自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

世間と社会~誰も責任を取らない中空構造⑤

2015-02-16 15:39:19 | 中空構造
 国・県の口蹄疫防疫に関する犯罪によって、30万頭の家畜を殺され、その埋却によって環境を破壊され、地域の生活も犠牲にし、2千億円以上の償いようのない補償に本来は使う必要がなかった税金の無駄遣いをされた。しかもその犯罪的な口蹄疫防疫指針遺伝子検査やワクチン接種等の科学技術の進歩を取り入れようとせず、今も国・県は頑としてこれを変えようとしていない。しかし、これに異議申し立てする声は大きくはならない。

 今流行りとなった家畜の福祉を専門とする学者からも「家畜を虐待するな」と異議申し立ては一切聞こえない。口蹄疫に関係すると思われる獣医や畜産の分野の学者も官僚も地方公務員も100年に2度の発生で、2度とも真実が隠蔽されているために現実を知らないからか、ワクチンを使わないで予防的殺処分を行ったことに疑問を持てない程、現場に無知無関心なのか、それとも畜産を守るよりも「自分には関係ない」と、この災難が自分に降り注がないようにじっと身を守っているのであろうか。

 一部の強欲な利益の追究により、国益も真実も科学も粉々にされている。「天空は富と権力を求める巨大な闘争によって粉々にされている。世は利己、俗悪の闇に迷い、知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行われる。」(岡倉天心)(一部、「茶の本」,岩波文庫より引用)

 人と人が顔の見える関係でつながり、その中の有力者が他者を支配するのを世間とすれば、人が人を尊重し、憲法のもとに人を守るのが社会だと思う。本来は世間に規範はなく、私たちが生きていく規範は憲法が与えてくれる。誰も責任を取らない中空構造の日本で憲法が日常は見えないのは、憲法は個人の自由を束縛するものではなく自分を守ってくれているから。その自覚があれば憲法は見えてくる。自律した個人により社会は成立するが、自我を強めた個人では社会は守れない。人と人の関係の中では強者が生まれ、強者に従わねば自分の立場が失われると思うとき、その空気を読み従うのは弱い人間の性である。人間の弱さを責めるより周囲をカメレオンにさせる貪欲な強者の支配行為の追求が必要である。

 大地を一所懸命に守り生きる武士の鎌倉時代に、仏教は貴族の世界から大地に生きる民衆に伝わったとされている。武士の暴力が世間を支配することで、民衆は恐れ、あきらめ、そして仏とともに生きることを生きがいにしたのではなかろうか。その武力により民を支配する時代は戦前まで続いた。明治維新は我が国を文明開化させた素晴らしい功績と教えられるけれど、明治憲法(帝国憲法)発布の1889年2月11日からわずか66年(現在は戦後70年)でお国のためと言いながら、他国を侵略し、沖縄を犠牲にし、おびただしい人命と都市を失い破壊しつくして敗戦に至った。戦後の日本国憲法のもとで軍備に金を使わず、敵を作らず、産業の成長にひたすら邁進し、平和を守ってきたことを忘れてはいけない。

 帝国憲法
 発布;1889年2月11日・・・現在は建国記念日
 施行;1890年11月29日

 日本国憲法
 発布;1946年11月3日・・・現在は文化の日で,明治天皇の誕生日
 施行;1947年5月3日・・・現在は憲法記念日

 人の命は地球より重い。テロであれ戦争であれ、人の命を奪う行為を放棄すべきは人間として当然の責務。日本国憲法は戦争放棄を宣言した人類の宝。その宝を磨かずに修正させたのは、朝鮮戦争(1950年~1953年)を契機にしたアメリカである。歴史的事実を無視して、憲法はアメリカに押し付けられたと自主憲法の制定を強調する一方で、敵の多いアメリカ、しかも力が弱まりつつあるアメリカと行動をともにしようと、憲法改正を踏み絵にして議員の立候補を認めている政党があるとすれば、どのような議員を育てようとしているのか恐ろしいことだ。国民の命を守り世界の平和に貢献するという「積極的平和主義」も口蹄疫の感染拡大を防ぐという「予防的殺処分」も、かえって被害を拡大させるまやかしの同根異語、聞きなれない正義ぶった言葉や行動には注意が必要だ。

 例えば、「イスラム国」のテロ行為を非難する決議の採択を棄権した山本太郎議員が非難されている。しかし、非難されるべきは日本人を救おうとしなかった政府であり、テロとの戦いを公言することで敵を作り日本人を危険にさらしている政府であり、「イスラム国」のテロ行為を集団的自衛権などの自衛の根拠に利用しようとしている政府である。

 世界が敵味方で戦った帝国主義の時代、「お茶でも一服して、しばらくの間はかないものを夢み、『美しくも愚かしいこと』に思いをめぐらせよう」と岡倉天心は言った。山本太郎議員の棄権、斉藤隆夫議員の演説、そして千利休の最期の茶の湯は、私にとって「美しくも愚かしいこと」、これを非難するは「醜くも小賢しいこと」と思える。

 「イスラム国」は国ではないので、そう呼ばないとNHKは決めたそうだ。アメリカも日本も国と認められている。そして国による戦争という殺人は認められ、テロによる殺人は国の戦争の口実にされる。しかも、アメリカの発言として聞こえてくるのは、利害が一致して発言力を強めた議員関係者からの個人的発言である点では日本の世間と同じこと。大統領さえ暗殺するアメリカが世界で戦争を起こしている裏にはアメリカの軍産複合体があり、その代弁者の議員がいる。その人と人のつながりが日本の外務省ともつながった。国同士の話し合いのように見えて、その裏には私的な利益を強欲に追求する人々がいる。

 選挙に敗れてテロで日本を支配しようとしたオウム真理教には「農水省」はなかった。オウムのテロが物質的な豊かさが生んだ「こころの飢餓」だとすると、イスラエル国のテロはアメリカの支配が生んだ「命の飢餓」のような気がする。安倍首相は「日本の農業を改革する!」と声高に叫ぶ一方で里山資本主義に憎しみを隠さない。TPPを受入れて邪魔な農業をつぶし、まさか農水省を「食料輸入省」に改名するのではなかろうか。だとすれば、これは地方の生活に対する国のテロだ。

 戦後、アメリカの余剰農産物で推進してきた輸入飼料に依存した日本の畜産も、飼料を日本に輸入するシステムとしてのメリットは消えてきた。獣医も軍馬から家畜を経て今ではペットが需要を支えてくれる。学者も公務員もカメレオンのように容易に変身して生き延びる。空気に染まって目立たず、自分には関係ないこととして、「見ざる言わざる聞かざる」の処世訓が世間の生き方なのかもしれないが、・・・・。

 今、我々を守るために具体的に出来ることは、生き方は違っていても皆で協力して、自分たちを守ってくれている憲法を守ることしかない。若い人たちに憲法の価値を伝えるしかない。憲法を守る1票を増やす行動は、誰もが憲法の価値を知ることから始まる。さあ、お茶で一服して「美しくも愚かしいこと」の深い味わいを楽しもう。



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