観測にまつわる問題

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福島県の復興の検討

2019-04-30 15:03:01 | 政策関連メモ
平成に幕...「天皇陛下」4月30日退位 大震災後福島県6度来県(2019年04月30日 福島民友ニュース)

>震災以降の両陛下の本県訪問は6度に上った。
>避難所で膝をつき、被災者と同じ目線で語り掛けるその姿と、優しいまなざしは復興に歩む県民に大きな希望を与えた。
>在位中、最後の訪問は昨年6月、南相馬市原町区雫(しどけ)の海岸防災林整備地を会場に行われた第69回全国植樹祭。両陛下とともに、約8000人もの参加者が植樹したクロマツなどの苗木は、いまも少しずつ成長を続けている。

マツ(ウィキペディア「マツ」(2019/6/5))

>マツ属の葉は短枝と呼ばれる枝の一種に数枚が束になってつく。その数は個体内での多少の差はあるものの2枚、3枚ないしは5枚が束になって生えていることが多く、種によってその数は決まっている。
>日本では二葉松はアカマツ (P. densiflora)、クロマツ (P. thunbergii)、リュウキュウマツ。
>五葉松はゴヨウマツ、ヒメコマツ、ハイマツ、チョウセンゴヨウ (P. koraiensis)、ヤツタネゴヨウが知られている。
>三葉松は、アメリカ大陸を中心に分布しテーダマツ (P. taeda) やダイオウマツ (P. palustris) などが知られている。日本には3葉のマツは自生していないものの、化石の研究からオオミツバマツ (P. trifolia) と名付けられた種が分布していたことが確認されている。

被災した双葉郡を意識して平成天皇、皇后両陛下(当時)はクロマツやアカマツを植えられたんだろうと思います。クロマツが雄松(オマツ)で、アカマツが雌松(メマツ)になります。松は白砂青松(はくしゃせいしょう)で日本の美しい海岸の風景のたとえですが、この松は主にクロマツのことなのだそうです。松は冬でも緑を絶やさない常緑樹で縁起物とされます。松は古来、和歌で「待つ」という動詞と掛詞として使われてきたそうですが、植樹された松が成長し、福島が復興することが期待されると思います。

福島でフタバと言えば、フタバスズキリュウ(巨大動物図鑑)も想起されます。1968年に福島県の双葉層群という地層から当時高校生だった鈴木氏によって発見された首長竜の化石ですが、2006年5月、エラスモサウルス科の新種としてフタバサウルスFutabasaurus suzukiiと正式に命名されているようです(いわき市石炭・化石館)。フタバスズキリュウは北太平洋では最古の首長竜とされるようですが、北海道道北中川町の国内最大のモレノサウルス(ナカガワクビナガリュウ)のレプリカ標本も結構すごいようです(中川町エコミュージアムセンター)。首長竜は水棲爬虫類の一種で厳密に言えば恐竜とは言わないようですが、筆者の見たところ、じゃあ巨大な水棲爬虫類を爬虫類扱いしてどんな意味があるの?ってことになりますし、翼竜類の扱いもありますから、爬虫類の巨大なもの=恐竜って扱いでいいんじゃないかと思います(ワニが恐竜ってことになってしまいそうですが、アレ滅びてない恐竜なんじゃないですかね。参考:7mを超える世界最大の超巨大ワニ(ランキング&画像) ailovei)。首長竜に胎生か卵生かという議論があるようですが、どう考えても胎生だと思います。爬虫類だから卵生は思い込みじゃないんでしょうか?胎生は魚でもあるようですし、胎生は生物の歴史において何度も独立に進化しているようですから、証明されない限り卵生でなければならないというより、胎生だろうけど卵生と証明されたら驚きって感じじゃないでしょうか。幾らなんでもあの大きいのが陸に上がらないというか、方向転換すら難しそうです。首長竜の首が長いのは柔軟に首を動かして魚を捕らえるためのようです(首長竜は何故、首が長く進化したのですか? yahooo知恵袋)。多いものでは80個近くの首の骨があったようです。プロントサウルス(カミナリリュウ 竜脚類)やキリンのように復元するのは間違いなのかもしれません。海面から大きく首を出してどうするというんでしょう。息継ぎなら頭だけ出せば十分ですし。ネッシー残念!

双葉郡は明治時代に楢葉郡(ならはぐん)と標葉郡(しねはぐん、しめはぐん)を併せて成立。福島からの避難者ら上賀茂神社参拝し復興祈願(産経ニュース 2015.3.12)したことがあって、これは雷と電力を掛けたもののようですが、両賀茂神社のご神紋がこの双葉葵で双葉郡も意識したものではないかと思います。和歌では葵(あふひ)を「逢ふ日」と掛詞にします。双葉葵のフタバは、茎の先に葉を2つ、対生状につけることが由来であり、カンアオイ属で所謂アオイ科の植物とは種が違いますが、葉がアオイ科の植物に似ていることから、共通の名前であるようです。源氏物語の葵の上の葵も葵帖に由来し、葵帖は葵のかんざし(髪挿し)の和歌に由来するようです(草木の枝や花を髪にさすことは「かざす」といい髪挿すの転です)。平安時代、祭といえば両賀茂神社の賀茂祭のことを指しましたが、江戸時代に賀茂祭が再興された後、葵祭というようになったようです。徳川家の葵の御紋は三つ葉葵で架空の存在(鳳凰とか龍とか、植物で言えば扶桑とか世界樹のようなものなのでしょう)ですが、賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきたのだとか。原発事故で南北に別れてしまった双葉郡が何時か復興することを願っています。

さて、具体的に福島の復興を考えていきます。福島の復興を目指す組織としては、福島復興再生総局があって、復興庁福島復興局、環境省福島地方環境事務所、原子力災害現地対策本部を統括する組織として、福島市の福島復興局内に事務局が置かれているようです。総局の長は復興大臣(福島原発事故再生総括担当大臣)。

筆者は沖縄における産業の振興開発に寄与する事業に必要な長期資金の貸付けなどを行っている沖縄振興開発金融公庫のような福島におけるビジネスを支援する特殊法人・政策金融機関が福島の復興を早めるのではないかというアイディアがありますが、その妥当性は分かりません。事故対策は既存の組織が対応しているはずですが、単なる事故対策を超え、福島が復興したと言える状況を創り出すには福島におけるビジネスを盛んにせねばなりません。それを政策的に誘導する専門機関が政策金融機関だと思います。これが福島に必要なのは事故が起こって処理に長期間かかるというハンディを背負っているからです。日本の原子力政策の失敗・防災政策の失敗は皆で負担するべきでしょう。勿論底なしで支援できるという訳ではありませんが、少し有利な金融機関を設置して福島でやろうという企業や個人を支援するのが妥当のような気がします。既存の機関との競合も考えられはしますが、それは設置ありきで解決できる話だと思います。既に何らかの措置でビジネスが有利になっているかどうかは知識がありません。福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想があるのは承知していますが、イノベーションと浜通りが対象と認識しています。ラベリングは主に福島で行われていると思いますので、浜通り以外に恩恵があってもいいような気がします。

前置きは以上ですが、福島を地域別に分けてどんな産業があってどう復興させればいいか検討していきます。順番は会津→中通り(南→中→北)→浜通りです。あくまで経済の復興の話ですので、重要なのは如何に生産性を高め、労働力と資本を集めるかだと考えます。

まず中通り南部の白河都市圏。ここは古くは奥州の三古関の内のひとつ白河の関があったところで(他にいわき市勿来関、鶴岡市鼠ケ関)、みちのく(奥州・羽州)の玄関口とされてきたところです。白河関跡(白河観光物産協会)によると、>その後律令制の衰退とともにその機能を失いましたが、『歌枕』(和歌の名所)として文学の世界で都人の憧れの地となり、能因や西行、松尾芭蕉など時代を代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しています。和歌・俳句から見るふくしま(福島県立図書館)参照で>『奥の細道』は、「月日は百代の過客にして」という有名な冒頭の少し後に、「春立てる霞の空に、白河の関越えん」との一節が続きます。分水嶺の南が有名な観光地の那須で白河高原としての観光開発もあるようですが、東北観光の始まりとしてのポテンシャルもあるかもしれません。少子高齢化で需要が縮小するのであれば(働き方改革しても抜本的な対策にはならないとも考えられます)、新しい需要開拓のターゲットとしてインバウンドは外せません。外国人にも分かるように何処が風流かを説明できれば面白いんじゃないでしょうか。仙台・松島等とのセットでの売り出しも考えられます。世界で知名度のある日本人ベスト34を発表!(日本を徹底分析して世界でのイメージやランキングを公開)によると、国際的な知名度No.1に松尾芭蕉がいます。これは潜在需要と言えるような気もします。霞(かすみ)は文学的表現でよく使われる主要な和語で、ウィキペディア「霞」(2019/4/30)参照で①霧・靄・煙霧などで遠くの景色がぼやけている(=かすんでいる)様。やや文学的な表現で、気象学用語ではない。春の季語。②朝焼け・夕焼け。(原義)③霞 (修験道) - 修験道特に本山派の地域ごとの支配・管轄地域。④研ぎ仕上げの技法。⑤合わせ鍛えの包丁。・・・という多義的な意味を持つ言葉です。春の山野に立ち込める水蒸気が文学における季語の霞だと思いますが、たまたま霞が発生しておりその情景を切り取ったものか、あるいは霧のようなものを指している訳ではないのかは筆者に分かりませんが、関心のある人にガイドできる人がいたり、ガイドブックがあったりすると面白いのかもしれません。外国のガイドブックは分厚く文字による説明を好む傾向があるようでもあります。修験道(日本の山岳宗教)や研ぎに関係するというのもポイントで、外国人からみた和を感じさせる要素でもあるのかもしれません。忍者で霞の用語は頻出し、修験道と忍者の関係も示唆されます。松尾芭蕉=忍者説も存在しますね。霧とスモッグの区別は必要な気もしますが、幻想的なイメージの霧はスコッチやお茶や山水画なんかで売りにもなっていると思います。白河の関跡(トリップアドバイザー)参照で、関跡はそれほど開発されていないようですが、関が原観光があるなら、白河の関観光があってもいいような気もします。特定の場所に限らず、分水嶺/関東と東北の境というテーマで適地を探す発想があってもいいと思います。図で解説!雨の分かれ道「分水嶺」とは?知れば知るほどおもしろいその秘密(YAMA HACK)参照ですが、同じ東北で山形県山形市堺田の分水嶺なんかは広場が整備されており、松尾芭蕉も泊まったという封人の家(最上町)(国境を守る役人の家)があるようです。分水嶺と言っても同じ太平洋岸ではありますが、東北と関東の境というのが重要だと思います。

東北とは?を考えていて陸奥/東山道の歴史を見る中、やはり現代におけるメインストリートは白河に始まり青森に到達する阿武隈川~北上川~八戸・青森ラインなんだろうと思いました。とにかく人口密度が比較的低いところがポイントですから、勿論渋滞する場所もあるでしょうが、ここをドイツのアウトバーンのように飛ばせるポイントに出来ないかとふと思いました。ドイツのアウトバーンもいろいろ誤解はあるようですが、何処でも無制限という訳ではなく、渋滞する箇所では速度制限もあって速度違反すると捕まることもあるようです。速度を出せるスポーツカーも速度を出せなければ宝の持ち腐れとも考えることが出来ます。あるいはドイツのスポーツカーが強い理由もアウウトバーンにあるのかもしれません。アウトバーンは無料ですが、有料の日本の高速道路で出来ないはずがないんじゃないでしょうか。富裕層消費の拡大も日本の消費拡大の鍵を握っていると思います。あるいは北海道や南九州が対象であってもいいかもしれませんが、特区など検討されてもいいのでは。場所はやはりトンネルが少ない区域が対象になろうかと思います。

次いで東北第二の都市とも言える郡山都市圏。ここは交通の結節点「陸の港」として著しい発展を遂げた勢いのある都市です。郡山の名は古代安積郡の郡役所に由来し清水台遺跡がその跡だとか。当時としては大変珍しい瓦葺きの建物があったようです(郡山の遺跡 文化財調査研究センター)。安積疏水による開拓や水力発電が発展の礎だったとも。コンベンション都市でもあり、新たな産業の振興に勤める産業都市でもあるようです。音楽都市としての売りもあるようですが、コンベンションとのシナジーを考えても、生産と裏腹で需要拡大を考えても(お金を貯めても消費か投資に繋がらなければ意味がありません。守銭奴は後世に埋蔵金を残すぐらいしか役に立たないでしょう)、音楽都市としての消費拡大で文化振興をそのまま推進してもいいんじゃないかと思いました。スポンサーあっての文化です。東北や関東から同好の士も集まるでしょうし、音楽が復興の支えという話もあります。音楽都市・グラスゴーから!|トピックス|創造都市・浜松を参照すると、浜松なんかがそういう発想で音楽都市をやっているようですが、>音楽都市としてのグラスゴーの特徴はスコットランド地方に残るケルト文化をベースとした音楽であり、毎年冬に開催されるケルティック・コネクション音楽祭は市街地のコンサートホール、クラブ、劇場等を舞台に2週間以上街中が音楽一色で染まる一大イベントとなっています。その他にもバグパイプの音楽イベントとして「世界パイプバンドチャンピオンシップ」や「パイピングクラブ」も開催されています。・・・とのこと。東北で音楽と言うと、津軽三味線をイメージしますが、津軽以外がやっちゃいけないってこともないような気もします。伝統楽器と言えば、伝統材料ですが、現代的な材料に変えるって手も考え方もあるような気はするんですよね(あくまで選択肢です)。当地じゃないってことで。意外とその辺が飛躍のネックになっている可能性もあるような気がしないでもありません。それはともかく和楽器で現代的な音楽をやってもいいような気もしますし、東北の音楽の特徴なるものがあるか分かりませんが、音楽都市が新たに特徴をつくってもいいはずです。和楽器で太鼓や三味線など人気集団はありますが、コンサートホールのような場所と結びつかないような気がしており、せっかくですから、和楽器と言えばあの都市みたいな都市があっていいような気がします。京都がそうなのかもしれませんが、あそこはオーバーツーリズムですし、伝統と格式の縛りがあるような気もします。オペラハウスなんかがありますが、演劇と音楽も切っても切り離せません。日本の音楽はリズムがないとも言いますが、不審に思うのは拍子(ひょうし)という言葉は伝統的にあるということで、能楽用語で8拍を一単位とするリズム構造を八拍子(能楽用語辞典)というようです。新しい産業に取り組む郡山ならでは?

県都福島市のシンボル的存在が信夫山(しのぶやま)。福島盆地の中、全国でも珍しい街の真ん中に浮かぶ小山で所謂ランドマークですが、標高が275mあって、愛媛県松山市のランドマークである松山城がある城山(勝山)が131mですから、2倍超の高さがあることになります。登山趣味の入口として親しまれ、山岳信仰の対象として、出羽三山の分社があり、熊野山、羽黒山、羽山の三峰で構成され信夫三山とも言われます。今年は開催が終わっていますが、信夫山公園桜まつり(るるぶモール)は大勢の人でにぎわい、山頂からは福島市内を一望でき、福島市民に親しまれる山のようです。歌枕として詠まれる対象としては福島県随一で伊勢物語でも詠まれているとか(信夫山 - 蝦夷・陸奥・歌枕)。信夫は当て字で本来「忍」「偲」「恩」とも言われ、しのぶという語感の響きは恋しのぶ・しのび逢い・しのび居る・耐えしのぶ・忍び泣き しのび足・しのび音・しのび寄る等王朝・鎌倉時代にかけてもてはやされたそうで、アニメ映画となりのトトロ主題歌のモデルになったり、何かと文学の対象となる山のようです。現在ではガイドセンターがあって、フォトコンテストが開かれたり、シンポジウムが開かれたりします。

江戸時代から300年以上の歴史がある信夫三山暁まいりを参考に1970年から夏祭り「福島わらじまつり」が行われており、開催翌日に日本一の大わらじと絵馬はスタッフ有志により信夫山羽黒神社へ奉納されます。東北6県都の代表的な6つの夏祭りを一同に集めた東北絆まつり(東北六魂祭)の一角。草鞋(わらじ)とは、稲藁で作られる日本の伝統的な履物(サンダル)の一つで、現在では使用されなくなったものの、キーホルダーになるなど日本人に馴染みがあります。由来・語源辞典によると、「わらぐつ」から、「わらうづ」→「わらんづ」→「わらんじ」と転じて、「わらじ」となったものらしいのですが、そう考えると、藁沓(わらぐつ)以外のクツもあったということになります。調べてみると、「烏皮 (くりかわ) の履・浅沓 (あさぐつ) ・糸鞋 (しがい) ・麻沓 (おぐつ) ・錦鞋 (きんかい) など、革・木・絹糸・麻・錦・藁 (わら) などで作った。」(デジタル大辞泉)のだとか。何処かにわらじとか、かかし(鳥獣を避けるため獣肉を焼き焦がして串に通し、地に立てたものもカカシと呼ばれるため、直接の語源は「嗅がし」ではないかとも言われる)やニオ(刈り稲を円錐形に高く積み上げたもの。稲むら。稲にお)、注連縄とか、日本の中心文化である稲作にまつわる民俗や民具・技術や風景に関する博物館があってもいいような気はします(田畑 吟行用語集)。まぁ、「食と農」の博物館 | 東京農業大学岩手県立農業ふれあい公園 農業科学博物館農場博物館 -東京大学生態調和農学機構(わら細工・クラフトのイベントがあるようです)や秋田県立農業科学館があるようですが、農業だと対象範囲が広過ぎるような気もしますし、博物館におけるデジタルアーカイブをどれだけ進展させているのかなと思わないでもありません。紙の資料があってもいいと思いますし、公金投じて博物館をやるのであれば、研究成果を広くアクセスしやすくして、社会に還元してもいいんじゃないかと思います。それで関心を持つ人が増えたところで博物館に訪れる人が増えるみたいな。そうやって知識にアクセスしやすくしておけば、それを利用して生産性を高める人もいるんじゃないでしょうか。靴なんかも同様で日本の伝統衣服で言えば、青梅着物博物館があるようですが、デジタルアーカイブという観点など物足りないところがあるような気がしますし、皇室や江戸時代の貴重な衣装(着物)を展示しているということですが、日本文化と衣服という観点で研究拠点になったり、知識を広めたり、体験観光できたり、何かいろいろ出来るような気はします。予算の問題かもしれませんが。やりだしたらキリはないでしょうが、日本の伝統的衣食住の研究が進み広く公開されるなら、日本ならではの強みに繋がるような気もします。

信夫山は岑越(みねこし)山とも言われたそうですが、これは少し不審です。玄関口の白河方面から見て岑(峰)を越したところに岑越山があるという訳ではないからです。岑は岑越山のことであるというのが一般的な説のようですが(ネットで見かけましたが)、そんな日本語は無さそうです。少しでも楽をするためには山は回避するべきで(新幹線や国道が信夫山を貫いているようで、撮り鉄の対象になったりしているようですが)、わざわざ山を通るとは思いにくいところでもあります。峰を越したところが峰越で峰越にある山が岑越山だと考えるのが自然です。そう考えてみると、東北(陸奥)の中心地である多賀城(宮城県仙台付近)や出羽柵(山形県庄内地方)の両者から見て、峰を越えたところがあるのが峰越ではないかと思えてきます。特に概ね陸奥の国として同一ですし、国衙から見た名前がついて不思議がありません。阿武隈川が福島県ー宮城県を貫き、ピンと来にくいところはあるのですが、古来より奥州街道では(信夫山からやや北にある)国見峠長坂が難所で、道の駅国見「あつかしの郷」と千年のまちくにみ巡り(JR東日本)によると、「松尾芭蕉の「おくのほそ道」でも険しい道のりと記された国見峠の街道跡です。長坂をのぼると、平場には茶屋が2軒あったと伝わり、多くの大名・旅人が行き来した当時の面影を今に伝えています。」とあり、交通の往来があって、印象的な難所だったようです(距離の面で言えば、出羽に向かう峠の方が近いです)。信夫郡一帯は当初は東北の最前線だったようで、そこから峰を越したところに目立つ山があったともとれます。

国見町ですが、福島市都市圏ということで、阿津賀志山防塁なんかも面白いと思います。奥州平泉政権の防塁ですが、(世界遺産に入っていないようですし)もしかしたらちゃんと残っていないのかもしれませんが、山腹を始点に3km余にも達し、延べ40万人を動員し築造されており、それだけのものを造る力があったということで、目立たない印象ですが、東北を代表する文化資産と言えるような気もします(国指定史跡 阿津賀志山防塁 南奥羽歴史散歩)。東軍勝利を聞いた伊達政宗も上杉領に攻め入る際に阿津賀志山に本陣を置いたようですが、より高いところに軍を置くのが有利で東北勢の最前線となりやすい地形なのかもしれません。

以上ですが、全国トップクラスの出荷量を誇る桃は、福島市を代表する果物ですし、吾妻小富士(アズマは東夷(アズマエビス)など、ヒガシ(東)を表しますが、ヒムカシから転じたヒガシと違って、一般的に納得いく由来がないようです。関東・東北を表す言葉のようですが、ズマは褄で端 (つま) でしょうから、アが問題ですが和語としての意味が吾で我のようですから(「ア」の意味が理解できないと日本語の「意味の説明」ができない 「万葉仮名の六十二個」の一音節語の解説コーナー。)、我が端のことだと考えると、関東・東北のことでいいんだろうなと腑に落ちるものがあります(そう考えると、阿蘇は我が襲(ソ)ですし、阿多は我が多(氏)/田で阿部/安倍は我が部(ベ)ということになります。安倍に時々触れるのは古代史(東北や陰陽道)をやると止むを得ないというだけで全く他意はありません)も独立峰の名山と思いますが、この辺として白河に始まるみちのくの始まりであるところの福島県中通りに関する記事をひとまず終わりとします。

くるまの遊園地 エビスサーキット)D1グランプリの開催や年に3回ドリフト祭りが開催されており、外国人旅行者も訪れるなど、注目があるようです。日本の「ドリフト文化」が世界で注目があるとか。

次いで会津。独特の歴史・文化で観光資産がある地域です。観光と言いますと、今は発信より「やるべきことをやる」「整備だ」というデービッド・アトキンソンさんの意見(MSNニュース 2019/05/23)という意見に注目しています。やるべきこととは?という話ではありますが、筆者としては今の「解説」に多々疑問があるので、自分なりの視点で理解を深めることがやるべきことなのかなと思っています。

会津の縄文時代は阿賀野川流域で火焔土器があるようです。どうも会津は北陸と関東の出会う場でもあって、早くから南回り文化圏だった気配があります。越後―会津間は勾配・傾斜がきつくない特徴があって、縄文時代人が住みやすい土地だったんじゃないかと思います。豪雪地帯だとすれば、逆に食料保存の技術や縄文農耕は発達したんじゃないでしょうか。

会津の歴史 旧石器・縄文・弥生・大和(古墳)時代(会津若松観光ビューロー)

>縄文時代:はじめの頃は東北や北海道に近い形の土器が使われていたが、次第に関東や北陸地方の影響を受けた文化が進み、土器の種類も増え美しい文様をつけたものが現れる。

氷河時代の旧石器時代以来、日本が人類の発祥でなければ、日本に人類が辿りつくルートは概ね3つで、その内、ほとんど南は難しいですし(大型動物を追う旧石器時代にも関わらず、島嶼づたいになってしまいます)、概ね西と北の2つの潮流を押さえておけば良いようです。動物もプラキストン線による違いがありますね。縄文時代の東日本と西日本の違いもよく知られますが、やはり気候の違いは生物相の違いで文化を分けるところがあると思います。事実、沖縄方言は日本語のバリエションですが、アイヌ語と日本語に互いの痕跡はあれど、言語学的に系統が違うと言われます。つまり(縄文土器で区分される)縄文文化とは元々異質な2つの潮流の相互作用で生まれたとも言えるのではないでしょうか?どちらも先住民ですが、その来歴は違っていて、にも関わらず、土器という形式ではそのふたつの潮流は必ずしも区別できないという意味です。土器の形式に言語学的痕跡がある訳ではありません。いろいろ誤解があるようですが、縄文時代が単一文化とは思えません(答えを見た回答のようなものですが、アイヌと日本でその来歴が違うからです)。それはともかく会津は縄文時代当初、北方文化圏だったようですが、次第に関東・北陸圏と言える状態になったようです。その象徴が火焔土器という訳ですが、弥生時代は会津にも到来し、古墳時代の比較的早期に大規模前方後円墳が登場しました。

勿論、福島が東北でないという意味ではありません。その逆でもっとも早い東北が福島だったというのが筆者の考え方です。日本は北上し、東北は拡張していきます。東北の2代潮流に出羽(日本海側)と陸奥(中央・太平洋側)がありますが、出羽が新潟の延長線上にあると捉えられれば、会津が阿賀野川流域圏で新潟の影響を強く受けていましたから、わりと同じものとみることも出来そうです。元より山脈を越えれば出羽と陸奥は隣同士です。

新潟の火焔土器が派手は分かりますが、そのバリエーションにも見える王冠型土器も味わい深いものですし(拙稿)、会津は会津で阿賀野川圏として、あるいは関東と出会う場として、違う切り口で、かの有名な火焔型土器/王冠型土器を常設的に研究できれば面白いのかもしれません。それだけの出土があるかは分かりませんが。

前方後円墳で言えば、会津の前方後円墳はかなり早いことで知られます。山形(置賜地方)や宮城も割合早く大きいのですが、会津を経由したかもしれません。関東より早い感じで、北陸/新潟/阿賀野川経由で関東に南下も考えられ、これが北陸に派遣されたという四道将軍の大彦や稲荷山鉄剣銘を想起させるものがあります。

亀ヶ森古墳(4世紀後半/墳丘長:129.4メートル/福島県河沼郡会津坂下町大字青津/東北地方第2位・福島県第1位の規模)
会津大塚山古墳(4世紀末/墳丘長114m/福島県会津若松市一箕町/東北地方第4位・福島県第2位の規模)

やはり年代順で阿賀野川を伝って大和朝廷の勢力圏に入った感じです。これは卑弥呼の100年後で(九州説とは?・・・神武東征を踏まえて東漸説では全然なく、卑弥呼の時に大和が九州に入ってない説です)、被葬者は不明ですが、時期は神功皇后や応神天皇のあたりになります。神功皇后以前に成務天皇の志賀高穴穂宮があって、比較的早期に北陸から新潟に到達する動きがあったとも考えられます。前方後円墳は特に地方においてはポツンと巨大なのがあって、わりあいそれきりになりますから、(特に証拠がない限り)以降はそのまま大和朝廷の勢力圏と見ることも出来ます。

気になるのは青津という地名で、後の時代の飯豊青皇女(飯豊天皇)との奇妙な符合です。会津には山岳信仰で飯豊神社がありますが、修験道と絡めて山岳信仰文化は(土俗というより)わりあい日本的なものです。耶麻郡・山都町の地名もありますが、これは万葉仮名・古い当て字の残存で、やはり日本文化/大和文化との深い関連を感じさせるものです。会津という地名に関して言えば、阿賀川・濁川の合流点付近の津を表すとも考えられます。つまり、福島県河沼郡会津坂下町大字青津あたりが会津地名の発祥の地かもしれません。濁川は置賜方面に向かうルートとして重要で、置賜地方に会津同様、早期の前方後円墳は見られるようです。青は藍に通じるものもありますね。

前方後円墳ひとつでどうなるというものでもないでしょうが、きちんと整備してちゃんとした解説でもしておけば、観光地のひとつになるかもしれませんし、会津・福島の貴重な文化遺産と思っています。神社との関連も十分考えられるでしょう。


飯豊山神社.jpg

飯豊山や神社の由来は諸説あるようですが、筆者は記紀・神道の立場から考えてみたいと思います。

> 陸奥国風土記逸文「この山は豊受比売神の神域であった。(履中天皇の皇女である)飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納した。それでこの山を飯豊と呼ぶようになった」

飯豊もそうですが、青津・山都・前方後円墳(亀ヶ森古墳)含めて、偶然の可能性は全くないと思います。(履中天皇の皇女である)飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納したのが山名の由来で、イイデサンが通常の読みのようですが、福島県会津地方では「いいとよさん」とも呼ぶようで、こちらが本来の読みだと思います。名前が変った理由は定かではありませんが、イイトヨ=フクロウで舶来の不吉のイメージでトヨに通じるデに変えたのかもしれません。特別フクロウに似ている山でもありませんし、総合的に考えて、飯豊青皇女の由来すると考えるべきで、従ってというなら、フクロウの意味もあるのかもしれません。その前段階として神功皇后や応神天皇の頃に大和朝廷との繋がりが深まっての奉納だったんじゃないかと思います。

神功皇后紀に天照大神などの祭祀の記述はあるのですが、日本書紀に豊受比売神は登場しません。ただ古事記序文に崇神天皇の祭祀は称えられており、それは漢風諡号にも現れていると思いますが、崇神天皇の娘の豊鍬入姫命こそ台与(トヨ)で豊受比売神のモデルのひとつではないかと思っています。


続く時代の会津で際立つのは恵日寺(真言宗豊山派)のようです。磐梯山や猪苗代湖の近くですが、慧日寺は平安時代初め、807年に法相宗の僧・徳一によって開かれ、隆盛を誇っていたようです。平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなるようですが、源平合戦で城氏が平家方について、一時衰退するとか。やはり新潟との関係が意外に深くて、地図で一目瞭然ですが、阿賀野川流域の山地の低さが影響していると言えるのかもしれません。

>慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。

磐梯山慧日寺資料館もあるんだそうです。考えてみれば、福島県は名山が多いような気もしますね。

>慧日寺の開基は806年に磐梯山が噴火した翌年



>元は「いわはしやま」と読み、「天に掛かる岩の梯子」を意味する。

一目見て何が岩の橋かと思いますが、恐らく噴火・噴石が「天に掛かる岩の梯子」なんじゃないかと思います。古くは病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま)とも呼ばれたそうですが、山体崩壊も起こした激しい山のようです。裏磐梯からはその跡が見えるとか。日本の伝統的世界観は垂直型構造の世界観と言われ、高天原と黄泉国、根之堅洲国の中間に存在するとされる場所が豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)ですが、地上世界から高天原に向けて「いわはし」をかける山が「いわはしやま」=磐梯山ではないかと思います。

こういうのって観光にあるいはマイナスなのかもしれませんが、やはり噴火する山は噴火するんで、正しく怖がる必要があるんじゃないかと思います。昔の人は分かっていた。やもうさん。わざらわしやま。非常に美しい会津富士ですが、美しい花には棘がある、磐梯山には裏がある。火山と言いますと、世界ではマグマを見よっていう切り口もあるらしいです(火山のパワーを感じる、世界の「マグマスポット」! トリップアドバイザー)。マグマは熱すぎて痛いんだそうですが、危険を前提にした観光という切り口で整備したら面白いような気がしますね。

そもそも磐梯山の噴火がきっかけで会津の古代史・中世を代表する慧日寺が開山したようですし、元々修行の山だと思います。会津富士美しいねだけでは逆にもったいないし、差別化も出来ません。ただ福島県東部の阿武隈高地は逆に穏やかで知られます。火山って(カルデラ火山とか地質学的スケールで噴火するのもありますが)基本的にはそんなに広範囲に影響を及ぼすものではないので、やはり正しく知ることが重要です。噴石を想定したシェルターすら、やりようによっては独特の観光資源になる気もします。

続いて中世・近世史を簡単に概観しておきます。会津は結構歴史的に重要な位置を占めますので、歴史の流れを押さえておけば、観光もより楽しめると思います。

蘆名氏(丸に三引両)

鎌倉時代の有力御家人三浦氏(三浦三つ引)の出で、つまり遡れば平氏で神武天皇の子孫ということになります。室町時代には京都扶持衆として、自らを会津守護と称していたようです。 戦国時代の蘆名盛氏(会津黒川城 (のちの若松城) の時代が最盛期で、その菩提寺は曹洞宗のようですから、鎌倉(関東)と共に北陸と結構関係が深いのが会津という土地のようです。奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原(磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町))の戦いで大敗して、蘆名氏の時代は終わりを告げることになります。

蒲生氏(近江国蒲生郡)

蒲生氏郷(がもう うじさと)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えて活躍したことで知られる南近江出身の武将で、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主となっています。キリシタン大名ですが、利休七哲の筆頭にまで数えられた文化人でもあります。妻は織田信長次女ですが、戦国時代としては珍しく側室を置かなかったようです。娘が前田利政正室、南部利直正室になっており、伊達政宗を抑える大将としての会津移封でした。なお現代の南部家は後陽成天皇(1586年~1611年)の男系子孫で旧宮家より系譜上で皇室に近いということになります。近江の武将らしく建築も得意だったようで、黒川城を改築し、氏郷の幼名や蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付け、あわせて町の名を黒川から若松へと改めています(伊勢の松坂も同じく蒲生氏郷の命名ですが、ちなみに伊予勝山を豊臣秀吉の子飼いの武将加藤嘉明が松山と改名しており、松地名は当時の流行の吉祥地名です)。政策的には商業を奨励したようですが、今の会津を最初に形作ったのは蒲生氏郷と言えると思います(蒲生家は後に松山に移封されており、その後伊勢桑名の松平家が入ります)。蒲生氏郷の死後、嫡子の蒲生秀行(13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫(正清院)を正室に迎えたところ、蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封したようです。秀吉が家康に通じることを警戒したのではないかと思います。

上杉氏(越後春日山)~蒲生氏~加藤氏

代わって越後の代表的戦国武将上杉謙信の養子の上杉景勝(長尾顕景)が入部していますが、(越後に通じる)阿賀川畔の神指ヶ原に神指城の築城を開始しています。秀吉の没後に徳川家康の会津征伐が始まり、西軍が呼応した形で関ヶ原の合戦に繋がります。西軍は敗北し、上杉家は米沢藩30万石へ減封されました。景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入部しましたが、当主が若くして亡くなる事態が続いて、伊予松山で蒲生家は断絶します。代わりに加藤嘉明が入れ替わりで会津に入部しますが、こちらも長く続かず、保科正之が入部し、会津松平藩がここに始まります。

保科正之/会津松平藩

保科正之は徳川秀忠の四男(庶子)で3代将軍徳川家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなしました。保科正之の六男の正容(まさかた)の代に、通字を保科家の「正」から「容」に改めることになり、松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を許され、名実ともに徳川一門(御家門)となります。幕末の京都守護職を務めた佐幕派のキーマン9代松平容保(かたもり)は水戸藩主徳川治保の男系子孫で、現在の徳川宗家は容保の男系子孫になります(徳川家は宗家→紀伊家→水戸家と移り変わります)。鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北、その後の東北戦線において、会津藩は奥羽越列藩同盟の一角で重きをなし新政府軍に抵抗しましたが、結局会津戦争に敗れて戊辰戦争は集結に向かいます。

不思議な二重構造のらせん階段を体験!国の重要文化財(会津若松観光ナビ)

高さ16.5m、六角三層の会津さざえ堂は、寛政8年(1796年)、福島県会津若松市の飯盛山に正宗寺の住職であった僧郁堂(いくどう)の考案で建立されました。簡易八十八か所巡りみたいなのは結構各所にあると思いますが、2重螺旋のスロープに西国三十三観音像が安置されるその特異な構造が評価されて、平成8年に国重要文化財に指定されています。

蔵の町)喜多方市は飯豊連峰の良質な伏流水を使った味噌・醤油・清酒の醸造業が盛んで(喜多方市の蔵めぐり観光|喜多方 蔵の里(くらのさと)【喜多方市】(喜多方観光物産協会))、周辺農村の物資の集散地でもあった喜多方は、人口4万人に満たない町ですが蔵の数が約2,600棟とも4200棟とも言われ、全国的に稀にみる「蔵の町」になります。日本は木造建築でしたから、火事に強い蔵が重要だったようです。

宮古地区の蕎麦)喜多方市はラーメンで知られますが、旧山都町宮古地区の蕎麦も有名なようです。標高が高く稲作に不向きだったからだそうです(山都そばについて いいでとそばの里 -喜多方市ふるさと振興株式会社)

猪苗代湖)琵琶湖、霞ケ浦、サロマ湖に次ぐ日本第4位の面積を誇る湖で、標高514mの高所に位置します。猪苗代湖はアウトドアも盛んで、猪苗代町には野口英世記念館があることでも知られます。

奥会津)奥会津に押し寄せる外国人、只見線はラッシュ状態(JBpress 2018.12.5)。霧幻峡の渡しも有名ですね。

南会津大内宿)今に残る江戸の家並み。のどかな景色に癒やされる福島県南会津「大内宿」(MATCHA)。会津若松市と日光今市を結ぶ会津西街道に大内宿があります。

尾瀬)尾瀬ナビ(Yama-kei)。2000m級の山に囲まれた標高1400mの盆地で日本離れした雄大な自然を誇ります。

最後に浜通り。これは福島イノベーションコースト構想です。まず廃炉ですが、これは原子力発電所の延長に限界があると考えれば、これから廃炉産業が浜通りに来るなら、地元の大きな産業になるでしょうし、廃炉に関連してイノベーションを起こすことはかなり重要なテーマになってくると考えられます。廃炉作業をするため、安全な原発を延長しないのようなことでは本末転倒で亡国の道と言わざるを得ませんが、それはともかく、廃炉がこれから重要な産業になるだろうことは間違いないところだと思います。新設が難しいとしても海外の原子力発電所もある訳で、限られた資源エネルギーですから、原子力に一定の期待があるのも当然だと考えています。建設当時の設計図が無く解体作業用ロボットが作成できない、そもそも廃炉を前提とした造りではない等で作業に大きな支障が出てきているケースもあるようで、そうしたことに関して研究と対策が必要なことは言うまでもありません。新しい原子炉にせよ、廃炉を前提としたシステムに研究の余地はあるはずです。放射性物質の処理に関しての研究も考えられますが(言いにくいことをあえて言えば、無論十分対策を施した上で、一時保管の場を原発か原発付近の安全な場所としておけば、様々な問題がクリアされます)、放射線からの防護や放射線と健康に関しても、研究の余地はあるかもしれません。

次いでロボットです。>物流やインフラ点検、大規模災害などに対応する陸・海・空のロボット一大研究開発拠点である「福島ロボットテストフィールド」を整備し、ロボット産業の集積を図ります。・・・日本の発展に欠かせない今後有望な領域だと思います。物流に関して言えば、陸路で言えば郡山の現場との繋がりが成果を生むかもしれませんし、空路で言えば、いわき市なら日本最大のハブ空港(成田・羽田)との距離がそう遠くありません。港は浜通りに重要港湾が相馬港・小名浜港とありますが、国際拠点港湾は仙台塩釜港・千葉港・新潟港が近隣で、やはりイノベーションを意識するのであれば、国際戦略港湾の京浜(東京港・横浜港・川崎港)が重要かもしれません。インフラ点検のイノベーションが今後重要は当然ですが、浜通り特有の環境を考えるとヤマセでしょうか。これがインフラにどういう影響を与えるかよく分かりませんが、対策と原因追求は一体であり、対策が出来るなら長寿命化も可能になってくるんじゃないかと考えます。話はやや逸れますが、これは東北の農業なんかにも関係ない話ではないのかもしれません。大規模災害と言えば、震災・津波、あるいは火山です。ロボットは元来日本の得意分野であり、原子炉作業との関係で浜通りに必要なものではあって、IotやAIの活用も視野に入れながら、イノベーションが生まれることが期待されると思います。遠隔操作というテーマに関して言えば、防犯カメラの時代ですし、広がりはいろいろありそうです。PCの世界では相談窓口で遠隔操作が行われるなどの活用がありますが、ロボットというフロンティアでそれを行うことに可能性がありそうです。

次いでエネルギーですが、原子力災害にあった福島だからこそ、新エネルギーが重要という発想だと思います。テーマは再生可能エネルギー・水素エネルギー(天然ガス)の研究と復興に関連してスマートコミュニティが研究されているようです。いずれも有望かつ必要と思いますが、後者にやや関連して気になっているのが、空き家問題です。これは日本の課題でもありますが、戻らない選択をした方も少なくないという話で考えておかねばならない課題です。マイナスの話題を考えるのは気が重いものですが、だからこそ開拓の余地があると考えることが出来そうです。再生可能エネルギーに関して言えば、津波に関連して山で風力や太陽光・バイオマスを考えるべきなんでしょう。阿武隈高地はなだらかな山稜、緩斜面がひろがっており、研究の適地かもしれません。

農業はICT(情報通信技術)を活用した温度・湿度の管理や新たな水産業・見せる農業だそうです。温度・湿度に関して言えば、インフラ点検(長寿命化)にも関係すると思いますが、個人的には水産業は逆手にとって漁業しないこと(あるいは減漁業)による回復をテーマにすれば面白いんじゃないかと思います。あるいは海底の除染を研究テーマにしても面白いかもしれません。他には通常食用としない魚の研究や新しい漁法の研究です。あるいは漁業法改正を意識したテーマかもしれませんが、とにかく防災や事故の観点から福島での漁獲を増やすという発想からは少し距離が置かれるべきです。見せる農業に関して言えば、体験農業だったり伝統農業だったりするんでしょう。福島の農産物が問題ないというアピールに繋がる意味があると思いますが、イノベーションとの絡みで言えば、ロボットを観光にも利用する動きが面白いかもしれません(さがみロボット産業特区で農業と観光産業用のロボットをやるそうです)。テーマとやや外れるにせよ、環境、教育と絡めることも考えられるでしょうか。

環境・リサイクルに関して言えば、火力発電所から発生するフライアッシュ(石炭灰)を用いた土木資材の製造をするようです。いわき市が火力発電所で知られますね。地質的に(比較的安定な地盤で従来地震による被害の少ない地域である)阿武隈高地で都市鉱山が出来ないかという発想も有り得ると思います。

産業集積は>福島ロボットテストフィールドや福島浜通りロボット実証区域で様々な実証実験を実施。産業集積を促進するため、企業立地セミナーや農林業等の先端技術を体験できるフェアを実施。・・・浜通りだからこそ出来る集積も有り得るのかも知れません(それをするためにはいろいろ区切りをつける必要もあると思います)。ロボットは日本の有望な技術であり、技術者あるいは関連業者が集まり意見交換することで飛躍的な発展が見込める可能性もあります。福島の放射線の問題は既にほとんど無いと言え、福島浜通りにチャンスありだと思います。

教育は「浜通り地域等の高等学校におけるイノベーション・人材育成」「全国の大学等が有する福島県の復興に資する知を誘導・集積」「最先端技術を使った教育活動イノベーション人材の裾野拡大」「ふたば未来学園高等学校開校」ということで福島浜通りで生活し教育を受けることがひとつの売りになるかもしれません。大学の復興に関する知の集積に関して言えば、既に実績が積みあがってきているようです。イノベーション人材を集めるにあたって、一緒に教育をやるというのは大事な発想なのでしょう。教育とイノベーションに関して言えば、「新しいことを考える」ということに過剰に拘るのではなく、普通に資料やデータへのアクセスをよくすることが重要のようにも思います。基本的に学問は同じことを考えるのが仕事ではなく、息をするように新しいことを付け加えるのが習い性であるはずだと個人的には思っており、恐らく特別何かするということではないように思います。また、問題設定(発見)や問題解決が重要であり、比較し差異を見つけることや実践が重要なところもあると思います(分担なくして大きなプロジェクトなく団結は重要ですが(猪突猛進の巨艦大砲主義は必敗というのもあります)、同質性・同調性はイノベーションからはやや遠いところがあるはずです)。

交流人口の拡大は>視察及び研修の需要開拓及び地域住民と来訪者との交流機会の創出のため、視察ツアー等を実施。また、15市町村を始めとした県内外の各種イベントでのブース出展、セミナー等の開催により、福島イノベーション・コースト構想の取り組みを発信・・・せっかく立派なプロジェクトをするのですから、交流の場とすることも大切なことです。イノベ見える化計画・拠点施設等を巡る視察ツアー・Pepper(ロボット)が訪問者に向けた情報発信もあってここでしか体験できないイベントもあるようです。復興に関連して震災の資料館のような話がありますが、忘れないと前に進めないのような話もありますし、イメージの問題もあるかもしれませんが、第一発電所の問題が直ちに解決する訳ではなく、過酷事故を免れた第二の方の見学なんかがやることが考えられてもいいような気がします(既に行われているかは知りません)。

以上です。時間がかかり雑多でまとまりのない感じにはなりましたが、自分の考えること、知ることを詰め込んだつもりです。機会がありましたら、付け足し改訂していくかもしれません。

沖縄を守る人々

2019-04-21 17:37:09 | レビュー/感想
「沖縄を守る人々」(竹中明洋/扶桑社)の感想(ツイッターの再録+α)

2018年1月12日に海上自衛隊は中国との「戦争」に勝っていた。中国初の原子力潜水艦漢級は大きな音を発しますが、後継機の商級はロシアの技術をもとに静粛性を格段に高めています。1月10日から11日にかけて商級が日本の領海の接続水域に侵入。これは重大な挑発行為に当たります。海自P3Cはこれを完全に追尾し、ついに12日午後中国原潜は公海上で浮上し五星紅旗を掲げました。P3Cの哨戒力は世界一とも言われますが、その哨戒力は日本人の職人芸に支えられているとか。沖縄の安全保障の実態を知る一冊。これを読まずして語る勿れ。

辺野古ですが、将来的に軍民共用の可能性を探ることも出来るかもしれません。沖縄における空港の需要は高いですし、北部の空港が使えると非常に便利です。道路も造ってますが、沖縄は渋滞しがちと言いますし、普天間移設抜きで考えても拡張はした方がいいんじゃないかと思います。港で言えば、那覇軍港の移設の話もありますが、日本の資源を狙っている盗賊団を追い払うための拠点が気になりますね。まさか名護の漁港を使うという話にはならないんでしょうが。平和に関して言えば、盗賊団の侵入に対してガードマンを置かない態度が盗賊団の暴走を招きます(例えば小笠原の珊瑚)。

沖縄の島々(尖閣諸島)をうろつくならず者がいるようですが、「沖縄を守る人々」(扶桑社)31p~33pによると、1987年に航空自衛隊史上で一度だけスクランブルで出動した戦闘機が警告射撃したことがあるようです。ただ、実はこの時空自の戦闘機に領空侵犯機を撃墜する権限は与えられていませんでした。(普天間移設にも係る)守屋武昌氏の日本防衛秘録によると、撃墜する権限に関して防衛庁でも反対する異論が噴出したようです。これを収めたのが大蔵省から出向していた畠山防衛審議官でパイロットを危険に晒して理想論を言うのはシビリアン・コントロールではないと指摘したようです。結果、国際基準同様に国籍不明機の飛行方向に政治、経済、社会生活上、重要な施設がある場合は射撃するとなったようです。あの国の海洋侵略を同列に扱っていいか分かりませんが、退去してくださいって叫ぶだけのガードマンならば怖くはないんで、大丈夫かなとは思ってます(放水はあるにせよ)。海保の基地は沖縄本島西那覇市の新港にあるようですが、海自の存在感が薄いような。海保・海自の連携が日本の海を守ると思うのですが。尖閣諸島は石垣市ですが大正島なんかは古くは久米赤島といって、尖閣諸島の他の島からはかなり離れており、宮古列島の多良間島・水納島からはほぼ真北に位置します。

以上、ツイッターの再録。以下、気になる箇所をピックアップして感想。

宮古島の下地島空港に関しては軍事利用はしないとする屋良覚書があって、政府見解では県に権限があるようです。ですから、左翼運動系知事が県知事をやる間は1ミリたりとも動かないと思います。ですから次の県知事選で安倍自民党のような保守派が推す知事が勝つまで、軍民共用の話は動かないでしょう。県知事選で佐喜真候補を推してくれた宮古島市の方には申し訳ないんですけど、反対派が権限を握っている以上、少なくとも軍民共用の話は手も足も出ないとしか言いようがありません。宮古島市はクルーズ船が伸びているようですが、クルーズ船が伸びているところは博多・長崎・那覇で中国からのショートクルーズが伸びており、数の割には地元にメリットがないという指摘もあります(クルーズ船観光客の行動に関する考察 嘉瀬英昭 高千穂大学商学部)。観光政策に詳しい宮崎県選出の自民党の武井俊輔議員に愛媛県の勉強会で教えてもらったような気もしますが、クルーズ船にそれほど大きな経済効果がある訳ではないようです。

その時はないよりあった方がとか思っていたのですが、今回の補選でクルーズ船政策を考えるに当たって、「クルーズ船寄港が大幅減 石垣港」八重山毎日新聞社(2018年12月28日)のようなニュース(知事選で石垣島は伸び悩み、陸自配備で苦戦してます)を振り返り、宮古島のクルーズ船増加と弾薬庫の件を意識すると、中国のショートクルーズが沖縄で増えることと安全保障政策の進展は普通に負の相関関係があることを強く意識せざるを得ません。他のところならまだしもなんですが、沖縄は難しいなと改めて思ったところです(別に筆者が選挙戦で中国推しをした訳ではありませんが。最終的には知事選で勝たなければ政策が動かないことを強く意識しており、知事選で勝つということは安全保障政策の足を引っ張らない知事に勝ってもらうということなんで、この点に関して(中国推しをしなかったことについて)反省点は全くありません)(補選は左翼運動家が当選)。今にして思えば、さすがに専門分野がある政策派の議員さんの言うことは為になるのであって、もうちょっと何とかならなかったかな(何故中国推ししないのかもう少し説明できれば良かったか)と思わないでもないですが、まぁ観光政策を後回しにしたのも故無いことではないですし、選挙区のことは選挙直前に力を入れるしかないんで、まぁこの辺のことはしゃあなしレベルとやはり自己弁護しておきます。

陸自与那国島配備のケースですが、家族持ちの隊員向け官舎は島内の3つある集落にそれぞれ分散されて設置されたため、統合が検討されていた小中学校が維持され、祖納集落にある小学校では異なる学年が一度に授業を受ける複式学級が解消され、メリットは予想以上だったようです(54p)。過疎地で自衛隊はプラスの側面が基本的に大きいところはあると思います。沖縄も例外ではないようですから、今後も住民の方の理解が得られればいろいろな展開もあるんじゃないかと思います。また、地上戦の経験から軍事的なものへの抵抗があるようですが、2等陸尉がハーリーに参加する等、自衛隊は「思った以上に溶け込んでくれている」と町長に評価されたようです(54~55p)。ハーリーに関してよろしければ拙稿「ハーリーブニ(ハレブネ/競漕舟)の沖縄(糸満)文化(小舟を並べて漕ぎ走らせくらべがフナハラシ)と龍舟(龙舟/lóngzhōu/ドラゴンボート)の中国文化

陸上自衛隊の重要な仕事に不発弾処理があって、国内に4つある不発弾処理隊のなかで、第101不発弾処理隊(那覇駐屯地)は群を抜いて出動回数が多く、全国の約8割を占めるとか。自分(日本軍)が撒いた種とは言え、危険な仕事に頭が下がります(59p~62p)。自衛隊を違憲の疑いありとし、安全保障の議論・国の最高法規である憲法の議論を然したる理由もなくただただ停滞させている左翼とは一体何なのか。溜め息しか出ません。

NHKが復帰翌年の73年に県内で実施した調査で、自衛隊が「必要」と答えたのは22.9%。「不要」は60.1%に上ったのだそうです(64p)。今はさすがにそういうこともないんでしょうが、唯一の地上戦を経験した沖縄の軍事に対する厳しい姿勢が伺えます。沖縄を守るために安全保障があるのであって、理解を広げる活動をしていかなければなりません。残念なのは、基地負担の軽減を進める現行案に対する理解が広がらないことです。沖縄を牛耳る左派マスコミが問題なんでしょうが、しばらくは安全保障政策に関して理解を広げる活動に専念せざるを得ません。安全保障政策に対する国と地方の対立の解消が政策を加速させる前提は当然です。希望は八重山にありが筆者の信念です。

本土復帰(1972年5月15)後の1977年、復帰運動の中心だった沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)はその役割を終えて解散しました(71p)(復帰協は沖縄自由民主党を除く各政党と、沖縄教職員会などの諸団体が母体となって結成されましたが、ベトナム情勢の悪化の世界的情勢を受け、復帰運動は反米・反戦色を強めるようになったようです)。復帰後に自衛隊は復帰協の反自衛隊闘争をよそに民生協力を地道にこなしていったようで、米軍や自衛隊に否定的であるものの、極めて現実的な沖縄人の経済重視の意識が反自衛隊闘争を沈静に導いたようです。自衛隊や米軍に対して理解を得る活動が現在無いとは思いませんし、沖縄に対する協力活動が現在無いとも思いませんが、中国が軍事を飛躍的に発展させながら台頭しているのは間違いなく、現在の自衛隊・米軍に対する闘争を何とか沈静化させる方策を考えなければならないと考えています。ただ、難しいのは反対闘争が県庁を乗っ取り、国との対立を煽ってくることであり(負担軽減策を負担増と呼び変える戦術を採っています)、現状で打開策は見えてきません。話し合おうにも同じ事を負担軽減か負担増かで水掛け論になるのですから、もう全く話のしようもないんですよね。憲法改正もそうですが、天邪鬼が日本を滅ぼすような気がしています。

石垣海上保安部のトップの方の説明では、海上保安庁の対応を強調していますが(78p)、筆者は海上自衛隊の役割も重要ではないかと思っています。航空自衛隊のスクランブルと警告射撃もそうですが(実力行使カードが平和を生んだと思っていますが)、このままだと尖閣を盗られる怖さがありますし、現に中国の侵略は止っていません。補選で勝てなかった原因に尖閣での打開策の見えなさが無いとも言えないような気が個人的にはしますね。世論調査でそういうのは出ないでしょうが(左派が勝ったところで打開できる訳ではないからです)(候補者・政党要因は支援者・党員の立場で言及しませんが、普天間移設問題はマスコミの問題もあって負担減を訴え切れなかった。経済・県民生活に関しては知事を取られていることもあって、国政とのパイプの重要性を訴えきれなかったというところでしょうか)。

尖閣での漁が行うことが困難な(81p)モヤモヤ感も安全保障を訴える安倍政権が沖縄で飛躍しきれないひとつの要因のような気がします。

民主党政権時の尖閣体当たり事件に関して言えば(85p)、非常に不味い対応だったとは思いますが、それを現与党が今更訴えたところでどうなるという訳でもありません。現実に沖縄で(民主党系を含む革新派に)知事選・補選と勝てていませんから。

元在沖縄米四軍調整官のウォレス・グレグソン氏の主張(98p~100p)は、基地は日米共同使用にすべきだ、日米が同じオペレーションに同時に参加すべきだで、筆者はその方が無駄がないし、日本・沖縄の安全も高まると考えています。実際問題核抑止力の絡みもあって、完全に自立的な安全保障は非常に困難で、それを目指すと日本・沖縄の安全は低下するのではないでしょうか。地位協定に関しては「日本の憲法と同じ」で出来ないこともないが、どれほど書き直したい人がいるのか、一般に米軍は協力的だと指摘しています。筆者は日本の憲法の改正は重要と思いますが、地位協定に関しては不勉強で今後の課題としたいと思います。

米軍に関連して辺野古を拡張しても、普天間は移設されないというデマがあって、今現時点でも検索すると上位で引っかかりますが(辺野古へ移設しても普天間は返還されない 2019.2.22)、>懸案となっているのは、(4)「普天間飛行場代替施設では確保されない長い滑走路を用いた活動のための緊急時における民間施設の使用の改善」である。・・・ということですから、那覇空港を使わせないと言う「オール沖縄」含む左派が知事である限り返還されないというマッチポンプでしかありません。衝撃だとか何とか書いていますが、基地反対闘争が生き甲斐の(?)自分達が知事をやる限りは普天間は返還されないことから来る誤解なのであって、緊急時に那覇空港が使えればいいだけですから(沖縄・日本を守るのも重要な仕事のひとつである米軍が何故緊急時でも沖縄の民間空港を使えないんでしょうか?逆に基地反対闘争左翼こそフザけるのもいい加減にしろという話です。緊急時でも使わせないよ事故れとでも?あたかも米軍が事故を起こせば反対運動が盛り上がると考えているかのようです)、政府にしてみれば何のことはありません。枠が問題というなら、那覇空港は更なる拡張構想もありますが(大那覇空港構想が浮上! https://saitoshika-west.com/blog-entry-4557.html -再都市化- >オープンパラレル配置の2本の滑走路をフル活用する為には、ターミナルの位置を滑走路の内側に配置する必要があります)、そういうこと抜きに緊急時の使用は認められて当然です。

地盤の関係で辺野古の工事が完成しない説(?)もデマでしょう。工事は続いており、完成の見込みがない工事など有り得ません。外交安全保障は国の仕事であり、国がやると言ったらやりますし、結果的に普天間が早期に返還されるのが現行案です。何処からどう考えても基地反対闘争の遅延行為がなければない方が早く工事は済むとしか言いようがないのであって、牛歩戦術左翼に何故こんなに時間が?と言われても、協力してくださいと言うしかありません。

岩国が軍用機の数で極東最大規模の基地なのだそうです(104p)。人口13万6000人あまりの岩国市ですが、市内の米軍関係者は海兵隊と海軍あわせて1万人を超えるそうです。米軍や自衛隊との共用空港として2012年に開港した岩国錦帯橋空港は広島県西部からも利用客を集め、当初の国の需要予測の年間35万人を大幅に上回り、17年度の利用客は50万人を超えているそう。需要予測を大幅に上回るとは景気のいい話で、その理由はよく分かりませんが、広島観光と併せて岩国錦帯橋空港を利用する観光客が想定以上に多かったということでしょうか。岩国自体も観光地として有名だと思いますが、広島と岩国の中間点に厳島神社(宮島)があって、確かに観光に便利な位置にあります。地方の空港だと大都市ほど過密じゃないでしょうし、軍民共用が進めば無駄がないように思えます。

米海軍の陸上空母離着陸訓練用地に防衛省が取得したのが鹿児島県種子島沖合い12キロの馬毛島です(108p)。国内で2番目に大きい無人島で岩国基地から400キロと近くかなりの適地なのだそうです。着々と日本を守る体制が整備され、なおかつ負担軽減が進んでいるように思えます。

沖縄においても13年に日米が合意した統合計画では、米海兵隊の一部のグアム移転に伴い、嘉手納基地より南の米軍基地が順次返還されることが確認されています(114p)。すでにキャンプ瑞慶覧の西普天間住宅地区は15年に返還されていますが、返還が予定される米軍基地は人口が集中する沖縄本島中南部にあり、沖縄経済の振興に大きい影響があると期待されているようです。特にキャンプキンザー跡地は利用価値が高いとか。計画の着実な実施が重要だと思いますが、受け入れ先のひとつである辺野古に関して言えば、基地反対運動の左翼は工事が終わればいなくなるという地元住民の声もあって、地元はやむなしで概ね容認のようです。また名護市には東西格差もあって、下水道が未整備での東海岸で泳ぐなという地元の声もあるようです。農業と赤土流出の問題もありますが、とにかくお金をかけていろいろ整備しないと青い海を売りにすることひとつをとっても容易に前に進むものではありません。辺野古への移転工事がなくてもいずれはやろうということになるのか知りませんが、寂れてしまっている沖縄北部振興のためには、国費の投入があった方が早いこと疑いありません。誤解してはならないのは、沖縄にはお金を投入しているのであって、他所の県に比べて少なくしか配分してないなんてことは全くありません。ハーリー(沖縄伝統のボート競技)にも米兵は毎年参加しますし、長年共存してきた地元に米兵への偏見はないという話です。アップルタウン(辺野古社交街)はかつて兵士が1万5000人いた頃栄えたそうです。

仲井眞弘元知事が辺野古工事反対派に「普天間はどうするの?」と聞いたら、「辺野古反対」と答えるそうです(123p~124p)。息をするように論点ズラし。ず~~~っと米軍がいる辺野古の拡張工事も何故か(?)新基地建設だと言い張って新聞の大見出しにする癖が抜けないみたいですし。(体力と根気は見上げたものですが)反対運動何とかならないんですか。沖縄の未来のために国と協力できる政治家こそ沖縄県民のためになるのであって、そうした政治家を自民党は送り出さなければならないんだろうと思います。

某国が進出しているのは沖縄県の海域・空域でもあります。日本の防衛のためでもありますが、日本国が某国に軍事をやりたいから侵略してくださいとお願いしている訳では全くありません。沖縄を守るため、日本を守るため、沖縄県と日本国は協調できるはずだと信じます。恐らく先の大戦での地上戦の関係もあって複雑な心理が旧世代ほどあるのかもしれませんが、日本と沖縄の防衛は必ずやらねばなりませんし(侵略者が防衛の準備が整うまでゆっくり待ってくれる訳ではありません)、やらなければならない仕事(沖縄の負担軽減)は早い方がいいことも間違いありません。勿論、足りない部分を補強する必要はありますが(先島諸島等、未整備の空白域が残存します)、必要な防衛力を維持したまま沖縄の負担軽減を実行することは可能ですし、既に実績を着々と積み重ねているところです。

ハーリーブニ(ハレブネ/競漕舟)の沖縄(糸満)文化(小舟を並べて漕ぎ走らせくらべがフナハラシ)と龍舟(龙舟/lóngzhōu/ドラゴンボート)の中国文化

2019-04-21 14:04:06 | 日本地理観光
ハーリーに関する記事に関しては、「石垣島から 海への感謝込めた船越屋ハーリー」(SanekeiBiz 2015.9.4)参照。ハーリーとは「爬竜(はりゅう)」の中国語読みで、沖縄で伝統的に使われてきた漁船「サバニ」のへさきに竜頭、艫に竜美尾の装飾をつけた船が祭りで使われる「爬竜船」ですが、一般参加ができる北部・伊原間(いばるま)地区の「船越屋(ふなくやー)ハーリー」が人気で地元住民による踊りや伝統舞踊、八重山拳法なども披露され、海人(うみんちゅ)のみで行う競漕(きょうそう)に加え、観光客など一般の人が参加できる「体験ハーリー」もあり、石垣島ならではのイセエビ汁そばや魚汁そば(濃厚なだし汁が麺に良く絡む、絶品の味わい)が配られるそうです。

沖縄に根付いた祭りがハーリーという訳ですが、どうもハーリー=爬竜という一般的な説は地域の祭りに限っては誤りのような気もします。ハーリーで最大のものは那覇ハーリー(ハーリー行事の中でも最大規模の「那覇ハーリー」 那覇市観光協会 >琉球王国の国家的行事として栄えましたが、廃藩置県(1879年)で琉球王国がなくなったことにより、廃止されます。その後は地域の行事として一時期復活するも、1928年を最後に競技は途絶えてしまいました。本土復帰記念事業として1975年の開催された沖縄海洋博を機会に復活し、その後は沖縄を代表する行事になりました。>那覇ハーリーと県内他の地域のハーリーとの違いは「舟」にあります。那覇以外の地域のハーリー舟は、主に漁労用のサバニを漕ぎ手10名、舵取り1名で操りますが、那覇の舟は全長14.5メートル、幅2.1メートル、重さは2.5トン、漕ぎ手は32名、鐘打ち2名、舵取り2名、旗持ちなど6名と、乗組員が42名になる大型のもので、舳(へさき)には竜頭を、艫(とも)には竜尾の彫り物を飾った特別な舟となります)ですが、那覇ハーリーとは冊封使の歓待に関係する国家行事(龍潭(りゅうたん) | ブログ | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華 ... - 国営沖縄記念公園>龍潭は尚巴志が冊封使(さっぽうし)一行を接待するために国相の壊機(かいき)に命じて1427年に造らせた池である。琉球王朝時代には、ここで中国からの使者である冊封使を歓待した重陽の宴(ちょうようのえん)が行なわれていました。龍潭で爬龍船競争(はーりー)を見たりして舟遊び等をしていたそうです)ではなかったでしょうか?だから廃藩置県に伴い廃止したという訳です。地域の行事として復活したりするのは、中国人の子孫を称する方々(閩人三十六姓)の働きかけかもしれませんが、ともかく琉球王国において冊封使の接待でボートレースが行われていたのは間違いなく、那覇の舟は鐘打ち(ドラマー)がいるドラゴンボートの一種のようです。

これは長崎の在留の唐人によって始められたペーロン(長崎国際観光コンベンション協会)(太鼓・銅鑼(どら)各1名ずつの打手がいて)と同じく中国由来の祭りであることは疑いがないところです(ウィキペディア「龍舟競漕」(2019/4/21)>台湾では賽龍舟と呼ばれている。清代には競渡や闘龍舟などと呼ばれていた。また、戦前には扒龍船という名称で閩南音訛りで「ペーリョンツン」と呼ばれていた時期もある)。ただ、龍=ロンで現代中国でドラゴンボートを龍船というようであり、ハーリー船=爬竜船ならば、音韻が違いますし、何故爬虫類の爬なのか、竜という漢字を使うのかという疑問はあります。可能性としては元々沖縄土着のハーリー船があって後で爬竜船という漢字を宛てた可能性も考えられると思います。その方が無理に爬竜船の名前の謎を考えるより、腑に落ちるところはあるんですよね。少なくともハーリーブニのブニは船(沖縄方言でe→i)で明らかな和語であり、一般的にはこの場合ハーリーも和語と考えるべきです(ただし重箱読みがそれほどレアだという訳ではありません)。

中国からの渡来色が強いボートレースである那覇ハーリーに対して、それ以外のハーリーはそもそもドラゴンボートではなく漁労用の在来の船を使用しており(ハーリー 伝統的な漁船で競う迫力のレース たびらい ※那覇ハーリーと他のハーリーでは船の形が全然違い、そもそも起源・系統の違いを疑わせるものがあります)、中国の祭りの影響があるとしても(端午の節句の船こぎ競争を真似たとしても)、直接の移植ではない(楚の屈原に関係すると言われるドラゴンボートの競争をやろうとした訳ではない)んじゃないでしょうか。

ハーレーの名称由来と発祥(糸満市)によると、>従来、糸満のハーレーも、ハーリー(爬龍船)としてマスコミはあつかっていました。糸満の中でも、チュジューニン(寄留人)はハーリーと呼んでいましたが、糸満のウミンチュ(漁師)たちは伝統を守ってハーレーと呼び続けてきました。>南島文化圏(沖縄文化圏)の中には、古くからフナハラシ(小舟を並べて漕ぎ走らせくらべをすること)のことを「ハレ」と呼ぶところがあります。1850年代に奄美大島の風物をまとめた「南島雑話」に、伊津村の「ハレコギの図」があり、競漕の舟を「ハレブネ」と呼んでいた>琉球最古の古語辞典といわれる「混効験集」の中では、昔から使われていた「ハレ」ということばについて、次のように説明されています。「ハレは、走という事、はしれを中略也」 これらのことからみると、走らす舟をハレブニと呼んでいることは、沖縄の古語が今も使われているということであります・・・ということのようです。ここで気になるのが糸満人が拘ったハーレーという発音です。沖縄方言では一般的にはeがないはずです。考えてみれば、糸満はイチマンと読むようですが、何故oを含む糸という漢字を使うのかもよく分かりません。糸満にはサバニを造る大工の方が残っているようですが、(宮崎県の)飫肥杉を使用するようです。元々丸木舟・刳り船だった沖縄の伝統船が何時しか接ぎ(ハギ)(張り?)船になったようですが、船大工が飫肥杉と一緒に渡ってきた可能性もあるような気もします。それはともかく糸満方言はあって、ハーリーは元々糸満のハーレーが広まったとも考えられます。eが発音出来ないので、ハーレーになることはありそうですが、その逆はちょっと考えにくいんですよね。糸満漁民は高い技術を持ち、海外に飛躍したことでも知られます。

面白いのはフナハラシ・ハレコギという古い言葉です。このハレコギのハレがハーレーでありハーリーの由来ではないでしょうか?コギは明らかに漕ぎで和語そのものであり、じゃあハレとは何なのかということになります。晴れも思い浮かびますがピンと来ませんし、ここで恐らく同源のフナハラシのハラシを考えてみるとハラスが動詞で漕ぎ走らせくらべるということですから、走らす(走らせる)でシが落ちたようにも見えるんですよね(奄美における本土系民謡(
奄美における本土系民謡 - 奄美民謡誌<初稿・増補・改訂稿>Web版
)pdf44p 「くるだんど節」 (奄美大島・瀬戸内町諸数)参照で「はれよふね=走れよ, 船」とあります。ハレは掛け声でもあるようですが、メカニズムは分かりませんがshiが落ちる用例を奄美に見ることが出来るようです)。沖縄においてはハーエー(沖縄方言事典)が「1.かけ足すること。2.走ること」という言葉があるようですので、糸満市が紹介するハレ漕ぎ・ハレブネのハレは駆け足といった意味で駆け漕ぎ(走らせ漕ぎ)・駆け舟(走り舟)を意味するということでいいんでしょう(駆け足という言葉があります)。フナハラシも船走らせで競艇(競漕)のような意味としている糸満市が(メカニズムはさておき※英語ですが「音は落ちる、ほとんど落ちる」というブログ記事も)聞き取りで正確に意味を伝えていると考えます。ハーリーがeが発音できないことによるバリエーションと考えると、ハーリー舟とは(原義が忘れられた)競漕舟ということになります。分からなくなったから、違う漢字を宛てたんでしょうが、宛てた人が単に(文字を操る)中国人だった可能性もあって、その場合龍舟を意識はしたんでしょう。糸満海人の歴史と文化を伝える生きた資料館「糸満海人工房・資料館」(沖縄CLIP)を参照すると、琉球王国は糸満の漁業を評価していたようですが(他の地域が漁業をやってなかったかのような話は不思議に思いますが)、乾杯の音頭を沖縄ではカリー!とやるところ(かりゆしと同源でカリーは嘉例でしょう)、糸満では大漁の意でコーバンギラー!というようで(小判?)、やはりちょっと違う来歴があるような気もします(移民でなくて漁民だからの可能性もありますが)。ユートゥイが湯取りでサバニに溜まった(暖かくなった)海水をとる道具(本土ではこの湯を淦(アカ)というようです。ゆ‐とり【湯取り】(goo辞書)参照で船中の淦 (あか) をくみ取る器。あかとり。あかとりしゃく。〈和名抄〉)。鮫をサバというのは独特と思いますが、中国語とも鮫(サメ)ともワニともフカ(西日本)とも違うようで、この辺は独自の言葉なのかもしれません。いずれにせよ、中国にフカヒレを輸出することが目的だったでしょうか(食べられ始めたのは明代だそうですが。時代的に逆に琉球か倭寇が中国に教えた感じだったりして)。

検索しているとハーリーに絡んでウガンを雨願いで雨乞いとする見解が見られますが、これは恐らく中国人の勘違いから来る誤りなんでしょう。中国では古来(日本でも少なくとも空海の頃には)龍と雨乞いを関係づける祭りがあるようですが、龍はさすがに日本由来とは思えません(独自の雨乞い儀式は農耕と共に育ちはしたでしょうが)。ただ、琉球在来のハーリーがどうも龍に関係ないと分かってくると、ウガンも雨乞いではないと分かってきます。竹富町の小浜島で雨乞いの儀式は雨願(あみにんがい)というようですが(沖縄タイムス 2014年11月18日)、これは明らかに和語にルーツがあります。沖縄では御嶽のなかに拝所(うがんじゆ)が設けられるようで、ウガンとは明らかに御願(コトバンク)のようです(沖縄方言でo→uでgが落ちてますが、オンタキ(元は山岳信仰に関連して御岳ではないでしょうか)をウタキというのと同源)。

イトマン(日本姓氏語源辞典)はイチマンと言ったようで、日本の一万地名との関連が疑われます(『○万』 地名コレクション)。糸満とは「糸満」(ウィキペディア 2019/4/21)参照でかつては兼城間切糸満村として同間切の一部。間切りは明らかに和語(沖縄方言)由来で、カネグスクとはグスク(具足と思われます)(城)が琉球石灰岩の独自の文化(喜界島が源流としては怪しそうです)で、カネは兼ねなら沖縄の王名や記紀の思兼神(おもいかねのかみ)に関係し、金ならよくある沖縄の名字金城と同じであって、いずれにせよ和語色が強いのは明らか。兼城間切で、古くは「しもしましり」、または島尻兼城間切と呼ばれていたそうで、やはり島尻という言葉からして和語です(対になるのが国頭で沖縄北部。鉄道の上り下りじゃありませんが、(文化がしばしば中国からも入るにせよ)沖縄のルーツが何処にあるかはもはや明らかで、沖縄を南洋からの北上と見るよくある見方・中国に(人の流れの)ルーツを求めるよくある見方は基本的には誤りと分かります。

ハーリーブニ(競漕舟)の沖縄(糸満)文化と龍舟(龙舟/lóngzhōu/ドラゴンボート)の中国文化があるという訳ですが、地理的に見てあるいは節句に行われることから見て中国の競艇文化を沖縄が参考にしたんでしょうが(ミルク神の例もあります)、どうも本来奄美までは広がる文化のようで、中国船と和船という技術の系譜の明らかな違い・和語/沖縄方言の使用から見て、もうこれは別物で沖縄文化と言っていいんだろうと思います。ユートゥイが湯取りでサバニに溜まった(暖かくなった)海水をとる道具で和名抄にも見える言葉(=淦取り杓)と同じというのも示唆的です。ウガンが雨願で雨乞いというのは典型的な中国人の勘違いと見られます。ハーリーブニは概ね爬竜船ではなく、那覇ハーリーだけが中国のドラゴンボート由来に思われますが、それも言葉は元々の沖縄のハーリー船の名前を利用し漢字を適当に宛てたように思われます。

環濠集落と鳥居の関係性を踏まえた伊勢神宮神明鳥居と外宮の豊受大神の謎解き

2019-04-15 23:07:50 | 日本地理観光
正宮 内宮 鳥居(2014年3月8日撮影)江戸村のとくぞう

鳥居の起源ですが、諸説あるようですが、筆者は弥生時代の環濠集落の門が起源なんじゃないかと思っています。古墳時代には首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体されたようですが、弥生時代の集落は環濠集落で特徴づけられます。勿論弥生時代と古墳時代に民族の交代のような画期を認める説はまずなく(騎馬民族説も古墳時代の中での話です)、環濠集落をつくっていた弥生人はそのまま古墳時代人になっていることが前提です。何故環濠集落なのかと言えば、絶対に門が存在するからです。環濠とはつまり堀と柵で囲まれていますし、要は必ず出入り口があってそこに門が存在するでしょう。鳥居を一種の門と考えるなら、原型は弥生時代にあったと考えることが出来るはずです。環濠集落は弥生時代の全国的な住文化です。木と木を縄で結ぶのような結界説は注連縄の起源としては考えられても、どう見ても鳥居の起源ではないと考えられます。古墳時代に外来文化で入ったと考えることも出来るかもしれませんが、まず似たもの、時代があうものがないようですし、後述しますが鳥居は和語で外来語ではないことも踏まえねばなりません。環濠集落の門に起源があるとして、環濠集落解体後に消えたかと言えば、門に宗教的意味などあれば、何らかの形で残るとも考えられます。門とは入り口であり、区切る境界でもあります。神社の形式が整うのが仮に8世紀ぐらいだとしても、その間に宗教施設がなかったとか門がなかったとか考えなければいいだけです。弥生時代の環濠集落の門が全国的に必ずあった文化だから怪しいとして、何故そこまで決め打ち出来るかもう一つ理由を述べると、その名前と形、それに伴う文化となります。

環壕入口(吉野ヶ里歴史公園)
門と鳥形(吉野ヶ里歴史公園)

>弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。
>大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。
>鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。
>天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる

素直に考えましょう。鳥居とはそのまま鳥(鶏)の止まり木を意味するに違いありません。これが理解できないのは現在の鳥居の形が止まり木に見えないからでしょうが、まず何故鳥(鶏)に止まり木が必要なのでしょうか?それはニワトリは止まり木で寝るからです(参考:ニワトリは止まり木で寝る なんてこったィ !! ナチュラおじさん Blog)。ニワトリは鳥なので本能的に木で休息しようとし、基本的には外敵に襲われる平らなところや床下では寝ないようで、止まり木があるとそこに群れて寝るようです。スズメも電線に群がりますよね。家禽(ニワトリ)の起源は紀元前8000年前から起源前4000年前まで諸説あるようですが、いずれにせよ弥生時代には既に出現していたことは間違いありません。弥生時代における出土は少なく、鳴き声で朝の到来を告げる「時告げ鳥」としての利用が主体だと考えられており、食用とされた個体は廃鶏の利用など副次的なものであったようです(個人的には雌鳥の卵の利用も同時にあったでしょうし、肉食も一般的だったと考えます。鶏の肉=かしわは和語で拍手(かしわで)との関連が怪しく、神聖なものを寧ろ食べる文化は動物崇拝(コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))で見られる考え方のようです(>トーテム動物のなかには普段は食べることが禁止されているが、トーテムの儀礼のときには食べることが積極的に認められる例もある。日本の例では食用ではありませんが、アイヌが熊送り(イオマンテ)をするため熊を飼う事例もあったようです。後に広まった肉食を禁じる仏教の影響でタブーになって分からなくなったのでしょう。食糧事情が厳しかった古代において、そもそも鶏が珍重されたのは食料としての用途があったからだと思います。大量に飼育されなかったのは、餌をやらないといけなかったからで寧ろ収支はマイナスだったかもしれません。そのマイナスを補うためにも食べられていたという訳です。魏志倭人伝に牛馬なしと書かれていますが、少なくとも出土している鶏や豚は牛馬ではありません)。時代が降りますが、記紀の天岩戸伝説において、常世長鳴鶏を集めて鳴かせたという記述があります。つまり鶏の飼育があれば、止まり木があって当然で、鶏の飼育は規模は大きくないものの存在したのであり、その名前は「鳥居」だったと考えて良さそうです。時告げ鳥は貴重だったでしょうし、実際に伊勢神宮には神鶏の文化が存在しました(伊勢神宮の鶏が神鶏(しんけい)と崇められる由来 みんカラ >神宮の神鶏には名前はありませんが「尾長鶏」「尾鷲鳥」「小国鳥」の種類が見られます)。だとすればその止まり木が神聖でも不思議はありません。神の家とは神聖なものです。

だとして何故鳥居をくぐるかですが、鶏が早朝に鳴くことから1日の始まりと見られていたかもしれません。鶏の鳴き声で起きて農作業を開始することで鶏が時間の始まりを意味することになり、その家=鳥居が空間的な始まり=入り口を意味するようになったという訳です(NIPPONIA(Web Japan)によると、「日本にやってきたニワトリは、中国文化の影響もあるだろうが、昼夜の境を告げる霊鳥として扱われた。ニワトリの時を告げる声は、一声がとても長く大きいので、現在よりもずっと印象的だったことだろう。1日3回、日の出の前、太陽が昇った頃、そして日没の前に、かなり正確に鳴くことから、時計としての価値が高く、また、長く鳴くものほど大切に扱われたらしい。実際、日本では、暁と日の出の鳴き声を、一日の始まりとしてきたのである)。暁・日の出の重視は日の出信仰(一年の始まり元日の初日の出・高山の頂上で見る荘厳な日の出である御来光・伊勢など日の出の方向=東の宗教的重視)や日本という国号にも繋がりそうですし、伊勢神宮の鳥居は神明鳥居と言い、暁とは明け方です。ちなみに「コケコッコー」ではなかった!ニワトリの鳴き声の変遷(山田ガーデンファーム)参照で室町時代以前に鳴き声はカケロと言われていたようです(ウィキペディア「ニワトリ」(2019/4/16)によると>ニワトリという名前については日本の古名では鳴き声から来た「カケ」であり古事記の中に見られる。雉を「野つ鳥雉」と呼んだように家庭の庭で飼う鶏を「庭つ鳥(ニハツトリ)」(または「家つ鳥(イヘツトリ)」)と言い、次第に「庭つ鳥」が残り、「ツ」が落ちて「ニワトリ」になったと考えられる。また「庭つ鳥」は「カケ」の枕詞であり「庭つ鳥鶏(ニハツトリカケ)」という表記も残っている。別の説では「丹羽鳥」を語源とするのもある・・・ですが、ニワトリとは即ち庭鳥でカケと関連付けられますが、ここで気になるのは丹波の語源です。『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓んでおり、古形はタニハであり、ハとワは通じますから、田庭説が有力視されるのは納得できますが、意味を「平らかに広い地」とするのが誤りでしょう。そうではなく、箱庭でも分かるように庭はミニチュアの意味があって、丹波の盆地を畿内の平野に比べてミニチュアだと見て、田庭としたと考えるとストンと落ちるものがあります。丹(辰砂)はニであり、大産地は寧ろ畿内にほど近い中央構造線沿いであり、字面に引っ張られるべきではないのかもしれません。田はありふれてますし国名での使用が見られず、丹が好字とも考えられます。そう考えると、但馬も田島で全く同根なのかもしれません)。また、おんどりの朝の鳴き声、序列の高い順から 研究(afpb 2015年7月24日)参照ですが、鶏に序列があったことは当然意識されていたでしょうし、鳴くのは縄張りを誇示するためだったようです。これは鳥居が門/境界であることに通じます。いずれにせよ環濠集落に門は必要ですし、鳥の止まり木=鳥居に似ていることは直ぐに意識されたでしょう。

具体的にどんな鶏を飼っていたかで言えば、考古学的・動物学的に調べられるべきでしょうが、「尾長鶏」「尾鷲鳥」「小国鳥」の内、小国鳥が気になります(日本鶏の紹介 日本家禽学界 >闘鶏の一種として古くから飼われ、多くの日本鶏の成立に関わった。昭和16年に天然記念物に指定された。三重県、京都府で多く飼われている)。闘鶏の意味が当時あったか分かりませんが、弥生時代は銅剣・銅矛・銅戈・環濠集落でも分かるように戦乱の時代でもあって、喧嘩する気性は寧ろ好まれた可能性もあります。いずれにせよ、多くの日本鶏の成立に関わったというのが注目されます。尾長鳥は江戸時代の土佐(高知県)に起源があるようですが、鶏の美しさを競う文化があったのが注目されると思います。古い文化の残存かもしれません。尾長鳥で印象的なのは止まり木でもあります。尾鷲鳥に関しては伊勢近隣の尾鷲の鶏といった意味であり、供給地であったかもしれませんが、よく分かりません。ちなみに尾鷲とはそのまま鷲の尾を意味するような気がします。矢羽で鷲の手羽・尾羽が利用され、どちからと言えば、尾羽の方が丈夫で重要だったようです(黒鷲と黒手羽って何が違うのですか? yahoo知恵袋 >手羽(てばね)というのは手の羽の事です。尾の羽は尾羽(おばね)と言います。一般的に手羽のほうが柔らかいので耐久性は悪いが値段が安く、尾羽のほうが耐久性が良いですが値段も高いです)。弓は弥生時代どころか縄文時代から出土しするようです。オワセであってオワシではありませんが、ウィキペディア「尾鷲市」(2019/4/16)を参照すると、1942年当時の尾鷲駅。表記が「おわせ」ではなく「をわし」となっており、「おわしぇ」と地元では呼んでいたという記述が見られます。弥生時代の鳥信仰で鷲もあるいは関係あったかもしれません。

さてここで鳥居の形に注目しましょう。鳥居には神明鳥居と明神鳥居がありますが、ここで伊勢神宮の神明鳥居をその起源とします。明神鳥居の破風(はふ)は装飾的で城にも破風があって日本人の文化的好みではあるでしょうが、鳥居のルーツではないと考えます。止まり木に破風はいらないからですね。神明鳥居が成立してから装飾的な明神鳥居が後で誕生したのでしょう。元々は木で鳥居をつくっていたと考えれば、現存する鳥居の形はあまり関係ないかもしれません。伊勢神宮が古い文化を保存しているというのは普通に有り得る話です。門が起源として、直線的な笠木がそもそも止まり木というのは分かりやすいところです(笠が被る笠ではなく直線だということが注目されます。笠沙の御前(みさき)とは直線的で弥生時代の発祥の地で中国と通交していた倭国の所在地博多の湾に(直線的に)突き出している砂浜である海の中道ではないでしょうか。沙を砂と見る訳です)。問題は笠木の下の貫(ぬき)であるに違いありません。これは鳥居を門として大きくつくった時の建築術上の要請と見ます(「鳥居」に見る日本の建築技術の基本 建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える 下山眞司 >着目点の二つ目は、笠木の下に設けられた横木。これも貫で、柱に対して、楔を打って固める。これによって、二本の柱は、一本の笠木だけの場合に比べ、より強くつながり、しっかりとした、簡単には変形しない門型を構成することになる)。弥生時代の土器の絵に重層建物があったようですし、縄文時代の三内丸山の柱穴もありますが、日本では古くから建築術はあったと考えられます。門を大きくつくるのに貫をつけるのは当然の発想だったかもしれません。鳥居と沓石の免震構造が知られるところですが(鳥居はなぜ倒れない? 社寺建築の豆知識)、法隆寺の免震構造もあって、この辺の技術は地震国の日本で縄文時代以来、長い時間をかけ発生し受け継がれてきたと筆者は見ます。ここで神明鳥居の形式をウィキペディア「鳥居」(2019/4/16)で確認すると、「笠木柱には丸材、貫には板材が用いられることが多い。笠木の下に島木がなく、貫は貫通せず、柱は地面に対し垂直に立てられている。」となり、これはそのまま止まり木(笠木が丸材であるところが特に。ただし現在の伊勢神宮の鳥居の笠木は丸材ではないようです)を板材で補強したものと理解すればよいと考えられます。この素朴な形式で鳥居はスタートし、他は装飾的なバリエーションだと考えられます。宗教建築が巨大化するのはありがちですね。

弥生時代の鳥に関する信仰ですが、鳥居と鶏を結びつけると、直接的には鶏以外の鳥は関係ないかもしれません。ただ、天照大神等に見られる太陽神信仰(恐らく農耕神だと思います)は確実にあって、その住まいは高天原に見られるよう勿論天なのであって、空を飛ぶ鳥が使いとして信仰されるのは当然の流れとして理解できます。八咫烏が記紀に見られる霊鳥ですが(咫(あた)は、中国および日本で用いられていた長さの単位で八咫とは大きいの意らしい)(三本足の記述は記紀になく後世の混入の可能性が指摘されます)、烏は知能が高いことで知られ、特に神の使いと認識されたかもしれません。穀霊という指摘もあるようですが、鳥は稲作の敵でもあり、日本にそういう習俗も見られないようで(狐が稲荷神として重視されるようです)、こと日本においては無さそうな気がします。恐らく(東南アジアと日本に同じものが伝播したと考える)長江文明直接渡来説と結びついた誤認じゃないでしょうか。

(弥生文化の源流の)九州の神名は全て日がつき、神名や天皇名等にも日は多く、皇祖神は太陽神です。古代日本に太陽神信仰があったことは明らかで、三種の神器の内のひとつである鏡は多く出土し、神社の神宝として多く所蔵されるようですが、鏡は光を反射します。そして太陽神の住処が天(アマ)であり、アマは海に通じますが、島国日本で太陽が昇るところは海です。中国の天帝信仰やモンゴルのテングリ(天神)信仰と日本の宗教を結びつける考え方がありますが、日本の宗教も海外に大きく影響は受けはしたでしょうが(鏡や鍛冶技術が日本にあったと主張しません)、日本のこうした信仰は中国・モンゴルに似ておらず(多分一番似ている可能性があるのはお隣だと思いますが、勿論民族は縄文以来長年違うとハッキリしておかねばなりません)、その源流を海外に求める考えは基本的に誤りだとも考えられます。「銅鐸」祭祀もそうですが、海外の宗教と日本の宗教は仏教以前は似たものが見つからないケースが多いように思います。

伊勢神宮内宮の主祭神は天照大神ですが、常世長鳴鳥(世界大百科事典 コトバンク)によると、「八百万(やおよろず)神が常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を鳴かせ,天鈿女(あめのうずめ)命に舞わせて,天照大神を呼び出す話」とあり、これは勿論鶏が朝に鳴く時告げ鳥でもあること、伊勢神宮の神鶏と関係します。時・天文と権力は一般的に結びつくものです。これが皇祖神として崇められ、伊勢神宮が最重要の神社とされるのは納得のいく話です。

ただ一般に謎なのが並び称される外宮の豊受大神(トヨウケビメ)の方でしょう。ウケは古語で食物のこととされ、大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)・稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と関連付けられますが、どうもウケ=食物論が日本人にピンと来るものがありません。食べるはタベルのはずです。これはもしかしたら逆ではないでしょうか?ウケという言葉ありきで、外宮の(由来不明の)豊受大神が重要だから、食物に結び付けられたと解する訳です。豊(トヨ)は豊作の豊です。ウケとは普通に考えて受身の受けです。ここは素直に受けを解すると何に対して受けかと言えば、天照大神に対して受けではないでしょうか?日本の史書では意味が通りにくいですが、有り難いことにこの辺は中国の記録もあって、台与をトヨと捉えて、豊受大神と理解すれば、卑弥呼(日御子・日巫女)に対する受けだと腑に落ちてきます。倭国の大乱を治めて日本がまとまったシンボルが台与です。記紀では王として扱われませんが、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性になります。こうして考えると、そもそもよく分からない豊受大神を皇祖神と並べて祀ることになったか理解できてきます。男性中心社会(特に先進地中国においては)の影響で記紀では見え難くなっているにせよ、日本としても皇祖神に近い時期に凄く重要だった台与を祀らないといけない伝承・史料が当時あったのでしょう。外国人は遠慮がありませんから、日本で女性が重要な役割を果たしていたのを寧ろ差別的に記録したのだと思います。台与(トヨ)は元々食料に関係する言葉ですから(鍬も稲作の道具です)、それで食料に関係する神だとされたのであって、受けは継承の方の意味だったのを後に誤解したような気がします。倭姫が祭られたのは大正時代でしたが、豊受大神と見られる豊鍬入姫命が祀られたのは伊勢神宮の創始に関係あるからでは実はなく、祀られるべき王としての事跡があったからだと見ることが出来るのではないでしょうか。祭祀に関係あるという伝承はこのあたりの事情がぼかされたと見ることも出来そうです。これは天照大神と見られる倭迹迹日百襲姫命も同じ事情だと思えます。倭迹迹日百襲姫命は突然死していますが(古墳時代と言いますが、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は古墳時代最初の大前方後円墳とされます)、日食が卑弥呼の時代にあったことが分かっています。これは天の岩戸の話にも関係するでしょう(呼び出されたのが同じ日巫女職である豊鍬入姫命と見る訳です)。崇神天皇ははつくにしらししみまきのすめらみこととされ、この辺りに日本のひとつの始まりがありましたと考えられますが、意外と派遣や紹介が多く本人の話がありません。それ以前が「欠史」ですから、男性中心視点で崇神天皇に事跡をまとめたと考えられます。倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の代の記載ですが系譜で二代前であり、卑弥呼は高齢と記され、崇神天皇の娘である台与が年若い宗女(一族の娘)だと考えられます。この辺は驚くほど符合するところです。まぁ台与は若すぎ象徴的なシンボルなのであって、実際には崇神天皇が(卑弥呼後、倭国大乱後の)リーダーだったかもしれませんが(台与の親だったからリーダーになれたのかもしれません)、中国の史書には女王がリーダーだったと記されています。「欠史」に触れたついでですが、筆者は欠史八代も何らかの歴史的事実を伝えると見ます。それは倭迹迹日百襲姫命を通じて崇神天皇以前の系譜が一部正しいことが分かるからであり、古墳時代以前も「銅鐸祭祀」を通じて大和が強勢だったと見られるからであり、卑弥呼の時点で北九州を圧する勢力を擁していたことが中国の史書でも分かるからです。神武天皇は日向(ここでは書きませんが、宮崎とは限りません)の出かもしれませんが、皇室は卑弥呼の前で六代ぐらいは大和で遡ると考えて良さそうです。誤りも含むものの一般に言われるよりずっと記紀は歴史的事実を伝えていると調べれば調べるほど理解できると考えています。

最後に明治天皇記に鳥居のコンクリート論があったものの明治天皇はこれを許可されず、質素な造営に先祖の建国の姿を知るべきと諭されたとのことです(伊勢神宮入門 幻冬舎 145p)。神明鳥居もそうですが、古い形をそのまま残していると、その時は(戦火で記録が失われることはしばしばありますし、流行に流されることもあります)意味が失われているとしても、後でその意味・知恵が理解できる時もあるんだろうと思います。何も変えないのが保守だと思いませんが、風雨に耐えた貴重な伝統文化をそのまま守ることは重要であり、これが守るべき保守精神ではないかと思いますし、明治天皇の立派な見識に頭が下がるところだと思います。

古事記と高千穂

2019-04-13 09:53:56 | 日本史
筆者は基本的に日本書紀を根本資料としており、古事記を優先しないのですが、国産み神話との関係で古事記の高千穂を紹介しておきます(ダブルスタンダードとの批判は甘んじて受けます)。

韓国(カラクニ)に向かうところが筑紫の日向の高千穂のくじふるたけのはずなんですよね。韓国岳は宮崎県・鹿児島県の県境の霧島山系にあるんですが、通常、この時代の韓国は三韓の加羅国だと思います(後にカラ国は唐国を指すようになりました)。北部九州は弥生時代始まりの地で中国の史書にも漢代の北部九州の倭国が記載され、金印も発掘されています。そもそも縄文時代から延々と北九州と半島は通交があったようです。

九州島は古くは筑紫島と呼ばれ,筑紫,豊,火,襲(そ)の4国に分かれ,つくしは国土の尽き果てるところを意味するとも言うようですが、これは大和目線を感じます。つくしと聞いて思い浮かべるのは土筆でもあって、あまり格好のいい名前ではありません。陸奥の国が典型ですが、辺縁の国ほど大きく分けたりするんですよね(例外は恐らく共立に関係して吉備くらい)。日本書紀では高千穂は襲と書いてますから、日向=宮崎県でいいとは思いますが、いずれにせよ、まず筑紫は九州島という解釈でいいんでしょう(古事記では筑紫(国)とも読めそうです)。

続く日向は日に向かうところぐらいの一般的地名のような気もします。筑紫の神は白日別で九州4国の神はいずれも日が入っています。皇祖神は太陽神ですが、神武東征が伝わることと弥生時代の人の流れが注意されるべきです(ただし大和が強くなったのは考古学的に弥生時代のそれほど遅くではないようです)。

面白いのは朝日のただ刺す国、夕日の日照る国なりという指摘です。これをそのまま読めば東西の一方に向く国は苦しくなります。何時頃からかは知りませんが、福岡県の日向峠(ひなたとうげ)が伊都国と奴国(早良)の境で東西に通じており面白いんじゃないかと思います(大昔で出典は忘れましたが、福岡県に日向峠があるという指摘は見たことあります。福岡県に高千穂を関した企業名もあって、古事記記載ですし、こうした話を知っている福岡県民もいるんじゃないかと思ってます。まぁ能ある何とかという話ではありますが)。

高千穂をあえて挙げれば脊振山系最高峰の脊振山(1,054.6m)ですが、それほど尖った山ではありません。ただ、福岡県側は断層地形のため急峻で、渓谷も深く、坊主ガ滝、花乱ノ滝など滝も多いんだそうです(脊振山 ヤマケイオンライン https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=958)。

さいごに「くじふる」ですが、「霊異ぶる」という指摘もあるようです(天孫降臨てんそんこうりんの地 http://www7b.biglobe.ne.jp/~kirishima/tensonkourin/tensonkourin0.html)。くじふるの用例は確認できませんでしたが、クジなら、憶持(1 心に念じて思いとどめること。常に念頭に置いて忘れないこと。「僧、心経を―し、現報を得て、奇事を示す縁」〈霊異記・上〉2 執念。また、思慮、分別。「衆徒の軍拝見して候ふに、誠に―もなく」〈義経記・五〉デジタル大辞泉(小学館))や意気地(事をやりとげようとする気力。デジタル大辞泉(小学館))という言葉があって、フルは例えば「ちはやふる」を想起します。脊振山系一帯は、古くは霊山として多くの修行僧が暮らす山岳密教の修験場だったようですし、山岳信仰と神道は元来関係が深いです。もうひとつ紹介のホームページで面白いのは「「高千穂」は本来、高く積み上げた稲穂のことで、神霊の降下する所と考えられた。」という指摘で確かになだらかな(急峻な峰がない)高い背振山系(山脈)こそ見たまんま高千穂ではないかと思わせるものがあります。

笠紗(かささ)の御前(みさき)の記述があり、鹿児島県南さつま市笠紗町野間岬とされますが、笠紗は必ずしも古い地名ではないようです。福岡県でもよく分かりませんが、崎がつく岬は多く(福岡県の崎/岬一覧 https://www.navitime.co.jp/category/0706010/40/ NAVITIME)(単に先の意だと思われます)、どうも気になるのは海の中道(古くは奈多の浜)です。その先の志賀島は金印が見つかった地(「叶崎(かなのさき)」あるいは「叶ノ浜」 金印 http://museum.city.fukuoka.jp/gold/ 福岡市博物館)。満潮時には一部が海水で区切られることがあるため道切(みちきれ、満切)と呼ばれ、18世紀の『筑前国続風土記』によれば、当時は道がつながることの方がまれであったとか(ウィキペディア「海の中道」2019/4/13参照)。砂州では天の橋立が有名ですが、博多湾岸の海の中道はさぞかし神秘的ではなかったかと思います。また同じくウィキペディア「海の中道」参照で「神功皇后伝説では、遠征前に盛大な神楽が行われ、海底から現れた異形の磯良(いそら)神から玉を借り受けたのは、この地の吹上の崎というところだとされる」(筑前國續風土記 巻之十九 糟屋郡 裏 奈多濱)のだそうです。わざわざこの辺りで言及せねばならない岬とは。

なおクジフル=(加羅の)亀旨峰(クジボン)説もあるようですが、牽強付会でしょう。峰はホウで漢語じゃないのという話ですし、フルにどう転訛したかも分かりません。日本の他に類似の地名もありません。魏志倭人伝の昔から、明らかに韓国と日本は違うと指摘されています(勿論中国とも違うでしょう)。

個人的には日本書紀は魏志和人伝を見て日向という言い伝えを宮崎県と解したのかなという気がします。方角を読み替えず距離を短縮すればそう読めはしますので。西都原古墳群は立派だと思いますが、話は逆で大和の勢力がそこに及んだという証拠のように見えます。

後、海幸彦の話は末盧國(まつろこく/まつらこく)=松浦(半島)が怪しいという気がします。海幸彦って山幸彦の兄弟で従えられるんですよね。海人族=渡来人という話もほぼ眉唾で(渡来人がいたことは全く否定しませんが、海民というより普通に王族・貴族・国民・村民が亡命してきたのでは?半島の漁民が日本の縄文時代以来の漁民を押しのけることが有り得るでしょうか?)、末盧國は海流の関係で半島から来るというより、日本から半島に向かうのに都合がいい地ですから、話は真逆で末盧國(対馬や壱岐)の漁民が半島に出かけて交易などしていたと思います。それが各種史書・金石文に残る古代日本の朝鮮進出に繋がったでしょうし、それなりに力を持ったということではあるんでしょう。ただ、日本で水軍が主になった歴史はありません。古代においても伊都国や奴国がしきっていたはずです(伊都国や奴国が山岳信仰=背振信仰で「山の民」だったのかもしれません。元々弥生人とは北九州縄文人が水田耕作を受け入れるなどして時間をかけ成立したようです)。少なくとも伊都国や奴国の直ぐ西の松浦半島一帯に元来の海の民が住んでいたことは間違いありません。誤解があるのは弥生人が渡来人だという話ですが、山幸彦は外国人では全くありません。海幸彦も然りで外国人どころか兄弟です。どちらも縄文人/弥生人でしょうが、末盧國の住人は漁民然としており、風俗が違うように見えた可能性も高いように思われます。

以上ですが、筆者は神武天皇以降を歴史と捉えており、歴史は検証可能で、神話とは区別されるべきと思っています。歴史上の神の話・霊の話も尊重はしますが、さすがに歴史的事実と受け取る訳にはいきません。筆者は別に宗教を否定している訳では全くありませんし、日本神話も尊重されるべきという考え方ですが、現実世界で(科学的・学問的に測定される)Factとして扱うのはないんじゃないかという話です。寧ろ逆に根拠ないとか言われている日本古代の歴代天皇を欠史八代含めて全て実在(ただし年代の修正の必要はあり)とするのが筆者の立場です(神武東征のくだりの詳細を歴史的事実と認定するのは厳しいとは思うのですが(日向を拠点に熊野から大和を攻めるのような話をどうしても認められません)、神武天皇も伝説的な始祖として実在したと考えますし、そのルーツをさぐる上で重要な話だと思っています)。

「銅鐸」は鐸では全くなく、明らかに鈴(及び鈴木の由来に関する疑問)

2019-04-07 21:25:43 | 日本史
Eastern Zhou Dynasty Bronze Bells.jpg(古代中国、東周王朝の青銅製ベル(鐸)。紀元前6世紀頃。打楽器(ウィキペディア 2019/4/7)より)

極一部で既に指摘されているようですが、銅鐸ってそもそも鐸じゃなくて鈴らしいです。

個人ブログの記事(銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (1) ~ そもそも銅鐸とは? 日本古代史つれづれブログ)参照ですが

>佐原真氏(※日本の考古学者)によると、中国では英語のヘル(※原文ママ。ベル bell)に対応するものが3種類あるそうです。
「鐘」 ・・・ 紐で吊り下げられて、外から叩いて鳴らす。舌(ぜつ)はない。日本のお寺の鐘がそうですね。
「鈴(レイ)」 ・・・ 紐で吊り下げられて、揺らして鳴らす。舌がある。
「鐸」 ・・・ 柄があり、柄を手に持って鳴らす。舌がある。
ですから、中国本来の呼称では、「鐸」とは、”柄がついていて手に持って鳴らすカネ”ですから、銅鐸は「鐸」ではありません。「銅鐸」は、”柄がなく、吊り下げて鳴らす、かつ舌がある”ものですから、「鈴」に分類されます。

そういう訳で英語でいうbellは中国では鐘(カネ)・鈴(レイ)・鐸(タク)に分類され、日本の銅鐸はどう見ても間違いなく元来鈴なのであって、鐸であった可能性は1ミリもないと思います。日本が青銅の精錬を発明した可能性も全く無く、誤解を恐れず言えば従って「銅鐸」(青銅製の楽器)の起源が日本にあるはずもありませんので、輸入した(ないし参考にした)当初に鐸(タク)と呼んでいたはずがありません。鐸とは柄のついた楽器だからです。日本の「銅鐸(グーグル画像検索)」には必ず鈕孔という紐(ひも)が通る穴が開いており、普通に見れば手で持って振ることはありませんし(そうするためには柄が必要で中国で言う鐸がそれに当たります)、穴が開いているのに置いて使うこともなく、舌がありますから鐘のように撞いて使うはずもありません。

松帆銅鐸の持ち味と謎。脚光を浴びる理由。(南あわじ市)

>銅鐸がまとまって7個発見された。古い時期の銅鐸が一度に大量に埋められたことは特に珍しい。
>発見された7個の銅鐸のうち1個は、全国でも11例しかない、最古段階の菱環鈕式(りょうかんちゅうしき)という形の銅鐸だった。他の6個は次に古い外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)という形の銅鐸だった。
>銅鐸と舌が一緒に発見されたのは、とても珍しいことである。7個の銅鐸のうち、6個の中に、吊り下げて鳴らすための青銅製の棒(舌)が入っていて、合計7本の舌があった。
>ひもが確認できたのは全国初!銅鐸の吊り手や4本の舌に、吊り下げるためのひも(組ひも・よりひも)やひもの跡が残っていた。殺菌作用のある銅イオンのおかげで、ひもは腐らずに残っていたと考えられる。
>松帆銅鐸の舌とひもの発見により、古い時期の銅鐸は、音を聞く銅鐸であることがわかった。何度も音を鳴らしたためか、舌の側面と銅鐸のすその内側にとてもすり減っている部分があった。
>松帆銅鐸が見つかった南あわじ市の「松帆」という場所は、過去にたくさんの銅鐸や銅剣が発見されている。海岸に近いこの地域は、青銅器を埋める神聖な場所だったのか!?
>松帆銅鐸の中には石製の同じ型(鋳型 いがた)で作られた“兄弟銅鐸”(同笵銅鐸 どうはんどうたく)があることがわかった。松帆2・4号銅鐸と慶野中の御堂銅鐸、松帆3号銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸(島根県)、松帆5号銅鐸と荒神谷6号銅鐸(島根県)が兄弟である。同じ鋳型を何度も使ううちに、模様が欠けたりして鋳型に傷ができる。銅鐸の大きさや模様はもちろん、傷が同じかどうかで兄弟かを判断する。

そもそも銅鐸とは何かを考える時は初期の例が重要です。後述しますが、銅鐸は後に大型化し見る祭器に変わっていったとされます。起源である大陸の例からも舌があるその形からも当初は楽器でなかったはずがありません。その物証が淡路島松帆(南あわじ市)(淡路島北端明石海峡大橋付近で明石の対岸/後述しますが、銅鐸は境に埋納されたと言います)の銅鐸という訳です。ひもの跡があったなんて、何という奇跡。また、同じ型の銅鐸が島根県の出雲から複数出土しているというのも日本の弥生時代の状況を知るのに重要ではないでしょうか。加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡(島根県)は大量の銅製品の出土で話題になった出雲地方の著名な遺跡のようですが(特に荒神谷の大量の銅剣は考古学に関心があったら知らないものはいません)、出雲と畿内は弥生時代中期ぐらいには文化的に結構繋がりがあったということにはなるんでしょう。

日本で「銅鐸」と言われるものが当初に鐸(タク)と呼ばれていたはずがないということが分かってきたと思います(レイかスズだったはずでしょう)。考えてみればタクはそもそも音読みで読みからして時代が新しそうですよね。常識的に考えて訓読みが古い言葉です。弥生時代出土のものというイメージで古いというイメージなんでしょうが、必ずしもその呼びが古いものだったと限りません。後述しますが、銅鐸祭祀は破棄されたものと推定され、つまり言葉は失われた(歴史・文化は断絶した)とも考えられる訳です。出土したものを見て、当時の日本の常識で鐸に見えたから鐸と呼んだだけの話でしょう。ここで鐸という漢字を確認してみましょう。

(漢字一字 | 漢字ペディア)

>音タク
訓 すず
意味 すず。大きな鈴。「鐸鈴」

やはりスズです。銅鐸をドウタクと呼ぶこと自体が、完全に誤りだったということでしょう。銅鐸と書いてドウレイと読むか銅鈴に漢字を改めるか何が妥当か分かりませんが、鐸(タク)は柄つきなのですから、日本の弥生時代の銅鐸を当時の人がタクと呼んでいたはずもありませんし、起源である古代の大陸の人から見てあれを鐸と呼ぶはずもなく、考古学用語として銅鐸という言葉は失笑モノの誤りであることだけは間違いなさそうです。まぁずっと銅鐸と呼んでいるのですから、歴史用語として銅鐸は誤りではないと言い張ることも可能でしょうが、そもそも日本においても起源として楽器でないという誤解を生んでいるとしたら、歴史用語としても有害だなと言わざるを得ません(後述しますが、日本の銅鐸は大型化しており、基本的にイメージとして楽器のイメージがありません)。確かに日本文化では「銅鐸」は鈴というより鐸には見え(鈴というと風鈴とかの小型のイメージで確かに柄つきの鐸は柄をとって鈕孔の部分をつければ「銅鐸」に似ています)、誤解するのはもっともなんですが、もっともでも何でも誤解は誤解です。

南あわじ市の松帆銅鐸出土に関連して学者のコメントをブログ記事(元は朝日)で確認しますと

銅鐸、つり下げて使用か? ひもの一部を初確認 淡路島(銅鐸通信)

>奈文研の難波(なんば)洋三・埋蔵文化財センター長は「銅鐸は直接手に持って揺り鳴らしたという説もあったが、何かにつり下げて鳴らしていたことがはっきりした」という。
>兵庫県の弥生時代に詳しい森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員は「舌を外し、鈕や(本体から張り出した装飾部分の)鰭(ひれ)を垂直にした姿勢で埋めるという銅鐸埋納の『不文律』から、松帆銅鐸は外れている。そうした不文律が徹底される前の最古の様相を示している可能性がより高まった」と指摘する。
>銅鐸を研究している春成秀爾(はるなりひでじ)・国立歴史民俗博物館名誉教授は「銅鐸が作られた時期は鋳型などから推定されていたが、今回の発見で、ひもからは銅鐸が使われた時期、植物の葉からは埋められた時期が放射性炭素年代測定で絞り込めるのでは」と期待する。

松帆銅鐸は埋め方が特殊だったのが幸いだった訳ですが、古い時期(埋め始めた初期の時代か?)だからではないかという指摘など注目されます。いずれにせよ、「銅鐸」を考える上で、松帆銅鐸を外して考えることは出来ないと思います。

銅鐸(ウィキペディア 2019/4/7)からの孫引きで

>銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀においてである。和銅六年(713年)に大和国宇陀郡において見つかった銅鐸が献上されたと記されている。他の記録でも銅鐸の名称が見られる。
>12世紀の「扶桑略記」や14世紀の「石山寺縁起」など以後の記録では「宝鐸」と呼ばれた。

鐸がタクであったはずがありませんから(鐸と「銅鐸」に書かれていた訳でもなく(金石文)、同時代の史料もなく、つまり物証・史料的根拠は存在しない上、埋納である種の文化的断絶があるのも考古学的に明らかです)、8世紀頃には少なくとも中央政府で「銅鐸」を何と呼ぶか分からなくなっていたのでしょう(日本の古墳には墓誌がなく、伝承はあっても被葬者に関して議論もあって、歴史的常識として如何にもありそうな話です)。弥生時代の終わりを古墳時代の開始の三世紀末と考えると、弥生時代の終わりから500年近く経っていますし、畿内における銅鐸埋納の時期から考えるともっと経っているのも間違いありません。500年前というと、今から見て室町時代の頃の話で、弥生時代を直接的に伝える記録もほとんどありません。なおウィキペディアの記述では、「銅鐸は銅製で鐸のような形をしているので「銅鐸」と名付けられたが、銅鐸のように吊るして使用されるものは本来は「鐘」と呼ばれる。そもそも楽器であったかは定かではない。」とあり、一般的・教科書的な認識に近いですが、舌があるのは鐘ではありませんし、撞いて使った物証もないようです。吊るして使い舌があるのは鈴で鐸はスズとも訓じられるなら、もう答えは分かったようなものです。古の鈴を見て当時の常識で鐸に近いと思い、誤解が定着してしまったという訳です。

ここで中国の半島の史書(魏志東夷伝馬韓(※百済))に「諸国には「蘇塗(そと)」と呼ばれる別邑がある。その中では、大木を立てて鈴や鼓を吊り下げ鬼神を祭っている。」という記録があるようです(魏志韓伝 鴨着く島おおすみ/個人ホームページ参照。出典未確認)。勿論馬韓人(要は朝鮮人ないし南下した高句麗と同族のツングース)と日本人は違いますが、文化は朝鮮を通って伝播したとも考えられ、参考になるはずです。「銅鐸」が当初は吊り下げていたとして、吊り下げた場所は(建物では恐らくなく)木だったのではないでしょうか?馬韓の鬼神ですが、卑弥呼は鬼道をしたと同じ魏志の倭人伝にもあります(ただし卑弥呼の時代には少なくとも畿内で銅鐸は既に埋納されていたんじゃないかと思います)。

日本の銅鐸のルーツ?/中国で青磁器の「鐸」出土(四国新聞社 2006/02/09)

リンク先の中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)を見ると(個人用に保存しましたが、著作権が分かりませんのでアップしません)、これは明らかに鈴です。銅鐸と形が同じだから鈴な訳です。年代はよく分かりませんが、「中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770-同221年)の地方国家、越の貴族墓」とあり、日本に対する影響を考えるのであれば、同年代の日本出土の銅鐸を見なければなりませんが、写真を見る限り、形は鈴であるものの全く似ていません。鈕孔のある「取っ手」の部分が小さ過ぎるんですよね。日本の銅鐸の古形をキチンと確認した訳ではありませんが、どうも最初から「銅鐸」の鈕孔のある「取っ手」の部分は(舌のない)「鐘」の部分の延長線上にあるようです。越の「銅鐸」は形が大きいにせよシンプルにより鈴らしいと思え、形が全然違いますから、これは寧ろ日本文化(弥生文化)が越由来でない物証ではないでしょうか。筆者の推定では稲作文化は大陸においては「斉」(山東半島)から(朝鮮半島を経て)来ているはずです。

中国の考古学者が鐸と鈴との区別もつかないなんて不審過ぎますが、(時代的・地理的に)タコツボ化していて分からないのか、嘘を教えられたのか、(自分のところの文化も分からないぐらい)学問レベルが低いのか(自分のところの文化ですら日本・欧米の後追いをしているとでもいうのでしょうか)、単に日本人が分かっておらず勘違いしたのかは知る由もありません。

銅鐸の謎を探る(野洲市ホームページ※滋賀県)(銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)は物凄い研究レベルのように見えますね。さすが専門博物館です。ただそもそも「銅鐸」は鐸じゃないと思いますが、その辺は大陸の考古学や歴史史料が専門じゃない限界でしょうか。「許可なく無断転載を禁じます。」とありますが、引用(一般的ルールを守った著者の許可ない無断転載は)は当たり前なんで、その辺(誤解を招くような記述)は注意してほしいと思います。例えば政治家が何言ったっていうのを政治家の許可ないとコメントしていけないってならないでしょう?自分で通りに出した看板を読むななんて有り得ないでしょう?公開すること=一般的なルールに則った引用を認める・個人的な利用を認めるということです。時々分かってない方がいるような気がします)

>銅鐸紋様はすべて弥生土器に共通する紋様であり、銅鐸が共同社会の祭器として用いられたと考えました。
>銅鐸には何らかの紋様が鋳込まれています。銅鐸の祖形として有力なものに朝鮮小銅鐸(ちょうせんしょうどうたく)がありますが、朝鮮小銅鐸には紋様がなく、銅鐸はわが国で独自の紋様が鋳込まれ成立したものです。

「銅鐸」は弥生文化に共通する日本文化と言えそうです(銅鐸は日本の朝鮮の銅鐸を参考にしたと考えられますが、同じでない=つまり移民が持ち込み、移民ごと拡散したものではないとも考えられます。つまり文化の伝播というか受容です)。学者を含め日本人の9割が誤解しているような気がしますが(縄文人=在来系、弥生人=渡来人のステレオタイプが誤りと言っています。縄文人は確かに在来系ですが、弥生人も概ね在来系つまり縄文人の後身と言え、にも関わらず分かりにくいですが、縄文人がそのまま徐々に弥生人に変化した訳ではありません。筆者の考えで分かりやすく説明すると、渡来系を受け入れた九州縄文人が所謂弥生人でこれが拡散し、隆盛を誇った東日本の縄文人を吸収したと見ます。日本人が日本の中で「移民」したと言え、縄文人が弥生人で区別をとるステレオタイプもまた基本的には誤りです)、考古学的には渡来人=弥生人が有り得ないと言えると思います(他に例えば「列島初期稲作の担い手は誰か」(すいれん舎)・「弥生の村」(山川出版社)。日本の弥生文化は朝鮮文化でも中国文化でも満州文化でもありません。これは言語学(日本語は朝鮮語でも中国語でも満州語でもありません)でも遺伝子(「新版日本人になった祖先たち」(篠田謙一 NHKブックス))でも同じです。骨を見る人類学者が誤りを広めたんじゃないでしょうか(各種前掲書にそうした指摘は見られます)。人口増加率に差があれば、(長い時間をかけて渡来した)比較的少数の渡来人が遺伝子により大きな影響を与えることは可能です。

>銅鐸の絵には弱肉強食や農耕賛歌といった一連の物語がうたわれているとする解釈が有力です。
>人物は、弓矢をもつ狩人のほかに、盾と戈をもつ武人、脱穀(だっこく)をする人、ケンカの仲裁をする人、イチ字型工具をもつ人(魚とり)などがいます。先の一連の銅鐸では女性を三角頭、男性を丸頭で表現しています。鳥は祖先の霊(祖霊)や穀物の霊(穀霊)を招く神聖な動物だったと考えられます。弥生時代のムラからは鳥形の木製品が出土することがあり、朝鮮半島では村の出入口にソッテという鳥竿(ちょうかん=鳥形木製品を取り付けた竿)を立て、祖霊を祀っています。シカは単独で描くほか、列で描かれるもの、背中に矢を負ったシカや大きな角をもつシカと狩人が一対で表現されたものなどがあります。鹿は最も利用価値のある狩の対象物として、また弥生人にとって豊穣を表す象徴だと考えられていたのかもしれません。

鳥と鹿が神聖なものであったというのが示唆的です。そもそも弥生時代と古墳時代は前方後円墳によって分けられ、土器によって区別されるものではありません。古墳時代の土師器は弥生土器の流れを汲むものであり、朝鮮半島から製作技術が伝わり生産が始まった須恵器は古墳時代中期(5世紀)以降で土師器と並存したようです(土師器と須恵器 鳥取県立博物館)。そう考えると(古墳時代と弥生時代の連続性を考えると)神別の天孫族で土器を作った土師氏を渡来人と見るような見方がやはり誤りと考えられます。天孫族とはつまり弥生時代の始まりである九州から大和に来た日本人(渡来人・渡来文化を吸収した九州縄文人=弥生人)ではないでしょうか?ただし弥生土器そのものは縄文土器とは違い大陸系文化の影響が強いようです(やはり移民ではなく伝播のようではありますが。この辺は度々触れていますが、納得いかず興味のある方はご自身でお調べください)。

ともあれ鳥は伊勢神宮の神鶏・鳥居・常世の長鳴鳥(記紀神話・日本書紀に言う天の岩屋)との関連性が考えられますし、鹿は太占(フトマニ)や春日大社の神鹿との関連性が考えられます。日本の祭祀は農耕に関連が深いことも言うまでもありません。

>鉛同位体比によると弥生時代中期の銅鐸や銅矛は朝鮮半島産の鉛を用い、弥生時代後期の銅鐸や銅矛は中国華北産の鉛が用いられたようです。
>遺跡から発見された銅鐸鋳型をみると北部九州からも出土しているものの、その中心は圧倒的に大和、摂津を中心とする近畿地方です。このことから銅鐸とその祭祀は、近畿地方で考案され、周辺地域へ波及していたことわかります。
>北部九州でも銅鐸や青銅製の武器形祭器が鋳造されていますが、北部九州では基本的に終始石の鋳型を用いています。近畿地方が石の鋳型から土の鋳型に移行した背景には、近畿地方が北部九州を介することなく、中国や朝鮮半島と直接交流を持つに至ったことがと推定されます。鉛同位体比による原産地推定も弥生時代後期には中国華北産鉛が使用され、これらによって巨大な銅鐸鋳造が可能となったのでしょう。土の鋳型は奈良県田原本町の唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡を中心に出土しています。唐古・鍵遺跡遺跡では銅鐸のほかに銅鏃や銅戈、銅剣などの青銅器もつくられ、一大鋳造センターであったと考えられます。その一方で弥生時代後期になると畿内に限らず、近江や東海・北陸地方においても土の青銅器の鋳型や鋳造関係遺物が発見されており、青銅器鋳造が近畿地方の中枢部のみでなく、遠隔地の拠点集落などでも行われていたようです。

弥生時代の開始が北部九州に始まることは明らかですが、途中から大和が優勢になったことが考古学的にも明らかのように見えます。これは元々の生産力(面積の広さ)や東国との繋がりによるものだと考えられます(スケールは違いますが、イギリスを開拓地のアメリカは圧倒します)。記紀神話で皇室のルーツは日向(九州と考えられる)とありますが、魏志倭人伝を見ても(異論は誤りでしょう)史料的にも大和が九州を征服する流れです。これは古墳の広がりでも裏付けられますが、古墳の開始期を移民によって捉えるステレオタイプが完全に誤りで、元々その時には既に大和が九州を圧倒するような形勢だったと考えるべきではないかと思います。一時期流行った騎馬民族説も然りで移民で民族交代が特に日本のような島国でそうそうあったと考えるべきではありません。恐らく時代が比較的新しい大規模なものは弥生時代の開始期や大和朝廷の東北進出・和人の蝦夷地進出(沖縄も恐らく同じ)といった最初の一回だけだと筆者は思います(その最初の一回が渡来人では全くないことは既に指摘しました。他にオホーツク人といった北からの移民(オホーツク人=アイヌ説も誤解だと思います)及び旧石器時代あたりの北回り・氷河期なんかは考慮する必要があるかもしれません)(詳しく繰り返しませんが最初の一回もなく縄文人から弥生人にただ移行したのだという見方も誤りだと思います)(「神武東征」を外国人と存在否定の二拓で考えるのが誤りで、誤りの原因に古い時代の日向(宮崎県)の考古学的状況や日本の地理的歴史的常識があると思います)。

近畿地方が北部九州を介さなかったとすれば、出雲を介していたと筆者は思います。これが記紀における出雲の重要な扱いに繋がるのではないでしょうか?始めから出雲を想定するのはアウトでしょうが、一度北部九州から大陸へのルートが出来てしまえば、北部九州の沖を素通りするルートは決して不可能なものではありません。後の時代ですが、朝鮮半島をカットして渤海と日本は通じています。呉鏡の存在はあるようですが、少なくとも畿内勢力が北部九州(関門海峡)を抑えられて、大陸と通交するのはこの時代、かなり困難だと考えられます。また、関門海峡も抑えられない九州勢力に畿内勢力が手を焼く可能性も無さそうです。

>銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。
>銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。
>地中保管説

埋めてしまうと錆びてしまうようで、地中保管説は考えにくいようです。埋められた場所も村の境界だったりするようで、貴重品をそんなところに埋めてしまうと盗難されてしまう恐れもあります。どうも埋めさせられたことを想定した方が良さそうです(そんなもの誰も掘り返したりはしません)。寧ろ錆びさせて使えなくさせることが目的という訳です。これは記紀に銅鐸祭祀がないことにも符合します。

>扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式新段階には、各地に地域的な銅鐸群が生み出されるようになり、銅鐸祭祀は地域ごとに展開したかにみえます。

一案として畿内の勢力が(自分達の)銅鐸祭祀を普及させる時に古い(銅鐸)祭祀を止めさせたことが弥生時代中期後半の埋納の原因と考えることも出来るかもしれません。あるいはこれに九州勢力の東漸を絡めることも出来るかもしれません。九州勢力が畿内の古い(銅鐸)祭祀を止めさせ、新しい銅鐸祭祀を畿内を拠点に広めたという訳です。これが時が経つにつれ、再び地方の特色が出てくるようです。再地方化は古代官道の途絶や武士(軍事貴族/源氏や平氏は皇族の出)の土着といった文脈で理解できます。

>同じ銅鐸を用いながらも、近畿地方と東海地方ではやや異なった銅鐸を使用しており、それらを近畿、東海勢力の政治的しくみと対立などと解釈する考えもあります。しかし三遠式銅鐸に絵画銅鐸が残り、内面突帯に摩滅痕跡が認められることなどから、三遠式銅鐸は古い銅鐸祭祀を継承するものだと考えられ、近畿式銅鐸は畿内が先導する新たな宗教的・政治的な祭器だと考えられます。

普及させることは出来るのですし、それ以前にそうしたのですから、普及しない理由があったと考えるべきだと思います。魏志倭人伝の邪馬台国が畿内はもはや考古学的に(その他傍証もありますが端折ります)間違いなく、対する狗奴国はその実力と位置から東海地方しかないような気もします(他に関東?あるいは北陸。この時期に東北はありえず、畿内以西を想定するのは北部九州まで連合していることから難しいでしょう)。これを否定するなら、他に狗奴国の位置を考えねばなりません。農業生産力とかで東海が畿内にそう劣ることもなかった(だから戦いになった)んでしょうが、大陸との窓口を押さえられた畿内が有利だったんだろうと思います。以前の畿内に似た銅鐸祭祀というのが技術の違いと言えるでしょうか。必ずしも技術の先進性が戦争の勝敗を分けると思いませんが、古代畿内勢力は随分強かったように思います。

>弥生時代中期まで、銅鐸を鋳造していた畿内からは、弥生時代後期の大形銅鐸の出土例が極めて少なく、畿内中枢では銅鐸祭祀から、いち早く銅鏡など用いた新たな祭祀へと移行したようです。その一方で、畿内は近畿式銅鐸を用いて、東海地方など周辺地域との政治的連携を模索したようで、三遠式銅鐸が使用していた東海地方では遅れて近畿式銅鐸が入り込んできます。

近畿式銅鐸が入り込んだところが畿内勢力に与したところではないでしょうか。前方後円墳もこれに似たところがある感じですね(古墳時代前期前半に東日本(東海・関東地方)で前方後方墳が多く造られたなど地域性が見られ、狗奴国=前方後方墳という見方もありますが、巨大な前方後方墳は畿内という批判もあります。この辺はあまり厳密に考えずに圧倒的に力がある畿内が前方後方墳を巨大に造ってみせたのような理解もできるかもしれませんし、何らかの血縁関係も考えられます。豊臣秀頼の妻は徳川秀忠の娘ですが、妻問婚の古代日本で母系の祭祀を引き継いだと見ることもできるかもしれません。古代日本の畿内における遷都の多さは母系重視と関係があるという説もあるようです)。南北朝の争いなんかを見ても、特定の地域で支持が入り乱れるような状況に違和感はありません。畿内勢力はあえて差別化して銅鐸の形式を変えたと見ることも出来るかもしれません。

>近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。また、野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。

銅鏡祭祀とか新しい祭祀をやりたくなったのかもしれませんね。これを王朝交代と結びつける見方もありますが、早計ではないでしょうか?遣隋使とか遣唐使で文化を輸入し大きく変えたからと言って、王朝交代したなんて主張する人は存在しません。古墳時代への移り変わりの時期には魏志倭人伝参照ですが、中国からの使者が到来するのような画期もあると考えられます。故意の破壊が問題ですが、海外事例でもあるものの、秦の始皇帝の焚書坑儒が類似事例に挙げられるかもしれません。王朝交代というより統一に伴う宗教弾圧という訳です。日本の事例で言えば明治維新に伴う廃仏毀釈も皇室は変わってないという言い方もできそうです。記紀における古墳時代の最初の天皇は崇神天皇と言われますが、鬼道をやっていた卑弥呼(や台与)の存在が見えないと言う人もいます。筆者は倭迹迹日百襲姫命や豊鍬入姫命だろうと思っていますが、この辺は「祭祀の交代」に関連する可能性が無いとも言えません。いずれにせよ、古墳時代の開始期は「最初の」「日本」の統一だと位置づけられ、参考にすべきは秦の「始皇帝」の事例なのかもしれません。大和朝廷は連続していたものの「日本人」を統一するに当たっていろいろやったと考える訳です。インドにおいても十六大国の時代を治めたマガダ国マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を深く信仰したことで知られます(当時の記録によれば中央インド統治にとって最大の障害だったカリンガ国征服の際、「多数の徳のあるバラモンが死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。」のだそうです。ウィキペディア「マウリヤ朝」2019/4/8参照)。統一するのに地方色は邪魔でしょうし、それは最初の統一であればあるほどそうなんだろうと思います。違いが大きすぎるとそれはもはや別民族なのでしょうが、ひとつの農耕民族が拡散して、「地方」がそれそれ個性ある独立国を築く場合が歴史に多く見られます。元が一緒という意識は恐らくあって、であるがゆえに統一への求心力もある場合がありますが、(一々例を挙げませんが)その辺は言語や宗教というより地理的区分が重要かもしれません。とにかく「王朝交代史観」「民族交代史観」「漸進的変化絶対史観」が誤りの温床だと筆者は考えており、銅鐸祭祀の破壊・放棄を安易に王朝交代・民族交代に結びつける見方に筆者は否定的です。

さて話はここで鈴木に飛びますが、鈴木の由来は「和歌山県南部・三重県南部(別名:熊野)の方言で「積んだ稲の穂」を意味するスズキから穂積氏が平安時代に称したと伝える」というふうに伝えられてきました(鈴木 日本姓氏語源辞典)。しかし、穂積(ホヅミ)はそのまま「積んだ稲の穂」ですが、「積んだ稲の穂」をスズキと言うなんて、幾ら考えても理解できるものではありません。

これはひょっとして鈴木とは鈴=銅鐸を吊るしていた木のことではないんでしょうか?銅鐸を弥生時代に鈴と呼んでいたならこれは理解できます。銅鐸は弥生時代の日本を特徴づける祭祀です。少なくとも銅鐸を木に吊るしていたなら、その木にも何らかの名前があったはずです。銅鐸は畿内中心の文化ですが、後に廃棄されるものの、周辺にはしばらく文化は残っていたようです。畿内から見て古風な熊野の文化を見て記紀神話が創られた可能性も考えられます。埋納された時期とのズレがあると仮定しても何らかの形で鈴木の名が残ったとも考えられます(神聖な木を鈴木と呼んだとか)。

さて「銅鐸」の材料ですが、初期のものほど錫(すず)の含有量が高いようです(古代日本の青銅器の原料産地を訪ねて 計測と制御1989年8月 平尾良光>初期の銅鐸にはスズが10%以上、鉛7%程度と高い濃度である。中期にはスズが5%程度とはっきり低くなっているが、鉛は7%程度とあまり変化ない。後期になるとスズは4~5%と中期とあまり変化はないが、鉛が中期の半分くらいの3%程度となっている)。錫の生産地が何処か検索で分かりませんでしたが、日本でも産出するようです。銅鈴文化と錫の名前の一致は何か関係あるのかもしれません。

畿内辺縁の伊勢の川に五十鈴川もあって、鈴という言葉が地名にあるのがどうも不審です。弥生文化を代表する銅鐸(スズ)文化が地名に残ったと考えれば理解しやすいと筆者は考えます。

縄文時代から日本に鈴文化はあったようです。縄文時代にクルミなどの木の実やマメを振ると外殻や鞘の中で種子が動いて鳴ることに着想を得て作られた道具ともいわれ(ウィキペディア「鈴」(2019/4/8)参照)、世界各地に鈴はあったようです。土器製作能力があった縄文時代で土鈴が出土するようです(縄文時代 土鈴 グーグル画像検索)。弥生時代に朝鮮小銅鐸を見て、楽器として(土)鈴の一種だと認識して、銅鐸をスズとそのまま呼んだ可能性があると思います(ただし紐穴はないようで、使い方は握って振ったか、紐でグルグル巻きにしたかもしれません)。いずれにせよ、鈴(銅鐸)を鐸と説明されなかったでしょうし、レイ(朝鮮語/満州語で何と言ったか知りませんが)をそのままレイと呼ばず、楽器繋がりでスズと和語に置き換えたような気がします。同じものを造らず差別化したのは当時から民族が違っていたからでしょうが(つまり渡来人=弥生人説が有り得ません)、わざわざ差別化して造るメンタルと和語で表現するメンタルは同一のもののような気がします。

銅鐸をスズと呼ばず別の何かで呼んで、縄文以来の鈴が地名に残った可能性も否定は出来ませんが、いずれにせよ、銅鐸が鐸ではないことだけは間違いないということは強調されるべきですし(鐘でもなく鐸は鐸で別のものです)、当時の中国人に言わせれば、銅鐸は銅鈴だったはずです。見た目は似ているにせよ、振って使う楽器と吊り下げておく楽器では決定的な違いがあります(勿論吊り下げておいて風で揺れたり体を動かす時の振動で音が出る楽器が鈴なのであって、撞いて音を出す楽器が鐘ですから、これの混同も有り得ないということになります)。楽器を浅く見た目で分類するのが誤りで、音を鳴らして使うことにより、細部の違いの重要な意味が見えてくるということになるんでしょう。全部bellだという文化も間違いではないでしょうが、こと中国文明圏(当時)で「銅鐸」を鐸と表現するのはかなり恥ずかしい間違いのような気がします。

巨大化したという「見る祭器」の後期の「銅鐸」も特に理由がない限り(物理的に音が鳴らないというのでなければ)、この鈴という意味で楽器と見るべきではないでしょうか?注連縄なんかも巨大なものもありますし、鐘も非常に重いのがブラ下がっています(現代のものは鎖でブラ下がっているようですが)。鈕孔の大きさが気にはなりますが、「銅鐸」は基本的に吊り下げられるものという前提でないと鈕孔の意味が分かりません。

銅鐸に伴う「舌」について(服部信博 愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要3)参照で「銅鐸」の舌の材料に、青銅・石・有機物があるようです(材料が様々だったことが出土例が少なかった理由なのかもしれません)(材料が様々だったのは消耗品だったからではないでしょうか?有機物だったら貴重な鈴を磨耗させないとも考えられます。あるいは様々な音色を楽しむためだったからかもしれません)。また大型化した「見る祭器」と言われる「銅鐸」も舌があって程度問題で基本的には音が鳴ると認識されていたと見ていいようです。

熊野神社の銅鐸(高知県の観光情報サイト よさこいネット)

>県指定の文化財。
1186(文治2)年、平重盛の家臣大野源太左衞門が、紀伊の熊野宮から勧請したと伝えられる熊野神社のご神体とされている弥生後期の銅鐸。
出土地は明確ではなく神社の近くで発掘されたといわれている。

ご先祖様のお宝を発掘してご神体としたものでしょうか。鏡が多いようですが。卑弥呼の鏡として話題になった三角縁神獣鏡(邪馬台国畿内説においては畿内で多く出土することから(?)中国鏡として扱われてきました)もその量と中国における出土状況とその形の独自性から、現在は日本で製造したと考えるようです。考えてみれば、これは当たり前の話で銅鐸や銅剣が膨大に出土するのですから、日本に製作能力がなかったかずがありません(鋳造遺構(参照:唐古・鍵遺跡史跡公園とは)も出土するようです)。原料の鉛は測定結果で輸入と出るようですが、翡翠なんかは日本のものが大陸に渡ったりするようですし、史書にもあるように貿易・交易して材料の取引はあったと見るべきなんでしょう。畿内で多い鏡は畿内が大量に造って配布していたと見るべきです。かがみという言葉も和語です。元は水鏡だったか何かは分かりませんが。つまり結局三角縁神獣鏡が畿内製であったとしても、普通に考えて九州説の補強どころか大和説の補強にしかなりません。中国に貰った鏡がどの鏡か知りませんが100枚程度ですし、日本の鋳造技術で独自のものを大量に造って配布する能力があったのが邪馬台国だと思います。

高知(土佐)は山脈で他の四国と隔絶されますが、熊野も言わば似たような位置にあります。「銅鐸」の出土と神社に祀ることもあるいは偶然ではないのかもしれません。

鈴木は紀伊発祥と言いますが、東日本に多いですね(長野が周辺よりやや少ないのは内陸だからなんでしょう)(西日本では愛媛と宮崎がやや多い。海の文化や神話との絡みでしょうか)。縄文文化が栄えたことに関係ありますかどうか。

いろいろ書きましたが、最後に纏めると弥生文化(日本文化)で隆盛した「銅鐸」文化が吊り下げて音色を聞く鈴文化だと断定されれば、何処に吊り下げていたかということになります(紐は稲わらか何かだったでしょうか)。そしてそれは神木だったかもしれませんし、望楼など建物内にあるとしても吊り下げるためには梁のような木が必要だと考えられ、鈴木という名前だったかもしれません(特に前者であれば、地名・姓氏になりそうです)。ただ、風雨に晒されると錆びますから、保管は建物内で祭りの時に神木に吊ったとも考えられます。これならそこまで日常で磨耗しませんし、外なら風で自然に揺られる環境です(大体が外国事例ですが、そのような姿が中国人に記録されています)。通説の鈴木ですが、例えば果実の鈴生りと神楽鈴は似ていますが(音は鳴らないにせよ、実と鈴が群れる様が似ていますし、種=舌の構図があります)、何故稲束の頂点の木が鈴木と言われるか理解が難しい気がします。