Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

創造主である天主を侮辱することの意味、地獄の特徴

2024年08月06日 | お説教・霊的講話

パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第二日目)

創造主である天主を侮辱することの意味、地獄の特徴

2024年8月3日初土 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日からの三日間のミサは、パリオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いのために捧げられています。このミサと、御聖体降福式がそうです。

特に今日は初土でもありますから、この信心のためにもこのミサと御聖体拝領を、そしてご聖体降福式を捧げてください。

【冒涜:最悪の罪】
ところで、冒涜は最大で最悪の罪ということを昨日黙想しました。それについてもう少し黙想を致しましょう。

冒涜というのは、もっとも恐るべき重大な罪です。何故かというと、創造主である天主を被造物が冒涜する、侮辱するからです。

このことについて二つ、今日は見てみます。

第一点は、もしも誰かが非常に苦しんでいて悲しんでいて、私たちがその方を可哀そうに思って、近寄ってその方を助けだしたとします。そのために一生懸命努力しました。でもその人は、その私の親切に感謝しなかったばかりか私の親切を踏みにじって侮辱したとしたら、私はいったいどのような反応をしたらよいのでしょうか? “ああ、そんならもうわかりました、もうしません、もう親切は一切しません”と言って、打ち切るべきでしょうか。それとも、この方をもっと助けてあげるために、“そのような態度はよくなかった、非常識だ″ということを伝えてあげるべきなのでしょうか。若しもそうだとしたら、どうやって伝えたらよいでしょうか。

もしもある王様が、臣下である私を愛してくださって、私に全てを下さり、私はいろんなプロモーションを受けて、そして寵愛を受けて、お恵みを受けて、全てを受けながら、この恩人である王様にこの親切を国民の前で皆の前であざ笑って、馬鹿にして、王様の面前で屈辱したとしたら、この王様は私に何をすべきでしょうか?

王様は、非常に悲しんで、もう知らないよ、といって親切を止めるだけで十分なのでしょうか?もしも王様が国全体の秩序や善や正義の秩序を守るために、また他の国民たちの悪しき模範とならないように、私を悪いしもべだと見せしめに正義の罰を下したとしたら、王様は、これは悪いことをしたことになるのでしょうか?

イエズス・キリストは、私たち人間を永遠の昔から愛し、天主でありながら人となられました。わたしたちのために罪人の私たちのために十字架でご自分の命を渡されました。至聖なる天主が、最も聖なる御方天主が、罪人である私たちために死を受けました、わたしたちが命を受けるために。本当ならば、主に感謝するために、被造物である私たちが命を捧げても、それでも足りません。天主の“死”に被造物の命がどれだけの価値があるでしょうか。もしもその分際である人間が、天主を公然と侮辱するなら、主は私たちにいったい何をすべきなのでしょうか?何をして当然でしょうか?とくに主の最大の愛の業である御聖体の制定が、公然と全世界の前で侮辱されたならば、主はそのような私たちに何をなさるべきなのでしょうか?

【冒涜:地獄のもの】
第二の点は、天主に対する侮辱・冒涜は、地獄の特徴を持っているということです。聖霊は、聖人たちを通して行動し、そして聖人たちの口を通して天主に賛美を語ります。聖人たちを通して聖なる業を行います。しかし悪魔は、冒涜者を通して悪しき業を行い、冒涜の口を通して地獄の言葉を話すかのようです。

もちろん地獄にいる悪魔たちそして滅ぼされた罪人たちは、天主からたくさんの恵みを受けていたこと、しかしそれにもかかわらず自分のせいでその愛を無視して、地獄に進んで落ちてしまったことを知っています。しかしそれにもかかわらず、この愛の天主を逆恨みして、主を思いのまま冒涜します。あたかも地獄に落ちているのは、天主のせいであるかのように、呪い、恨みます。

ユダヤ人たちはペトロに「あなたもたしかにあのかれらの一人だ。おまえの方言でわかる」(マテオ26:73)と言いました。この言葉を解説して聖アントニノという聖人は、「天主を冒涜する人は、地獄に属する人…つまりサタンの弟子だ。呪われた者の言葉づかいで、そのしぐさでわかる、と言わなければならない。」と解説しました。さらに聖アントニノは、こうも言っています。「冒涜を行う者は、すでに地獄に属しているので、地獄の業を行っているのだ」と。

【償い】
では、わたしたちは、冒涜が恐ろしい天主に対する侮辱であるということ、そしてこれは地獄の業の延長であるということを黙想しました。私たちは、ですから、昨日から三日間、償いのミサと御聖体降福式を行っています。ミサ聖祭が侮辱され、御聖体が侮辱されたからです。

愛する兄弟姉妹の皆様、愛と礼拝をもって今日このミサ聖祭に与ってください。冒涜の罪を償いましょう。主は正義を要求されます。償いを要求されます。わたしたちが代ってその償いをお捧げしましょう。マリア様とともに十字架のもとに留まり、イエズス様の犠牲を罪の償いとして、御父天主にお捧げ致しましょう。

特に今日、跪いて口で舌で敬虔に御聖体を礼拝しながら、感謝をこめて礼拝しつつ御聖体拝領をなさって下さい。また、御聖体に対して、特にファチマの天使が教えてくれた祈りを心から唱えましょう。主を信ぜざる者 礼拝せざる者 希望しない人 愛さない人々に代って、わたしたちが主を信じ 礼拝し 希望し 愛することができますように。そして、世界中のすべてのご聖櫃にましまし給うイエズス・キリストの御体を、わたしたちは心から礼拝いたしましょう。

Deus propitius esto nobis peccatoribus!
天主よ、罪人である私たちを憐れみ給え!

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


侮辱された愛の秘跡である御聖体を、わたしたちは感謝と愛をもって償いましょう。

2024年08月06日 | 聖伝のミサの予定

2024年8月2日(初金)御聖体降福式の黙想

(いまから数分間、御聖体のうちに真にまします給うイエズスの聖心の御前で、
礼拝と感謝と讃美と罪の償いをお捧げいたしましょう。)

侮辱された愛の秘跡である御聖体を、わたしたちは感謝と愛をもって償いましょう。

イエズス様の御名が、讃美されますように。
尊ばれますように。
崇められますように。
礼拝されますように。
すべての人々から愛されますように。
特に御聖体が尊敬され、人々から最大の愛を受けますように。
わたしたちを愛するがために、
パンの形をとって、
昼夜わたしたちを見守り、
わたしたちにすべてを与え尽くされる愛の天主、
イエズス・キリストの聖心。
この愛を、わたしたちは感謝をもって受け取りましょう。

主の愛を知らない人々に、イエズス・キリストの愛が知られますように。
闇が光によって照らされますように。
どれほど恐ろしい屈辱を与えてしまったかということを、悟りますように。

イエズスの聖心が ご聖体が侮辱されて、
深く傷ついたすべてのキリスト者と心を合わせて、
諸聖人とマリア様と合わせて、
この償いをお捧げいたしましょう。
この私たちを憐れんでくださいますように。

カトリック教会の長女であるフランスが、また過去のすばらしい栄光ある姿を取り戻しますように。
あれほど多くの聖人・聖女たちを生み出したこの国が、またその聖なる徳に燦然と輝きますように。


パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第一日目)冒涜するよりも恐ろしいものは何もない

2024年08月06日 | 聖伝のミサの予定

パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第一日目)

2024年8月2日(初金)説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日から三日間、ミサを連続して、パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いのために捧げます。三日間連続で、ミサの直後に償いのためのご聖体降福式も行われます。皆さん、どうぞいらしてください。そして、いま実際にミサに与れない方でも、YouTubeのライブによって、一緒にお祈りを捧げてくださるようにお願いいたします。

【1:イエズス・キリストの御業への侮辱】
ちょうど一週間前の金曜日の夜のことでした。パリのオリンピックの開会式では、全世界の人々の目前で、見ている前で、私たちの主イエズス・キリストを侮辱するパーフォーマンスが行われました。フランス共和国の大統領政府が、国家行事としてのオリンピックの開会式で、この冒涜を行いました。しかも、キリスト教の最も大切な部分が、非キリスト教的なやり方で侮辱されました。

もう少し具体的に申し上げます。わたしたちの宗教行事の中核の一つである、十字架の犠牲の先取り、つまり最後の晩餐、最初のミサ聖祭が、侮辱されました。

いったい、ミサでは何が行われたでしょうか。最後の晩餐では何が行われたでしょうか。イエズス様が、つまり、人となった天主ご自身が、わたしたち罪人に対する無限の憐れみをもって、深い憐れみ深い愛をこめて、ご自分をわたしたちに与えようとされたのです。パンをご自分の体に聖変化させて、そしてブドウ酒をご自分の御血に聖変化させて、すべてわたしたちに与え尽くしました。その愛の御業の行われた行事でした。その瞬間でした。また同時に使徒たちを新約の司祭たちと叙階した最初のカトリックの叙階の席でもありました。また、ミサ聖祭は、わたしたちキリスト教信者が古代から全世界において2000年間の間大切に捧げ続けてきたものです、ミサ聖祭です。

このわたしたちの宗教の信仰の最も大切な部分、愛の御業が、嘲笑と軽蔑と侮辱の対象となりました。天主の愛の最高の業が、冒涜されました。わたしたちの天主・救い主・贖い主・王、私たちの愛が、足蹴にされました。主のなさった愛の最高の業が、屈辱を受けました。これは、主がなさったすべてのことに対する冒褥であり、主を信じる人々・弟子たち・信者たちに対する嘲笑以外のなにものでもありません。

しかも、これはオリンピック開会式という公式の儀式の場で、公然と行われました。そしてこの侮辱を行われるのを、わたしたちは全世界の人々は、その目にしました。この冒涜的な屈辱に、世界中の至る所にいるカトリック信者たちは、キリスト者たちは、深い悲しみを覚えて、傷つきました。

この儀式が終わった直後すぐに、外国にいる聖ピオ十世会ではない司祭から、私は連絡を受けました。この今日金曜日午後4時に全世界で償いの祈りを捧げるからという招待のメッセージでした。また日本におられる多くのフランスの方々からも、神父様今日この金曜日に私たちは何か償いをしましょう、このミサを償いのために捧げましょう、と要請を受けました。わたしは喜んで、もちろんそうする!そうする!と答えました。そして、三日間の償いの日々を企画して、そして東京と大阪で同時に行うことになりました。

フランスという国が、カトリック教会の長女であるフランスが、同時に汚されるのをわたしたちは目の当たりにしました。フランスの方々は非常に傷つきました。涙を流しました。唖然としてショックを受けました。多くの方々がそのことを、あるいはYouTubeであるいはツイッターであるいはそのほかの方法で、嘆いています。フランスの最も大切な文化・伝統・フランスの特徴はまったく無視された。そのかわりに外国から来たイデオロギー・反キリスト教的なイデオロギー、あるいは道徳的な退廃、あるいは暴力的革命を賛美するようなものが歌われているのを見て、非常に傷つき悲しみました。また同時に、多くの人々は、スポーツの選手たちも、健全であるスポーツが汚されるのを穢されるのを見て、悲しみ傷つきました。

もしもこの開会式で、韓国の選手が北朝鮮の選手だといって間違って紹介されたために国際オリンピック委員会の会長が直接韓国の大統領におわびしてそしてその他公式の文章を出して謝罪したとしたならば、このオリンピックの侮辱を見て、オリンピック国際委員会はそしてそのすべての代表者は、イエズス・キリストに、三位一体に、そしてカトリック教会に、そしてイエズス・キリストを信じるすべての人々に、心からの謝罪と罪の償いを捧げなければならないはずです。

【冒涜】
いったい、なぜこれほどの大きなこととなり、そして、謝罪をし、償いを果たさなければならないのでしょうか。なぜかというと、これは、冒涜であるからです。冒涜というのは、天主を傷つけるなんらかの言葉や行いのことです。天主の御稜威にふさわしくないことを、述べたり、行ったり、あざわらったり、嘲笑したりすること、それが冒涜といわれます。天主を軽蔑し侮辱することです。

ミサ聖祭と十字架は、天主が私たちのためになさった愛の最高の大傑作です。もしも冒涜の対象が聖なるものであれば聖なるものであるほど、愛が大きければ大きいほど、その罪は重大になります。

したがって冒涜というのは、いろいろな罪のなかでもっとも恐ろしい罪です。聖ヒエロニモは、預言者イザヤの一節(18:2)を解説してこう言っています。引用します。

自分の口にいとも高き者の、つまり天主を置いて冒涜するよりも恐ろしいものは何もない。(言葉を続けて)全ての罪は冒涜と比較するならばより軽い罪となる。(nihil enim horribilius blasphemia, quae ponit in excelsum os suum. ... omne quippe peccatum comparatum blasphemiae, levius est. )

“すべての罪は、冒涜と比較するなら、軽い罪だ”、と。この聖ヒエロニモの言葉は、聖トマス・アクィナスの神学大全で引用しています。

人間の犯す罪のなかで最も重い罪だと考えられる殺人であっても、それがどのような恐ろしいものであったとしても、冒涜に比較すればはるかに軽い罪だと聖トマス・アクィナスは言います。

なぜかというと、冒涜は、天使よりもはるかに聖なる天主であり創造主である天主を直接に屈辱するものであるからです。天主に反するものであるからです。しかし、殺人はどれほどおそろしいものであっても、被造物に対するものであるからです。しかも、冒涜を行う人は天主の名誉に危害を加えようとすることを意図しているので、絶対的な意味では、冒涜者は殺人者よりも重大な恐ろしい罪を犯したことになります。(II, II, q13, art 3 ad 1)

では、冒涜が最も恐ろしい重い罪であるということは、いったいどんなことを意味するでしょうか。つまり、これは、冒涜にはもっとも厳しい最も恐ろしい罰が現世そして来世に待っている、ということです。正義がそれを要求する、ということです。

もしかしたら、パリのオリンピックは、この来るべき恐ろしい罰の前兆であるかもしれません。つまり公式に天主・創造主を否定して、そして創造主と被造物の区別をなくしてしまった。その結果いったい何が起こったかというと、男と女の区別がわからない。ですから、女性のスポーツ・女性の試合に男が混じって、女性を殴ってそして男が勝つ。そしてそれがフェアプレーだとされたり、あるいは汚い水を飲まなければならなかったり、あるいは貧しい食事をしなければならなかったり、あるいは暑さに耐え忍ばなければならなかったり、あるいは盗みや八百長や嘘八百などがまかり通る世界にわたしたちは生きなければならないということを暗示しているのかもしれません。イエズス・キリストが馬鹿にされる・屈辱される世界はそういう世界だということを、全世界の前でわたしたちに予告しているのかもしれません。

【償い】
では、わたしたちはそのような冒涜を見て、イエズス・キリストに対してなされる屈辱を見て、何をしなければならないのでしょうか。わたしたちは、その冒涜を何とかして償わなければなりません。もしもそれを行った人が償わないならば、誰かが代ってそれを償ってあげなければなりません。もしも冒涜を見て償わないでいたら、それを止めないでいたら、それに対して沈黙を守っていたならば、それは冒涜に賛成したということであり、冒涜を助けた、幇助した、ということになります。つまり、冒涜したと同じような責任をもつことになります。

歴史のなかには、冒涜を見て、そしてそのまま何もしなかったがために町全体が滅んでしまったという例が存在しています。例えば1902年3月28日聖金曜日に、マルティニーク島のサンピエールという町でこんなことが起こりました。この聖金曜日には一部の人々によって、キリストの十字架像が馬鹿にされました。
彼らは十字架像をもって、屈辱を浴びせながら、町をでて、近くにあったプレ山という山に向かいました。十字架の道行きの信心を嘲るために――聖金曜日にカットリック教会ではそれを行うので――道すがら十四回わざと留まって十字架を屈辱しました。そして最後には、冒涜を繰り返したのちに、その十字架像をプレ山の噴火口に投げこみ嘲笑いました。このことを知って、これに抗議の声をあげる人は誰もいませんでした、残念ながら。

そののち、同じ年の5月8日、キリストの昇天の祝日に、突然、マルティニーク島にあるプレ火山が噴火しました。早朝のことでした。そしてサンピエール市はすべて火山灰のもとに埋められてしまい、壊滅しました。そこにいた約4万人が死亡しました。助け出ることができたのは、非常に朝早く出勤のためにその町を離れたほんの数名だけでした。

ですから、わたしたちは、そして世界中の心ある人たちは、この冒涜を見て、ノー!と叫んでいます。
「わたしたちはこれを受け入れない!」
「わたしたちはこのような屈辱を見て、イエズス・キリストに対する償いを果たしたい!」
「特に御聖体が、ミサ聖祭が屈辱されたので、わたしたちはミサ聖祭において、そして御聖体に対して特別の愛をあらわして、罪を償いたい!」
「冷淡に対して、愛をもって応えたい!」
と思っています。

ですから、愛する兄弟の皆様は、今日はここに与りました。どうぞご聖体拝領を、愛をこめてなさってください。そしてイエズス様のご聖体を、心から礼拝してください。世界中のカトリック信者たちと心を合わせて、この償いの業を果たしてください。

もしかしたら私たちの数はそんなに多くないかもしれません。しかし、ソドムとゴモラの町を破壊しようと、罰せようとした天主に対して、アブラハムは、こう言ったではないでしょうか。
「いや、天主よ、憐れんでください。もしもこの巨大な町、ソドムとゴモラに、たった五十人でも義人がいるならば、その五十人たちのためにこの町を容赦してください、そうしてくださいますか?」
「そうしよう。もしも五十人いたらこの町を救おう、罰しない。」
アブラハムはもっと憐れみを願います、四十人、三十人、二十人、十人。主はいいます。
「十人でも、義人がいるならば、私はソドムとゴモラを滅ぼさない。」
しかし、アブラハムにはさらに言葉を続けることができませんでした。残念ながら、ソドムとゴモラには、その十人さえもいませんでした。そして滅ぼされてしまいました。

わたしたちは、ですから、主に、わたしたちの少ない人数にもかかわらず、愛をもって捧げることによって、主に特別の愛を、あわれみを請い求めましょう。

三日間、償いのミサと御聖体降福式を行いましょう。わたしたちの主がこのわたしたちのつたない祈りと愛を見て、宥められ、そしてわたしたちを憐れんでくださいますようにお祈りいたしましょう。また、マリア様の御取次をも願いましょう。

Deus propitius esto nobis peccatoribus!
天主よ、罪人である私たちを憐れみ給え!

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

Par Nationaal Museum van Wereldculturen, CC BY-SA 3.0,


税吏は胸を打ちながら"天主よ、罪人の私をおあわれみください"と祈った。

2024年08月01日 | お説教・霊的講話

2024年7月28日大阪 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日の福音では、「自分を義人と信じ、他人をさげすむ人々」について、主がたとえをお話になりました。今日は一緒にこのたとえを黙想いたしましょう。まず第一に今日の福音を考察します。

【1:今日の福音】
登場するのは二人の男です。一人はファリザイ人、もう一人は税吏です。当時の人の気持ちになってみてください。
ファリザイ人というのは、律法を守ろうと、書かれていた通りに厳しく守ろうとした人々です。その守り方があまりにも厳しくて、文字通りに縛られていたので、そして、律法の精神を忘れていったので、イエズス様からは非難されますが、しかし、律法を学んで律法を守って、そうすることによって、外国のギリシアやローマからの異教の影響から切り離されて――この切り離されてということの語源がファリザイで、そこからファイリザイという言葉がくるのですけれども――それから外国の影響から切り離されて異教を離れて、ヤーウェを中心とするユダヤの国粋主義を貫こうとした人々です。ですから、ファリザイたちは司祭階級ではなかったとしても、民衆からは非常に莫大な尊敬を集めていました。そしてファリザイ人たちが神殿にやって来てお祈りするのです。

それに引き換え、税吏は、植民地を支配していたローマ帝国のしもべでした。手先でした。異教の支配者のためにあたかも裏切り者のように考えられていました。税吏の中には、自分の懐に入れるために、公務員という立場を悪用して、乱用して、不正な取り立てをしていた税吏も多数あったと伝えられています。貪欲で悪徳な役人たちもたくさんいたとのことです。ですから税吏は民衆から軽蔑され、憎まれていました。

この二人が神殿に祈るためにやってきます。祈ります。ところが、ファリザイ人の祈りは何の意味も効果もなく、彼はそのまま家に帰ります。しかし税吏の祈りは聞き入れられて、彼は義とされます。(つまり罪を赦されて聖なるものとなって)家に帰っていくのです。いったい何故なんでしょうか?主はその結論に言われます。「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」からだと。

では、いったいファリザイ人の祈りのどこが悪かったのでしょうか?税吏の祈りのいったいどこが良かったのでしょうか?主はその譬えを通して私たちにいったい何を教えたいと思っておられるのでしょうか?

【2:ファリザイ人の祈り】
まずファリザイ人の祈りを見てみましょう。ファリザイ人はこう祈りました。「天主よ、私が、他の人のように、貪欲な人でもなければ、不正な人でもなければ、姦通者でもない、またこの税吏のような人間でないことを、あなたに感謝いたします。私は、週に二回断食して、全所得の十分の一をささげています。」

たしかにこのファリザイ人は貪欲でもなければ、不正でもなければ、姦通者でもなかった、これは確かです。また税吏のように敵国ローマの手先として働いていなかったこと、これも確かです。断食をしたこと、二回も断食したこと、ちゃんと全所得の十分の一の税を払っている、これも確実でした、事実でした。
でも主はこの祈りには効果がなかったということを警告しています。イエズス様はファリザイ人が祈ったということが悪いとはいっていません。もしかしたら祈りではなったのかもしれませんが、しかし、神殿に来たことを悪いとは言っていません。またファリザイ人が自分の税をちゃんと払っている、断食をしていることを悪いと言っているのではありません。

ただ祈り方がよくなかったことを指摘しているのです。おそらくいつも思っていることを、主よと呼びかけて「祈り」にしたのでしょう。何が悪かったかというとイエズス様は言います。自分を義人と信じて、他人をさげすんでいた(in se confidébant tamquam iusti et aspernabántur céteros)からだと。何を意味しているかというと、ファリザイ人は善行を自分に帰していました、自分だけの手柄にしていました。自分があまりにも素晴らしいということを感謝していました。しかし、実際は、当然なことをしていただけです。電気料を払った、水道料を払った、だからと言って特にえらいというわけではないでしょう。

もっと正確に言うと、主のお恵みによって、罪を避けて生活できている、主のお恵みによって善行を行うことができている、ということを認めなかった、認識していなかったのです。今日書簡で聖パウロが言う通りです。「聖霊によらなければ、だれも「イエズスは主である」ということができない」のです。

【3:傲慢】
ではいったいなぜ認識できなかったのでしょうか。これは傲慢のせいです。
「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる。」では、傲慢、高ぶるとは何でしょうか?高ぶるというのは、本当の自分よりも高ぶって見せかけていること、人間が本当よりも不正に高くあろうとすること、これを傲慢とか高ぶりと言います。

聖アウグスチヌスは、傲慢ということを分析して、見境もなく高揚を望むこと (De Civ. Dei xiv, 13)であるといっています。あるいは、また別のところではこうも言っています。傲慢というのは天主を真似ようとする秩序のない望みである (De Civ. Dei xiv, 13; xix, 12)、。もちろん天主のようになる、ということはできないと分かっているので、天主を真似ようとして、事実上天主の地位を奪ってしまうことです。つまりどういうことかというと、天主のもとにある被造物、天主のもとに従うのではなくて、天主が被造物に対して持っている絶対の支配権を自分のものとして横取りしようすること、それが傲慢です。

聖トマス・アクィナスは傲慢というのは「自分の優れていることを、見境もなく(秩序もなく)望むこと」だと言いますし。

タンクレ(Tanquerey)神父さまという倫理神学者の司祭は、さらにこうも言っています。聖トマス・アクィナスのそれを説明するかのようです。「傲慢というは、秩序のない自己愛であって、これによって暗黙のうちにあるいは明白に自分のことを第一であって究極の目的だと考える、これが傲慢だ。」何を言いたいかというと、傲慢だと、(1)自分にある良いことはみーんな自分の努力で得た、自分のおかげだとする、「自分」だ。あるいは、(2)たとえ自分の持っている良いものが天主からいただいたと思っていても、でも、それは自分の功徳だ、自分が良いから天主が当然の報いとして与えたのだと、見做しているのです。
さらには、傲慢によって、自分が持っている善いもの、自分が行った善いことを、あたかもそれ以上であるかのようにみせようと自慢してしまいます。また自分がより高くなるために、他人をわざと低めて軽蔑しようとします。

まさにファリザイ人がいった祈りはこのことでした。タンクレ神父様によれば、傲慢のために、人は自分のために、生きます。どういうことかというと、「自己実現」のために生活するということです。自分を究極の目的にするということです。つまり、傲慢な人は、自分の良いところが自分に由来して、善を自分の力だけでできるし、自分のために行いますし、全ては自分に向かうように。もしかしたら、ファリザイ人の「週に二回の断食」や「十分の一の献金」も、自分の高ぶりのためにやっていたのかもしれません。

でも、本当は、全ての善徳、全ての善行は、天主のお恵みによってなされますし、天主から由来します。私たちが持っているすべてのものは、天主から受けたものであるからです。自然のお恵みも超自然のお恵みもすべて主から頂いたものです。私たちが持っているもので主から頂かなかったものはひとつもありません。ですから全ては主の憐れみによって主の力によって行われて、主のために主へと向かっています。まさに、天主こそが、はじめであり終わりです。主はご自分の善さと優しさと憐みによって、私たちに全てをくださいました。これを認めるのが謙遜です。しかも、天主が下さった超自然の恵みを人間が罪によって乱用して拒否したにもかかわらず、罪を犯した人間に超自然の恵みをまたもう一回与えるために、主は人間となって、死の苦しみさえも受けられました。

しかし傲慢は天主に帰さなければならないものを、自分に帰属させます。自分のおかげだ、自分の善さのためだとうぬぼれさせてしまうのです。
そうすると、傲慢というのは、他の罪へといろいろな影響を及ぼします。直接的にあるいは間接的に影響を及ぼす危険があります。
直接的にはどういうことかというと、傲慢によって「自分の優れているものを、見境もなく望む」ので、それを求めてそれを目的として別の罪を犯させてしまう危険があるのです。
間接的にも人間は天主の掟によって罪を犯すことが禁じられています。でも、傲慢によって、そんなものがあると邪魔だ、掟は邪魔だと考えてしまって、自分がより高ぶるためには、高くなるためには、その掟を取り除こう、邪魔ものを除こうとしてしまいます。つまり「私は従わない」(エレミア2:20)という悪魔と同じ叫びへと導かれてしまう危険があります。
ですから、聖ヤコボはこう書いています。「天主は驕る者にさからい、へりくだるものを恵まれる」(ヤコボ4:6)と。なぜかというと、傲慢というのは天主のやり方と対立するからです。悪魔のやり方であるからです。

聖トマス・アクィナスはさらにこうも言っています。傲慢があまりにも悪しき悪徳なので、傲慢を克服させるために、またつまり謙遜へと導くために、天主は時にしてある人々を、傲慢な人々を、傲慢よりも罪が重くはないけれども極めて恥ずかしい肉の罪に陥ることを許すことがある、といいます。

どういうことかというと、傲慢というのは、全ての悪徳の中で最も悪い最悪のものなので、……なぜ最悪かというと、最も高い地位に人あるいは最善の地位にある人々でさえも傲慢になってしまう危険がある、あるいは、最も聖なる行為・あるいは有徳な行為からも傲慢が生じてしまう危険があるが、しかしその傲慢はあまりよく察知されていない、人が傲慢になっていることをあまりよく知らないでいるので、……ちょうど 賢い医者が、悪い病気を治すために、患者があまり危険でない病気に陥るのを許すことがある、そうすることによって、より危険な病から癒そうとすることがあるといいます。そのような賢い医者のように天主は、傲慢を癒す薬として、他の様々な罪に陥ることを許される、そうすることによって、あっ、自分はなんと愚かで惨めな者だということがわかるように謙遜となるように、と説明しています。(II, II, Q.162, art 4. ad 3)

【4:税吏の祈り】
では、税吏はどのように祈ったのでしょうか。税吏は遠く離れて、目を天に向けることさえもせずに、胸を打ちながら、"主よ、天主よ、罪人の私をおあわれみください"とだけ祈ります。税吏は、罪を心から悔い改める、悔悛の心をもって、天主の憐みをひたすらこい求めます。「罪びとのわたしを憐れんでください。」
主はこう言います。「私はいう。この人は義とされて家に帰ったが、さきの人はそうではなかった。」と。
税吏は、自分の罪を単純に素直に認めました。自分が無に等しい、主にすべて依存している、委ねているということを認めました。つまり、遜(へりくだ)りあるいは謙遜というのは、天主の御前において自分の立ち位置・分際を単純に素直に認めることです。全ては主に由来しますし、全ては主の栄光のためだ、と。もしも私が何か良いことができたとしたら、それは主のおかげだ、この謙遜がある時に、天主は最高度に全能を発揮して、わたしたちを憐れみます。これが今日の集祷文の祈りです。つまり、罪人を義として、人間を天国の栄光まで上げられます。
「高ぶる人は下げられて、遜(へりくだ)る人は上げられます。」

【5:私たちの祈り】

ではわたしたちは最後にどのような結論をとったらよいでしょうか、どのように祈りをしたらよいでしょうか。わたしたちはファリザイ人の真似をして、「ああ主よ、私はあなたのために、金曜日には小斎をやって、ミサには与るし…聖伝のミサですよ…それなのにあなたはなにもしてくれない」などと、祈るのでしょうか。
それとも、あるいは告解の時に「ああ、私はちゃんとこれをしました、こんなよいことをしました、こんなこともしました、こんなこともしました、でもあの人はああです、こうです」というのでしょうか。いえ、そうではありません。

聖ヨハネ・クリソストモスはこう言います。「たとえ私たちに偉大な善徳による何千のよい行為があったとしても、私たちの祈りが聞き入れられるという信頼は、天主の憐れみと主の人間に対する愛による。たとえ私たちが善徳の頂点に立っているとしても、私たちが救われるのは天主のあわれみによる。」

マリア様はどのように祈ったでしょうか。マリア様は罪を一つも犯しませんでした。ですから、罪人のわたしを憐れみ給え、とは祈ることができません。しかし、聖母はこう祈りました。

わが霊魂は主を崇め(あがめ)奉り(たてまつり)、
 わが精神はわが救い主なる天主によりて喜びに堪(た)えず。
 そは御召使い(おんめしつかい)のいやしきを顧み(かえりみ)給いたればなり。
見よ、今よりよろずよにいたるまで、人われを幸いなる者ととなえん。
 けだし全能なる御者(おんもの)、われに偉大なことをなし給いたればなり。
 聖なるかな、その御名(みな)。云々・・・。
 
では最後にマリア様の御取次によって、わたしたちもマリア様に倣って、謙遜な祈りを行うことができますように、このミサで祈り続けましょう。

「主よ、罪人である私を憐れんでください。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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