観測にまつわる問題

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伊予と古名、神

2019-05-29 23:13:53 | 日本史
伊予の語源)諸説あるようですが、筆者は女性名/神女と考えます。伊の意味ですが、手で神杖を持った様を表わす象形文字で神の意志を伝える聖職者、治める人の意を表すのだそうです(伊 - ウィクショナリー日本語版 2019/3/6)。邪馬台国の女王名に台与(トヨ)がありますし、伊代(イヨ)という女性名は当時にあっておかしくなさそうです。他にカヨ、サヨ、チヨなんかも女性名ですね。ヨの語源は夜で、東アジアの陰陽思想で陰を女性にあてたものかもしれません。注意すべきは、北九州の倭国に伊都国があって、これが神都と読めることです。大陸との交流窓口が伊都国であり、音読みの国名も決して不思議ではありません。ちなみに豫とは「タノシムとかヨロコブの意味で、中国の古辞書に「楽也、悦也、安也」の意をもつと注する。日本の古辞書の訓にも、ココロヨシ・サカユ・タノシビ・ヨロコブなど(類聚名義抄)とある」(データベース『えひめの記憶』)のだそうです。いずれにせよ、イヨという地名ありきで、伊予郡内が最有力だと思います。イヨという地名は珍しいので、付近の群名「温泉」「浮穴」「風早」のように何かの名詞を郡名・国名・地域名にすることがあっても良さそうです。魏志倭人伝でも邪馬台国は女王国と書かれていますし。

九州から見た伊予の始まり)四国の古名ですが、日本書紀では伊予洲・伊予二名洲、古事記では伊予之二名島です。先にも指摘しましたが、伊予国だけでなく四国自体を伊予と呼んだのですから、これは大和から見た名前ではなく、弥生時代の起源が古い九州からみた命名だと推定できるように思います。地名はわりと残存するものです。また、大分から瀬戸内海側の九州にかけては豊の国(トヨの国)とされますから、名前の相似が注意されていいかもしれません。二名に関する地名として、佐多岬半島の突端瀬戸内側に二名津(goo地図)という良港があるようです。北九州からの弥生時代の拡散を踏まえると、四国の最初の平野は伊予郡になります。実際、愛媛県史によると重信川中流域においても、右岸より(伊予郡に近い南側の)左岸の開発の方が先んじていたようです。また九州が四面の国とされているのと同様、四国も四面の国であることも面白いと思います。

松前町の伊予神社)松前町の伊予神社の主宰神は彦狭島命(ひこさしまのみこと)になります。孝霊天皇の皇子で、越智氏の祖とされます。父の命で伊予を統治し、伊予皇子という別名をもつようです。欠史八代と言いますと、一般に架空と受け取られかねませんが、(卑弥呼に比定される)倭迹迹日百襲姫命の兄弟であり、畿内系土器の流入等考古学的遺物からも、決して系譜上は荒唐無稽と言えないと思います。記紀の記述をみると、時折系譜の偽造を戒める記事がありますが、逆に言えば、生き残った信頼性が比較的高い系譜が記紀の系譜と言えると思います。同母弟に稚武彦命(吉備臣の祖)もいて、邪馬台国を中心とした倭国成立に関係するようにも思います。社地にあたるのは神崎庄。伊予川の流域の変遷は激しいのですが、延喜式の頃の伊予郡の中心地にあったのが伊予神社という理解でいいのだと思います。伊予郡の郡家は神崎郷にあったとされます。かつての繁栄は今は昔で静かな感じのところなのですが、その原因は伊予川の流路の変遷にあるのか、交通路・産業構造の変化にあるのか、あるいは謎多き藤原純友の乱など戦火によるものか、その理由は現時点で不明としておきます。

伊予市の伊予神社)伊予郡の海岸沿いの平野が伊予市と松前町に分かれているのは、基本的には大洲藩と松山藩に分かれることによるようです。伊予神社に論社があるのは、その絡みもあるかもしれません。伊予の起源で考えると、弥生時代の古墳が山沿いにあること等その遺跡の分布から、伊予市域の方が早くに発展した可能性は結構高いと思います(昔ほど土木は無かったと見なければなりません)。祭神は月読尊と愛比売命で月読尊が祭られるのは珍しいようですが、この並びを見て、筆者はエヒメとは兄姫(エヒメ)というよくある古代の一般的人名で天照大神を表している可能性が高いような気がしました。月読尊の姉(長女)が天照大神だからです。これは伊予の語源と見られる神女と親和性がある見方です。

愛媛)古代において一般的にエヒメが姉でオトヒメが妹、真ん中がナカツヒメになります。ですから、何に対して姉なのかという話になりますが、筆者は天照大神=太陽神の長女と考えておきます。四国を伊予之二名島を言いますが、伊予の神が太陽神の筆頭だったら、その名も理解しやすいように思われます。九州の四神は全て太陽神ですが、至近の山口県域を除いて、もっとも近い九州以外の平野は伊予国伊予郡になると思います。

月読尊)長女天照大御神の弟神で建速須佐之男命の兄神(三貴子)。万葉集におけるツクヨミを詠んだ歌に海や航海に関係するものが幾つかあるようです。筆者はツクヨミのヨミは月齢を読む、潮を読むのヨミで、月夜見のダブルミーニングもあるかもしれませんが、「航海のために各地で何時何分に干満があるかを知る」必要性があった可能性を考えています(貴重資料展示室 潮汐 国立天文台)。スサノオとエピソードが重なる部分があるようですが、スサノオの統治領域は海とされており、出雲に辿りついています。なお、伊勢神宮内宮(皇大神宮)において月讀宮は、内宮別宮としては天照大神の魂を祭神とする荒祭宮に次ぎ、内宮宮域外の別宮としては最高位の立派な別宮となっているようです。

ツクヨミを詠んだ歌/オチミズ)万葉集巻十三・三二四五 天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てる越水(をちみづ) い取り来て 公(きみ)に奉りて をち得てしかも・・・おちみず(復ち水)若返りの水。このことを月は欠けて、また満ちることになぞらえ、月の神、月読(ツクヨミ)が持っているとされるそうです。復(お)つが若返るだそうです。伊予の大族越智の語源を考えましたが、難しそうです。元は小千表記ですが、万葉仮名だと思われ、漢字に意味は無さそうです。

二名)二つ名が異名です。日本には忌み名の慣習もあったようですし、字(アザナ)は日本においても、文人や学者が使用することがあったようです。フタナとはフタツナで、異名、別名ではないのかという気もしますが。

伊豫豆比古命神社)いよずひこのみことじんじゃ。延喜式神名帳所載の伊予豆比子命神社(小社)に比定されますが、今は椿神社、椿さんと親しまれ、椿まつりは毎年約五十万人の参詣者で賑う県下随一の神社になっています。久米郡だったと思いますが、延喜式神名帳に久米郡・浮穴郡はなく、伊予川流域の変遷で松前町一帯とは重信川で分けられていなかった可能性はあると思います(伊予神社Ⅱ遺跡)。孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、松前町の伊予神社と時を同じくして古くから大和朝廷と関係を持った可能性が高いと思います。祭神は伊豫豆比古命(男神・いよずひこのみこと)・伊豫豆比売命(女神・いよずひめのみこと)・伊与主命(男神・いよぬしのみこと)・愛比売命(女神・えひめのみこと)。豆(づ)に関しては、孝霊天皇皇子の吉備津彦命(きびつひこのみこと)や天津神、国津神と同じ用法で豆は格助詞の「つ」であるようです。

八雲立つ出雲:弥生時代と古墳時代の地方史②

2019-05-28 16:25:52 | 日本地理観光
出雲大社のFile:Haiden 1.JPG(パブリックドメイン)出雲大社拝殿(ウィキペディア「出雲大社」(2019/6/5)から)

出雲の由来と枕詞)通説の出雲国風土記に言う「八雲立つ」出雲が由来で良いと思います。「八雲立つ」と「出雲」は古代の日本人の意識の中で密接に結びついている枕詞だからです(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 古事記・現代語訳と注釈〜日本神話、神社、古代史、古語)。また出雲というか山陰地方はその字面でも分かるように、実際問題曇りが多い地域で、対して瀬戸内側は山陽といい、この対照は古代から認識されていました。日本の神道は太陽神が重視されており、弥生時代は水田耕作中心の時代ですから、尚更天気は明快に意識されていたはずです。古代において雲が多いの代名詞が出雲であるのに、他の解釈が成り立つとは思えないところがあります。また日本海側で雲が多く、太平洋側が雲が少ないというコントラストは日本全国で一般的に見られる現象ですので、大和視点ではなく、北九州視点で雲が多いと言っているんだろうという推測も十分成り立ちます。古代の人は統計をとっておらず、体感で分かる範囲で言っているでしょうが、数値的に雲が多い云々というより、比較して差を捉えて雲が多い云々を言っているだろうことも、山陰/山陽から明らかなはずです。

出雲国成立と弥生時代年代)弥生時代の発祥は考古学的に北部九州になりますが、大和朝廷の発祥が神武東征で示唆されるように日向(筑紫の四神は全て太陽神で古くは北部九州を指したと見られる)であるのと同様、出雲も北部九州からたどり着いた弥生人(渡来人ではなく北部九州縄文人が弥生人に変化しました)が建国した国と見られます。これは出雲国風土記の所謂国引き詞章の八束水臣津野命の台詞、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さの)の稚国(わかくに)なるかも」(出雲の国は幅の狭い布のように小さく幼い国だなあ)でも分かると思います。地形をよく捉えているのもそうですが、「若い国」という見方は「古い国」視点でしか発生しません。そしてその古い国とは考古学的に北九州でしかありません(国立歴史民俗博物館の放射性炭素14を使った年代研究:九州北部=紀元前10世紀後半 九州東部~西部瀬戸内=前700~前650 近畿=前7世紀後半 北陸=前6世紀ごろ 東海=前6世紀中ごろ~前5世紀末ごろ 東北=前400年前後 関東=前3世紀後半 共同体社会と人類婚姻史)。また北部九州から出雲に辿りつくには船によったでしょうが、航海において天気とは重要なものです。なお話はやや逸れますが、弥生時代が比較的早期に日本海側を辿り、太平洋側が寧ろ遅れたというのも東北の早期水田や巨大前方後円墳の進出の経緯から明らかです(関東より会津に先に辿りついています)。

四隅突出型墳丘墓)方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓(ウィキペディア「四隅突出型墳丘墓」(21/5/29))です。「弥生中期後半の広島県の三次盆地に最も古い例がみられる。 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に広まった。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている」ということのようですが、筆者は古墳を死者の家と見ており、四隅突出型墳丘墓は破風(はふ:アジアに広く分布する屋根の妻側の造形)を意識したように思っています。テントも考えましたが、円形のようです。三次盆地に始まるのが事実だとしたら、製鉄技術者が最初は発想した可能性があるかもしれません(「古代出雲」(ウィキペディア 2019/5/29)において山間部で時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっており、特に遺跡が多いのは県境付近であって、たたら製鉄に欠かせない大量の木炭の確保は欠かせなかったものと考えられるようです)。北陸に広がった形式のようです。

ハネる出雲/山陰)四隅突出型墳丘墓(世界の歴史まっぷ)・「伊勢」と「出雲」2大古社の建築をイラストでわかりやすく比較!!(和樂)・祭祀(夜見神社)・いなばのしろうさぎ(出雲大社)

荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡)出土する金属器の多さ等から、やはり古代出雲の力とはタタラ、製鉄、製銅、鍛冶じゃないかと思います。中国山地の森林を伐採しつつ鍛冶をしており、野だたら遺跡が年代が特定できないがゆえに、その辺が分かりにくくなっていると見れる気がします。通常はタタラ製鉄で銅は関係ない印象があります。しかし鞴(ふいご)が「たたら」というそうですから、必ずしも鉄ではないと筆者は思います。鞴(ふいご:吹子)(和鋼博物館)を参照すると、「踏鞴が登場するが、「倭名類聚抄」(934年)では皮鞴を「ふきかわ」とし、これと区別するために踏鞴を「たたら」のこととしています。」「踏鞴が最初に記録に現れるのは「東大寺再興絵巻」で、12世紀の大仏鋳造の際、銅の溶解に使用されたと紹介されています。」・・・たたらを踏む(空足を踏む姿と似ていることから、勢い余って踏みとどまれず数歩あゆむ)という言葉の由来のようであり、なるほどと思いますが、注目すべきは銅の溶解に使われたということでしょう。これは時代が降っていますが、史書に必ずしも技術の詳細は記されておらず、有り得ない話ではないと筆者は思います。つまりこの場合のタタラは製鉄ではなく製銅に関係する可能性があります。通説でタタラが6世紀云々の話は筆者に言わせれば論外で、証拠固めは重要でしょうが、荒神谷遺跡に象徴されるように幾らでも金属器が出るのですから、自分で鍛冶をしていたとみるより他ありません。

「神武東征」時の大和盆地と出雲神話の関係性)日本書紀を読むと、神武天皇を大和盆地に受け入れた(皇后を出した在地の)勢力が事代主神ということになっています。古事記などと異同があるようですが、どうも国譲り神話を想起させるものがあって、国譲り神話の舞台は大和盆地ではなかったかという気がしないでもありません。つまり弥生時代の最先進地で拡散の根源の(北)九州から見て、大国(オオクニ)とは本州のことであって、出雲の大国主と大和の事代主、三輪の大物主神は同一の系譜にあるんじゃないかと思います。つまりあえてザックリ言うと、出雲人が大和に移住したのでも、大和人が出雲に移動したのでもなく、九州人が出雲と大和に移住して似たような神・神話があると筆者は見ます。神武天皇の皇后のヒメタタライスズヒメ(日本書紀)/ヒメタタライスケヨリヒメ(古事記)も名前にタタラを含んでおり、大和は元々銅鐸という名の銅鈴配布の一大根源地でしたから(その製作地は唐古・鍵遺跡と見られます)、神武天皇が大和入りした時に既に鍛冶の力は大和にあったと見られ、やはり出雲とどちらが起源という話ではなさそうです(吉備ならまだしもでしょう)。

スサノオと八雲立つ)古事記の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」というスサノオの歌の意味は、>「八雲立つ」と「出雲」をほめ、さらにその枕詞が「八重垣作る その八重垣を」と新妻との新居の宮をほめる言葉を導き出すことで、スサノオたちの前途を祝福するものであり、決してスサノオが雲を否定的に捉えている訳でも、八雲立つという枕詞が出雲を否定的に捉えている訳でもありません。

比婆の山)古事記でイザナミが亡くなった時の記述に伯耆と出雲の境にある比婆の山に葬ったとあります。比婆とはヒバ(アスナロ/翌檜)と思われ、九州から本州に自生し、ヒノキ・サワラ・コウヤマキ・ネズコと共に木曽五木にも数えられ、古くから馴染みのある常緑針葉樹になります。かつて全国に広く自生していたとされ、寺社仏閣に多く使われていますが、乱獲のため減ったと推測されているようです(針葉樹の名前と種類。これだけは知っておきたい日本の針葉樹 life info)。ヒノキ科ですが、ヒノキとは区別しやすいとも。湿気のある肥沃な深山を好んで自生するとされ、針葉樹ですし、あまり低山には分布しないような気もします。広島県庄原市の比婆山は標高1264mですが、比婆山は雲伯国境中心に日本各地にあるらしく、元々木材として利用価値があったヒバが生えていた山を一般にヒバ山と言ったのではないかと思われます。これは檜山・杉山・樫山と同根です。

雲伯国境)出雲と伯耆の国境ですが、伯耆の国府は東伯(倉吉市国府(こう))にあり、(今人口が多い)西伯ではありません。雲伯方言など、出雲と西伯は文化が共通する面も多いようで、古代出雲を考える時、西伯の領域も意識するべきであるようです。

根之堅洲國)古事記でスサノオが言う亡き母(イザナミ)の国。根の国とは嶺(ね)の国で、島根郡(島根半島)を指す説があるようで、嶺(ミネ)=御根で、高嶺(高根)(の花)等、結構和語に根付いた言葉で結局、山ではないかという気がしないでもありません。カタスは潟洲のような気がします。カタは片山、形山、片島等々いろいろなバリエーションがありはします。洲(ス)は言うまでもなく洲(シマ)に通じます。結局、伯耆の夜見島が根之堅洲國説が捨てがたいと思います。というのも安来の地が古代出雲で栄えたのであって、「中海」にあったであろう港から夜見島は近いからです。スサノオは海を治めることになっていました。

夜見島)弓ヶ浜半島(山陰の古代史 - 米子)>古くは島であったと考えられている。『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている。ヨミは黄泉説もありますが、どうも語源は不明な感じです。夜の万葉仮名にヤ、ヨ。見の万葉仮名にミ、メ、yeとあります。

花仙山の勾玉)彩り鮮やかな玉から時代の色を読む(岡山県古代吉備文化財センター)>古墳時代になると社会の仕組みが大きく変化し、それに伴って前期後半に玉の材質と色にも変化が起きます。碧玉・瑪瑙・水晶製勾玉の登場です。これらは島根県花仙山(かせんざん)で産出される緑色の碧玉、赤い瑪瑙、白・透明の水晶を素材として、出雲(島根県東部)系の玉作集団によって創造された玉であり、「勾玉=ヒスイ」「(石製の)玉=緑」いう弥生時代までの伝統・既成概念を打ち破った玉の意識改革が起こります。・・・花仙山のめのう脈(島根ジオサイト100選(出雲地方))。弥生時代末から古墳時代にかけて技術革新があったようです。ということは出雲振根の神宝は、この新しい玉造の勾玉だったのかもしれません。新しい勾玉は東国の翡翠の勾玉にとって代わったようですが、あるいは弥生時代に出雲人が越に渡って技術を持って帰って新しい勾玉を開発したというような可能性もあるのかもしれません。そもそも糸魚川産翡翠は縄文時代以来の日本の文化でその技術の起源は日本にあるようです(糸魚川産翡翠の解説 MoonMadness)。玉造の勾玉も結局仏教の興隆で絶えてしまうようです。

越の八口)出雲国風土記意宇郡(おうぐん)母里(もり)の郷(さと)。「大穴持命、越の八口を平げ賜ひて還り坐す」の記述で越の八口とは?という問いがあります。筆者は大穴持命が出雲自身を平らげて中心部の意宇郡(おうぐん)に帰った可能性が高いような気がします。松江市に古志原という地名があります。八は方位を表し、口は城の攻め手とかで使われ、~口を守るとかそういうイメージで八口と見ておきます。越の原義は越すで山を越した向こうのことだと考えることが出来、山陽・吉備視点かもしれません(葬祭土器なんかは吉備から伝播しているとか)。畿内からみた北陸や関東から見た越後がコシ(越し)だと筆者は考えています。峠と関係深い言葉なのでは?

出雲大社)一般的には「いずもたいしゃ」と呼ばれますが、いずもおおやしろが正式名称のようです。島根県出雲市大社町杵築東にある神社で、祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮。参拝スタイルは一般的な二拝二拍手一拝に対し、二拝四拍手一拝。これは宇佐神宮も同じようです。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたのだそうです。元来(平安時代前期まで)祭神は大国主神でしたが、スサノオに祭神を変えていた時代もあったようです。1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、記紀の記述に沿って祭神を大国主大神に戻したのだとか。

大社造と明神鳥居)出雲の建築は反るのが好きなようですから、明神鳥居の破風の起源を出雲に見る勝手な推定。

杵築宮)大分県に杵築市ってありますよね。まぁそれだけなんですが。城(キ)に関係する地名は九州に多い感じです。築城郡(ついきぐん)など。百済の城がキ説(借用語)があるようですが、何となくシロになって基本的には消えてしまっています。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたようですが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称したのだそうです。

妻問い)大国主は妻問いの説話が多いようですが、妻問いの風習は古墳時代に一般的で飛鳥・奈良を通じて存在し、平安時代の摂関政治の要因になったとも言います。元々の日本の風習かもしれませんね。

国引き神話)綱って綱引きとかで陸のイメージがありますけど、国引き神話って船の係留のイメージとか海のイメージですよね。瀬戸内や九州ならまだしも山陰が海のイメージは後の時代を考えると、ちょっと不思議でやはり神話は弥生時代の拡散・移民の記憶が反映されているように思えます。

注連縄)締め縄ではなく占め縄が原義だと思います。弥生時代の衣服は貫頭衣らしいんで。ここからは神の領域だから立ち入り禁止とかそんな感じなんでしょうね。神職は神人(じにん、じんにん / しんじん、かみびと / かみんちゅ)と言いました。横綱は陥落なしでダメになったら引退だから、占め縄みたいな。縄張りという言葉もありますし、ロープでの区切りから発生したものでしょう。漢字は当て字と思います。稲藁の効率的な利用から生まれたもので、基本的には弥生文化だと思われます。

左綯え(ひだりなえ)と右綯え)出雲大社が(例外的な)左綯えで有名です。左綯えが時計回りで、右綯えが反時計回り。日本では、時計回りを右回り(みぎまわり)、反時計回りを左回り(ひだりまわり)と言いますから、左綯えが本来右回りで、右綯えが左回りのような気がしますね。ヒダリは日出りで、ヒガシは日向処(日向かし)が語源が通説で妥当だと思いますが、これは天子南面という中国文化の影響が指摘されます。左重視の日本の文化は東=日出ずる国、日本自身の重視の表れと考えられます。伊勢神宮は畿内の東にありますね。東国というフロンティアの尊重もあったと思います。「左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある。」(ウィキペディア「注連縄」(2019/6/5))そうですが、まぁこれはそういう見方もあるということなんでしょう。五行思想とか中国の占星術、あるいは陰陽道かもしれませんが、そういうものの影響があるように思います。日本文化は比較的女性を重視していると思いますが、さすがに女性上位のような考え方は有り得ないと思います。ただ、皇祖神が女性神であるのは間違いありません。スサノオが男性神ですから、出雲神道的な解説なのかと思わないでもありません。厳密に神様の男女を左右で分けてないでしょうから、左綯え=男、右綯え=女の図式は成り立っておらず、あるとしたら、左綯え=最高神が男、右綯え=最高神が女というマイナーな左綯えから見た見方なんじゃないかと。筆者は国を譲った出雲大社を伊勢神宮の上位に置くような見方があるとしたら、一般的にはならないと思っていますし、不敬でもあると思っています。ただ、反っている人達に意見を言っても聞きはしないんでしょう(逆にとられると思います)。

出雲大社と向き)出雲大社では社殿は南向きであるのに対して、御神座は西向きであることでも知られます。この理由は諸説あるようですが、南向きは天子南面を意味している(神社は南向きに建てられるとか)はずですが、「国を譲った」大国主命は西=海を向いているんだろうと思います。出雲大社は海から1キロほどで古くはもっと海に近かったと考えられます。出雲の中心地(遺跡が多いところ)は必ずしも出雲大社付近ではなく、大国主命の鎮座地ははじめから海の近くが選ばれ、海を向いた御神座になっていると考えられます。出雲神話に特徴的なスサノオは海を統治するという話になっています。かといって半島・大陸に向いているということでは全くないと思います。日本の歴史を通じて地勢的に山陰地方が大陸に向けた窓口という事態はほぼ見られないからです(無論開いてはいますが、相対的な比較で九州と比べるべくもないという意味です)。では何故海で西かと言えば、筆者の考えでは祖国=北九州=高天原=葦原中国(あしはらのなかつくに)を向いています(東アジアの何処に存在していても「小中華思想」は有り得ます)。古墳時代は大和中心の時代ですが、弥生時代はそもそも北九州の時代として始まっています(時代が下るにつれ、パワーバランスが東に傾いているのは土地の広さ/人口の関係でしかないと思います)。出雲振根も崇神天皇の使者が来た時、筑紫に出張中でした。神武東征の出発点=日向(ヒムカ)も本当は北九州なんだろうと筆者は思っていますが、最初から天子南面だった訳ではなく(九州は四面日向でどちらがというのがそもそもないのは確実だからです)、考古学的に北九州縄文人が弥生人に発展していったのも(弥生人=渡来人ではなく)、その内定説・通説として認められるだろうと考えています。

日御崎)ひのみさき。出雲大社の西にある岬。

出雲-新羅航路)古い時代ほど難しいと思います。対馬や壱岐・北九州は渡海に関連する祭祀や遺跡が濃厚ですが、出雲は必ずしもそうではありません。筆者は呉越から東シナ海横断ルートなるものに対しかなり批判的です。古代ほど命がけの航海だったのであり、なるべく陸に近い安全なルートを採用していたはずです。出雲は北陸地方と海で繫がっていますが、中継貿易のような感じで北九州に流しており、昔ほど北九州が窓口であり、対外交流のプロだったんだろうと思います。遭難したら普通死にますからね。漂流者がたまに流れ着いたから何なの?ってところがあります。リスクが高いところが控えて、リスクが低いところがやるのが経済原理というものでしょう。

メモ:日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)・物部伊勢父根・妣國(ははのくに)・根の国・高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)・沼河比売(ぬなかわひめ)・建御名方神(たけみなかたのかみ)/諏訪大社祭神/御柱・巨大な宇豆柱・雲太、和二、京三

縄文時代の研究という想像(火焔土器と王冠土器)

2019-05-25 20:21:23 | 日本史
堂平遺跡出土 深鉢形土器 王冠型土器.JPG (パブリックドメイン)

縄文時代は定義から言えば歴史ではありませんが(歴史は文書や記録を言うので弥生時代が限界点です)、人類史・先史時代として縄文時代を研究します。旧石器時代は移動生活で土器を持たず(先土器時代)、縄文時代は定住社会の狩猟採集主体の社会で土器時代、弥生時代が水田農耕を特徴とする時代です。ザックリした見方ですが、一般的ですし、普通の概念で行いたいと思います。

縄文時代と言えば土器・土偶です。実用性から言って、土器から始めます。あの火焔土器も煮炊きをする鍋なのだとか(file-107 国宝・火焔型土器はアートか?~縄文文化を探る旅(前編) 新潟文化物語)。火焔土器の4つの取っ手は「鶏冠状把手」というそうで、親戚に王冠土器もあって混ざらず区別されていたようですが、その形状の考察をする前に、前提としてやはり土器とは?煮炊きとは?起源について考えておこうと思います。

そもそも粘土で土器をつくって煮沸するのようなことをどうやって考え出したのでしょうか?不思議です。いろいろ考えてみましたが、やはり火の使用が前提だということに気付きます。縄文時代は事実、“弓キリ式火起こし道具”及び“キリモミ式発火法”等あったようです(縄文人の謎・ロマン 縄文人の“火起こし”方法は? 近畿地方の古墳巡り!)。10~20秒で、簡単に火種が出来ると言います。結構、高度ですね。そもそも枯葉や枝が摩擦で熱くなったり、火がついたり、森林火災のようなものを見て、類推から人類(多分、脳の大きな新人)は早くから火の起こし方を覚えたのでしょう。枝を擦ると熱くなる→ドンドン擦ると火がつくのような発想は森林火災等で火を知っていれば、無理な発想ではないと考えられます。焼いて食べるのような発想も食糧難で森林火災の焼死体を食べてみれば、会得できる話です。こうして旧石器時代のハンターは火を操る技術を身につけたということになります。縄文時代は定住社会ですが、スタート時点から火は持っていたと考えられます。

ここで土器ですが、粘土から造ります。思うに旧石器時代のハンター達は経験的に粘土が火で固くなるという知識はあったんじゃないでしょうか。例えば日本では粘土層が存在しますし、断層などむき出しになっているポイントがあります。結局のところ土を焼いてみるのような発想は不自然で、最初は森林火災など自然現象や粘土層上の焚き火などで偶然土器片のつくり方を知ったのでしょう。土器片がどう出来るかの知識があれば、土器を作るのは無理な発想ではありません。ただ移動生活の旧石器時代人には不要な知識でした。土器なんてもって移動してもシンドイだけでしょう。獲物は焼いて食べればいいのですから。

では煮炊きの起源はと言いますと、土器ありきの器ありきでの煮沸もないとは言えませんが、個人的には温泉の利用から発想したと考えます。温泉卵などありますが、旧石器時代のハンターも温泉の存在は知っていたでしょうし、ならば、焼いて食べる技術があった旧石器時代人が煮て食べる発想に至ることも可能のようです。アツイが共通するのですから、好奇心があっていいのでは?温泉に落ちて死んだ動物を観察することから始まった可能性もあるかもしれません。

氷河期が終了して大型動物を狩りつくし、食糧難の時代が来て、それまでの移動生活が成り立たなくなっていったとします。旧石器時代は大型動物の狩り主体の時代でしたが、少数ながら住居痕や漁労などもあったようで、勿論大型動物の狩り以外、何も知らなかった訳ではないでしょう。煮て食べられるようなものがあるという知識があれば、実験も有り得たかもしれませんし、煮炊きが有効であれば、土器をつくろうと思い至ったかもしれません。

土器の起源は東アジアにあるようですが、アフリカでも独自に発達したようです(第10回 土器の起源:年代と拡散 青森県企画政策部 世界文化遺産登録推進室)。器ありきなら、洞窟の水溜りで発想した可能性もありそうです。水を汲んで保存しておくことは何時の時代も重要だったのでは?用途は考えねばなりませんが、日本の土器は煮沸用としておきましょう。煮沸痕を有するものが見つかるからです。

土器を煮沸に利用し、鍋をつくっていた縄文人ですが、土偶も出土しますし、宗教的観念や美的感覚は当然有していたでしょう。ならば、煮沸に使う道具を火の形に模す発想があっておかしくなく、それが火焔土器なのかもしれませんね。デフォルメされた様式美がありますが、浮世絵なんかもそんな感じで、必ずしも写実主義が美術という訳ではありません。土偶なんかもいろいろ強調されており、一定の様式美があると考えられます。王冠型も同じく、結局火焔のバリエーションなんでしょう。同じところで出土するようですし、王冠なるものが当時あったと思えません。多分火焔土器バージョンAとバージョンBです。問題は何故ふたつのバージョンがあるかということになりそうです。

例えば、土器作りが男の仕事か、女の仕事かという問いがありますが、二つのバージョンとは、男がつくるバージョンと女がつくるバージョンがあったのかもしれません。どちらがどちらか分かりませんが、派手な方が男でしょうか。鹿やクジャクじゃありませんが。そう言えば、鹿の雄の角が火焔土器に少し似てないとも言えません。数が多い方が女性かもしれません(火焔土器か)。男の方が広範囲に出かける傾向にあり、土器作りは女性の仕事とする社会が多いようです。男を表すバージョンと女を表すバージョンだとも考えられますし、太陽と月、昼と夜だなどまぁ2つのバリエーションもいろいろ考えられはするでしょうが、結局想像ですので、この辺にしておきます。

あるいは料理の種類による使い分けも考えられるかもしれませんが、遺跡ごとに違う種類の食品に使われたようで、そういうことではないようです(火焔土器のデザインと機能 データ検索情報誌2018~2019)。脂質の分析ではどうも信濃川上流の土器は鮭など海産物の煮沸に使われていたとありますが、火焔型土器は主に信濃川+阿賀野川なら、やはり川と関係が深いのかもしれません。

縄文時代に鶏はいないようですから、「鶏冠状把手」という用語はハッタリは効いているかもしれませんが、誤解を招きそうでどうなんだろうと思わなくもありませんね。

吉備:弥生時代と古墳時代の地方史①

2019-05-23 19:09:13 | 日本史
吉備の語源)黍と思われます。五穀のひとつですが、穀物と国名で言えば、阿波なんかも粟(日本最古の穀類作物とされ、新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられるようです。粟散国=小国の用例も)だと思われ、筑紫も土筆かもしれません。畿内に近いほど割合素朴な国名が見られる傾向にあります。山門/山処、山代、河内、津、泉、木国。

黍)穂ができ、黄色い実が成り、垂れ下がります。黄実→黍説が有力だそうです。桃太郎伝説におけるキビ団子は黍団子と思われます。魏志倭人伝における吉備と見られる投馬国の長官が彌彌(みみ)で、副官が彌彌那利(みみなり)。実々と実々成りで農耕関連名のような気もします。

投馬国)読みはトマ国と思います。漢字の読みでトモと読むのは難しいようです。苫/蓬(トマ)は菅や芽で編んだもので、和船や小家屋を覆うのに用いるようです。蓬莱の蓬もトマのようで、古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つです。苫葺きとは、苫で屋根を葺くこと、その屋根です。檜皮葺で使われるのは高級材の檜の皮ですが、檜山郡等の地名が知られます。日の木に近い椹(サワラ)が早良国。樫地名も多いですが、苫国があって不思議でない気もします。屋根国なら出雲関連で根国に通じますし、船は瀬戸内海の国にとって重要な意味を持っていたと考えられます。推計5万戸余で邪馬台国に比肩しうる大国です。ただし、当時の纏向遺跡に吉備系の土器の流入は多くなく、祭祀に影響を止めたに止まるようです。

埴輪)大和朝廷の前方後円墳に副葬されることで知られる埴輪(ハニワ)ですが、その起源は、弥生時代後期後葉の吉備から出土する特殊器台・特殊壺だとも言われ、倭国の女王の共立に吉備が深く関わっていたことが示唆されます。

弧紋円盤)2世紀末から3世紀前半の吉備系の祭祀用遺物。大和盆地南部の纒向石塚古墳から出土。

吉備津彦命)吉備津彦命/大彦と御所山古墳(福岡県京都郡の早期前方後円墳)、大彦に始まるとされる筑紫国造の関係もありそうです。武渟川別も出雲に派遣されています。

浦間茶臼山古墳)岡山県岡山市。奈良県天理市の黒塚古墳、京都府木津川市山城町の椿井大塚山古墳とあわせて、箸墓古墳のちょうど2分の1に企画された前方後円墳である可能性が高いと考えられているそうです(白石太一郎「第一章 箸墓古墳と大市墓」『古墳の被葬者を推理する』中央公論新社〈中公叢書〉、2018年11月)。出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められることからも、箸墓が魏志倭人伝にいう卑弥呼の墓と考えてまず間違いないと思え、投馬国という邪馬台国に次ぎ吉備に比定される大国が倭国王卑弥呼の共立に深く関わった事情があるように思います。なおその規模と時期から、福岡県京都郡の石塚山古墳も箸墓関連古墳である可能性が高いように思え、西に派遣された吉備津彦命に関係がある可能性があります。

吉備の巨大前方後円墳

5世紀前半:御友別墓:造山古墳(墳丘長350m/全国4位)※景行天皇~日本武尊~仲哀天皇以来の縁。姉妹の兄媛が応神天皇の妃。備前。
5世紀中頃:稲速別墓:作山古墳(墳丘長282m/全国9位)※応神天皇が吉備を割いて与えた御友別の子の内の一人。備中。下道臣祖。下道臣は吉備真備を輩出。

造山古墳と作山古墳の被葬者)造山古墳と作山古墳は応神天皇は難波大隅宮にいた頃、兄媛(エヒメ)が故郷を思う様子を見て、吉備への帰郷を許しています。次いで応神天皇は淡路島で狩りをし、吉備小豆島に遊び、吉備の葉田葦守宮に移り住んだようです。ここで兄媛の兄弟の御友別(みともわけ)を気に入り、吉備を割いてその3人の子に与えました。吉備には全国では第4位の規模の巨大古墳「造山古墳」(墳丘長350m)があります。築造時期は5世紀前半ですから、5世紀初頭の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)(墳丘長約425m)と比較して、年代的にも記紀を見る限り、造山古墳の被葬者は御友別なんだろうと思います。3人の子とは稲速別(下道臣祖/川島県に封)、仲彦(上道臣・香屋臣祖/上道県に封)、弟彦(三野臣祖/三野県に封)です。吉備にはもうひとつの大規模古墳があって作山古墳(墳丘長282m)が5C中頃に造営されています。御友別の兄弟として浦凝別(苑臣祖/苑県に封)、鴨別(笠臣祖/波区芸県に封)の記載もあります。

桃太郎伝説と御友別)御友別(ミトモワケ)はそのまま応神天皇の御友(達)・御供っていう意味のようにも読めます。何だか桃太郎伝説に似ている気がしてなりません。犬・猿・雉が三人の息子だったりして。

メモ:トマ地名・住居の形・埴輪

憲法改正と保守的かつ新しい地方自治の形

2019-05-17 00:08:30 | 憲法・法務・司法・立法
今、国会で審議の準備がされている憲法改正4案で断トツで国民に関心が無いのが合区解消案らしい。

1番注目があるのが9条、2番目が緊急事態条項(防災)、3番目が教育で、合区解消案は案も出てないプライバシーや環境といった論点より関心がないようです。野党が徹底反対・実力行使して憲法改正の議論を妨げている今、憲法改正の議論を妨げている案は実は1番興味を持たれてない合区解消案なのかもしれません。国民的議論は野党の徹底反対を吹き飛ばす有力な力となりますが、無関心は議論の盛り上がりを目指す立場からは最大の敵と言えます。憲法を左翼野党反対利権から国民の手に取り戻さなければなりません。

合区解消案に筆者は賛成ではあるのですが、確かに今のままでは物足りないとは思っていました。その物足りなさは首都圏・大都市圏の動向と合区解消案が必ずしもひとつの方向性に向かっていないことから来るものだと思います。合区委解消案はそれ自体正しいと思いますが、一極集中の傾向に対するアンチテーゼに過ぎず、首都圏・大都市圏の問題を解決する性質を持っていません。これでは有権者の大部分を占める首都圏・大都市圏の支持を得られず、従って議論を盛り上げる力を持たないのは当然のこととせざるを得ません。

そういう訳でここでは大都市圏の問題を正面から考えることから、地方自治を見直してみることにします。ただし道州制案を採りません。現在の都道府県制度前提による改革・改善を目指すことが、これまでの日本のノウハウ・あり方を活かす保守的な改革・改善なのだと思います。

議論を進める前に、まず現在の地方の状況をそのまま見ることから始めます。一極集中は既に指摘されつくした論点ですから、ここではその陰に隠れてあまり言われない元気がある大都市の実態を見ることにします。基準は国民の支持の表れとも言える人口増加率です。

増えているのは,選ばれているから。- 人口増加数・増加率、若者(10代・20代)の割合 -(福岡市)

川崎が神戸を抜く 政令市人口6位に(産経ニュース 2019.5.15)で川崎市に勢いがあることが分かりました。それで調べて出てきたのが上記の福岡市のデータです。人口増加率(政令市)ランキングで川崎市は1位の福岡市(5.12%)からは離れるものの、3.49%で2位のようです。首都圏が成長する中、東京都と横浜市の中間という位置にポテンシャルがあるってことでしょうか。さいたま市も僅差で4位(3.40%)だそうです。こちらは副都心へのアクセスがあると見ます。人口増加数で見ないのは流れを見るのに妥当なのは数ではなく率だからです(川が急こう配か見るのに角度ではなく水量を見る人はいません)。

僅差の3位(3.46%)の仙台は東北の中心。少し離れての5位に札幌(2.03%)。政令市平均が1.10%です。断トツの1位が福岡で「道州制レベル」で中心地に人が集中する傾向が明らかにあると思います。また、首都圏を一体としてみると一極集中の傾向が強いと指摘されてきています。

結局、放っておいても人口が増える地域ってあると思うんですよね(福岡市長は良い市長だと思っており支持しています)。一極集中が東京の首長が優れていたのが原因でしょうか?同じ土俵で公平公正な要件で比べる努力から、優れたアイディアが生まれ、活気ある日本が実現し、地方の再生が進むと思っています。つまり様態に大きな差がある地方自治体を適切にカテゴライズした上で横の比較をせねばなりません。そう考えると既存の都道府県のシステムを活かした改革・改善でいいのではないかということになります。そもそも都と県を一緒に扱っても仕方が無いというのはありますが、日本には府や道といった言わば謎システムが長く存在しており、これが活きていないようです。憲法改正の同志である某ローカル国政保守政党は俺達の自治体(府)を都にする等と息巻く始末です(意味が分かりませんが、皆の反対の力でその案は何とか倒されました。ただ性懲りもなく、またぞろ首長選挙戦の勝利に乗って新しい案を出してくるようです)。しかし目のつけどころは悪くないというか、確かに府といったところで大きな意味がある訳ではありません。

まず注目すべきは福岡市・仙台市です。ここが一番勢いがあるからです。両者の成長の核心のひとつに、中央から離れて「道州レベル」の地方の中心地であり、対抗馬が無いということにあるのでしょう。つまり支店経済です。モータリゼーションの現在において既存の都府県というのは、効率性の観点から少し小さいんですね。極端なのが合区の当事者鳥取県で機能的に通勤通学圏で市町村を再編すると、ここは3市でまとまってしまいます(ですから、賛否はともかく合区案なんてどうでもいいよってなってしまうところがあるんだろうと思います。何か頑張ってないところに飴を与えるような感じの話に見えなくもありません)。だからと言って道州制という訳にもいきません。福岡や仙台はまだ隔絶しているにせよ、対抗馬とそれほど差がない「道州」は幾らもありますし、福岡・仙台にしたって、熊本や鹿児島、福島や青森がウンという訳ではありません。県庁がある市はそれだけで有利なのですが、東京都を見ても分かるように政庁があるから強いなんて話は誰も感心しませんし、揉め事の種でしかありません。支店経済が強いのは事実ですが、それを称揚する政策は有り得ない訳です。

ですが確かに成長しており、その成長があまり知られていない現実もあります。その成長を議論の土俵にあげてもいいのではないでしょうか?福岡市が競争すべきは仙台市であり、あるいは名古屋市・札幌市なんだろうと思います。あるいは京都市もそうかもしれません。政令都市の内、大都市の衛星都市の性格がないというのが、まず一つ目の基準です。

2つ目の基準としてはやや曖昧にはなりますが、県のレベルを突破する規模感です。福岡市や仙台市が成長するのは福岡県や宮城県のレベルを超えて周辺の県民を吸引するパワーが強いからです(大会社が九州支店や東北支店を福岡市や仙台市だけに置いたりするのでしょう)。つまり例えば新潟市は確かに政令市で大都市の一角ではありますが、北陸で金沢市との争いや中部をどう分けるか東北に入るのかといった非生産的な話題を避けるのが妥当と考えます。政令市の枠組みはさておき、地方自治の議論が停滞する現状、必要なのは新しい話題です。静岡市も名古屋と首都圏の中間になってしまいますし、熊本市も政令市だから福岡市に対抗できているという訳ではありません。広島市も中国地方第一の都市ではありますが、山口は九州を向き、岡山は近畿を見て山陰は独自の道を歩もうとしている傾向が否めません。対岸だから何となく分かりますが、第2位の岡山市なんか特に少しでも広島に集中させるというような話を全く理解しないような気がします。四国も愛媛は広島を向き、香川は岡山を向き、徳島は関西を向いて、高知は海を向いていると言われてきました(高知・徳島の合区なんて百害あって一利なしと言わざるを得ません)。

ではどうするか。象徴的に福岡県を府に昇格させてみてはどうでしょうか?九州府がいいと思いますが、福岡府でもいいかもしれません(その場合は博多市にすることも一考に値します)。福岡都市圏は佐賀県の一部から人を吸引しますし、四大都市圏の一角で、何と言っても一番勢いのある地方都市です(アジアに近い優位性もあるかもしれません)。福岡県はもうひとつの政令都市北九州市を抱える県であり、他の九州諸県と全くの同列で考えると間違う特殊な県になります。北九州はあまり言われませんが、弥生文化を通じて大和以前の日本発祥の地だとも言えます。博多は宋銭の輸入と使用を通じて日本経済を発展させるきっかけとなった地方であり(貨幣なき経済発展はありません。石高制でも江戸時代は物々交換経済ではありません。皇朝十二銭は都周辺の使用に止まり律令制と同じく自然消滅に近い形で消えました。中世日本は貨幣を鋳造せず輸入に頼りましたが、博多での使用がきっかけのようです。中世を博多がつくったと言えるのかもしれません)、鹿児島県は明治維新の原動力であり、日本本土の最南端として独自の文化を有します。日本の対外玄関口としてアジアに開く位置という特性もあります。また東北と並んで日本有数の火山を擁する火の国でもあります。

宮城県も東北府。仙台市は他県の都市を通勤・通学圏に持ちませんが、事実東北の中心地としての勢いがあって、山形県の県都山形市から買い物客を集め、経済的には山形市と一体的な商圏が形成されつつあると言います。東北地方は広くかつ一定の一体性があって、一県で取り扱えない問題をまとめて取り扱う場所があってもいいんでしょう。例えばインバウンドなんかは県の枠組みだけだと無駄が多く失敗の可能性が高いと思われます(東北の一県で国際社会を引っ張るのような話が進むと思えませんし、出来たとしても無駄の多いものになりそうです)。大きく分けて太平洋側と日本海側に分かれますが、仙台市が山形市から人を集め、秋田新幹線が岩手から分岐するようにその差は決定的なものではなく、しかしながら本州の東北隅にあって北に北海道、南に首都圏、南西に新潟県に面する(山形県だけでなく福島県も面します)地勢を共有し、一緒にすればいいかというと、北東北と南東北の違いや玄関口の福島県もありますから、単に現状追認で仙台市の断トツの勢いを認めるのが良いと考えます。

愛知県が東海府。名古屋市は四大都市圏の一角で岐阜県南部・三重県北部から人を吸引します。JR東海(本社名古屋市)はリニアで日本の話題をリードする存在です。東海地方は伊勢湾を抱えます。三重県伊勢地方は文化的・歴史的に関西との繋がりが深いのですが、経済的・地勢的には東海地方の枠組みを考えておく必要性があると考えられます。熊野地方への入り口が東海地方にあれば、首都圏の方を向くことが出来ますし、中部国際空港を視野に入れることも出来ます。勿論伊勢地方は日本文化において重要な地方であり、伊賀地方は経済的に関西との繋がりが深く(かつ甲賀を通じて滋賀県との関係も重要ですし、安濃津の絡みもあって、京都や滋賀も視野に入れることが重要です)、今の枠組み(三重県)を崩す必要があると思いません。日本第一とも言える工業地帯を擁し(工業は日本の主力産業です)、広く南海トラフ地震を考えるべき第一の地方でもあります。

京都府は京都府しか思いつきませんが、滋賀から人を吸引していますし(県庁所在地の大津市が京都市の通勤通学圏です)、日本の断トツ第2位の大阪都市圏から十分距離があって、県の規模を突破する規模感はあるものとします。大阪に比べれば随分小さいでしょうが、1000年の都で日本を代表する都市であり、オーバーツーリズムの最先端を走る観光都市でもあります。類似に奈良盆地北部の県都奈良市があってその文化遺産は日本有数のポテンシャルはあるものの、奈良県は概ね大阪都市圏の範囲内で奈良盆地南部こそ大和朝廷(皇室)の発祥の地であり、前方後円墳という観光資産は大阪とのシナジーが高く、奈良を通り抜けて三重県伊賀地方まで大阪都市圏の側面があって、大きな独立性がありません。あるいは日本の山間部を考えるのにもっとも適していると言えるかもしれません。山陰地方と言えば中国地方ですが、京都市はその都市圏に本来の意味での山陰地方を擁します。明智光秀での注目も出てくると思いますが、応仁の乱を引くまでもなく、1000年の都に隣接する山陰地方東部は京都の影響が大きく、見過ごされがちな山間部に目を配るのに適しているところがあると考えられます。京都市自体北部の山間部(鞍馬など)に主要な観光資源を擁し、盆地に位置する唯一の大都市とも言えます。滋賀県の県都大津市が京都市都市圏に入りますが、日本一の湖の琵琶湖のポテンシャルを発揮するのにもう一押し欲しい感じもあります。淀川なんかも日本としては結構大きい川ですが、見逃されがちな内水面を考えるのも重要かもしれません。

府に独自の権利が必要かは分かりませんが、こうして並べると県の枠組みを超えて話し合ってもいいよというお墨付きが象徴的にあって良さそうな気もします。完全な横並びを是とすると、暗黙の了解で無駄な縄張り争いがあるような気もするんですよね。省庁の縄張り争いは激しいと言いますが、過剰に縄張りを尊重すると、九州や東北といった資産が活かされないとも考えられます。また似た枠組みを並べることで比べる相手・相談相手が出来る効果も小さくなさそうです。福岡市も東京23区と同列で考えられませんが、例えば松山市なんかと同列で考えられる訳でもありませんし、広島市とも必ずしも同列ではないんじゃないでしょうか。同列で扱って発展性がありそうなのは、第一に名古屋市だと思いますが(中部国際空港と福岡空港の対比など)、地方の拠点で勢いがあるという意味で仙台市との比較も面白く、大宰府を擁し京都のオーバーツーリズムの視点が活きるかもしれませんし、弥生文化の中心地として京都と似たような切り口を導入する考え方もありそうです。

これが成立すると、逆に福岡市に吸引される佐賀県鳥栖市と名古屋市に吸引される三重県桑名市のような対比の可能性も出てきます。同じ条件で比べることで違いが分かって、アイディアが生まれ健全な競争が促されるところがあるように思います。通勤通学圏か否かの違いはありますが、大津市と山形市なんかも似た悩みがありそうです。現代において全部に目を配れる万能のスーパーマン等存在しないのであって(官僚制で全てを差配出来ると思った共産主義は滅び、地方野放しで言うこと聞かないとかいう中国がやたら勢いがあります(中国の「上に政策あり、下に対策あり」)、地方の自律的な発展を促す制度が望まれていると思います。道州制の考え方が言われる所以ですが、地方ごとの経済力に差が有り過ぎる日本で一括で地方分権革命を起こすことは自殺行為のように思え(稼ぐところが使えば地方は滅び、地方に分配が過ぎれば稼ぎ頭が滅び、均等に分配すれば時間と共に勢いの差で時代にあわなくなり、それが調整されることが分かっていれば誰も努力しないという問題があります)、時代の変化にあわせ名目的に現状追認をするのが妥当なラインで益多くして害少なしなのではないかと考えます。

これは憲法改正と同じ考え方です。憲法改正をしなくても出来るじゃないかとワーワー喚く反対派がいますが、無理な憲法解釈で現状の変化に対応することが憲法を国民の手から遠ざけ、必要な改革を阻んでいるところがあると思います。典型例が外交安全保障・防災で、自衛隊は違憲の疑いがあると言われ平和ボケと揶揄され、ゆっくりした改革で時代に乗り遅れ慌てて某国や某国の無法に対応し、1000年に一度の震災に上手く対応できなかったきらいがありますが、名目的でも憲法について話し合う過程で理解が深まり、必要な改革が出来る効果は小さくないと筆者は考えます。教育もそうですが、この際地方政治も俎上に載せるべきではないでしょうか?

ここで府から離れて北海道に関して言えば、既に「道州制」を実現しているという特徴があります。分県議論のようなものもあるかもしれませんが、筆者はそのような革命に現状で賛成するつもりはありません。十勝県や旭川県や函館県の代表がそんなに必要でしょうか?北海道内でどのような改革をするべきかという議論は有り得るでしょうが、北海道は北海道ブランドで勝負すべきと考えます。札幌は成長していますが、仙台に比べて勢いがないようです。今はJR北海道の問題や北海道電力の問題(ブラックアウトしてしまいました)、アイヌ新法、インバウンドの拡大、農業における黒船(TPP)襲来という問題があって、最後のは安倍政権が自分でやった「問題」ではありますが、新しい話をする時期ではないと筆者は考えます。まあ札幌市擁する北海道が府になるのもひとつの考え方かもしれませんが、北海府ではブランド破壊で有り得ませんし、北海道府は屋上屋を架すところがあってシックリきません。

北海道とよく対比される沖縄に関して言えば、沖縄県のままでいいとは思いますが、独自の立場をアピールしたければ、沖縄道に改称する可能性は考えられても良さそうです(ブランド名を変えるする訳ではなく、違和感はその内消えるでしょう)。北海道と沖縄は独自の文化を有するところがあって、何処まで行っても日本の範囲から外れていた歴史は消せませんし(最初の日本の範囲は歴史の観点から本四九でしかありません。歴史を教えない選択肢もありませんが、歴史を教えると現状で北海道史と沖縄史は上手くいかないところがあります。沖縄は独自の王国という資産があり、近代まで日本史の舞台に外部としてしか登場しません。北海道も久しく蝦夷・アイヌの土地で日本史に近代まで外部としてしか登場しません。東北がギリギリですが、東北は奥羽として日本史内部ですし、独自の王国もなく(平泉政権はありますが、琉球王国と比較になりません)、アイヌ語地名北東北に残存していても、その文化を推進する主体が津北に残存している訳ではありません)、逆に独自性を活かさなければ、その存在する意味が半減します。日本の一部であることは全く変わりませんが(外交安全保障で独自性なんてものは存在しませんが)、その違い・独自の価値を認めて、新しい切り口を日本に加えることに主眼があります。伊予だの筑紫だの言ったところで、沖縄・北海道は?ってなってしまいますし、その辺に配慮して言わないも逆にこちらが迷惑なところがあります。明治政府は廃藩置県を行いましたが、令制国名を外したのは、沖縄と北海道に配慮してのことでしょう。しかし追い付け追い越せの明治時代と違って、今の日本は独自の歴史や価値を活かさねばならないところがあると考えます。日本書紀とか正史とか言ったところで北海道・沖縄は出てきませんが、勿論これは日本をやる意志なのであって、嫌がらせでは全くありません。今のままで何も変えない考え方=保守というのは、革命派から見た保守派であって、その実態ではありません。いずれにせよ、筆者はその土地・その土地で自分の土地を勉強して自分で自律的に発展させるが地方政治の本旨だろうと考えます。従って外交安全保障を地方が独自の視点で考え、独立を目指すのような考え方を容認しませんが、沖縄は琉球王国の歴史を日本に統合される前の前史としてやっていい・やった方が面白いというのが筆者の考え方です。スコットランドやウェールズ・北アイルランドのようにしないのは(自治権を考えないのは)、明治に統合して久しいこと、そもそも民族が同じであること(アングロサクソンとケルトも遡れば一緒でしょうが、時間的近さが異なると考えます)、某国が伸長する今、独立問題を抱えることは害多く益少なしであることです。具体的には日本語沖縄方言を活かすこと、琉球神道と日本の古神道の相似を考えること、日本の歴史と沖縄の歴史の連動性を重視すること、日本人の南下の潮流を抑えること、台湾の歴史を正確に知ること、中継貿易を肯定的に捉えないこと(それを目指して独立したところで、楽市楽座を言ってスルーするだけです。関所は経済発展の邪魔が学ぶべき歴史観・経済観です。琉球貿易の繁栄は海禁政策・鎖国政策の徒花でしかありません)、非武装を肯定的に捉えないこと(琉球士族は武装していました。かつては奄美に侵攻し日本を撃退したことがあったようです。大小を差し誇り高い琉球士族は日本の侍そのものであり、東南アジアで南蛮人に記録されています。薩摩に敗れたのは戦国日本が火縄銃を大量に持ち武装の差・練度の差があったからに過ぎません。自衛隊無き安全保障政策は存在せず、非武装平和という視点は日本の外交安全保障に必要ありません)、朝貢貿易に関連して某国を上位におかないこと(名目上とは言え、確実に上位においていました。知識として教えるのは構いませんが、同時に国と国の関係は対等であるべきなのであって、否定的に捉えられなければなりません)、本土復帰を肯定的に捉えること(外交安全保障上の理由・歴史的理由で独立を容認しません)、「琉球処分」を肯定的に捉えること(琉球という価値は日本国の範囲内で生きます。それが無ければ、日本国の一部になりません)、薩摩の侵攻を全否定しないこと(ここで日本の一部になった訳ではありませんが、前史あっての日本への統合です。現実的に奄美が難しい立場になります)が考えられます。その実現の方法は独自の教材を作成して、日本政府の監督の下、承認を得ることが考えられます。「反乱軍」に利益を与える訳にはいきませんが(独立されたら大体投資がパーになる上(日本は沖縄に資本を投下しているのであって、収奪している訳ではありません)、日本の外交安全保障政策に困難をもたらすことになります(ですから現在重点的に沖縄をやらなければならないという話です)、その独自性を十分活かして益々の発展を実現してもらうことが重要だと考えます。

中四国や北陸・甲信に関して言えば、既存の県の枠組みで良いと考えます。隔絶した県もないのに無理に主導的地位を認めることは百害あって一理無しでしょう。

例えば四国は四国新幹線の話がありますが、瀬戸大橋を通す話ばかりで、紀淡海峡ルートが同時に俎上に上がりません。瀬戸大橋ルートでは徳島県が玄関口ではなく香川の次になってしまいますし、今注目のインバウンド獲得も関西空港活用の道が開けず、四国八十八箇所巡礼も高野山や熊野古道との連携が生まれません。あるいは先の豊予海峡ルートの夢にも繋がりません。勿論コスト面の問題はありはしますが、紀淡海峡ルートはこじんまりした瀬戸大橋ルートに比べて爆発力があると思いますし、四国四県平等にメリットがある話だと思います。四国四県は愛媛が広島を向き、香川が岡山を向き、徳島が兵庫・大阪を向き、高知が海を向くと言われます。四国の象徴とも言える四国八十八箇所も阿波(徳島)に始まり、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)と回ることに大きな意味があって、何処か一箇所が差配するというような話ではありません。両案を広く俎上に乗せた上で四県の総意で最終案が決定されるべきではないでしょうか。

こうしたことが起こるのは某市に官公庁の四国支所が集中するからかもしれません。本来特に差は無かったのですが、官公庁が集中するとそれが理由で結構大きな差がつくことは、日本史・地理が分かっていれば体感できている話です。別に支所を寄越せとまで言いませんが、そういうものの取り合いが効果あるだけに無用な争いになってしまう訳です(ですが勝手な話はもの申さざるを得ません)。道州制で県庁まで動かすのような話は勿論論外で他県の壊滅的打撃は目に見えています。どうしてもと言うなら、四国の真ん中に置くのが四県平等の理念に合致します。

中国地方も同じで広島は確かに中国地方最大の都市ですが、岡山も負けてはおらず、備後(広島県東部)は吉備じゃないの?という思いもあるかもしれません。山口は九州を向き、長州・周防という独自の歴史的資産もあります。山陰に至っては新幹線のシの字もなく、出雲は独自の歴史を有します。対岸の愛媛県民だから何となく分かるのかもしれませんが、まず広島万歳のような話にならない気がします。これに対して福岡はあまりにも突出していますし、現状を追認して活性化してもいいんじゃないのという話です。

北陸も同じで甲信も同じでしょう。それぞれ突出せず、平等にどこ向きという話もありません。中部を活かす枠組みというのも無いでしょう。

最後に大阪府と東京都ですが、四大都市とはいいますが、大阪都市圏は世界最大の東京都市圏に次いで突出した規模を有します。東京と切磋琢磨し比較になるのは大阪しかないんですよね。川崎が成長しているという話もじゃあ尼崎や西宮はどうなの?という話になりますし(同じく成長していればそれぞれ参考になりますし、事情が違えば何故違うのかという問いになります)、神戸と横浜は良く似ており、規模感は違うにせよ内陸部で奈良と埼玉、海繋がり・国際空港繋がりで和歌山と千葉という比較もできるかもしれません。政令市でなければ川口市も川崎市と比較になりますが、船橋市はバスケットで勢いがあるチームを有しているようです。一極集中と言えば、東京大したものと思うかもしれませんが、(左翼)首長とかトップ当選(外国系)国会議員の活躍のおかげと思えません。どう考えても首都があるおかげです。首都を動かすような話に賛成ではありませんが、大阪と切磋琢磨して国からは出てこない巨大都市圏なりの政策があっていいような気がします。何時も何だか後手後手ではないでしょうか。関西空港のインバウンドの活躍に対してそんな感じ無しとも言えません。

大阪は上方文化という独自の文化も有します。マスコミは東京都に集中しますが、保守系産経新聞を排出し、保守系テレビ番組を全国に提供して独自の日本のための(国政の)視点を提供しているのは大阪だけではないでしょうか?

自民党は大阪維新に先の選挙で敗北しましたが、大阪都という大きい構想に対して反対という立場で小さくまとまったことが敗因だったのかもしれません。結果的に過小評価になったという訳です。堺市の選挙で敗北したものの、維新は結局政策的には後退しています。大阪市の話は大阪市でやればいいのであって、府市あわせとかいう話は何処に行ったのでしょうか?これに対し、巨大な大阪市をそのまま認めて東京と切磋琢磨してもらうという話はありそうです。首都機能を移転する訳にもいきませんが(首都直下地震を想定して、国政の停滞を防ぐため一時的な避難は考えられてもいいのかもしれません)、そこさえ大丈夫なら府からの昇格も無い話ではないのかもしれません。これは単に東京に比肩し得る規模を活かしてもらうという話です。

自民党の合区解消案が、自分のための改正のように言われますが、筆者は違うと思っています。高知・徳島・島根・鳥取は令制国を経て多少の合従連衡はあっても、千数百年続いてきた枠組みだということを忘れてはなりません。その歴史と文化は認められるべきであり、現代において多少の手直しはあっても守られるべきだと考えます。地元の声をすくいあげて国政に繋ぐのも国会議員の仕事です。これに対して東京を代表する議員というのが5人でも6人でも大して違いはありません(そもそも大選挙区制ですから、どれだけ東京を向いているかも分かりません)。高知・徳島・島根・鳥取から一人取り上げてまで、数を増やさなければならないのでしょうか?

勿論国会議員の仕事は国政の仕事が本来です。しかし国会議員が国政の仕事を何処まで本気でやっているでしょうか?というのも外交安全保障が国会議員の主要な仕事のひとつですが、自衛隊の地位を認めないとか、立法府の議員であるにも関わらず憲法について話し合わないなんて立場が罷り通っています。言い訳は誰それちゃんがーレベルです。小学生でしょうか?感情論の政治とおさらばして本来的な仕事に取り組んでもらう必要があると思います。大選挙区ほど組織票有利になります。筆者は利益団体が政治に参加するのも透明性があれば反対ではありませんし、それなりに意味があると考えますが、左翼の組織票で憲法について話し合うことを実力で阻止するのような連中が通ってしまうことを残念に思っています。大都市とは結構左翼が強いものです。それに対して自民党はいろいろあったにせよ憲法改正でまとまっているようです。政治は結果を出さねばなりませんが、実現のプロセスも見る必要があります。国会議員が仕事をする(憲法について話し合う)のを妨げているのは(地方で強い)自民党でしょうか?(大都市で戦える)左翼野党でしょうか?案に反対の立場はあろうかと思います。しかし議論はされなければなりません。そして最終的に国民の判断の手に委ねばなりません。このプロセスに反対する国会議員は確実にひとつの大きな仕事をさぼってます。その仕事は支持者のためではあっても、国民のためでは有り得ません。

憲法改正しなくて出来るじゃんみたいなことも言われます。しかしそれは無理な解釈を強いるのと同義です。憲法を時代の変化を見ながら国民の分かりやすい文章に手直して、憲法を反対利権の手から国民に取り戻さねばなりません。憲法とはそもそも理念規定です。国民の指針として分かり易い内容であり、議論のベースになることが求められます。解釈すれば出来るのような言い草を認める必要はありません。

合区解消案で具体案を出すならこうです。今現在、憲法には地方公共団体の具体案は明記されていません。これに今回都道府県を明記すると共に都道府県間の移動を認めます。市が政令指定都市に昇格するようにです。これは時代の移り変わりに沿うものですし、現状が追認される可能性が出てくることで各自治体の励みになるものであり、実態に即した名前に変更することで、公平な条件での比較を促し自律的な成長に繋げて、国民の自治体に対する理解を深めるものです。これは憲法改正の趣旨に沿うものです。大阪においては都構想の実現をある意味認める形になるかもしれませんが、先の選挙で自民党は惨敗してしまいましたし、これも一つの国民の声なのかもしれません。外交安全保障はそもそも地方政治の論点に成りえないものですが、地方自治に関する声はシッカリ受け止めるべきものなのでしょう。都道府県の明記案になっていないのは、道州制に対する配慮があるとも言われますが、道州制なんてものは現状で出来ませんし、やるなら憲法改正マターです。つまり明記したところで現状は何も変わりませんし、都構想が実現するなら、面子に配慮して十分お釣りが来ると言わざるを得ません。

地方の県は地方の県と比較しながら切磋琢磨するべきでしょう。一極集中と言えど、地方の県が東京と戦うというような話では全くありません。東京と高めあう役は大阪がやればいい。同じ悩みを持つもの同士で相談しあえば、具体的で役に立つアイディアも生まれ、協力して声を上げればいいアイディアを拒否する政権があろうはずもありません。県知事会が今ひとつ存在感が薄いのは、何でも一緒くたにしてアイディアを出すのがどっちかつかずになるからなのかもしれません。

ともあれ9条について議論することで安全保障について理解が深まり、緊急事態条項について防災について理解が深まり、教育充実で教育について理解が深まるように、合区解消案も地方自治について理解が深まる契機になれば良いと考えます。それが国民の声となり、誰それとは議論をしない等という有り得ない立場を吹き飛ばし(言い訳に決まっています。誰それを交代させても反対する新しい理由を考えるに決まってます)、憲法を国民の手に取り戻すことになると考えます。

蝦夷(エミシ→エゾ)と北東北のアイヌ語地名の関係考察、擦文文化前後の考察、粛慎及びオホーツク文化の考察、円筒式土器文化圏/亀ヶ岡文化/三内丸山遺跡の総合と続く時代

2019-05-08 15:45:13 | 日本史
多賀城跡 復元模型.JPG

北東北に内陸部を含め広範囲に見られる明らかなアイヌ語地名から、北東北の蝦夷は所謂アイヌに連なる民族であったことは明らかです。筆者はアイヌ新法で認められたアイヌの議論は北海道以北で完結すべきと考えますが、日本の古代史への関心との関係で、その北東北時代の前史に興味があります。円筒式土器や亀ヶ岡文化・三内丸山との関連性も気になっています。縄文時代で世界遺産登録との絡みがありますが、縄文時代は漠然としており、必ずしも詳細は明らかではありません。円筒土器文化圏と北筒式土器文化圏との関係、円筒土器文化圏と大木式土器文化圏との関係、旧東北系と関東系の対応関係が考えられると思います。

現時点での仮説)蝦夷(エミシ)は前方後円墳に関連して蝦夷辺民説(隼人や熊襲と同じ)。蝦夷(エゾ)は北東北のアイヌ語地名と関連して蝦夷アイヌ説。後者の傍証として蝦夷沙汰職(えぞ さたしき・蝦夷代官(えぞ だいかん)・蝦夷管領(えぞ かんれい)という安藤氏(安東氏)が東北日本海側の領主であったことが挙げられると思います。北海道が日本に公式に入るのは江戸時代の松前藩以来だと思われ、松前藩は北海道にありました。それ以前の安東氏系道南十二館は日本領内と認識されておらず、これは沖縄や奄美の状況に近い可能性があります。早期水田、弥生時代の日本海側での北進が早かったらしいこととの関係は現時点で不明。南東北の大木式土器は縄文時代前期前葉から中期末葉までの土器型式で、縄文時代後期・末期の状況が当然弥生時代や古墳時代との関係で重要だと考えられ、現時点で北回り系か西回り系かの判別は出来ません。エゾはアイヌとの連続性が認められますから、結論から言ってアイヌ語地名を残した北東北の蝦夷(エゾ)という縄文人の後裔は後のアイヌと同系の民族であり、北周りで日本に到達したと考えられます。多分古代に同じ柵とか蝦夷とかいう用語で辺民と「アイヌ」を混ぜているから、よく分からなくなっているように思います。粛慎(みしはせ、あしはせ)=蝦夷(エゾ)/アイヌ説まで有り得るかもしれません。蝦夷(エミシ)が日本人の辺民であるならば。

擦文文化の前後関係が重要そうです。アイヌへの移行で異論を潰しきれておらず、縄文からの移行でどの縄文からかの議論が見られません。このあたりがアイヌ南下説の混入を許す原因になっているようです(アイヌが北方系なのは縄文時代以来で縄文文化は単一民族の文化ではありません)(南下したのはオホーツク文化ですが、オホーツク文化がアイヌ文化に発展した論は見られず、擦文文化がアイヌ文化に発展したが定説です)。縄文時代の円筒式文化圏が北東北のアイヌ語地名との関連でプレアイヌのように思われますが、擦文文化との間が埋められていないように思います。意図的なのだとしたら、アイヌの「権利」が北東北に及ぶことを警戒しているのでしょう(筆者もそれは反対ですが。そもそもアイヌは自身で国や記録を持ちませんでした。民族移動の故地の権利を主張するのは、印欧語族の故地の権利を主張するようなもので無理筋だと思われます)。

出羽柵・渟足柵・磐舟柵・胆沢城、全て蝦夷(エミシ)辺民説で考えるべきかもしれません。アテルイに有力なアイヌ語解説が見られないのはアイヌ語の人名ではないからではないでしょうか?沼宮内(ヌマクナイ)なんかは確実にアイヌ語地名だと思いますが、ナイ・ベツ以外の所謂アイヌ語地名(エサシは東北系和人地名の可能性も?)は見直した方がいい可能性もありそうです。阿弖流為(アテルイ)が日本語らしくないというのはその通りでしょうが、氏姓がないのは古くは日本全土同じですし、九州の熊襲が日本人の辺民だと見られますが、その人名は厚鹿文(あつかや)・市乾鹿文(いちふかや)等とあり、日本人の名前らしくありません。沖縄も同様ですが、沖縄方言は日本語の一派であることは言語学上明らかになっています。人名、特に名前は移り変わりが激しいので、安易に民族・言語の判別の指標として使えないと思われます(氏姓ですら、時折変えてしまうケースが見られます)。ナイ・ベツ系アイヌ語東北地名を南下説と関連付けてみることは難しいと考えます。何故なら考古学的・歴史的に北上の潮流が強いのが分かっているからであり(オホーツク文化以外で)、アイヌと関連付けられるエゾが北東北にいた記録も残っているからです。基本的に前方後円墳等、文化の急速な拡散を許しているのは同一民族の存在を想定するべきだと考えられます。とすれば、南東北や越後のエミシとは辺民説で理解するしかありません。それを前提に縄文時代に遡っていかないと(より近い時代を誤解していると)、記録がない時代の研究ですから(書いているものがあれば、それを読めばいいと思います)、あさっての方に飛んでいく可能性が高いと思われます。考古学的遺物の研究はそれ自体重要でしょうが、正確な解釈をするには記録の存在が前提で、記録のある時代の歴史の理解は、(考古学的遺物の解釈を含め)その前の時代の理解を大きく助けると考えられます。

「アイヌ」は旧石器時代以来、北周りの可能性が高い。

関東縄文人はどちらから来たかは未確定(恐らく西周り)だが、毛野(毛人?)は(北周りの)「アイヌ」と恐らく区別される(大和人がエミシと呼ばれたとしてアイヌとは無関係。エミシの用語は当初は北九州人から見た東の夷人で「アイヌ」と関係なかった可能性が高い。北九州人がヤマトに移った後、関東(東海)をそのままエミシと呼ぶようになったのではないか。北九州が来る前の大和も「アイヌ」ではなっかたと考えられるが、縄文時代はかなりの長期に渡っていた。

福島は当初は「アイヌ」で南端?だったかもしれないが、縄文時代の途中から北陸・関東の影響が強いらしい。「会津」あたりが北陸と関東が出会う場だった可能性がある。阿賀野川流域の標高の低さに注意するべきか。

新潟の実態は未調査。火焔土器は会津スタートで新潟で花開いたらしい。恐らく「アイヌ」ではなく、北陸系西回り。あるいは長野との関係。新潟のエミシは「アイヌ」の残存の可能性を考慮。ただしそうだとしたら火炎土器に関係ない。火焔土器系の独自・在地系の可能性もあるが、その場合は蝦夷に「アイヌ」にほぼ無関係の(隣人だったかもしれないが)系統が違う民族がいたことになる。火焔土器とは。

長野は恐らく北陸系/新潟に近いのではないか?東海の影響もあったと思う。結局西回り系か。長野の縄文人は恐らく「アイヌ」に関係ない。

(アイヌ)に関係ない縄文人・貝塚・船・落葉広葉樹林・北陸と諏訪・翡翠・佐渡・貝塚?・早期水田・越/出雲・日本海と太平洋の海からの進出

>古墳時代前期における最古級の前方後円墳の北限は、現在の新潟県・越後平野中部、福島県・会津盆地、宮城県・仙台平野であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は、日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ中越地方に後退するが、日本海側内陸では山形県・村山地方中部まで、太平洋側では岩手県・北上盆地南部まで北進した。・・・蝦夷が越後あたりにいた記録に対応すると見られます。磐舟柵や渟足柵との関係を要考慮。出羽柵は庄内地方に設置されたが定説でそれで良いようですが、陸路がどれほど通じていたかは越後北部が十分支配出来ていなかったことから疑問なしではありません。早期水田でも分かるように弥生時代は早くに東北日本海沿岸を北上したフシがあります。大和朝廷の会津進出も阿賀野川を遡った気配があると思いますが、北陸は前方後円墳が目立ちません。弥生時代に糸魚川(勾玉)と出雲の関係が想定されますが、証明されていません。勾玉祭祀は古墳時代のいずれかに大和朝廷が止めた感じもあります(銅鏡に関しては神社の神宝になることが多いようです)。

置賜(山形県内陸部)は当初、道奥(みちのおく)国だったことに注意。これは会津や山形県内陸部や宮城県の早期前方後円墳との関係で理解出来ます。

前方後円墳は和人居住地に設置されたと見ていいような気がします。多賀城に対したエミシとは熊襲や隼人と同様に和人の辺民の可能性が高いような気がします。南東北にアイヌ語地名らしいアイヌ語地名は見られません。縄文時代まで遡ってどうかは不明とします。

中通は下野と関係が深いはず。会津への進出はあったとは思う。そのまま北進して多賀城に行ったと考えたくなるが、信夫が北端で長坂を越えられなかった可能性も。中通が北陸と関東が出会う場所だった可能性もあり、その場合は北進して多賀城も十分。「アイヌ」とはあまり関係なさそう。

浜通りは常陸の延長線上と考えられる。常陸は下野より中通に進出した可能性もあるかもしれない。「アイヌ」の気配はしない感じ。陸奥とは何か。常陸から分国したらしい。

北出羽/羽後が「アイヌ」の領域だった蓋然性は非常に高い。進出した倭人は南出羽/羽前主体と思われる。北陸(新潟)との関連性が深い。陸奥との相互の交流もあった。安東氏の研究。津軽への進出主体と思われる。

陸中(岩手)が「アイヌ」の領域だった蓋然性は非常に高い。進出した倭人は陸前(宮城)主体と思われる。出羽との相互の交流もあったと思われる。平泉の性格に注意すべき。

津軽は全く「アイヌ」領だったように思われる。青森も津軽。ツガルとは何か。津軽/渡島半島の縄文文化の同一性。三内丸山の建築。船。土偶。十三湊。安東氏。唐子。奥尻島の粛慎がオホーツク?津軽氏は南部氏の出。つまりは陸後/陸奥。実際には出羽(安東)の北上とのブレンドの可能性が高く独自性がありそう。

上北/下北と南部の関係性。陸後。岩手/北上の延長線上の理解。津軽への進出。渡島半島との関係性?津軽との差異。日ノ本ルート。元々は全く「アイヌ」領だったろう。シュムクル(胆振から日高北部にかけての太平洋沿岸地域に居住するアイヌ民族集団の名称。17世紀には東で接するメナシクルと抗争を繰り広げたことで知られる)の故地の可能性がありそう。

三陸/ヘイ郡は情報が少ない。

蕨手刀/日本刀・俘囚・縄文文化と世界遺産・平泉・坂上田村麻呂・安倍氏・ミイラ・南部鉄器・落葉広葉樹林・東北の境界性

津軽海峡を挟んで渡島半島と津軽の両岸がアイヌの故地のように思える。アイヌは唐子・日ノ本・渡党に分かれるが、津軽に共通する渡党の渡島半島が日本海と太平洋に海沿いで別れたから、ある程度の同一性があるのではないか。この故地のアイヌは秋田や岩手のアイヌと連続していたと考えられる。

日本海側のアイヌが樺太に渡った。余市アイヌ。

樺太アイヌについては元/モンゴルの歴史に注意。ミイラ。元来はニヴフの土地か。ツングースの進出もあり。ロシアの影響。樺太。

太平洋岸のアイヌの残存勢力がメナシクルか。千島アイヌの母体だろう。北方四島との関連性。トビニタイ文化とは。

千島アイヌはカムチャッカまで達している。ロシアに同化したらしい。ロシアの影響。コロボックル考。オホーツク文化人の進出が先という話も。

カムチャッカの民族の系統と影響。

謎の民族オホーツク文化人。海岸沿い。奥尻島に進出したというが。粛慎か。ニヴフと思われるが。ツングースも考慮すべきか。イオマンテとの関係。トビニタイとの関係。アイヌに同化した。

石狩平野に要注意。日本海/太平洋岸に平野で繋がる。旭川/上川への進出。海沿いのオホーツク文化人に対する内陸川沿いの「縄文人/擦文文化人」との関係。渡島半島との関係が良くわからない。シュムクルとの関係も良くわからない。アイヌ語地名だが、縄文まで遡っての渡島半島との関係性が不明。

宗谷については情報が少ない。

胆振日高はシュムクル/メナシクルの境界線。数が多い今のアイヌはどうもシュムクルらしい。シュムクルと松前藩の関係。シュムクルは南から来たというが。石狩平野との関係性。東北のアイヌ語地名と北海道のアイヌ語地名がどう見ても同系なのは、シュムクルに関係している可能性もある。

(半)狩猟採集民族が割合早く農耕民に飲まれる例としては満州民族。関東縄文人の日本人の遺伝子に占める割合m考慮。

山丹交易・(南部)鉄器・松前藩・東北諸藩による防衛・江戸幕府による探検・北前船・蝦夷管領・ロシアの進出・函館五稜郭政府/戊辰戦争・川の文化・船の文化・チャシ・道南十二館・渡党・北海道(渡島半島除く)の縄文文化人とは・擦文文化・アイヌ・アイヌ語とは・アイヌ語方言・プラキストン線・沿海州との関係・旧石器時代・北周り

志賀高穴穂宮(近江)の重要性と佐紀盾列古墳群の関係性:古墳時代史②

2019-05-08 15:00:26 | 日本史
五社神古墳(左上)・佐紀石塚山古墳(下中)・佐紀陵山古墳(下右)・佐紀高塚古墳(最下)(国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成)Sakitatenami kohungun aerial 2.jpg

志賀高穴穂宮(近江))景行天皇は諸国を巡幸・戦争して回ったフシもあって、その一環で最後に志賀高穴穂宮に皇居を定めたようです。志賀高穴穂宮は琵琶湖南西岸の滋賀県大津市穴太(あのう)の地のようで、古代史でもほぼ注目されませんが、瀬田川の水運で瀬戸内海から九州~半島~大陸に通じ、北に向かえば北陸(越)、東に向かえば東海・東山・関東と交通の要衝とも言える地だと思います。成務天皇はここを根拠に「武内宿禰」の補佐を得て、国の境を定め、国を開いたそうです(古事記序文で称えられています)(国造制と関係あるかもしれません)。仲哀天皇即位時の皇居もここだったと考えられ、ゆえに神功皇后もこの辺りにいたとも考えられます。そう考えると(神功皇后の重要性を踏まえると)、この決定が後々大きな意味を持ったと考えられます。神功皇后の陵が結局佐紀盾列古墳群で成務天皇の陵と同じ場所にあるのもこれで理解出来ます。つまり佐紀盾列古墳群とは志賀高穴穂宮(近江)に関連して造営が始まった古墳群なのでしょう。仲哀天皇は直ぐに九州に移転しますが、神功皇后の九州における政府軍に対して忍熊軍は東国の兵を動員して対抗します。近江に皇居を置くことによって東国との連絡が高まった事情がありそうな気もします。

佐紀盾列古墳群古墳群の比定(東は年代的に倭の五王との関連で理解。別記事参照)

西(山陵町・佐紀町):佐紀陵山古墳(八坂入媛命墓;4世紀末?:墳丘長207m)→佐紀石塚山古墳(播磨稲日大郎姫墓:4世紀末頃?:墳丘長218m)→市庭古墳(高城入姫命墓・5世紀前半・墳丘長253m)

関連古墳:宝来山古墳(成務天皇陵:4世紀後半:墳丘長227m)

北西端(山陵町):五社神古墳(神功皇后陵:4世紀末:墳丘長275m)

東(佐紀町・法華寺町):コナベ古墳(仁徳天皇皇后磐之媛命陵・5世紀前半・墳丘長204m)→ウワナベ古墳(履中天皇妃葛城黒媛墓・5世紀中頃・墳丘長205.4m)→ヒシアゲ古墳(允恭天皇皇后忍坂大中姫陵・5世紀中葉-後半・墳丘長219m)

佐紀陵山古墳)4世紀末の建造ともされるようですが、一方で前後関係で最初期の大古墳でもあるようです。そう考えるとまず末は有り得ないような気もしますが、その被葬者は景行天皇妃の八坂入媛命としておきます。景行天皇の当初の皇后は播磨稲日大郎姫であり、その崩御後に皇后になったとされます。成務天皇・五百城入彦皇子(子に品陀真若王(応神天皇の皇后・仲姫命の父))の母で、成務天皇紀に皇太后になったとありますから、割合、後まで存命しています。成務天皇が佐紀盾列古墳群に陵を造ったと考えておきます。

佐紀石塚山古墳)佐紀陵山古墳や宝来山古墳の後の建造とされます。特徴としては佐紀陵山古墳の北西方向に密接して建造されていることです。神功皇后の治世に仲哀天皇の系譜に繫がる播磨稲日大郎姫墓を改装して建造したと見ます。更に北西に神功皇后陵五社神古墳がありますが、その並びに意味があるんでしょう。他に応神天皇の皇后の祖父として八坂入媛命の子の五百城入彦皇子も考えられるかもしれませんが、やや根拠に欠けるような気もします。

宝来山古墳)佐紀盾列古墳群古墳群に葬られたとされる成務天皇の真陵だと考えます。佐紀陵山古墳→佐紀石塚山古墳の間の4世紀後半の建造とされ、成務天皇の没年からやや時期が下りますが、佐紀盾列古墳群古墳群に含まれる範囲の古墳で時期と格を考えると、宝来山古墳しかないと考えられます。周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例で、垂仁天皇陵に治定される立派な古墳のようです。土器編年等による年代の推定は絶対年代としては目安的なものです(同一古墳群内における)前後関係は尊重すべきですが)。奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池。

神功皇后陵)宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵に治定されており、遺跡名は4世紀末頃の築造と推定される五社神古墳で墳丘長275メートルの前方後円墳です。祭祀(主に中期古墳で見られる)の実施が初期事例で、その大きさは全国11位の巨大古墳です。神功皇后の皇居は磐余若桜宮ですが、大和の当時の古墳群が造営されていた地域に葬ったまでなんだろうと思います。女性皇族が多いと見られる佐紀盾列古墳群において盟主墳と言える存在だと思います。

東の三陵・西の市庭古墳)似通った大きさの三陵が年代順に並んでいます。別記事で検討しますが、倭の五王の時代の皇后陵だと考えます。西の市庭古墳も同様に応神天皇妃の高城入姫命を挙げておきます。大きさがやや大きいですが、応神天皇関連人物は大きい傾向にあります。

成務天皇の治世と国造制に関して言えば、またいずれ考察するかもしれません。

北方領土問題は進展前提か凍結前提か

2019-05-03 00:04:57 | 外交安全保障
北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾(2019.4.26 DIAMOND online)

>2017年12月30日の北海道新聞に「歴史の常識を覆す」報道があった。タイトルは「ソ連の北方四島占領、米が援助、極秘に艦船貸与、訓練も」というものだ。

ヤルタ会談の直後に米ソが協力して、「千島列島」の占領作戦を行ったということですが、個人的には有り得る話だと思っています(筆者は赤いと言われる北海道新聞を支持するものでは全くありませんが(赤ければ赤いほど戦後レジー左派的で(社説など)問題と思うことがしばしばありますが)、政権に忖度しない新聞があってもいいという考え方です。ただこのニュースは先ほど検索して始めて知りました)。北方領土問題を調べれば調べるほど、固有の領土や千島列島の定義などいろいろ考えさせられるところがあるんですよね。後にスターリンは、釧路と留萌を結ぶライン以北の北海道の北半分までも要求し、米国(GHQ)が拒否したようですが、これは当然と言えるでしょう。

なお、1956年に、共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、アメリカ合衆国連邦政府の公式文書ではなく無効である」とのアメリカ合衆国国務省が公式声明を発出しており、また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は、合衆国としてヤルタ協定に含まれている、ソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っています(ウィキペディア「ヤルタ協定」(2019/5/1)参照)。

>1951年、米国との単独講和だったサンフランシスコ平和条約で、日本は「クリルアイランズ(千島列島)」を放棄した。実はこのときに、現在に至るまで禍根を残す失態が生じる。批准国会で野党議員に「放棄した千島に国後や択捉を含むのか」と訊かれた西村熊雄条約局長が、「含む」と答えてしまったのだ。

ヤルタ会談の当事者フランクリン・ルーズベルト大統領は1945年4月12日に死去します。サンフランシスコ講和条約の時は副大統領から昇格したトルーマン大統領の再選後2期目であり、時は冷戦時代に突入していました。有名な鉄のカテーン演説は、イギリスのウィンストン・チャーチルが第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で行った演説にちなみます。日米で北方領土問題に関してどういうやり取りがあったのか詳細を知りませんが、こうした文脈を踏まえて、外務省の「失態」は理解されるべきだろうと思います。解釈の余地があれば、後々どうなるか分からないのが国際政治でもあるんでしょう。

続く共和党のアイゼンハワー政権でヤルタ協定は個人的なメモと一蹴しており、1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー大統領の下で第52代国務長官を務めた強い反共主義者のジョン・フォスター・ダレス国務長官は、1956年8月19日に日本の重光葵外相とロンドンで会談を行い、重光に対して北方領土の択捉島、国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求し、「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と指摘して日本側の対ソ和平工作に圧力を加えたとされます(ウィキペディア「ジョン・フォスター・ダレス」(2019/5/1)参照)。その後の交渉を規定する日ソ共同宣言が署名されたのが1956年10月19日で効力が発生したのが1956年12月12日です。日ソ共同宣言には「日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡し(譲渡)する」とあります。時は1953年のスターリン死去後、雪どけ(1955年-1958年)の小康状態にあり、それが日ソ共同宣言に至った要因でしょうが、米国としては軍事的な要衝(海峡)を含む国後・択捉をソ連だと認める訳にはいかなかったのかもしれません。

筆者は、戦後の交渉の経緯を踏まえて日露の領土交渉を進めるべきという立場ですが(拙稿:戦後の日露平和条約交渉に基づく新しいアプローチの検討)、今の国際情勢は既に冷戦は終わって久しく、中国の台頭という新しい情勢に対応するトランプ政権に変わっていると認識しています(米中冷戦が始まるとか、トランプ大統領がロシアと通じているとか、中露が仲たがいするとかそういう話ではありません)。領土問題を解決して平和条約を結ぶことを筆者は支持しますが、結果がどうなるかは分からないというのが正直なところでしょう。ひとつだけ言えるのは四島一括返還はおろか、色丹の引渡しさえ厳しい状況に現在あるということです。日露の隔たりは大きく中々難しい交渉とは思いますが、日露のチャンネルも重要であり、現在の枠組みで何が出来るか、機会があれば今後も考えていくつもりはあります。

>北方領土史で忘れられがちなのは、「本当の先住民は誰だったのか」だ。筆者は1980年代、北海道で知り合いのソ連担当の公安関係者から、「ソ連の学者たちが北海道のアイヌ民族の存在を口実に、北方領土が古来、自分たちの領土だったことにしようとしている」と聞いた経験がある。アイヌはロシア側にも居ることをテコに、「日本人より先にロシアのアイヌが千島にいた」として、日本が主張する「固有の領土」を否定しようとし、「AS協会」という組織を立ち上げたと、といった話だった。

これは学問的に完全に無理だと思いますね。千島のアイヌの源流は明らかに北海道にあり、更には北東北まで遡る日本の長年の隣人の先住民族です。千島のアイヌはロシアの支配でロシア化したという話もあるようですが、「アイヌ民族」が歴史的に日本と関係が深い関係にあって、現在も日本は先住民族として認める立場を揺るがしたことはありません(アイヌ新法は国会で全会一致で採択されたようです)。日本から見てロシアの極東進出は歴史的に遅すぎで「アイヌ民族」の歴史は日本の歴史と密接に関係します。ずっと隣り合っていた以上、これは当たり前なんですね。ただ、アイヌが国家を成立させたことはありませんでした。民族の分断は歴史上有り得ることではありますが、いずれにせよ、もはやアイヌ民族はロシア領にいないと認識しています。アイヌの進出は千島方面ではカムチャッカ半島まで及んだようです(カムチャッカのアイヌが北海道まで降りてくるのようなことは有り得ず、日本との関係を通じて発展したアイヌがカムチャッカまで至ったとみるしかありません。また、言語学的観点から千島のアイヌが太古の昔から千島に居住していたということも有り得ず、分化の状態からそれほど古くない時代に北海道から移住したようです)。

遺伝子を理由にアイヌの源流を沿海州に求める主張が一部で散見されますが、ロシアの工作に引っかかっているようにも見えます。少なくともアイヌ南下説は(千島においては)ロシアの主張そのものではないでしょうか?ヨーロッパでは一部極右政党にロシアが浸透したと言われることがあります。樺太方面においてもこれは逆で、どうも余市あたりのアイヌが樺太に進出したと考えられるようですが、日本ーアイヌ交渉史の中で日本が北上し、アイヌと交易した話は幾らでもありますが、沿海州の民族が突然現れたのような話は、わずかに消えた謎のオホーツク人に見られるのみで、それも直接交渉はほとんどありません。お隣の異民族が別の民族に変わるようなことがあったら一大事ですが、そんな記録は全くないと考えます。遺伝子がアイヌと沿海州で似ているとしても、日本人(和人)の北海道進出はそれほど大昔に遡る訳ではなく、それも当初は渡島半島南部までであり、ようやく江戸時代に本格的に進出が始まることになります。日本語とアイヌ語は元々系統が異なり、アイヌはその意味で北周りの民族としたら遺伝子が沿海州とベースが同じとして不思議は無く、お隣の北方民族として遺伝子のやり取りがあっても不思議はありませんし、オホーツク人の南下ファクターもあります(アイヌに吸収され消えたようで、熊送りがオホーツク人由来という説があります)。また、遺伝子で民族を規定するのが必ずしも妥当ではなく、日本人に隣接して住むアイヌほど遺伝子が混じることも当然あったようで、その辺も踏まえなければなりません(日本人と混じったアイヌを排除して沿海州と混じったアイヌを残した検証ならば意味がありません)。結局、アイヌは独立するべき国を持ったことがない先住民族(言葉ですらどの方言を中心にすべきか本来的に決めようがなく、人工的に後付けの理由で決めるしかありません)ですが、日本との関係が深く、ロシアにせよ中国にせよ関係が浅いことは明らかです(モンゴルならまだしも漢民族など北方で見たことありませんし、ツングース(満州/清)もより北方にそれほど関心がなく(ロシアに敗れています)、アイヌはおろか樺太の在来民族と考えられるウイルタもツングースと関係ないことが言語学的に分かっています)。アイヌ語のカムイは日本語の神と同様の言葉で高位の霊的存在を表し、これは文化の伝播や言葉の借用が考えられるようです。アイヌと宗教の伝播に関して言えば、熊送りも考古学的遺物の出土の関係で外国の影響があるのではないかという示唆もありますが、詳細はつまびらかではなく、いずれにせよ、北海道のアイヌと日本の関係性を否定できるものではなく、北海道に外国の権利も及びませんし、千島においては北上の歴史が揺らぐこともないだろうと思います。

さて、ロシア(プーチン政権)ではスターリンの再評価が行われているようです。これはソ連を超大国に押し上げた実績から来るもののようです(これは国際情勢の常識の範疇と思いますが、「いまさらですがソ連邦」(三才ブックス 2018)なんかが、そのあたりを踏まえてソ連の歴史が面白くまとまっているような気がします)。だとしたら、北方領土交渉に影響しないはずがありません。「ルーズベルトに個人的に合意させた」スターリンの実績を削る訳にはいかないということになりかねないからです。プーチン大統領も認めた戦後の交渉の積み重ねを譲る訳にはいきませんが、この「スターリンの実績」という体面を交渉で守れるかどうかが成否を決めている可能性があるのかもしれません(そんなことには関係なく無理なのかもしれません)。具体的には「固有の領土論」をどう扱うかになるんでしょう。戦争で固有の領土が奪われることは厳しい国際社会で当然有り得る事態ですが、個人的には第二次大戦のソ連の侵攻に関して、北方領土への進出に限って不法と認めさせることは交渉しないと言っているに等しいと考えます。そうだとすると、論理的には約束している日露交渉を前に進めるためには千島の範囲に関する定義の(一部?)譲歩が必要でしょう。そもそも日本から見て(国際的に見ても)ソ連の侵攻は不法なものですが(日ソ中立条約を明らかに侵犯しています)、一方でサンフランシスコ講和条約で放棄した領土の問題もあります。戦争に負けると不法も何もないところはあるんですよね(解釈の余地がない訳ではありませんが、既に放棄した領土は明け渡したも同然の形になっています)。これは条約の形で認めてしまっており、ソ連と結んでいないと言っても、それほど大きな意味がある訳ではありません(破棄しない限り、新しい主張は出来ず、それをするだけの価値もなく労多く益少なしでしょう)(一方戦後のどさくさに紛れて韓国が占領した竹島に関して日本が何ら譲歩した訳ではありません)。ロシアから見てサンフランシスコ講和条約を素直に読んだラインの決着は有利な決着だと思いますが、戦後の交渉を踏まえると(必ず踏まえられるべきですが)、そのままという訳にはいかないだろうというのが筆者の考え方です。日本側も主権の問題で譲歩がないにも関わらず(筆者は自分の考え方に主権の譲歩を見ていません。「誤解」は何時でもある話でしょう)、1ミリも譲らないのような考え方であってはならないと思いますが。筆者の主張を最大限踏まえたと仮定しても、(交渉担当者では全くありませんし)まとまるかどうかに関して筆者はよく分からいものがあります。

ついでまとまったとして何ができるかについて考察して終わりにします。これは個人的にはエネルギー問題が気になります。具体的にはサハリンのガスをパイプラインで引いてくるというような話です。LNG船は高コストでパイプラインを引いた方が確実に安いでしょう。これは(ロシアが安定供給するならですが)北海道経済にとって大きなプラスとなると思います。ヨーロッパで経済で一番勢いがあるドイツがこれをやっています(ただし、トランプ政権はドイツをガスの輸入で批判しており、動かない問題の可能性があります。米中貿易戦争といったところで、貿易しており(鉄のカーテンがあると言えず)、トランプ大統領は習近平を一定の評価していますから、貿易すること自体に問題はないんだろうと思いますが。また日本は安全保障費に関してトランプ政権の評価はあるようです。今のところガスで自動車が動くわけではありませんから、自動車産業には関係なく、天然ガスの用途に詳しくありませんが(エネルギー目的なんでしょう)、日米貿易摩擦に直接は関係なさそうです。ただ、アメリカの資源輸出政策に関係しないとも言えないかもしれません)。ドイツもコスト面もありますし、一度引いたパイプラインをどうこうする訳にはいかないという理由もあるかもしれませんが、資源エネルギー戦略を長期的視点で考えると、埋蔵量が莫大なロシアの天然ガスを買うことが必ずしもマイナスとは言えず、寧ろプラスになると考えることも出来そうです。資源は掘れば採掘コストが上がってきますし、終わりが見えてくると、値段が急激に高くなると考えられます(何らかの理由で供給が絞られると確実に価格は高騰します)。ドイツは浮かせたお金か知りませんが、再生可能エネルギーをやっており、これも環境も意識しているでしょうが、資源が有限であることを意識した長期的戦略と見ることも出来そうです。アメリカ的な任期中の成果の発想で何処まで評価されるかは分かりませんが。LNG船に関して言えば、オーストラリアのプロジェクトもありますし、シェールガスも運べますから、需給はよく分かりませんが、日本にとって未だ必要な船ではあるんでしょう。島国は日本だけではなく、安定的な発展のため、必要とする国もありそうです。こう考えると、シェールガスもパイプラインで利用できる範囲が有利でしょうから、資源国・大陸国の優位性を感じるものがあります。

当面の話題の北方領土に関して言えば、領土問題が進むか進まないかによりますが、進まないこと前提で考えると、地元の要望を活かした利用・活用の道はないかと考えます。特別な外交安全保障上の理由があれば話は勿論別でしょうが、基本的には地元経済の発展が国の都合で阻害されてはならないはずです。現時点で北海道が行き止まりになっているとしたら、経済にマイナスは明らかです。安全保障の観点で言えば、防備はシッカリしているとも言えるはずでしょう。「サハリン」経由で黙認の類なんかは地元にプラスになりません。サハリンはサハリンで用があるというのが本来的な形でしょう。結局幾ら考えたところで、平和条約の締結が前提でない限り、壁があるということですから、限界があるような気もします。

暗黙の了解というものはありますが、北方領土問題は進展前提か凍結前提かが重要だと思います。進まないものを前に進めようとすることほど無駄なものはなく、そんな時間があったら別のことが出来るという話ですが、前回の記事でやや書き残したこともあり、自分の中で見通しが必要だと思った次第です。

観光亡国論

2019-05-02 19:21:28 | レビュー/感想
観光の新しい話題オーバーツーリズムについて「観光亡国論」(アレックす・カー 中公新書ラクレ)から

オーバーツーリズムが指摘され、土地が高騰している京都において、風情ある町並みの中に安手のホテルが建設される事例が増加しているようです(47p)。こうしたことが起こる一因に某国の投資対象になっていることがあるようです。別に外国人投資を否定する必要もないとは思いますが、観光資源が損なわれては元も子もありません。京都に宿泊施設が足りない現状はあると思いますが、オーバーツーリズムが指摘される中、それほど投資を過熱させる必要があるとは思えません。上がり過ぎた地価は暴落の危険性もあって、安定した成長が望ましいのではないでしょうか。古都京都において某国風の名前での地区開発の話もあるようです。

貴重な町屋が取り壊される事例もあるようで、対策を調べたのですが、文化財保護法や景観法で問題は指摘されていないようです。民泊や旅館業法も新法が成立したばかりで、投資過熱に対する処方箋としての新しい指摘は見当たりませんでした。京都独自の新景観法もあるようです(京都の新景観政策10年 ①高さ規制〜乱立するホテル〜 2017/12/06 京都の現在(いま)を不動産からキリトルWEBサイト)。日本が売りの京都で中国風の名前で再開発のような事例はありえず(46p)、京都において外国(人)街や著しく外国を感じさせる外観の建築物は否定されるべきだと思いますし、安手のホテルの増加も問題かもしれませんが、景観の問題はこれ以上は触れないものとします。

ここで問題としたいのは人々が暮らしを紡ぐ町並みです(50p)。確かに賃貸やホテルが建設された方が短期的には経済発展するかもしれませんが、名所に行く途中に、人々が日常生活を営む風情ある路地や町家が、ご近所づきあいというコミュニティと共に残っているのが京都の魅力そのものではないかという指摘は傾聴に値するものがあるのではないでしょうか。これは恐らく運用の問題で市街化区域に指定し用途地域を定めれば問題は概ね解決するはずです。必要があれば、用途地域の種類を追加してもいいかもしれませんし、特区制度で京都は自由にメニューをつくりかえていいみたいなことを試してみれば面白そうです。奈良なんかも同じかもしれません。

民泊新法の上限の問題に関して言えば、新旅館業法でのカバーがありますが、営業日数の上限が地方に打撃だと指摘されています(54p)。これは検討に値する指摘かもしれません。というのも旅館やホテルとしての設備がなくても、住居としての問題はありません。空き屋問題がありますから、空き屋をそのまま活用して商売できれば、無駄がないと考えることは出来るでしょう。空き屋は使わないと劣化するとも言います。問題は既存の施設との競合です。ですから地域の実情に合わせて営業日数の上限を定められるようにすればいいのでしょう。インバウンドはまだまだ伸びるとも考えられ、需要の拡大に対し無駄ない投資の発想で選択肢を増やす訳です。民泊は基本的には低価格が魅力のようですが、LCCの拡大がありますし、既に混雑しているところなど単価上げる地域や会社や個人と、まだまだこれからで数を追う地域や会社や個人の両方あっていいんじゃないかと考えます。

民伯新法の地方における上限の撤廃で可能になることに例えばアルベルゴ・ディフーゾが挙げられるようです(イタリアの空き家活用法アルベルゴ・ディフーゾ!古民家が何に生まれ変わる? うめぶろ)。>一般的なホテルが1ヶ所の施設でサービスを提供するのに対し、アルベルゴ・ディフーゾは集落内の複数の建物を利用します。~昔からある集落の商店での買い物や地元の食材を使ったレストランでの食事を地元住民とのふれあいと共に楽しめるんですよ〜。

やるんであれば、その村の住人になってみたいと感じるかどうかがポイントなんでしょう。イタリアの場合はスローライフとかそういう売りがあるかもしれません。日本の場合だと村とは言えないかもしれませんが、谷根千で知られる谷中でそういった取り組みがあるとか(東京谷中の街ごとホテル『hanare』日本版アルベルゴ・ディフーゾの実態 うめぶろ)。宿場町の住人w(【岡山】世界初のアルベルゴディフーゾタウン『矢掛町』を訪ねて。)。空き家の活用という観点では離島の可能性もありそうです。移住を多く受け入れている離島なんかが生活に魅力があったり受け入れ態勢があったりするかと思いましたが、空き家があるかどうかは知りません。島根県 中ノ島(隠岐郡 海士町)、長崎県 福江島 (五島市)、香川県 小豆島(土庄町・小豆島町)、鹿児島県 奄美大島(奄美市、龍郷町、瀬戸内町、大和村、宇検村)、新潟県 佐渡島(佐渡市)が離島の移住先としておすすめという声も(離島に移住する先,おすすめマイベスト5はココ! iStay)。移住ですが、離島だと就業時間が短くワークライフバランスがあるという声もあるようです。長時間労働で知られる日本でスローライフを売りにするのであれば、就業時間が短いところの方がノンビリしているとあたりをつけることが出来そうです。何もしない贅沢があると言いますが。自然の美しさ・釣りや農業(体験)なんかは離島の魅力という人もいるようです。人気の離島なんかは住むところがないという話もあって、空き家のある離島で受け入れて態勢があるところを探さないといけないかもしれません。農村生活の魅力で言えば、田舎暮らしで知名度があるイタリアなんかの事例が参考になるのかもしれません(イタリア・トスカーナの田舎に滞在する旅「アグリツーリズモ」を楽しもう! ドコイク?)。さすがに美しい風景ですが、レストランがあるかどうかがポイントのひとつらしく、アルベルゴディフーゾタウンをやる意味に、宿泊施設とレストランの分離なんかはあるのかもしれませんね。古民家を宿泊施設にするのはいいとして、食は?という訳ですが、レストランを共用できればいいと考えられます。泊食分離といいますし。後はワイナリー(酒蔵)見学とか体験観光とかいろいろありそうです。夜は集会所で宴会とか?美しい村で思い出し検索しましたが(日本で最も美しい村連合フォーラム2017でアルベルゴ・ディフーゾについて聞きました(2017.11.15 日伊文化交流会)、地産地消(採れたて野菜とか?)やアクティビティを楽しむらしいです。>日本では伝統家屋の空き家は多く アルベルゴ・ディフーゾにするには問題はないのですが ノウハウが問題で イタリアのように 住民とのアイディアやコンセンサスの共有がまだなく また改築費用は イタリアでは8割が私的に 2割が公的資金で賄われているが やがては家賃収入で回収してゆくとのこと 無償で空き家を貸し出すところもあるそうです。ただ 具体的な質問に答えて会長より 「イタリアでも困難な歴史のあとで成功した」とのお話をいただきました 20州それぞれに異なったアルベルゴ・ディフーゾの法律(legge)があり 16年かかったところもあったそうで 会長はイタリア中を駆けずり回り かけあったとのことです 今は150の自治体にあるのですが 今後も増やす予定で 日本で作るには セオリー上はできるにせよ imprenditorierità(起業家としての能力)が つまりはやる気 意気込みが大切であり 横のネットワーク作りが必要で たとえば家主が若い経営者志望の若者に空き屋を売るか? ローカルガイドの育成等です。日本では今のところは北海道等で 地域活性化策として検討されているとのこと。・・・村の形ってどうなんだろうと思って検索。博物館ですが「村内地図|総合案内板|博物館明治村

寺は拝観料をとり、神社はとらない問題に関して調べましたが、神宝・社宝が非公開のところが多いのがひとつの原因なのかもしれません。そういえば、仏像・仏画はみたことがあっても、神像や神器って見たことないですね。地域の出土物なんかもどうしているのか知りませんが、博物館をつくるのもいいとは思いますが、神社仏閣に寄贈して管理公開してもらうってやり方もあるんじゃないかという気はします。

縄文杉の入場制限に関して言えば、観光業界からの反発で議会で否決されているようです。入山料徴収の話があったようですが、現状はよくわかりません。縄文杉は保護のため離れたデッキから見るようですが、デッキの修繕もあるでしょうし、そもそも土壌流出対策で入場制限と入山料による整備対策があれば、近くで見ることだって出来るんじゃないかと思います。払うことに反発があるようですが、食い逃げする人やテーマパークで入場料を支払わない人はそうはいない訳で、結局やるかやらないかなんじゃないでしょうか。観光も地元と共存共栄しないと将来性がありません。海外なんかだと大型開発で有名になったはいいが、地元にお金が落ちないなんて例もあるようです(人をつれてきて店を建て本国にお金を送るらしい)。

大山祇神社の宝物は海賊や将軍や大名が奉納したもので歴史的価値が高いというくだりを読んでいて、そういやバッシュってマニアックな人気あるよなと思い出しました。誰かアリーナ近くの博物館に「奉納」すればいいのに。野球のバットやグローブも同じかもしれませんが。本題は神社近くに駐車場を設けて参道が失われたという残念な話です。参道・古民家って山寺とかだったら残りやすいような気も。四国八十八箇所ですが、そういう価値あるものを活かしていくのがやっぱりいいんでしょうね。

パークアンドライドの例で言えば、尾瀬ヶ原の例が載っています(95p~96p)。尾瀬におけるオーバーユースと解決策を参照すると、実際にオーバーユースで貴重な湿原が潰れて回復事業を行ったのような例もあるようです。やはり自然を見に行く観光客が自然を壊すのような話は問題なはずで、受益者負担で守る動きもより考えられていいんじゃないかと思います。名所の景観を守るためにはバスだらけの駐車場が近くにあっては問題ですし、歩くことで周辺に賑わいがもたらされます。

祖谷の古民家は高い稼働率を維持しているようです(114p~116p)。補助金もあるようですが、産業が立派に成り立ってくれれば、下手な対策をするより寧ろ安いかもしれませんし、画一化による効率化では得られない新しい価値も生まれると思います。雇用が生まれますし、地方の工務店にノウハウが蓄積され、相応しい家具が必要ということで家具職人や木工職人にもメリットがあるようです。問題は道を広げるとか大きな駐車場をという発想で、山間の宿に来るお客さんはくねくねした道を通って秘境を訪れ、道中の風景を楽しむことに旅のロマンを感じるようです。愛媛だと久万高原町の大成なんかが秘境っぽい(検索すると人がいなくて不気味だという声すらあるようですが・・・)。

著者が強調する国家によるグランドデザイン=ゾーニング・分別ですが、大型クルーズ船は既に成功した福岡のような(大量の観光客を受けれることが出来る)適地が日本各所にあって(否定はしていません)、(アマミノクロウサギや世界遺産登録の話題がありますが)奄美なんかは環境負荷を考えると、例えば空き家を生かすのであれば、ヨットハーバーが考えられると指摘されています。長時間滞在を目指すクオリティツーリズムがいいという指摘ですが、観光コミュニティという概念(訪れた国の自然や環境・文化に触れ、地元の人の精神的な部分までを理解することこそ観光だという概念)もあるようです。地元の観光地で言えば、道後温泉で「至れり尽くせり」とか?地元の人というか宿泊施設の話メインになるかもしれませんが。文化だったら俳句もありますし、源氏物語とか伊予湯の話も多いようです。道後温泉近くに伊予(中予)の武士の河野氏の湯築城があって(温泉に入ったかどうか知りませんが)、時宗の開祖で盆踊りの起源となった踊り念仏や国宝「一遍上人絵伝」で知られる一遍上人は河野氏の出で、生誕地として宝厳寺が道後にあります。ファンサイトがあって、一遍上人の生き様を描いた映画もあるようです。>一遍上人は熊野成道の後、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」会う人ごとに念仏札を配って、念仏を勧めて諸国を巡りました。信不信を選ばず。信心をもっていようがいまいがかまわないというのは、天台本覚思想の「人は生まれながらにしてすでに悟っている」という考えに基づくものです。・・・丸ごと受け入れるという一種大らかな考え方でしょうか。これを言うということは誰それだからダメという一種差別的な考え方が当時あって、それに対するアンチテーゼの一遍上人が広く受け入れられたということなのかもしれません。熊野信仰を広めたという功績もあるようです。>一遍上人は、四国は伊予(愛媛県)松山の豪族で河野水軍の将・河野家の出身。10歳のとき、母の死に無常を感じて出家。13歳で浄土宗に入門。25歳のとき、父が亡くなり、家督を継ぐために生国に帰り、還俗。豪族武士として生活しますが、33歳で再び出家。3人の尼僧(2人の成人女性と少女1人。妻と娘と下女と思われます)を連れて伊予を出ます。・・・経歴を見るとやはり河野氏/伊予と水軍は大きく関係ありますね。何だか少し王子だった釈迦の要素もあるような。生まれがいいからもあるかもしれませんが、人が生まれながらにして既に悟っているというのは、昨今時折言われている自己肯定感に繋がるような気もします。それを広めて支持されたのですから、現代的な観点で見て再評価されそうなところがファンサイトや映画に繋がったのかもしれません。

著者によると日本にはまだ素晴らしい茅葺き民家が残っているようですが、愛媛で古民家というと瓦葺きになるような気はします(一般的で希少性の問題はあるかもしれませんが)。日本という視点で特に気になったのは檜皮葺(ひわだぶき)です。神道系らしいのですが、例えば和歌山県の寺社なんかであるようです。ヒノキは日本で古くから尊ばれる木ですね。出雲大社とか厳島神社とか錚々たる面々ですが、例えば和風旅館の新しいジャンルを創ってみるなど考えられるかもしれません。

川の再生に関して言えば、肱川が代表的ですが、ここはあえて広見川に触れたいと思います(ダムが現時点でないという意味で)。川エビがいるようなんですが、四万十川のテナガエビと同じでしょうか。川エビって独特でひとつのシンボルになるような気もするんですよね。再生を試み川を中心とした地方振興も(四万十川のように)有り得るんじゃないでしょうか。防災の観点からも鬼北地域が重要な可能性もあります。