平成に幕...「天皇陛下」4月30日退位 大震災後福島県6度来県(2019年04月30日 福島民友ニュース)
>震災以降の両陛下の本県訪問は6度に上った。
>避難所で膝をつき、被災者と同じ目線で語り掛けるその姿と、優しいまなざしは復興に歩む県民に大きな希望を与えた。
>在位中、最後の訪問は昨年6月、南相馬市原町区雫(しどけ)の海岸防災林整備地を会場に行われた第69回全国植樹祭。両陛下とともに、約8000人もの参加者が植樹したクロマツなどの苗木は、いまも少しずつ成長を続けている。
マツ(ウィキペディア「マツ」(2019/6/5))
>マツ属の葉は短枝と呼ばれる枝の一種に数枚が束になってつく。その数は個体内での多少の差はあるものの2枚、3枚ないしは5枚が束になって生えていることが多く、種によってその数は決まっている。
>日本では二葉松はアカマツ (P. densiflora)、クロマツ (P. thunbergii)、リュウキュウマツ。
>五葉松はゴヨウマツ、ヒメコマツ、ハイマツ、チョウセンゴヨウ (P. koraiensis)、ヤツタネゴヨウが知られている。
>三葉松は、アメリカ大陸を中心に分布しテーダマツ (P. taeda) やダイオウマツ (P. palustris) などが知られている。日本には3葉のマツは自生していないものの、化石の研究からオオミツバマツ (P. trifolia) と名付けられた種が分布していたことが確認されている。
被災した双葉郡を意識して平成天皇、皇后両陛下(当時)はクロマツやアカマツを植えられたんだろうと思います。クロマツが雄松(オマツ)で、アカマツが雌松(メマツ)になります。松は白砂青松(はくしゃせいしょう)で日本の美しい海岸の風景のたとえですが、この松は主にクロマツのことなのだそうです。松は冬でも緑を絶やさない常緑樹で縁起物とされます。松は古来、和歌で「待つ」という動詞と掛詞として使われてきたそうですが、植樹された松が成長し、福島が復興することが期待されると思います。
福島でフタバと言えば、フタバスズキリュウ(巨大動物図鑑)も想起されます。1968年に福島県の双葉層群という地層から当時高校生だった鈴木氏によって発見された首長竜の化石ですが、2006年5月、エラスモサウルス科の新種としてフタバサウルスFutabasaurus suzukiiと正式に命名されているようです(いわき市石炭・化石館)。フタバスズキリュウは北太平洋では最古の首長竜とされるようですが、北海道道北中川町の国内最大のモレノサウルス(ナカガワクビナガリュウ)のレプリカ標本も結構すごいようです(中川町エコミュージアムセンター)。首長竜は水棲爬虫類の一種で厳密に言えば恐竜とは言わないようですが、筆者の見たところ、じゃあ巨大な水棲爬虫類を爬虫類扱いしてどんな意味があるの?ってことになりますし、翼竜類の扱いもありますから、爬虫類の巨大なもの=恐竜って扱いでいいんじゃないかと思います(ワニが恐竜ってことになってしまいそうですが、アレ滅びてない恐竜なんじゃないですかね。参考:7mを超える世界最大の超巨大ワニ(ランキング&画像) ailovei)。首長竜に胎生か卵生かという議論があるようですが、どう考えても胎生だと思います。爬虫類だから卵生は思い込みじゃないんでしょうか?胎生は魚でもあるようですし、胎生は生物の歴史において何度も独立に進化しているようですから、証明されない限り卵生でなければならないというより、胎生だろうけど卵生と証明されたら驚きって感じじゃないでしょうか。幾らなんでもあの大きいのが陸に上がらないというか、方向転換すら難しそうです。首長竜の首が長いのは柔軟に首を動かして魚を捕らえるためのようです(首長竜は何故、首が長く進化したのですか? yahooo知恵袋)。多いものでは80個近くの首の骨があったようです。プロントサウルス(カミナリリュウ 竜脚類)やキリンのように復元するのは間違いなのかもしれません。海面から大きく首を出してどうするというんでしょう。息継ぎなら頭だけ出せば十分ですし。ネッシー残念!
双葉郡は明治時代に楢葉郡(ならはぐん)と標葉郡(しねはぐん、しめはぐん)を併せて成立。福島からの避難者ら上賀茂神社参拝し復興祈願(産経ニュース 2015.3.12)したことがあって、これは雷と電力を掛けたもののようですが、両賀茂神社のご神紋がこの双葉葵で双葉郡も意識したものではないかと思います。和歌では葵(あふひ)を「逢ふ日」と掛詞にします。双葉葵のフタバは、茎の先に葉を2つ、対生状につけることが由来であり、カンアオイ属で所謂アオイ科の植物とは種が違いますが、葉がアオイ科の植物に似ていることから、共通の名前であるようです。源氏物語の葵の上の葵も葵帖に由来し、葵帖は葵のかんざし(髪挿し)の和歌に由来するようです(草木の枝や花を髪にさすことは「かざす」といい髪挿すの転です)。平安時代、祭といえば両賀茂神社の賀茂祭のことを指しましたが、江戸時代に賀茂祭が再興された後、葵祭というようになったようです。徳川家の葵の御紋は三つ葉葵で架空の存在(鳳凰とか龍とか、植物で言えば扶桑とか世界樹のようなものなのでしょう)ですが、賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきたのだとか。原発事故で南北に別れてしまった双葉郡が何時か復興することを願っています。
さて、具体的に福島の復興を考えていきます。福島の復興を目指す組織としては、福島復興再生総局があって、復興庁福島復興局、環境省福島地方環境事務所、原子力災害現地対策本部を統括する組織として、福島市の福島復興局内に事務局が置かれているようです。総局の長は復興大臣(福島原発事故再生総括担当大臣)。
筆者は沖縄における産業の振興開発に寄与する事業に必要な長期資金の貸付けなどを行っている沖縄振興開発金融公庫のような福島におけるビジネスを支援する特殊法人・政策金融機関が福島の復興を早めるのではないかというアイディアがありますが、その妥当性は分かりません。事故対策は既存の組織が対応しているはずですが、単なる事故対策を超え、福島が復興したと言える状況を創り出すには福島におけるビジネスを盛んにせねばなりません。それを政策的に誘導する専門機関が政策金融機関だと思います。これが福島に必要なのは事故が起こって処理に長期間かかるというハンディを背負っているからです。日本の原子力政策の失敗・防災政策の失敗は皆で負担するべきでしょう。勿論底なしで支援できるという訳ではありませんが、少し有利な金融機関を設置して福島でやろうという企業や個人を支援するのが妥当のような気がします。既存の機関との競合も考えられはしますが、それは設置ありきで解決できる話だと思います。既に何らかの措置でビジネスが有利になっているかどうかは知識がありません。福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想があるのは承知していますが、イノベーションと浜通りが対象と認識しています。ラベリングは主に福島で行われていると思いますので、浜通り以外に恩恵があってもいいような気がします。
前置きは以上ですが、福島を地域別に分けてどんな産業があってどう復興させればいいか検討していきます。順番は会津→中通り(南→中→北)→浜通りです。あくまで経済の復興の話ですので、重要なのは如何に生産性を高め、労働力と資本を集めるかだと考えます。
まず中通り南部の白河都市圏。ここは古くは奥州の三古関の内のひとつ白河の関があったところで(他にいわき市勿来関、鶴岡市鼠ケ関)、みちのく(奥州・羽州)の玄関口とされてきたところです。白河関跡(白河観光物産協会)によると、>その後律令制の衰退とともにその機能を失いましたが、『歌枕』(和歌の名所)として文学の世界で都人の憧れの地となり、能因や西行、松尾芭蕉など時代を代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しています。和歌・俳句から見るふくしま(福島県立図書館)参照で>『奥の細道』は、「月日は百代の過客にして」という有名な冒頭の少し後に、「春立てる霞の空に、白河の関越えん」との一節が続きます。分水嶺の南が有名な観光地の那須で白河高原としての観光開発もあるようですが、東北観光の始まりとしてのポテンシャルもあるかもしれません。少子高齢化で需要が縮小するのであれば(働き方改革しても抜本的な対策にはならないとも考えられます)、新しい需要開拓のターゲットとしてインバウンドは外せません。外国人にも分かるように何処が風流かを説明できれば面白いんじゃないでしょうか。仙台・松島等とのセットでの売り出しも考えられます。世界で知名度のある日本人ベスト34を発表!(日本を徹底分析して世界でのイメージやランキングを公開)によると、国際的な知名度No.1に松尾芭蕉がいます。これは潜在需要と言えるような気もします。霞(かすみ)は文学的表現でよく使われる主要な和語で、ウィキペディア「霞」(2019/4/30)参照で①霧・靄・煙霧などで遠くの景色がぼやけている(=かすんでいる)様。やや文学的な表現で、気象学用語ではない。春の季語。②朝焼け・夕焼け。(原義)③霞 (修験道) - 修験道特に本山派の地域ごとの支配・管轄地域。④研ぎ仕上げの技法。⑤合わせ鍛えの包丁。・・・という多義的な意味を持つ言葉です。春の山野に立ち込める水蒸気が文学における季語の霞だと思いますが、たまたま霞が発生しておりその情景を切り取ったものか、あるいは霧のようなものを指している訳ではないのかは筆者に分かりませんが、関心のある人にガイドできる人がいたり、ガイドブックがあったりすると面白いのかもしれません。外国のガイドブックは分厚く文字による説明を好む傾向があるようでもあります。修験道(日本の山岳宗教)や研ぎに関係するというのもポイントで、外国人からみた和を感じさせる要素でもあるのかもしれません。忍者で霞の用語は頻出し、修験道と忍者の関係も示唆されます。松尾芭蕉=忍者説も存在しますね。霧とスモッグの区別は必要な気もしますが、幻想的なイメージの霧はスコッチやお茶や山水画なんかで売りにもなっていると思います。白河の関跡(トリップアドバイザー)参照で、関跡はそれほど開発されていないようですが、関が原観光があるなら、白河の関観光があってもいいような気もします。特定の場所に限らず、分水嶺/関東と東北の境というテーマで適地を探す発想があってもいいと思います。図で解説!雨の分かれ道「分水嶺」とは?知れば知るほどおもしろいその秘密(YAMA HACK)参照ですが、同じ東北で山形県山形市堺田の分水嶺なんかは広場が整備されており、松尾芭蕉も泊まったという封人の家(最上町)(国境を守る役人の家)があるようです。分水嶺と言っても同じ太平洋岸ではありますが、東北と関東の境というのが重要だと思います。
東北とは?を考えていて陸奥/東山道の歴史を見る中、やはり現代におけるメインストリートは白河に始まり青森に到達する阿武隈川~北上川~八戸・青森ラインなんだろうと思いました。とにかく人口密度が比較的低いところがポイントですから、勿論渋滞する場所もあるでしょうが、ここをドイツのアウトバーンのように飛ばせるポイントに出来ないかとふと思いました。ドイツのアウトバーンもいろいろ誤解はあるようですが、何処でも無制限という訳ではなく、渋滞する箇所では速度制限もあって速度違反すると捕まることもあるようです。速度を出せるスポーツカーも速度を出せなければ宝の持ち腐れとも考えることが出来ます。あるいはドイツのスポーツカーが強い理由もアウウトバーンにあるのかもしれません。アウトバーンは無料ですが、有料の日本の高速道路で出来ないはずがないんじゃないでしょうか。富裕層消費の拡大も日本の消費拡大の鍵を握っていると思います。あるいは北海道や南九州が対象であってもいいかもしれませんが、特区など検討されてもいいのでは。場所はやはりトンネルが少ない区域が対象になろうかと思います。
次いで東北第二の都市とも言える郡山都市圏。ここは交通の結節点「陸の港」として著しい発展を遂げた勢いのある都市です。郡山の名は古代安積郡の郡役所に由来し清水台遺跡がその跡だとか。当時としては大変珍しい瓦葺きの建物があったようです(郡山の遺跡 文化財調査研究センター)。安積疏水による開拓や水力発電が発展の礎だったとも。コンベンション都市でもあり、新たな産業の振興に勤める産業都市でもあるようです。音楽都市としての売りもあるようですが、コンベンションとのシナジーを考えても、生産と裏腹で需要拡大を考えても(お金を貯めても消費か投資に繋がらなければ意味がありません。守銭奴は後世に埋蔵金を残すぐらいしか役に立たないでしょう)、音楽都市としての消費拡大で文化振興をそのまま推進してもいいんじゃないかと思いました。スポンサーあっての文化です。東北や関東から同好の士も集まるでしょうし、音楽が復興の支えという話もあります。音楽都市・グラスゴーから!|トピックス|創造都市・浜松を参照すると、浜松なんかがそういう発想で音楽都市をやっているようですが、>音楽都市としてのグラスゴーの特徴はスコットランド地方に残るケルト文化をベースとした音楽であり、毎年冬に開催されるケルティック・コネクション音楽祭は市街地のコンサートホール、クラブ、劇場等を舞台に2週間以上街中が音楽一色で染まる一大イベントとなっています。その他にもバグパイプの音楽イベントとして「世界パイプバンドチャンピオンシップ」や「パイピングクラブ」も開催されています。・・・とのこと。東北で音楽と言うと、津軽三味線をイメージしますが、津軽以外がやっちゃいけないってこともないような気もします。伝統楽器と言えば、伝統材料ですが、現代的な材料に変えるって手も考え方もあるような気はするんですよね(あくまで選択肢です)。当地じゃないってことで。意外とその辺が飛躍のネックになっている可能性もあるような気がしないでもありません。それはともかく和楽器で現代的な音楽をやってもいいような気もしますし、東北の音楽の特徴なるものがあるか分かりませんが、音楽都市が新たに特徴をつくってもいいはずです。和楽器で太鼓や三味線など人気集団はありますが、コンサートホールのような場所と結びつかないような気がしており、せっかくですから、和楽器と言えばあの都市みたいな都市があっていいような気がします。京都がそうなのかもしれませんが、あそこはオーバーツーリズムですし、伝統と格式の縛りがあるような気もします。オペラハウスなんかがありますが、演劇と音楽も切っても切り離せません。日本の音楽はリズムがないとも言いますが、不審に思うのは拍子(ひょうし)という言葉は伝統的にあるということで、能楽用語で8拍を一単位とするリズム構造を八拍子(能楽用語辞典)というようです。新しい産業に取り組む郡山ならでは?
県都福島市のシンボル的存在が信夫山(しのぶやま)。福島盆地の中、全国でも珍しい街の真ん中に浮かぶ小山で所謂ランドマークですが、標高が275mあって、愛媛県松山市のランドマークである松山城がある城山(勝山)が131mですから、2倍超の高さがあることになります。登山趣味の入口として親しまれ、山岳信仰の対象として、出羽三山の分社があり、熊野山、羽黒山、羽山の三峰で構成され信夫三山とも言われます。今年は開催が終わっていますが、信夫山公園桜まつり(るるぶモール)は大勢の人でにぎわい、山頂からは福島市内を一望でき、福島市民に親しまれる山のようです。歌枕として詠まれる対象としては福島県随一で伊勢物語でも詠まれているとか(信夫山 - 蝦夷・陸奥・歌枕)。信夫は当て字で本来「忍」「偲」「恩」とも言われ、しのぶという語感の響きは恋しのぶ・しのび逢い・しのび居る・耐えしのぶ・忍び泣き しのび足・しのび音・しのび寄る等王朝・鎌倉時代にかけてもてはやされたそうで、アニメ映画となりのトトロ主題歌のモデルになったり、何かと文学の対象となる山のようです。現在ではガイドセンターがあって、フォトコンテストが開かれたり、シンポジウムが開かれたりします。
江戸時代から300年以上の歴史がある信夫三山暁まいりを参考に1970年から夏祭り「福島わらじまつり」が行われており、開催翌日に日本一の大わらじと絵馬はスタッフ有志により信夫山羽黒神社へ奉納されます。東北6県都の代表的な6つの夏祭りを一同に集めた東北絆まつり(東北六魂祭)の一角。草鞋(わらじ)とは、稲藁で作られる日本の伝統的な履物(サンダル)の一つで、現在では使用されなくなったものの、キーホルダーになるなど日本人に馴染みがあります。由来・語源辞典によると、「わらぐつ」から、「わらうづ」→「わらんづ」→「わらんじ」と転じて、「わらじ」となったものらしいのですが、そう考えると、藁沓(わらぐつ)以外のクツもあったということになります。調べてみると、「烏皮 (くりかわ) の履・浅沓 (あさぐつ) ・糸鞋 (しがい) ・麻沓 (おぐつ) ・錦鞋 (きんかい) など、革・木・絹糸・麻・錦・藁 (わら) などで作った。」(デジタル大辞泉)のだとか。何処かにわらじとか、かかし(鳥獣を避けるため獣肉を焼き焦がして串に通し、地に立てたものもカカシと呼ばれるため、直接の語源は「嗅がし」ではないかとも言われる)やニオ(刈り稲を円錐形に高く積み上げたもの。稲むら。稲にお)、注連縄とか、日本の中心文化である稲作にまつわる民俗や民具・技術や風景に関する博物館があってもいいような気はします(田畑 吟行用語集)。まぁ、「食と農」の博物館 | 東京農業大学や岩手県立農業ふれあい公園 農業科学博物館や農場博物館 -東京大学生態調和農学機構(わら細工・クラフトのイベントがあるようです)や秋田県立農業科学館があるようですが、農業だと対象範囲が広過ぎるような気もしますし、博物館におけるデジタルアーカイブをどれだけ進展させているのかなと思わないでもありません。紙の資料があってもいいと思いますし、公金投じて博物館をやるのであれば、研究成果を広くアクセスしやすくして、社会に還元してもいいんじゃないかと思います。それで関心を持つ人が増えたところで博物館に訪れる人が増えるみたいな。そうやって知識にアクセスしやすくしておけば、それを利用して生産性を高める人もいるんじゃないでしょうか。靴なんかも同様で日本の伝統衣服で言えば、青梅着物博物館があるようですが、デジタルアーカイブという観点など物足りないところがあるような気がしますし、皇室や江戸時代の貴重な衣装(着物)を展示しているということですが、日本文化と衣服という観点で研究拠点になったり、知識を広めたり、体験観光できたり、何かいろいろ出来るような気はします。予算の問題かもしれませんが。やりだしたらキリはないでしょうが、日本の伝統的衣食住の研究が進み広く公開されるなら、日本ならではの強みに繋がるような気もします。
信夫山は岑越(みねこし)山とも言われたそうですが、これは少し不審です。玄関口の白河方面から見て岑(峰)を越したところに岑越山があるという訳ではないからです。岑は岑越山のことであるというのが一般的な説のようですが(ネットで見かけましたが)、そんな日本語は無さそうです。少しでも楽をするためには山は回避するべきで(新幹線や国道が信夫山を貫いているようで、撮り鉄の対象になったりしているようですが)、わざわざ山を通るとは思いにくいところでもあります。峰を越したところが峰越で峰越にある山が岑越山だと考えるのが自然です。そう考えてみると、東北(陸奥)の中心地である多賀城(宮城県仙台付近)や出羽柵(山形県庄内地方)の両者から見て、峰を越えたところがあるのが峰越ではないかと思えてきます。特に概ね陸奥の国として同一ですし、国衙から見た名前がついて不思議がありません。阿武隈川が福島県ー宮城県を貫き、ピンと来にくいところはあるのですが、古来より奥州街道では(信夫山からやや北にある)国見峠長坂が難所で、道の駅国見「あつかしの郷」と千年のまちくにみ巡り(JR東日本)によると、「松尾芭蕉の「おくのほそ道」でも険しい道のりと記された国見峠の街道跡です。長坂をのぼると、平場には茶屋が2軒あったと伝わり、多くの大名・旅人が行き来した当時の面影を今に伝えています。」とあり、交通の往来があって、印象的な難所だったようです(距離の面で言えば、出羽に向かう峠の方が近いです)。信夫郡一帯は当初は東北の最前線だったようで、そこから峰を越したところに目立つ山があったともとれます。
国見町ですが、福島市都市圏ということで、阿津賀志山防塁なんかも面白いと思います。奥州平泉政権の防塁ですが、(世界遺産に入っていないようですし)もしかしたらちゃんと残っていないのかもしれませんが、山腹を始点に3km余にも達し、延べ40万人を動員し築造されており、それだけのものを造る力があったということで、目立たない印象ですが、東北を代表する文化資産と言えるような気もします(国指定史跡 阿津賀志山防塁 南奥羽歴史散歩)。東軍勝利を聞いた伊達政宗も上杉領に攻め入る際に阿津賀志山に本陣を置いたようですが、より高いところに軍を置くのが有利で東北勢の最前線となりやすい地形なのかもしれません。
以上ですが、全国トップクラスの出荷量を誇る桃は、福島市を代表する果物ですし、吾妻小富士(アズマは東夷(アズマエビス)など、ヒガシ(東)を表しますが、ヒムカシから転じたヒガシと違って、一般的に納得いく由来がないようです。関東・東北を表す言葉のようですが、ズマは褄で端 (つま) でしょうから、アが問題ですが和語としての意味が吾で我のようですから(「ア」の意味が理解できないと日本語の「意味の説明」ができない 「万葉仮名の六十二個」の一音節語の解説コーナー。)、我が端のことだと考えると、関東・東北のことでいいんだろうなと腑に落ちるものがあります(そう考えると、阿蘇は我が襲(ソ)ですし、阿多は我が多(氏)/田で阿部/安倍は我が部(ベ)ということになります。安倍に時々触れるのは古代史(東北や陰陽道)をやると止むを得ないというだけで全く他意はありません)も独立峰の名山と思いますが、この辺として白河に始まるみちのくの始まりであるところの福島県中通りに関する記事をひとまず終わりとします。
くるまの遊園地 エビスサーキット)D1グランプリの開催や年に3回ドリフト祭りが開催されており、外国人旅行者も訪れるなど、注目があるようです。日本の「ドリフト文化」が世界で注目があるとか。
次いで会津。独特の歴史・文化で観光資産がある地域です。観光と言いますと、今は発信より「やるべきことをやる」「整備だ」というデービッド・アトキンソンさんの意見(MSNニュース 2019/05/23)という意見に注目しています。やるべきこととは?という話ではありますが、筆者としては今の「解説」に多々疑問があるので、自分なりの視点で理解を深めることがやるべきことなのかなと思っています。
会津の縄文時代は阿賀野川流域で火焔土器があるようです。どうも会津は北陸と関東の出会う場でもあって、早くから南回り文化圏だった気配があります。越後―会津間は勾配・傾斜がきつくない特徴があって、縄文時代人が住みやすい土地だったんじゃないかと思います。豪雪地帯だとすれば、逆に食料保存の技術や縄文農耕は発達したんじゃないでしょうか。
会津の歴史 旧石器・縄文・弥生・大和(古墳)時代(会津若松観光ビューロー)
>縄文時代:はじめの頃は東北や北海道に近い形の土器が使われていたが、次第に関東や北陸地方の影響を受けた文化が進み、土器の種類も増え美しい文様をつけたものが現れる。
氷河時代の旧石器時代以来、日本が人類の発祥でなければ、日本に人類が辿りつくルートは概ね3つで、その内、ほとんど南は難しいですし(大型動物を追う旧石器時代にも関わらず、島嶼づたいになってしまいます)、概ね西と北の2つの潮流を押さえておけば良いようです。動物もプラキストン線による違いがありますね。縄文時代の東日本と西日本の違いもよく知られますが、やはり気候の違いは生物相の違いで文化を分けるところがあると思います。事実、沖縄方言は日本語のバリエションですが、アイヌ語と日本語に互いの痕跡はあれど、言語学的に系統が違うと言われます。つまり(縄文土器で区分される)縄文文化とは元々異質な2つの潮流の相互作用で生まれたとも言えるのではないでしょうか?どちらも先住民ですが、その来歴は違っていて、にも関わらず、土器という形式ではそのふたつの潮流は必ずしも区別できないという意味です。土器の形式に言語学的痕跡がある訳ではありません。いろいろ誤解があるようですが、縄文時代が単一文化とは思えません(答えを見た回答のようなものですが、アイヌと日本でその来歴が違うからです)。それはともかく会津は縄文時代当初、北方文化圏だったようですが、次第に関東・北陸圏と言える状態になったようです。その象徴が火焔土器という訳ですが、弥生時代は会津にも到来し、古墳時代の比較的早期に大規模前方後円墳が登場しました。
勿論、福島が東北でないという意味ではありません。その逆でもっとも早い東北が福島だったというのが筆者の考え方です。日本は北上し、東北は拡張していきます。東北の2代潮流に出羽(日本海側)と陸奥(中央・太平洋側)がありますが、出羽が新潟の延長線上にあると捉えられれば、会津が阿賀野川流域圏で新潟の影響を強く受けていましたから、わりと同じものとみることも出来そうです。元より山脈を越えれば出羽と陸奥は隣同士です。
新潟の火焔土器が派手は分かりますが、そのバリエーションにも見える王冠型土器も味わい深いものですし(拙稿)、会津は会津で阿賀野川圏として、あるいは関東と出会う場として、違う切り口で、かの有名な火焔型土器/王冠型土器を常設的に研究できれば面白いのかもしれません。それだけの出土があるかは分かりませんが。
前方後円墳で言えば、会津の前方後円墳はかなり早いことで知られます。山形(置賜地方)や宮城も割合早く大きいのですが、会津を経由したかもしれません。関東より早い感じで、北陸/新潟/阿賀野川経由で関東に南下も考えられ、これが北陸に派遣されたという四道将軍の大彦や稲荷山鉄剣銘を想起させるものがあります。
亀ヶ森古墳(4世紀後半/墳丘長:129.4メートル/福島県河沼郡会津坂下町大字青津/東北地方第2位・福島県第1位の規模)
会津大塚山古墳(4世紀末/墳丘長114m/福島県会津若松市一箕町/東北地方第4位・福島県第2位の規模)
やはり年代順で阿賀野川を伝って大和朝廷の勢力圏に入った感じです。これは卑弥呼の100年後で(九州説とは?・・・神武東征を踏まえて東漸説では全然なく、卑弥呼の時に大和が九州に入ってない説です)、被葬者は不明ですが、時期は神功皇后や応神天皇のあたりになります。神功皇后以前に成務天皇の志賀高穴穂宮があって、比較的早期に北陸から新潟に到達する動きがあったとも考えられます。前方後円墳は特に地方においてはポツンと巨大なのがあって、わりあいそれきりになりますから、(特に証拠がない限り)以降はそのまま大和朝廷の勢力圏と見ることも出来ます。
気になるのは青津という地名で、後の時代の飯豊青皇女(飯豊天皇)との奇妙な符合です。会津には山岳信仰で飯豊神社がありますが、修験道と絡めて山岳信仰文化は(土俗というより)わりあい日本的なものです。耶麻郡・山都町の地名もありますが、これは万葉仮名・古い当て字の残存で、やはり日本文化/大和文化との深い関連を感じさせるものです。会津という地名に関して言えば、阿賀川・濁川の合流点付近の津を表すとも考えられます。つまり、福島県河沼郡会津坂下町大字青津あたりが会津地名の発祥の地かもしれません。濁川は置賜方面に向かうルートとして重要で、置賜地方に会津同様、早期の前方後円墳は見られるようです。青は藍に通じるものもありますね。
前方後円墳ひとつでどうなるというものでもないでしょうが、きちんと整備してちゃんとした解説でもしておけば、観光地のひとつになるかもしれませんし、会津・福島の貴重な文化遺産と思っています。神社との関連も十分考えられるでしょう。
飯豊山神社.jpg
飯豊山や神社の由来は諸説あるようですが、筆者は記紀・神道の立場から考えてみたいと思います。
> 陸奥国風土記逸文「この山は豊受比売神の神域であった。(履中天皇の皇女である)飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納した。それでこの山を飯豊と呼ぶようになった」
飯豊もそうですが、青津・山都・前方後円墳(亀ヶ森古墳)含めて、偶然の可能性は全くないと思います。(履中天皇の皇女である)飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納したのが山名の由来で、イイデサンが通常の読みのようですが、福島県会津地方では「いいとよさん」とも呼ぶようで、こちらが本来の読みだと思います。名前が変った理由は定かではありませんが、イイトヨ=フクロウで舶来の不吉のイメージでトヨに通じるデに変えたのかもしれません。特別フクロウに似ている山でもありませんし、総合的に考えて、飯豊青皇女の由来すると考えるべきで、従ってというなら、フクロウの意味もあるのかもしれません。その前段階として神功皇后や応神天皇の頃に大和朝廷との繋がりが深まっての奉納だったんじゃないかと思います。
神功皇后紀に天照大神などの祭祀の記述はあるのですが、日本書紀に豊受比売神は登場しません。ただ古事記序文に崇神天皇の祭祀は称えられており、それは漢風諡号にも現れていると思いますが、崇神天皇の娘の豊鍬入姫命こそ台与(トヨ)で豊受比売神のモデルのひとつではないかと思っています。
続く時代の会津で際立つのは恵日寺(真言宗豊山派)のようです。磐梯山や猪苗代湖の近くですが、慧日寺は平安時代初め、807年に法相宗の僧・徳一によって開かれ、隆盛を誇っていたようです。平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなるようですが、源平合戦で城氏が平家方について、一時衰退するとか。やはり新潟との関係が意外に深くて、地図で一目瞭然ですが、阿賀野川流域の山地の低さが影響していると言えるのかもしれません。
>慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。
磐梯山慧日寺資料館もあるんだそうです。考えてみれば、福島県は名山が多いような気もしますね。
>慧日寺の開基は806年に磐梯山が噴火した翌年
>元は「いわはしやま」と読み、「天に掛かる岩の梯子」を意味する。
一目見て何が岩の橋かと思いますが、恐らく噴火・噴石が「天に掛かる岩の梯子」なんじゃないかと思います。古くは病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま)とも呼ばれたそうですが、山体崩壊も起こした激しい山のようです。裏磐梯からはその跡が見えるとか。日本の伝統的世界観は垂直型構造の世界観と言われ、高天原と黄泉国、根之堅洲国の中間に存在するとされる場所が豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)ですが、地上世界から高天原に向けて「いわはし」をかける山が「いわはしやま」=磐梯山ではないかと思います。
こういうのって観光にあるいはマイナスなのかもしれませんが、やはり噴火する山は噴火するんで、正しく怖がる必要があるんじゃないかと思います。昔の人は分かっていた。やもうさん。わざらわしやま。非常に美しい会津富士ですが、美しい花には棘がある、磐梯山には裏がある。火山と言いますと、世界ではマグマを見よっていう切り口もあるらしいです(火山のパワーを感じる、世界の「マグマスポット」! トリップアドバイザー)。マグマは熱すぎて痛いんだそうですが、危険を前提にした観光という切り口で整備したら面白いような気がしますね。
そもそも磐梯山の噴火がきっかけで会津の古代史・中世を代表する慧日寺が開山したようですし、元々修行の山だと思います。会津富士美しいねだけでは逆にもったいないし、差別化も出来ません。ただ福島県東部の阿武隈高地は逆に穏やかで知られます。火山って(カルデラ火山とか地質学的スケールで噴火するのもありますが)基本的にはそんなに広範囲に影響を及ぼすものではないので、やはり正しく知ることが重要です。噴石を想定したシェルターすら、やりようによっては独特の観光資源になる気もします。
続いて中世・近世史を簡単に概観しておきます。会津は結構歴史的に重要な位置を占めますので、歴史の流れを押さえておけば、観光もより楽しめると思います。
蘆名氏(丸に三引両)
鎌倉時代の有力御家人三浦氏(三浦三つ引)の出で、つまり遡れば平氏で神武天皇の子孫ということになります。室町時代には京都扶持衆として、自らを会津守護と称していたようです。 戦国時代の蘆名盛氏(会津黒川城 (のちの若松城) の時代が最盛期で、その菩提寺は曹洞宗のようですから、鎌倉(関東)と共に北陸と結構関係が深いのが会津という土地のようです。奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原(磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町))の戦いで大敗して、蘆名氏の時代は終わりを告げることになります。
蒲生氏(近江国蒲生郡)
蒲生氏郷(がもう うじさと)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えて活躍したことで知られる南近江出身の武将で、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主となっています。キリシタン大名ですが、利休七哲の筆頭にまで数えられた文化人でもあります。妻は織田信長次女ですが、戦国時代としては珍しく側室を置かなかったようです。娘が前田利政正室、南部利直正室になっており、伊達政宗を抑える大将としての会津移封でした。なお現代の南部家は後陽成天皇(1586年~1611年)の男系子孫で旧宮家より系譜上で皇室に近いということになります。近江の武将らしく建築も得意だったようで、黒川城を改築し、氏郷の幼名や蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付け、あわせて町の名を黒川から若松へと改めています(伊勢の松坂も同じく蒲生氏郷の命名ですが、ちなみに伊予勝山を豊臣秀吉の子飼いの武将加藤嘉明が松山と改名しており、松地名は当時の流行の吉祥地名です)。政策的には商業を奨励したようですが、今の会津を最初に形作ったのは蒲生氏郷と言えると思います(蒲生家は後に松山に移封されており、その後伊勢桑名の松平家が入ります)。蒲生氏郷の死後、嫡子の蒲生秀行(13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫(正清院)を正室に迎えたところ、蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封したようです。秀吉が家康に通じることを警戒したのではないかと思います。
上杉氏(越後春日山)~蒲生氏~加藤氏
代わって越後の代表的戦国武将上杉謙信の養子の上杉景勝(長尾顕景)が入部していますが、(越後に通じる)阿賀川畔の神指ヶ原に神指城の築城を開始しています。秀吉の没後に徳川家康の会津征伐が始まり、西軍が呼応した形で関ヶ原の合戦に繋がります。西軍は敗北し、上杉家は米沢藩30万石へ減封されました。景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入部しましたが、当主が若くして亡くなる事態が続いて、伊予松山で蒲生家は断絶します。代わりに加藤嘉明が入れ替わりで会津に入部しますが、こちらも長く続かず、保科正之が入部し、会津松平藩がここに始まります。
保科正之/会津松平藩
保科正之は徳川秀忠の四男(庶子)で3代将軍徳川家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなしました。保科正之の六男の正容(まさかた)の代に、通字を保科家の「正」から「容」に改めることになり、松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を許され、名実ともに徳川一門(御家門)となります。幕末の京都守護職を務めた佐幕派のキーマン9代松平容保(かたもり)は水戸藩主徳川治保の男系子孫で、現在の徳川宗家は容保の男系子孫になります(徳川家は宗家→紀伊家→水戸家と移り変わります)。鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北、その後の東北戦線において、会津藩は奥羽越列藩同盟の一角で重きをなし新政府軍に抵抗しましたが、結局会津戦争に敗れて戊辰戦争は集結に向かいます。
不思議な二重構造のらせん階段を体験!国の重要文化財(会津若松観光ナビ)
高さ16.5m、六角三層の会津さざえ堂は、寛政8年(1796年)、福島県会津若松市の飯盛山に正宗寺の住職であった僧郁堂(いくどう)の考案で建立されました。簡易八十八か所巡りみたいなのは結構各所にあると思いますが、2重螺旋のスロープに西国三十三観音像が安置されるその特異な構造が評価されて、平成8年に国重要文化財に指定されています。
蔵の町)喜多方市は飯豊連峰の良質な伏流水を使った味噌・醤油・清酒の醸造業が盛んで(喜多方市の蔵めぐり観光|喜多方 蔵の里(くらのさと)【喜多方市】(喜多方観光物産協会))、周辺農村の物資の集散地でもあった喜多方は、人口4万人に満たない町ですが蔵の数が約2,600棟とも4200棟とも言われ、全国的に稀にみる「蔵の町」になります。日本は木造建築でしたから、火事に強い蔵が重要だったようです。
宮古地区の蕎麦)喜多方市はラーメンで知られますが、旧山都町宮古地区の蕎麦も有名なようです。標高が高く稲作に不向きだったからだそうです(山都そばについて いいでとそばの里 -喜多方市ふるさと振興株式会社)
猪苗代湖)琵琶湖、霞ケ浦、サロマ湖に次ぐ日本第4位の面積を誇る湖で、標高514mの高所に位置します。猪苗代湖はアウトドアも盛んで、猪苗代町には野口英世記念館があることでも知られます。
奥会津)奥会津に押し寄せる外国人、只見線はラッシュ状態(JBpress 2018.12.5)。霧幻峡の渡しも有名ですね。
南会津大内宿)今に残る江戸の家並み。のどかな景色に癒やされる福島県南会津「大内宿」(MATCHA)。会津若松市と日光今市を結ぶ会津西街道に大内宿があります。
尾瀬)尾瀬ナビ(Yama-kei)。2000m級の山に囲まれた標高1400mの盆地で日本離れした雄大な自然を誇ります。
最後に浜通り。これは福島イノベーションコースト構想です。まず廃炉ですが、これは原子力発電所の延長に限界があると考えれば、これから廃炉産業が浜通りに来るなら、地元の大きな産業になるでしょうし、廃炉に関連してイノベーションを起こすことはかなり重要なテーマになってくると考えられます。廃炉作業をするため、安全な原発を延長しないのようなことでは本末転倒で亡国の道と言わざるを得ませんが、それはともかく、廃炉がこれから重要な産業になるだろうことは間違いないところだと思います。新設が難しいとしても海外の原子力発電所もある訳で、限られた資源エネルギーですから、原子力に一定の期待があるのも当然だと考えています。建設当時の設計図が無く解体作業用ロボットが作成できない、そもそも廃炉を前提とした造りではない等で作業に大きな支障が出てきているケースもあるようで、そうしたことに関して研究と対策が必要なことは言うまでもありません。新しい原子炉にせよ、廃炉を前提としたシステムに研究の余地はあるはずです。放射性物質の処理に関しての研究も考えられますが(言いにくいことをあえて言えば、無論十分対策を施した上で、一時保管の場を原発か原発付近の安全な場所としておけば、様々な問題がクリアされます)、放射線からの防護や放射線と健康に関しても、研究の余地はあるかもしれません。
次いでロボットです。>物流やインフラ点検、大規模災害などに対応する陸・海・空のロボット一大研究開発拠点である「福島ロボットテストフィールド」を整備し、ロボット産業の集積を図ります。・・・日本の発展に欠かせない今後有望な領域だと思います。物流に関して言えば、陸路で言えば郡山の現場との繋がりが成果を生むかもしれませんし、空路で言えば、いわき市なら日本最大のハブ空港(成田・羽田)との距離がそう遠くありません。港は浜通りに重要港湾が相馬港・小名浜港とありますが、国際拠点港湾は仙台塩釜港・千葉港・新潟港が近隣で、やはりイノベーションを意識するのであれば、国際戦略港湾の京浜(東京港・横浜港・川崎港)が重要かもしれません。インフラ点検のイノベーションが今後重要は当然ですが、浜通り特有の環境を考えるとヤマセでしょうか。これがインフラにどういう影響を与えるかよく分かりませんが、対策と原因追求は一体であり、対策が出来るなら長寿命化も可能になってくるんじゃないかと考えます。話はやや逸れますが、これは東北の農業なんかにも関係ない話ではないのかもしれません。大規模災害と言えば、震災・津波、あるいは火山です。ロボットは元来日本の得意分野であり、原子炉作業との関係で浜通りに必要なものではあって、IotやAIの活用も視野に入れながら、イノベーションが生まれることが期待されると思います。遠隔操作というテーマに関して言えば、防犯カメラの時代ですし、広がりはいろいろありそうです。PCの世界では相談窓口で遠隔操作が行われるなどの活用がありますが、ロボットというフロンティアでそれを行うことに可能性がありそうです。
次いでエネルギーですが、原子力災害にあった福島だからこそ、新エネルギーが重要という発想だと思います。テーマは再生可能エネルギー・水素エネルギー(天然ガス)の研究と復興に関連してスマートコミュニティが研究されているようです。いずれも有望かつ必要と思いますが、後者にやや関連して気になっているのが、空き家問題です。これは日本の課題でもありますが、戻らない選択をした方も少なくないという話で考えておかねばならない課題です。マイナスの話題を考えるのは気が重いものですが、だからこそ開拓の余地があると考えることが出来そうです。再生可能エネルギーに関して言えば、津波に関連して山で風力や太陽光・バイオマスを考えるべきなんでしょう。阿武隈高地はなだらかな山稜、緩斜面がひろがっており、研究の適地かもしれません。
農業はICT(情報通信技術)を活用した温度・湿度の管理や新たな水産業・見せる農業だそうです。温度・湿度に関して言えば、インフラ点検(長寿命化)にも関係すると思いますが、個人的には水産業は逆手にとって漁業しないこと(あるいは減漁業)による回復をテーマにすれば面白いんじゃないかと思います。あるいは海底の除染を研究テーマにしても面白いかもしれません。他には通常食用としない魚の研究や新しい漁法の研究です。あるいは漁業法改正を意識したテーマかもしれませんが、とにかく防災や事故の観点から福島での漁獲を増やすという発想からは少し距離が置かれるべきです。見せる農業に関して言えば、体験農業だったり伝統農業だったりするんでしょう。福島の農産物が問題ないというアピールに繋がる意味があると思いますが、イノベーションとの絡みで言えば、ロボットを観光にも利用する動きが面白いかもしれません(さがみロボット産業特区で農業と観光産業用のロボットをやるそうです)。テーマとやや外れるにせよ、環境、教育と絡めることも考えられるでしょうか。
環境・リサイクルに関して言えば、火力発電所から発生するフライアッシュ(石炭灰)を用いた土木資材の製造をするようです。いわき市が火力発電所で知られますね。地質的に(比較的安定な地盤で従来地震による被害の少ない地域である)阿武隈高地で都市鉱山が出来ないかという発想も有り得ると思います。
産業集積は>福島ロボットテストフィールドや福島浜通りロボット実証区域で様々な実証実験を実施。産業集積を促進するため、企業立地セミナーや農林業等の先端技術を体験できるフェアを実施。・・・浜通りだからこそ出来る集積も有り得るのかも知れません(それをするためにはいろいろ区切りをつける必要もあると思います)。ロボットは日本の有望な技術であり、技術者あるいは関連業者が集まり意見交換することで飛躍的な発展が見込める可能性もあります。福島の放射線の問題は既にほとんど無いと言え、福島浜通りにチャンスありだと思います。
教育は「浜通り地域等の高等学校におけるイノベーション・人材育成」「全国の大学等が有する福島県の復興に資する知を誘導・集積」「最先端技術を使った教育活動イノベーション人材の裾野拡大」「ふたば未来学園高等学校開校」ということで福島浜通りで生活し教育を受けることがひとつの売りになるかもしれません。大学の復興に関する知の集積に関して言えば、既に実績が積みあがってきているようです。イノベーション人材を集めるにあたって、一緒に教育をやるというのは大事な発想なのでしょう。教育とイノベーションに関して言えば、「新しいことを考える」ということに過剰に拘るのではなく、普通に資料やデータへのアクセスをよくすることが重要のようにも思います。基本的に学問は同じことを考えるのが仕事ではなく、息をするように新しいことを付け加えるのが習い性であるはずだと個人的には思っており、恐らく特別何かするということではないように思います。また、問題設定(発見)や問題解決が重要であり、比較し差異を見つけることや実践が重要なところもあると思います(分担なくして大きなプロジェクトなく団結は重要ですが(猪突猛進の巨艦大砲主義は必敗というのもあります)、同質性・同調性はイノベーションからはやや遠いところがあるはずです)。
交流人口の拡大は>視察及び研修の需要開拓及び地域住民と来訪者との交流機会の創出のため、視察ツアー等を実施。また、15市町村を始めとした県内外の各種イベントでのブース出展、セミナー等の開催により、福島イノベーション・コースト構想の取り組みを発信・・・せっかく立派なプロジェクトをするのですから、交流の場とすることも大切なことです。イノベ見える化計画・拠点施設等を巡る視察ツアー・Pepper(ロボット)が訪問者に向けた情報発信もあってここでしか体験できないイベントもあるようです。復興に関連して震災の資料館のような話がありますが、忘れないと前に進めないのような話もありますし、イメージの問題もあるかもしれませんが、第一発電所の問題が直ちに解決する訳ではなく、過酷事故を免れた第二の方の見学なんかがやることが考えられてもいいような気がします(既に行われているかは知りません)。
以上です。時間がかかり雑多でまとまりのない感じにはなりましたが、自分の考えること、知ることを詰め込んだつもりです。機会がありましたら、付け足し改訂していくかもしれません。
>震災以降の両陛下の本県訪問は6度に上った。
>避難所で膝をつき、被災者と同じ目線で語り掛けるその姿と、優しいまなざしは復興に歩む県民に大きな希望を与えた。
>在位中、最後の訪問は昨年6月、南相馬市原町区雫(しどけ)の海岸防災林整備地を会場に行われた第69回全国植樹祭。両陛下とともに、約8000人もの参加者が植樹したクロマツなどの苗木は、いまも少しずつ成長を続けている。
マツ(ウィキペディア「マツ」(2019/6/5))
>マツ属の葉は短枝と呼ばれる枝の一種に数枚が束になってつく。その数は個体内での多少の差はあるものの2枚、3枚ないしは5枚が束になって生えていることが多く、種によってその数は決まっている。
>日本では二葉松はアカマツ (P. densiflora)、クロマツ (P. thunbergii)、リュウキュウマツ。
>五葉松はゴヨウマツ、ヒメコマツ、ハイマツ、チョウセンゴヨウ (P. koraiensis)、ヤツタネゴヨウが知られている。
>三葉松は、アメリカ大陸を中心に分布しテーダマツ (P. taeda) やダイオウマツ (P. palustris) などが知られている。日本には3葉のマツは自生していないものの、化石の研究からオオミツバマツ (P. trifolia) と名付けられた種が分布していたことが確認されている。
被災した双葉郡を意識して平成天皇、皇后両陛下(当時)はクロマツやアカマツを植えられたんだろうと思います。クロマツが雄松(オマツ)で、アカマツが雌松(メマツ)になります。松は白砂青松(はくしゃせいしょう)で日本の美しい海岸の風景のたとえですが、この松は主にクロマツのことなのだそうです。松は冬でも緑を絶やさない常緑樹で縁起物とされます。松は古来、和歌で「待つ」という動詞と掛詞として使われてきたそうですが、植樹された松が成長し、福島が復興することが期待されると思います。
福島でフタバと言えば、フタバスズキリュウ(巨大動物図鑑)も想起されます。1968年に福島県の双葉層群という地層から当時高校生だった鈴木氏によって発見された首長竜の化石ですが、2006年5月、エラスモサウルス科の新種としてフタバサウルスFutabasaurus suzukiiと正式に命名されているようです(いわき市石炭・化石館)。フタバスズキリュウは北太平洋では最古の首長竜とされるようですが、北海道道北中川町の国内最大のモレノサウルス(ナカガワクビナガリュウ)のレプリカ標本も結構すごいようです(中川町エコミュージアムセンター)。首長竜は水棲爬虫類の一種で厳密に言えば恐竜とは言わないようですが、筆者の見たところ、じゃあ巨大な水棲爬虫類を爬虫類扱いしてどんな意味があるの?ってことになりますし、翼竜類の扱いもありますから、爬虫類の巨大なもの=恐竜って扱いでいいんじゃないかと思います(ワニが恐竜ってことになってしまいそうですが、アレ滅びてない恐竜なんじゃないですかね。参考:7mを超える世界最大の超巨大ワニ(ランキング&画像) ailovei)。首長竜に胎生か卵生かという議論があるようですが、どう考えても胎生だと思います。爬虫類だから卵生は思い込みじゃないんでしょうか?胎生は魚でもあるようですし、胎生は生物の歴史において何度も独立に進化しているようですから、証明されない限り卵生でなければならないというより、胎生だろうけど卵生と証明されたら驚きって感じじゃないでしょうか。幾らなんでもあの大きいのが陸に上がらないというか、方向転換すら難しそうです。首長竜の首が長いのは柔軟に首を動かして魚を捕らえるためのようです(首長竜は何故、首が長く進化したのですか? yahooo知恵袋)。多いものでは80個近くの首の骨があったようです。プロントサウルス(カミナリリュウ 竜脚類)やキリンのように復元するのは間違いなのかもしれません。海面から大きく首を出してどうするというんでしょう。息継ぎなら頭だけ出せば十分ですし。ネッシー残念!
双葉郡は明治時代に楢葉郡(ならはぐん)と標葉郡(しねはぐん、しめはぐん)を併せて成立。福島からの避難者ら上賀茂神社参拝し復興祈願(産経ニュース 2015.3.12)したことがあって、これは雷と電力を掛けたもののようですが、両賀茂神社のご神紋がこの双葉葵で双葉郡も意識したものではないかと思います。和歌では葵(あふひ)を「逢ふ日」と掛詞にします。双葉葵のフタバは、茎の先に葉を2つ、対生状につけることが由来であり、カンアオイ属で所謂アオイ科の植物とは種が違いますが、葉がアオイ科の植物に似ていることから、共通の名前であるようです。源氏物語の葵の上の葵も葵帖に由来し、葵帖は葵のかんざし(髪挿し)の和歌に由来するようです(草木の枝や花を髪にさすことは「かざす」といい髪挿すの転です)。平安時代、祭といえば両賀茂神社の賀茂祭のことを指しましたが、江戸時代に賀茂祭が再興された後、葵祭というようになったようです。徳川家の葵の御紋は三つ葉葵で架空の存在(鳳凰とか龍とか、植物で言えば扶桑とか世界樹のようなものなのでしょう)ですが、賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきたのだとか。原発事故で南北に別れてしまった双葉郡が何時か復興することを願っています。
さて、具体的に福島の復興を考えていきます。福島の復興を目指す組織としては、福島復興再生総局があって、復興庁福島復興局、環境省福島地方環境事務所、原子力災害現地対策本部を統括する組織として、福島市の福島復興局内に事務局が置かれているようです。総局の長は復興大臣(福島原発事故再生総括担当大臣)。
筆者は沖縄における産業の振興開発に寄与する事業に必要な長期資金の貸付けなどを行っている沖縄振興開発金融公庫のような福島におけるビジネスを支援する特殊法人・政策金融機関が福島の復興を早めるのではないかというアイディアがありますが、その妥当性は分かりません。事故対策は既存の組織が対応しているはずですが、単なる事故対策を超え、福島が復興したと言える状況を創り出すには福島におけるビジネスを盛んにせねばなりません。それを政策的に誘導する専門機関が政策金融機関だと思います。これが福島に必要なのは事故が起こって処理に長期間かかるというハンディを背負っているからです。日本の原子力政策の失敗・防災政策の失敗は皆で負担するべきでしょう。勿論底なしで支援できるという訳ではありませんが、少し有利な金融機関を設置して福島でやろうという企業や個人を支援するのが妥当のような気がします。既存の機関との競合も考えられはしますが、それは設置ありきで解決できる話だと思います。既に何らかの措置でビジネスが有利になっているかどうかは知識がありません。福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想があるのは承知していますが、イノベーションと浜通りが対象と認識しています。ラベリングは主に福島で行われていると思いますので、浜通り以外に恩恵があってもいいような気がします。
前置きは以上ですが、福島を地域別に分けてどんな産業があってどう復興させればいいか検討していきます。順番は会津→中通り(南→中→北)→浜通りです。あくまで経済の復興の話ですので、重要なのは如何に生産性を高め、労働力と資本を集めるかだと考えます。
まず中通り南部の白河都市圏。ここは古くは奥州の三古関の内のひとつ白河の関があったところで(他にいわき市勿来関、鶴岡市鼠ケ関)、みちのく(奥州・羽州)の玄関口とされてきたところです。白河関跡(白河観光物産協会)によると、>その後律令制の衰退とともにその機能を失いましたが、『歌枕』(和歌の名所)として文学の世界で都人の憧れの地となり、能因や西行、松尾芭蕉など時代を代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しています。和歌・俳句から見るふくしま(福島県立図書館)参照で>『奥の細道』は、「月日は百代の過客にして」という有名な冒頭の少し後に、「春立てる霞の空に、白河の関越えん」との一節が続きます。分水嶺の南が有名な観光地の那須で白河高原としての観光開発もあるようですが、東北観光の始まりとしてのポテンシャルもあるかもしれません。少子高齢化で需要が縮小するのであれば(働き方改革しても抜本的な対策にはならないとも考えられます)、新しい需要開拓のターゲットとしてインバウンドは外せません。外国人にも分かるように何処が風流かを説明できれば面白いんじゃないでしょうか。仙台・松島等とのセットでの売り出しも考えられます。世界で知名度のある日本人ベスト34を発表!(日本を徹底分析して世界でのイメージやランキングを公開)によると、国際的な知名度No.1に松尾芭蕉がいます。これは潜在需要と言えるような気もします。霞(かすみ)は文学的表現でよく使われる主要な和語で、ウィキペディア「霞」(2019/4/30)参照で①霧・靄・煙霧などで遠くの景色がぼやけている(=かすんでいる)様。やや文学的な表現で、気象学用語ではない。春の季語。②朝焼け・夕焼け。(原義)③霞 (修験道) - 修験道特に本山派の地域ごとの支配・管轄地域。④研ぎ仕上げの技法。⑤合わせ鍛えの包丁。・・・という多義的な意味を持つ言葉です。春の山野に立ち込める水蒸気が文学における季語の霞だと思いますが、たまたま霞が発生しておりその情景を切り取ったものか、あるいは霧のようなものを指している訳ではないのかは筆者に分かりませんが、関心のある人にガイドできる人がいたり、ガイドブックがあったりすると面白いのかもしれません。外国のガイドブックは分厚く文字による説明を好む傾向があるようでもあります。修験道(日本の山岳宗教)や研ぎに関係するというのもポイントで、外国人からみた和を感じさせる要素でもあるのかもしれません。忍者で霞の用語は頻出し、修験道と忍者の関係も示唆されます。松尾芭蕉=忍者説も存在しますね。霧とスモッグの区別は必要な気もしますが、幻想的なイメージの霧はスコッチやお茶や山水画なんかで売りにもなっていると思います。白河の関跡(トリップアドバイザー)参照で、関跡はそれほど開発されていないようですが、関が原観光があるなら、白河の関観光があってもいいような気もします。特定の場所に限らず、分水嶺/関東と東北の境というテーマで適地を探す発想があってもいいと思います。図で解説!雨の分かれ道「分水嶺」とは?知れば知るほどおもしろいその秘密(YAMA HACK)参照ですが、同じ東北で山形県山形市堺田の分水嶺なんかは広場が整備されており、松尾芭蕉も泊まったという封人の家(最上町)(国境を守る役人の家)があるようです。分水嶺と言っても同じ太平洋岸ではありますが、東北と関東の境というのが重要だと思います。
東北とは?を考えていて陸奥/東山道の歴史を見る中、やはり現代におけるメインストリートは白河に始まり青森に到達する阿武隈川~北上川~八戸・青森ラインなんだろうと思いました。とにかく人口密度が比較的低いところがポイントですから、勿論渋滞する場所もあるでしょうが、ここをドイツのアウトバーンのように飛ばせるポイントに出来ないかとふと思いました。ドイツのアウトバーンもいろいろ誤解はあるようですが、何処でも無制限という訳ではなく、渋滞する箇所では速度制限もあって速度違反すると捕まることもあるようです。速度を出せるスポーツカーも速度を出せなければ宝の持ち腐れとも考えることが出来ます。あるいはドイツのスポーツカーが強い理由もアウウトバーンにあるのかもしれません。アウトバーンは無料ですが、有料の日本の高速道路で出来ないはずがないんじゃないでしょうか。富裕層消費の拡大も日本の消費拡大の鍵を握っていると思います。あるいは北海道や南九州が対象であってもいいかもしれませんが、特区など検討されてもいいのでは。場所はやはりトンネルが少ない区域が対象になろうかと思います。
次いで東北第二の都市とも言える郡山都市圏。ここは交通の結節点「陸の港」として著しい発展を遂げた勢いのある都市です。郡山の名は古代安積郡の郡役所に由来し清水台遺跡がその跡だとか。当時としては大変珍しい瓦葺きの建物があったようです(郡山の遺跡 文化財調査研究センター)。安積疏水による開拓や水力発電が発展の礎だったとも。コンベンション都市でもあり、新たな産業の振興に勤める産業都市でもあるようです。音楽都市としての売りもあるようですが、コンベンションとのシナジーを考えても、生産と裏腹で需要拡大を考えても(お金を貯めても消費か投資に繋がらなければ意味がありません。守銭奴は後世に埋蔵金を残すぐらいしか役に立たないでしょう)、音楽都市としての消費拡大で文化振興をそのまま推進してもいいんじゃないかと思いました。スポンサーあっての文化です。東北や関東から同好の士も集まるでしょうし、音楽が復興の支えという話もあります。音楽都市・グラスゴーから!|トピックス|創造都市・浜松を参照すると、浜松なんかがそういう発想で音楽都市をやっているようですが、>音楽都市としてのグラスゴーの特徴はスコットランド地方に残るケルト文化をベースとした音楽であり、毎年冬に開催されるケルティック・コネクション音楽祭は市街地のコンサートホール、クラブ、劇場等を舞台に2週間以上街中が音楽一色で染まる一大イベントとなっています。その他にもバグパイプの音楽イベントとして「世界パイプバンドチャンピオンシップ」や「パイピングクラブ」も開催されています。・・・とのこと。東北で音楽と言うと、津軽三味線をイメージしますが、津軽以外がやっちゃいけないってこともないような気もします。伝統楽器と言えば、伝統材料ですが、現代的な材料に変えるって手も考え方もあるような気はするんですよね(あくまで選択肢です)。当地じゃないってことで。意外とその辺が飛躍のネックになっている可能性もあるような気がしないでもありません。それはともかく和楽器で現代的な音楽をやってもいいような気もしますし、東北の音楽の特徴なるものがあるか分かりませんが、音楽都市が新たに特徴をつくってもいいはずです。和楽器で太鼓や三味線など人気集団はありますが、コンサートホールのような場所と結びつかないような気がしており、せっかくですから、和楽器と言えばあの都市みたいな都市があっていいような気がします。京都がそうなのかもしれませんが、あそこはオーバーツーリズムですし、伝統と格式の縛りがあるような気もします。オペラハウスなんかがありますが、演劇と音楽も切っても切り離せません。日本の音楽はリズムがないとも言いますが、不審に思うのは拍子(ひょうし)という言葉は伝統的にあるということで、能楽用語で8拍を一単位とするリズム構造を八拍子(能楽用語辞典)というようです。新しい産業に取り組む郡山ならでは?
県都福島市のシンボル的存在が信夫山(しのぶやま)。福島盆地の中、全国でも珍しい街の真ん中に浮かぶ小山で所謂ランドマークですが、標高が275mあって、愛媛県松山市のランドマークである松山城がある城山(勝山)が131mですから、2倍超の高さがあることになります。登山趣味の入口として親しまれ、山岳信仰の対象として、出羽三山の分社があり、熊野山、羽黒山、羽山の三峰で構成され信夫三山とも言われます。今年は開催が終わっていますが、信夫山公園桜まつり(るるぶモール)は大勢の人でにぎわい、山頂からは福島市内を一望でき、福島市民に親しまれる山のようです。歌枕として詠まれる対象としては福島県随一で伊勢物語でも詠まれているとか(信夫山 - 蝦夷・陸奥・歌枕)。信夫は当て字で本来「忍」「偲」「恩」とも言われ、しのぶという語感の響きは恋しのぶ・しのび逢い・しのび居る・耐えしのぶ・忍び泣き しのび足・しのび音・しのび寄る等王朝・鎌倉時代にかけてもてはやされたそうで、アニメ映画となりのトトロ主題歌のモデルになったり、何かと文学の対象となる山のようです。現在ではガイドセンターがあって、フォトコンテストが開かれたり、シンポジウムが開かれたりします。
江戸時代から300年以上の歴史がある信夫三山暁まいりを参考に1970年から夏祭り「福島わらじまつり」が行われており、開催翌日に日本一の大わらじと絵馬はスタッフ有志により信夫山羽黒神社へ奉納されます。東北6県都の代表的な6つの夏祭りを一同に集めた東北絆まつり(東北六魂祭)の一角。草鞋(わらじ)とは、稲藁で作られる日本の伝統的な履物(サンダル)の一つで、現在では使用されなくなったものの、キーホルダーになるなど日本人に馴染みがあります。由来・語源辞典によると、「わらぐつ」から、「わらうづ」→「わらんづ」→「わらんじ」と転じて、「わらじ」となったものらしいのですが、そう考えると、藁沓(わらぐつ)以外のクツもあったということになります。調べてみると、「烏皮 (くりかわ) の履・浅沓 (あさぐつ) ・糸鞋 (しがい) ・麻沓 (おぐつ) ・錦鞋 (きんかい) など、革・木・絹糸・麻・錦・藁 (わら) などで作った。」(デジタル大辞泉)のだとか。何処かにわらじとか、かかし(鳥獣を避けるため獣肉を焼き焦がして串に通し、地に立てたものもカカシと呼ばれるため、直接の語源は「嗅がし」ではないかとも言われる)やニオ(刈り稲を円錐形に高く積み上げたもの。稲むら。稲にお)、注連縄とか、日本の中心文化である稲作にまつわる民俗や民具・技術や風景に関する博物館があってもいいような気はします(田畑 吟行用語集)。まぁ、「食と農」の博物館 | 東京農業大学や岩手県立農業ふれあい公園 農業科学博物館や農場博物館 -東京大学生態調和農学機構(わら細工・クラフトのイベントがあるようです)や秋田県立農業科学館があるようですが、農業だと対象範囲が広過ぎるような気もしますし、博物館におけるデジタルアーカイブをどれだけ進展させているのかなと思わないでもありません。紙の資料があってもいいと思いますし、公金投じて博物館をやるのであれば、研究成果を広くアクセスしやすくして、社会に還元してもいいんじゃないかと思います。それで関心を持つ人が増えたところで博物館に訪れる人が増えるみたいな。そうやって知識にアクセスしやすくしておけば、それを利用して生産性を高める人もいるんじゃないでしょうか。靴なんかも同様で日本の伝統衣服で言えば、青梅着物博物館があるようですが、デジタルアーカイブという観点など物足りないところがあるような気がしますし、皇室や江戸時代の貴重な衣装(着物)を展示しているということですが、日本文化と衣服という観点で研究拠点になったり、知識を広めたり、体験観光できたり、何かいろいろ出来るような気はします。予算の問題かもしれませんが。やりだしたらキリはないでしょうが、日本の伝統的衣食住の研究が進み広く公開されるなら、日本ならではの強みに繋がるような気もします。
信夫山は岑越(みねこし)山とも言われたそうですが、これは少し不審です。玄関口の白河方面から見て岑(峰)を越したところに岑越山があるという訳ではないからです。岑は岑越山のことであるというのが一般的な説のようですが(ネットで見かけましたが)、そんな日本語は無さそうです。少しでも楽をするためには山は回避するべきで(新幹線や国道が信夫山を貫いているようで、撮り鉄の対象になったりしているようですが)、わざわざ山を通るとは思いにくいところでもあります。峰を越したところが峰越で峰越にある山が岑越山だと考えるのが自然です。そう考えてみると、東北(陸奥)の中心地である多賀城(宮城県仙台付近)や出羽柵(山形県庄内地方)の両者から見て、峰を越えたところがあるのが峰越ではないかと思えてきます。特に概ね陸奥の国として同一ですし、国衙から見た名前がついて不思議がありません。阿武隈川が福島県ー宮城県を貫き、ピンと来にくいところはあるのですが、古来より奥州街道では(信夫山からやや北にある)国見峠長坂が難所で、道の駅国見「あつかしの郷」と千年のまちくにみ巡り(JR東日本)によると、「松尾芭蕉の「おくのほそ道」でも険しい道のりと記された国見峠の街道跡です。長坂をのぼると、平場には茶屋が2軒あったと伝わり、多くの大名・旅人が行き来した当時の面影を今に伝えています。」とあり、交通の往来があって、印象的な難所だったようです(距離の面で言えば、出羽に向かう峠の方が近いです)。信夫郡一帯は当初は東北の最前線だったようで、そこから峰を越したところに目立つ山があったともとれます。
国見町ですが、福島市都市圏ということで、阿津賀志山防塁なんかも面白いと思います。奥州平泉政権の防塁ですが、(世界遺産に入っていないようですし)もしかしたらちゃんと残っていないのかもしれませんが、山腹を始点に3km余にも達し、延べ40万人を動員し築造されており、それだけのものを造る力があったということで、目立たない印象ですが、東北を代表する文化資産と言えるような気もします(国指定史跡 阿津賀志山防塁 南奥羽歴史散歩)。東軍勝利を聞いた伊達政宗も上杉領に攻め入る際に阿津賀志山に本陣を置いたようですが、より高いところに軍を置くのが有利で東北勢の最前線となりやすい地形なのかもしれません。
以上ですが、全国トップクラスの出荷量を誇る桃は、福島市を代表する果物ですし、吾妻小富士(アズマは東夷(アズマエビス)など、ヒガシ(東)を表しますが、ヒムカシから転じたヒガシと違って、一般的に納得いく由来がないようです。関東・東北を表す言葉のようですが、ズマは褄で端 (つま) でしょうから、アが問題ですが和語としての意味が吾で我のようですから(「ア」の意味が理解できないと日本語の「意味の説明」ができない 「万葉仮名の六十二個」の一音節語の解説コーナー。)、我が端のことだと考えると、関東・東北のことでいいんだろうなと腑に落ちるものがあります(そう考えると、阿蘇は我が襲(ソ)ですし、阿多は我が多(氏)/田で阿部/安倍は我が部(ベ)ということになります。安倍に時々触れるのは古代史(東北や陰陽道)をやると止むを得ないというだけで全く他意はありません)も独立峰の名山と思いますが、この辺として白河に始まるみちのくの始まりであるところの福島県中通りに関する記事をひとまず終わりとします。
くるまの遊園地 エビスサーキット)D1グランプリの開催や年に3回ドリフト祭りが開催されており、外国人旅行者も訪れるなど、注目があるようです。日本の「ドリフト文化」が世界で注目があるとか。
次いで会津。独特の歴史・文化で観光資産がある地域です。観光と言いますと、今は発信より「やるべきことをやる」「整備だ」というデービッド・アトキンソンさんの意見(MSNニュース 2019/05/23)という意見に注目しています。やるべきこととは?という話ではありますが、筆者としては今の「解説」に多々疑問があるので、自分なりの視点で理解を深めることがやるべきことなのかなと思っています。
会津の縄文時代は阿賀野川流域で火焔土器があるようです。どうも会津は北陸と関東の出会う場でもあって、早くから南回り文化圏だった気配があります。越後―会津間は勾配・傾斜がきつくない特徴があって、縄文時代人が住みやすい土地だったんじゃないかと思います。豪雪地帯だとすれば、逆に食料保存の技術や縄文農耕は発達したんじゃないでしょうか。
会津の歴史 旧石器・縄文・弥生・大和(古墳)時代(会津若松観光ビューロー)
>縄文時代:はじめの頃は東北や北海道に近い形の土器が使われていたが、次第に関東や北陸地方の影響を受けた文化が進み、土器の種類も増え美しい文様をつけたものが現れる。
氷河時代の旧石器時代以来、日本が人類の発祥でなければ、日本に人類が辿りつくルートは概ね3つで、その内、ほとんど南は難しいですし(大型動物を追う旧石器時代にも関わらず、島嶼づたいになってしまいます)、概ね西と北の2つの潮流を押さえておけば良いようです。動物もプラキストン線による違いがありますね。縄文時代の東日本と西日本の違いもよく知られますが、やはり気候の違いは生物相の違いで文化を分けるところがあると思います。事実、沖縄方言は日本語のバリエションですが、アイヌ語と日本語に互いの痕跡はあれど、言語学的に系統が違うと言われます。つまり(縄文土器で区分される)縄文文化とは元々異質な2つの潮流の相互作用で生まれたとも言えるのではないでしょうか?どちらも先住民ですが、その来歴は違っていて、にも関わらず、土器という形式ではそのふたつの潮流は必ずしも区別できないという意味です。土器の形式に言語学的痕跡がある訳ではありません。いろいろ誤解があるようですが、縄文時代が単一文化とは思えません(答えを見た回答のようなものですが、アイヌと日本でその来歴が違うからです)。それはともかく会津は縄文時代当初、北方文化圏だったようですが、次第に関東・北陸圏と言える状態になったようです。その象徴が火焔土器という訳ですが、弥生時代は会津にも到来し、古墳時代の比較的早期に大規模前方後円墳が登場しました。
勿論、福島が東北でないという意味ではありません。その逆でもっとも早い東北が福島だったというのが筆者の考え方です。日本は北上し、東北は拡張していきます。東北の2代潮流に出羽(日本海側)と陸奥(中央・太平洋側)がありますが、出羽が新潟の延長線上にあると捉えられれば、会津が阿賀野川流域圏で新潟の影響を強く受けていましたから、わりと同じものとみることも出来そうです。元より山脈を越えれば出羽と陸奥は隣同士です。
新潟の火焔土器が派手は分かりますが、そのバリエーションにも見える王冠型土器も味わい深いものですし(拙稿)、会津は会津で阿賀野川圏として、あるいは関東と出会う場として、違う切り口で、かの有名な火焔型土器/王冠型土器を常設的に研究できれば面白いのかもしれません。それだけの出土があるかは分かりませんが。
前方後円墳で言えば、会津の前方後円墳はかなり早いことで知られます。山形(置賜地方)や宮城も割合早く大きいのですが、会津を経由したかもしれません。関東より早い感じで、北陸/新潟/阿賀野川経由で関東に南下も考えられ、これが北陸に派遣されたという四道将軍の大彦や稲荷山鉄剣銘を想起させるものがあります。
亀ヶ森古墳(4世紀後半/墳丘長:129.4メートル/福島県河沼郡会津坂下町大字青津/東北地方第2位・福島県第1位の規模)
会津大塚山古墳(4世紀末/墳丘長114m/福島県会津若松市一箕町/東北地方第4位・福島県第2位の規模)
やはり年代順で阿賀野川を伝って大和朝廷の勢力圏に入った感じです。これは卑弥呼の100年後で(九州説とは?・・・神武東征を踏まえて東漸説では全然なく、卑弥呼の時に大和が九州に入ってない説です)、被葬者は不明ですが、時期は神功皇后や応神天皇のあたりになります。神功皇后以前に成務天皇の志賀高穴穂宮があって、比較的早期に北陸から新潟に到達する動きがあったとも考えられます。前方後円墳は特に地方においてはポツンと巨大なのがあって、わりあいそれきりになりますから、(特に証拠がない限り)以降はそのまま大和朝廷の勢力圏と見ることも出来ます。
気になるのは青津という地名で、後の時代の飯豊青皇女(飯豊天皇)との奇妙な符合です。会津には山岳信仰で飯豊神社がありますが、修験道と絡めて山岳信仰文化は(土俗というより)わりあい日本的なものです。耶麻郡・山都町の地名もありますが、これは万葉仮名・古い当て字の残存で、やはり日本文化/大和文化との深い関連を感じさせるものです。会津という地名に関して言えば、阿賀川・濁川の合流点付近の津を表すとも考えられます。つまり、福島県河沼郡会津坂下町大字青津あたりが会津地名の発祥の地かもしれません。濁川は置賜方面に向かうルートとして重要で、置賜地方に会津同様、早期の前方後円墳は見られるようです。青は藍に通じるものもありますね。
前方後円墳ひとつでどうなるというものでもないでしょうが、きちんと整備してちゃんとした解説でもしておけば、観光地のひとつになるかもしれませんし、会津・福島の貴重な文化遺産と思っています。神社との関連も十分考えられるでしょう。
飯豊山神社.jpg
飯豊山や神社の由来は諸説あるようですが、筆者は記紀・神道の立場から考えてみたいと思います。
> 陸奥国風土記逸文「この山は豊受比売神の神域であった。(履中天皇の皇女である)飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納した。それでこの山を飯豊と呼ぶようになった」
飯豊もそうですが、青津・山都・前方後円墳(亀ヶ森古墳)含めて、偶然の可能性は全くないと思います。(履中天皇の皇女である)飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納したのが山名の由来で、イイデサンが通常の読みのようですが、福島県会津地方では「いいとよさん」とも呼ぶようで、こちらが本来の読みだと思います。名前が変った理由は定かではありませんが、イイトヨ=フクロウで舶来の不吉のイメージでトヨに通じるデに変えたのかもしれません。特別フクロウに似ている山でもありませんし、総合的に考えて、飯豊青皇女の由来すると考えるべきで、従ってというなら、フクロウの意味もあるのかもしれません。その前段階として神功皇后や応神天皇の頃に大和朝廷との繋がりが深まっての奉納だったんじゃないかと思います。
神功皇后紀に天照大神などの祭祀の記述はあるのですが、日本書紀に豊受比売神は登場しません。ただ古事記序文に崇神天皇の祭祀は称えられており、それは漢風諡号にも現れていると思いますが、崇神天皇の娘の豊鍬入姫命こそ台与(トヨ)で豊受比売神のモデルのひとつではないかと思っています。
続く時代の会津で際立つのは恵日寺(真言宗豊山派)のようです。磐梯山や猪苗代湖の近くですが、慧日寺は平安時代初め、807年に法相宗の僧・徳一によって開かれ、隆盛を誇っていたようです。平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなるようですが、源平合戦で城氏が平家方について、一時衰退するとか。やはり新潟との関係が意外に深くて、地図で一目瞭然ですが、阿賀野川流域の山地の低さが影響していると言えるのかもしれません。
>慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。
磐梯山慧日寺資料館もあるんだそうです。考えてみれば、福島県は名山が多いような気もしますね。
>慧日寺の開基は806年に磐梯山が噴火した翌年
>元は「いわはしやま」と読み、「天に掛かる岩の梯子」を意味する。
一目見て何が岩の橋かと思いますが、恐らく噴火・噴石が「天に掛かる岩の梯子」なんじゃないかと思います。古くは病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま)とも呼ばれたそうですが、山体崩壊も起こした激しい山のようです。裏磐梯からはその跡が見えるとか。日本の伝統的世界観は垂直型構造の世界観と言われ、高天原と黄泉国、根之堅洲国の中間に存在するとされる場所が豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)ですが、地上世界から高天原に向けて「いわはし」をかける山が「いわはしやま」=磐梯山ではないかと思います。
こういうのって観光にあるいはマイナスなのかもしれませんが、やはり噴火する山は噴火するんで、正しく怖がる必要があるんじゃないかと思います。昔の人は分かっていた。やもうさん。わざらわしやま。非常に美しい会津富士ですが、美しい花には棘がある、磐梯山には裏がある。火山と言いますと、世界ではマグマを見よっていう切り口もあるらしいです(火山のパワーを感じる、世界の「マグマスポット」! トリップアドバイザー)。マグマは熱すぎて痛いんだそうですが、危険を前提にした観光という切り口で整備したら面白いような気がしますね。
そもそも磐梯山の噴火がきっかけで会津の古代史・中世を代表する慧日寺が開山したようですし、元々修行の山だと思います。会津富士美しいねだけでは逆にもったいないし、差別化も出来ません。ただ福島県東部の阿武隈高地は逆に穏やかで知られます。火山って(カルデラ火山とか地質学的スケールで噴火するのもありますが)基本的にはそんなに広範囲に影響を及ぼすものではないので、やはり正しく知ることが重要です。噴石を想定したシェルターすら、やりようによっては独特の観光資源になる気もします。
続いて中世・近世史を簡単に概観しておきます。会津は結構歴史的に重要な位置を占めますので、歴史の流れを押さえておけば、観光もより楽しめると思います。
蘆名氏(丸に三引両)
鎌倉時代の有力御家人三浦氏(三浦三つ引)の出で、つまり遡れば平氏で神武天皇の子孫ということになります。室町時代には京都扶持衆として、自らを会津守護と称していたようです。 戦国時代の蘆名盛氏(会津黒川城 (のちの若松城) の時代が最盛期で、その菩提寺は曹洞宗のようですから、鎌倉(関東)と共に北陸と結構関係が深いのが会津という土地のようです。奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原(磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町))の戦いで大敗して、蘆名氏の時代は終わりを告げることになります。
蒲生氏(近江国蒲生郡)
蒲生氏郷(がもう うじさと)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えて活躍したことで知られる南近江出身の武将で、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主となっています。キリシタン大名ですが、利休七哲の筆頭にまで数えられた文化人でもあります。妻は織田信長次女ですが、戦国時代としては珍しく側室を置かなかったようです。娘が前田利政正室、南部利直正室になっており、伊達政宗を抑える大将としての会津移封でした。なお現代の南部家は後陽成天皇(1586年~1611年)の男系子孫で旧宮家より系譜上で皇室に近いということになります。近江の武将らしく建築も得意だったようで、黒川城を改築し、氏郷の幼名や蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付け、あわせて町の名を黒川から若松へと改めています(伊勢の松坂も同じく蒲生氏郷の命名ですが、ちなみに伊予勝山を豊臣秀吉の子飼いの武将加藤嘉明が松山と改名しており、松地名は当時の流行の吉祥地名です)。政策的には商業を奨励したようですが、今の会津を最初に形作ったのは蒲生氏郷と言えると思います(蒲生家は後に松山に移封されており、その後伊勢桑名の松平家が入ります)。蒲生氏郷の死後、嫡子の蒲生秀行(13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫(正清院)を正室に迎えたところ、蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封したようです。秀吉が家康に通じることを警戒したのではないかと思います。
上杉氏(越後春日山)~蒲生氏~加藤氏
代わって越後の代表的戦国武将上杉謙信の養子の上杉景勝(長尾顕景)が入部していますが、(越後に通じる)阿賀川畔の神指ヶ原に神指城の築城を開始しています。秀吉の没後に徳川家康の会津征伐が始まり、西軍が呼応した形で関ヶ原の合戦に繋がります。西軍は敗北し、上杉家は米沢藩30万石へ減封されました。景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入部しましたが、当主が若くして亡くなる事態が続いて、伊予松山で蒲生家は断絶します。代わりに加藤嘉明が入れ替わりで会津に入部しますが、こちらも長く続かず、保科正之が入部し、会津松平藩がここに始まります。
保科正之/会津松平藩
保科正之は徳川秀忠の四男(庶子)で3代将軍徳川家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなしました。保科正之の六男の正容(まさかた)の代に、通字を保科家の「正」から「容」に改めることになり、松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を許され、名実ともに徳川一門(御家門)となります。幕末の京都守護職を務めた佐幕派のキーマン9代松平容保(かたもり)は水戸藩主徳川治保の男系子孫で、現在の徳川宗家は容保の男系子孫になります(徳川家は宗家→紀伊家→水戸家と移り変わります)。鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北、その後の東北戦線において、会津藩は奥羽越列藩同盟の一角で重きをなし新政府軍に抵抗しましたが、結局会津戦争に敗れて戊辰戦争は集結に向かいます。
不思議な二重構造のらせん階段を体験!国の重要文化財(会津若松観光ナビ)
高さ16.5m、六角三層の会津さざえ堂は、寛政8年(1796年)、福島県会津若松市の飯盛山に正宗寺の住職であった僧郁堂(いくどう)の考案で建立されました。簡易八十八か所巡りみたいなのは結構各所にあると思いますが、2重螺旋のスロープに西国三十三観音像が安置されるその特異な構造が評価されて、平成8年に国重要文化財に指定されています。
蔵の町)喜多方市は飯豊連峰の良質な伏流水を使った味噌・醤油・清酒の醸造業が盛んで(喜多方市の蔵めぐり観光|喜多方 蔵の里(くらのさと)【喜多方市】(喜多方観光物産協会))、周辺農村の物資の集散地でもあった喜多方は、人口4万人に満たない町ですが蔵の数が約2,600棟とも4200棟とも言われ、全国的に稀にみる「蔵の町」になります。日本は木造建築でしたから、火事に強い蔵が重要だったようです。
宮古地区の蕎麦)喜多方市はラーメンで知られますが、旧山都町宮古地区の蕎麦も有名なようです。標高が高く稲作に不向きだったからだそうです(山都そばについて いいでとそばの里 -喜多方市ふるさと振興株式会社)
猪苗代湖)琵琶湖、霞ケ浦、サロマ湖に次ぐ日本第4位の面積を誇る湖で、標高514mの高所に位置します。猪苗代湖はアウトドアも盛んで、猪苗代町には野口英世記念館があることでも知られます。
奥会津)奥会津に押し寄せる外国人、只見線はラッシュ状態(JBpress 2018.12.5)。霧幻峡の渡しも有名ですね。
南会津大内宿)今に残る江戸の家並み。のどかな景色に癒やされる福島県南会津「大内宿」(MATCHA)。会津若松市と日光今市を結ぶ会津西街道に大内宿があります。
尾瀬)尾瀬ナビ(Yama-kei)。2000m級の山に囲まれた標高1400mの盆地で日本離れした雄大な自然を誇ります。
最後に浜通り。これは福島イノベーションコースト構想です。まず廃炉ですが、これは原子力発電所の延長に限界があると考えれば、これから廃炉産業が浜通りに来るなら、地元の大きな産業になるでしょうし、廃炉に関連してイノベーションを起こすことはかなり重要なテーマになってくると考えられます。廃炉作業をするため、安全な原発を延長しないのようなことでは本末転倒で亡国の道と言わざるを得ませんが、それはともかく、廃炉がこれから重要な産業になるだろうことは間違いないところだと思います。新設が難しいとしても海外の原子力発電所もある訳で、限られた資源エネルギーですから、原子力に一定の期待があるのも当然だと考えています。建設当時の設計図が無く解体作業用ロボットが作成できない、そもそも廃炉を前提とした造りではない等で作業に大きな支障が出てきているケースもあるようで、そうしたことに関して研究と対策が必要なことは言うまでもありません。新しい原子炉にせよ、廃炉を前提としたシステムに研究の余地はあるはずです。放射性物質の処理に関しての研究も考えられますが(言いにくいことをあえて言えば、無論十分対策を施した上で、一時保管の場を原発か原発付近の安全な場所としておけば、様々な問題がクリアされます)、放射線からの防護や放射線と健康に関しても、研究の余地はあるかもしれません。
次いでロボットです。>物流やインフラ点検、大規模災害などに対応する陸・海・空のロボット一大研究開発拠点である「福島ロボットテストフィールド」を整備し、ロボット産業の集積を図ります。・・・日本の発展に欠かせない今後有望な領域だと思います。物流に関して言えば、陸路で言えば郡山の現場との繋がりが成果を生むかもしれませんし、空路で言えば、いわき市なら日本最大のハブ空港(成田・羽田)との距離がそう遠くありません。港は浜通りに重要港湾が相馬港・小名浜港とありますが、国際拠点港湾は仙台塩釜港・千葉港・新潟港が近隣で、やはりイノベーションを意識するのであれば、国際戦略港湾の京浜(東京港・横浜港・川崎港)が重要かもしれません。インフラ点検のイノベーションが今後重要は当然ですが、浜通り特有の環境を考えるとヤマセでしょうか。これがインフラにどういう影響を与えるかよく分かりませんが、対策と原因追求は一体であり、対策が出来るなら長寿命化も可能になってくるんじゃないかと考えます。話はやや逸れますが、これは東北の農業なんかにも関係ない話ではないのかもしれません。大規模災害と言えば、震災・津波、あるいは火山です。ロボットは元来日本の得意分野であり、原子炉作業との関係で浜通りに必要なものではあって、IotやAIの活用も視野に入れながら、イノベーションが生まれることが期待されると思います。遠隔操作というテーマに関して言えば、防犯カメラの時代ですし、広がりはいろいろありそうです。PCの世界では相談窓口で遠隔操作が行われるなどの活用がありますが、ロボットというフロンティアでそれを行うことに可能性がありそうです。
次いでエネルギーですが、原子力災害にあった福島だからこそ、新エネルギーが重要という発想だと思います。テーマは再生可能エネルギー・水素エネルギー(天然ガス)の研究と復興に関連してスマートコミュニティが研究されているようです。いずれも有望かつ必要と思いますが、後者にやや関連して気になっているのが、空き家問題です。これは日本の課題でもありますが、戻らない選択をした方も少なくないという話で考えておかねばならない課題です。マイナスの話題を考えるのは気が重いものですが、だからこそ開拓の余地があると考えることが出来そうです。再生可能エネルギーに関して言えば、津波に関連して山で風力や太陽光・バイオマスを考えるべきなんでしょう。阿武隈高地はなだらかな山稜、緩斜面がひろがっており、研究の適地かもしれません。
農業はICT(情報通信技術)を活用した温度・湿度の管理や新たな水産業・見せる農業だそうです。温度・湿度に関して言えば、インフラ点検(長寿命化)にも関係すると思いますが、個人的には水産業は逆手にとって漁業しないこと(あるいは減漁業)による回復をテーマにすれば面白いんじゃないかと思います。あるいは海底の除染を研究テーマにしても面白いかもしれません。他には通常食用としない魚の研究や新しい漁法の研究です。あるいは漁業法改正を意識したテーマかもしれませんが、とにかく防災や事故の観点から福島での漁獲を増やすという発想からは少し距離が置かれるべきです。見せる農業に関して言えば、体験農業だったり伝統農業だったりするんでしょう。福島の農産物が問題ないというアピールに繋がる意味があると思いますが、イノベーションとの絡みで言えば、ロボットを観光にも利用する動きが面白いかもしれません(さがみロボット産業特区で農業と観光産業用のロボットをやるそうです)。テーマとやや外れるにせよ、環境、教育と絡めることも考えられるでしょうか。
環境・リサイクルに関して言えば、火力発電所から発生するフライアッシュ(石炭灰)を用いた土木資材の製造をするようです。いわき市が火力発電所で知られますね。地質的に(比較的安定な地盤で従来地震による被害の少ない地域である)阿武隈高地で都市鉱山が出来ないかという発想も有り得ると思います。
産業集積は>福島ロボットテストフィールドや福島浜通りロボット実証区域で様々な実証実験を実施。産業集積を促進するため、企業立地セミナーや農林業等の先端技術を体験できるフェアを実施。・・・浜通りだからこそ出来る集積も有り得るのかも知れません(それをするためにはいろいろ区切りをつける必要もあると思います)。ロボットは日本の有望な技術であり、技術者あるいは関連業者が集まり意見交換することで飛躍的な発展が見込める可能性もあります。福島の放射線の問題は既にほとんど無いと言え、福島浜通りにチャンスありだと思います。
教育は「浜通り地域等の高等学校におけるイノベーション・人材育成」「全国の大学等が有する福島県の復興に資する知を誘導・集積」「最先端技術を使った教育活動イノベーション人材の裾野拡大」「ふたば未来学園高等学校開校」ということで福島浜通りで生活し教育を受けることがひとつの売りになるかもしれません。大学の復興に関する知の集積に関して言えば、既に実績が積みあがってきているようです。イノベーション人材を集めるにあたって、一緒に教育をやるというのは大事な発想なのでしょう。教育とイノベーションに関して言えば、「新しいことを考える」ということに過剰に拘るのではなく、普通に資料やデータへのアクセスをよくすることが重要のようにも思います。基本的に学問は同じことを考えるのが仕事ではなく、息をするように新しいことを付け加えるのが習い性であるはずだと個人的には思っており、恐らく特別何かするということではないように思います。また、問題設定(発見)や問題解決が重要であり、比較し差異を見つけることや実践が重要なところもあると思います(分担なくして大きなプロジェクトなく団結は重要ですが(猪突猛進の巨艦大砲主義は必敗というのもあります)、同質性・同調性はイノベーションからはやや遠いところがあるはずです)。
交流人口の拡大は>視察及び研修の需要開拓及び地域住民と来訪者との交流機会の創出のため、視察ツアー等を実施。また、15市町村を始めとした県内外の各種イベントでのブース出展、セミナー等の開催により、福島イノベーション・コースト構想の取り組みを発信・・・せっかく立派なプロジェクトをするのですから、交流の場とすることも大切なことです。イノベ見える化計画・拠点施設等を巡る視察ツアー・Pepper(ロボット)が訪問者に向けた情報発信もあってここでしか体験できないイベントもあるようです。復興に関連して震災の資料館のような話がありますが、忘れないと前に進めないのような話もありますし、イメージの問題もあるかもしれませんが、第一発電所の問題が直ちに解決する訳ではなく、過酷事故を免れた第二の方の見学なんかがやることが考えられてもいいような気がします(既に行われているかは知りません)。
以上です。時間がかかり雑多でまとまりのない感じにはなりましたが、自分の考えること、知ることを詰め込んだつもりです。機会がありましたら、付け足し改訂していくかもしれません。