そうでなければ、その先の日本なのでしょう。

現在の日本への稲作の到来の定説は、縄文時代後期の約3000年前だということのようです(1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ 米ネット 米穀安定供給確保支援機構)。これが斉の始まりの時期に一致します。紀元前3000年以降、山東半島先端部にまで稲作は分布したそうです。これが島伝いに遼東半島・朝鮮半島を通って、北部九州に到達したと考えるべきではないでしょうか。やはり山東半島最初の国家の勢力は強く、周囲に大きく影響したのでしょうし、それ以前の殷は山東半島を支配しておらず、遼東半島から先に強く影響を及ぼすことも無かったのだろうと思います。勿論、北回りの後の燕の領域も殷に含まれていませんでした。そもそも殷は内陸部の王朝です。お隣の莱人は(漢族=殷族の親戚だとしても)文明化はしておらず、遼東半島から先に強く影響を及ぼすことも無かったのかもしれません。

成王の言葉に「東は海に至り、西は黄河に至り、南は穆棱に至り、北は無棣に至る間の五侯九伯が罪を犯した場合、これを討伐して良い」があり、斉は春秋時代の強国でした。海に面していることより塩の生産が行われ、鉄の産出地でもあったのが栄えた要因であるようです。直接支配はないにせよ、この斉人が渤海を渡って交易をしていた可能性が高いような気もします。いずれにせよ、遼東半島に至る廟島群島は確かに存在しており、好漁場でもあったようです。古より何らかの交渉はあったと見るのが通常だと思います。

中国貨幣史ですが、殷・周は貝貨を使用していたようですが、その入手方法は江蘇省あたりの東夷とされる淮夷を通じて福建省や台湾省あたりから持ってきた可能性が高いように思えます(参考:日本人は、どこからやってきたのか?(20) ~ 古代「貝の道」があった! 日本古代史つれづれブログ 及び ウィキペディア「江蘇省」2018/11/16。及び「淮夷」(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)。ワイイは倭夷に通じるようにも思えますが、偶然か何の関係もない列島の異民族にワをつけてみたまでなのでしょう。その理由は海洋的性格が似ていたからかもしれませんが、半島南部の異民族が韓であるにも関わらず、戦国の七雄の韓に全く関係あるとは思えませんから、その辺はわりと適当だったと見るより他ないでしょう。学問的に厳密ではない古代の話です。いずれにせよ、江蘇省から朝鮮半島及び日本には海を結構横切らなければなりませんし、山東半島を経由しないと危険なはずですが、山東半島は支配していなかったのですから、淮河を中心に高い操船技術を持っていたかもしれませんが、主に視線は南方に向いた(南方より貝貨の貝を供給した)んだろうと思います。少なくとも中国大陸南方や台湾に貝貨の貝があるのだったら、危険を冒して琉球に渡る理由は全くありませんし、朝鮮半島と日本への稲作の伝来の時期と淮夷が関係あるようにも思えません。

中国南方の古代民族と言えば、呉越楚で長江の固定観念がありますが、より中原の文明に近く弥生時代の開始期に近い淮河の淮夷こそ日本との関係を考察する時、重視されるべきでしょう。後に淮夷は呉や楚の勢力圏に入るようです。しかし呉にしても楚にしてもあるいは越にしてもそれなりに操船技術があったとしても大海に乗り出す冒険野郎である理由は無さそうです。後の時代を通じてみても、台湾ですら遥か降って清代まで支配しなかったのが中国という国です。せっせと大海を渡り始めたのも朝鮮半島支配後、つまり漢代が疑われますし、あるいは唐代に遙々アラブ人が到達してから。それ以前は大河と大陸沿岸のみの通交メインだったように思います。唯一山東半島~島伝いに遼東半島のラインのみ怪しいという訳です。

春秋時代に入って、青銅貨が流通したようで、それが朝鮮半島や日本で流通していないとしても、そうした文明度の高い国家が(海を隔てて)隣(そのまた隣)に成立することによって、何か影響を受けるようなことがあったはずです。そしてその影響とは稲作だったのではないでしょうか。

日本の水田跡としては約2600年前の菜畑遺跡。朝鮮半島の水田跡としては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡。一端素通りしたか発見されていないか分かりませんが、いずれにせよ、ほぼ同時期に稲作は伝わり、気候がより温暖な日本で先に水田耕作が繁栄したのは確かではないかと思えます。時期的には斉の時代であり、その時既に山東半島に稲作が定着して久しかったようです。筆者としては既に書きましたが、通常言われているように呉人や越人が大海を渡る動機を見出せず、稲作の伝来に全く関係ないだろうとします。まずは斉人が島伝いにルートを開拓して、知見が広まってからの横断は有りえたかもしれませんが。普通に考えて、渡航先に何か魅力がないとわざわざ横断渡航は有り得ません。何となく技術が伝わって国が成長してから本格的な交易(後の大和朝廷と中国南朝との交流等)という形だと思います。

弥生時代の文化に銅鐸があります。これの意味をいろいろ考察する人もいるようですが、その前に銅鐸とは何かを考えるべきでしょう。倭人が銅鐸を創造したでしょうか?答えは残念ながら否だと思います。「」(コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)によると、鐸は殷の古代より中国にあります。殷の鐸が古代日本との関係が注目と言いますが、時代が違いますし、山東半島も押さえておらず、直接の関係は無さそうです。結局周にも鐸はあったのであって、周の諸侯であった斉の鐸が日本にまで伝わったと考えるのが蓋然性が高いでしょう。越の貴族の墓から鐸が見つかったから日本に関係あるというニュースがネットで流れていますが、長江文明の越が日本に稲作と鐸をもたらしたという思い込みによる誤認だと思います。日本の稲作の開始期には既に斉に稲作があったのに、わざわざ長江から来るでしょうか。水田耕作が斉に絶対無いと言えるなら、話は別かもしれませんが、東北地方に水田が後にできるのに、斉で無理とは思えません。大体越人は何を思って唐突に海を渡ろうと思ったのでしょう。渡ろうと思ったとしたら、斉人に先に朝鮮半島や島があるよと教えられていたからでしょう。つまりどう考えても斉が先のはずです。それに越というより

以上、2018-11-16 11:02:10の下書き記事を加筆修正してアップ。


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