自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

父から学んだ農業・資源を大切にする心

2020-02-20 15:14:42 | 自然と人為

(NHK番組案内)
逆転人生「甘さが人気 ブランドねぎ誕生 日系人が壮絶な奮闘」
 戦前の日本に育ち、食と職(農業)を求めてブラジルに移住した人たちは、明治41年から昭和48年までおよそ25万人いるという。


 人それぞれに持って生まれた性格や、育った時代や環境の違いはあるが、ブラジル日系2世で親から教えられて日本にあこがれ、来日して死ぬ思いの苦労を何度も克服しながら、「甘いネギ」を年間定量供給する独自のブランド化に成功された斉藤俊男さんの生き方から、古き時代の日本の良さを、親から子へ伝承し、それをしっかりと応用して生きるという人間の生きる原点を学ぶような気がする。それは私の父から学んだことと共通し、父の回顧録の「養鶏孵化業」に関する部分は、日本における養鶏孵化業の黎明期の現場の記録としても価値があると思うので、ここに紹介させていただく。

 私の父は明治34年(1901年)生まれで、祖父は石工であった。小学校卒業後養子となり中学校に進む夢もあったが、養子先が倒産して進学の夢破れ、銀行の小使いの仕事をしながら進学の受験準備の塾通いを始めた。銀行に置かれていた月刊誌「実業の日本」を読んで、実業界で活躍されている人たちの立志伝に刺激され、どこかの夜間学校に通学して広い視野に立って活躍したいと思うようになり、夜間の学校に入学を許してもらう約束で、16才で大阪船場の洋反物問屋に丁稚奉公をした時もあったが、これも挫折し、祖父の下で石工の見習い職人として働くことになる。長男は石工から土建業へと飛躍し、次の代は建材業、運輸業と根を張っていったが、次男の父は石工にも馴染めず、沼隈郡立実業補修学校で学び,海外移住や開拓のことも考えたが、体力的にひ弱な自分には適していないと、将来に希望の見えない毎日を送っていた。しかも、長男が青年団を退団したので、代わって次男の父が入団したが、大正11年(1922年)の秋祭りにダンジリ事故で左足首を挟まれ、切断しなければならないかの大怪我をした。

 不幸な運命に襲われながらも、将来の生きがいを見つけたいと模索していた時、養鶏・孵化業なら自分の身体でも世の中に貢献できるのではないかと考えるようになった。父の祖父は谷川の急流を利用する水車によって製粉精米業を営んでいた関係上、その副産物である糠類の利用が養鶏では可能なこと。また親戚では巣念鶏を幾羽も集めて、一度に抱卵孵化さして、その雛を長持(布団入れ)の中に温度をかけて育ていたことも母から聞いていた。精米や精麦業が増加しつつある状況から、養鶏で卵を多く生ませれば農家の収入増加も可能ではないかと、親戚・長男等の助言もあり考えるようになったと言う。大正12年(1923年)22才の春、新聞広告で月刊「養鶏の日本」で日本家禽協会が7月1日から8月31日まで長期養鶏講習会の講習生を募集しているのを知り、さっそく申し込み、祖父の了解を得て大正12年(1923年)6月29日、大越浜(千年港)から船で尾道に渡り、夜行列車で愛知県大府町・日本家禽研究所に旅立つことになる。

 父は家業の石工を将来の仕事にすることに生きがいを見いだせず、悩みぬいた挙句、「阿保の鶏飼い」に将来の可能性を見つけて、養鶏孵化業を軌道に乗せたが、鶏が生む卵が小規模農家を支える時代は、そう長くは続かなかった。私が大学生の頃、ハイラインという外国雛による採卵養鶏の大規模化が進行していた。1958年、1959年と2年連続で365卵鶏を作出したヒヨコのイセは、1963年(昭和38年)アメリカ・ハイライン社と特約ふ化契約をし、1967年(昭和42年)ふ化工場を建設している。私もこの情報は知っていたが、採卵鶏の改良をアメリカに依存することには魅力を感じないので、父にも拒否する意向を伝えていたら、1963年(昭和38年)に岡山県のアキタが、ハイライン鶏の広島県特約ふ化場となり、我が家の孵卵器を使用して外国雛の生産を始めることになった。国産採卵鶏の市場が失われたとき、国産に拘る孵化業者にとって残された道はブロイラーのインテグレーションに組み込まれることしかなかった。昭和42年に大学を卒業した私には、養鶏・孵化業の黎明期に頑張った父の仕事とは違う世界しか残されていなかった。廃業を決意した私には、従業員から何とか頑張れないかという懇願には「申し訳ない」と頭を下げるしかなかった。私にとっては将来の希望が持てない「廃業」ではあっても、従業員にとっては将来が断たれる「問題」であった。経営というものは自分の意志だけでなく、何代も続ける見通しが必要なのだ。

 私は大学の恩師に家業を廃業する意思を伝えていたので、滋賀県立短大の助手の道が開かれた。研究者も生産者も経営者も、同じ道を歩むが、何を大切にするかで生きる方向は異なってくる。幸い私は現場に興味があり、大学時代に和牛の大切さを学んでいたので、和牛と乳牛(酪農)を組み合わせたハイブリッドな乳肉生産システムの確立の研究をすることができた。父親の仕事を企業化の方向で確立する意欲はなかったが、和牛と乳牛という資源を日本の農村資源に活用する方向では、父の農業に対する志を受け継いできたと言えるのではなかろうか。


初稿 2020.2.19  更新 2020.2.20(「恐怖!安倍内閣」の更新のため、現在日時変更)  画面修正 2020.5.6 

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