Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

税吏は胸を打ちながら"天主よ、罪人の私をおあわれみください"と祈った。

2024年08月01日 | お説教・霊的講話

2024年7月28日大阪 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日の福音では、「自分を義人と信じ、他人をさげすむ人々」について、主がたとえをお話になりました。今日は一緒にこのたとえを黙想いたしましょう。まず第一に今日の福音を考察します。

【1:今日の福音】
登場するのは二人の男です。一人はファリザイ人、もう一人は税吏です。当時の人の気持ちになってみてください。
ファリザイ人というのは、律法を守ろうと、書かれていた通りに厳しく守ろうとした人々です。その守り方があまりにも厳しくて、文字通りに縛られていたので、そして、律法の精神を忘れていったので、イエズス様からは非難されますが、しかし、律法を学んで律法を守って、そうすることによって、外国のギリシアやローマからの異教の影響から切り離されて――この切り離されてということの語源がファリザイで、そこからファイリザイという言葉がくるのですけれども――それから外国の影響から切り離されて異教を離れて、ヤーウェを中心とするユダヤの国粋主義を貫こうとした人々です。ですから、ファリザイたちは司祭階級ではなかったとしても、民衆からは非常に莫大な尊敬を集めていました。そしてファリザイ人たちが神殿にやって来てお祈りするのです。

それに引き換え、税吏は、植民地を支配していたローマ帝国のしもべでした。手先でした。異教の支配者のためにあたかも裏切り者のように考えられていました。税吏の中には、自分の懐に入れるために、公務員という立場を悪用して、乱用して、不正な取り立てをしていた税吏も多数あったと伝えられています。貪欲で悪徳な役人たちもたくさんいたとのことです。ですから税吏は民衆から軽蔑され、憎まれていました。

この二人が神殿に祈るためにやってきます。祈ります。ところが、ファリザイ人の祈りは何の意味も効果もなく、彼はそのまま家に帰ります。しかし税吏の祈りは聞き入れられて、彼は義とされます。(つまり罪を赦されて聖なるものとなって)家に帰っていくのです。いったい何故なんでしょうか?主はその結論に言われます。「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」からだと。

では、いったいファリザイ人の祈りのどこが悪かったのでしょうか?税吏の祈りのいったいどこが良かったのでしょうか?主はその譬えを通して私たちにいったい何を教えたいと思っておられるのでしょうか?

【2:ファリザイ人の祈り】
まずファリザイ人の祈りを見てみましょう。ファリザイ人はこう祈りました。「天主よ、私が、他の人のように、貪欲な人でもなければ、不正な人でもなければ、姦通者でもない、またこの税吏のような人間でないことを、あなたに感謝いたします。私は、週に二回断食して、全所得の十分の一をささげています。」

たしかにこのファリザイ人は貪欲でもなければ、不正でもなければ、姦通者でもなかった、これは確かです。また税吏のように敵国ローマの手先として働いていなかったこと、これも確かです。断食をしたこと、二回も断食したこと、ちゃんと全所得の十分の一の税を払っている、これも確実でした、事実でした。
でも主はこの祈りには効果がなかったということを警告しています。イエズス様はファリザイ人が祈ったということが悪いとはいっていません。もしかしたら祈りではなったのかもしれませんが、しかし、神殿に来たことを悪いとは言っていません。またファリザイ人が自分の税をちゃんと払っている、断食をしていることを悪いと言っているのではありません。

ただ祈り方がよくなかったことを指摘しているのです。おそらくいつも思っていることを、主よと呼びかけて「祈り」にしたのでしょう。何が悪かったかというとイエズス様は言います。自分を義人と信じて、他人をさげすんでいた(in se confidébant tamquam iusti et aspernabántur céteros)からだと。何を意味しているかというと、ファリザイ人は善行を自分に帰していました、自分だけの手柄にしていました。自分があまりにも素晴らしいということを感謝していました。しかし、実際は、当然なことをしていただけです。電気料を払った、水道料を払った、だからと言って特にえらいというわけではないでしょう。

もっと正確に言うと、主のお恵みによって、罪を避けて生活できている、主のお恵みによって善行を行うことができている、ということを認めなかった、認識していなかったのです。今日書簡で聖パウロが言う通りです。「聖霊によらなければ、だれも「イエズスは主である」ということができない」のです。

【3:傲慢】
ではいったいなぜ認識できなかったのでしょうか。これは傲慢のせいです。
「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる。」では、傲慢、高ぶるとは何でしょうか?高ぶるというのは、本当の自分よりも高ぶって見せかけていること、人間が本当よりも不正に高くあろうとすること、これを傲慢とか高ぶりと言います。

聖アウグスチヌスは、傲慢ということを分析して、見境もなく高揚を望むこと (De Civ. Dei xiv, 13)であるといっています。あるいは、また別のところではこうも言っています。傲慢というのは天主を真似ようとする秩序のない望みである (De Civ. Dei xiv, 13; xix, 12)、。もちろん天主のようになる、ということはできないと分かっているので、天主を真似ようとして、事実上天主の地位を奪ってしまうことです。つまりどういうことかというと、天主のもとにある被造物、天主のもとに従うのではなくて、天主が被造物に対して持っている絶対の支配権を自分のものとして横取りしようすること、それが傲慢です。

聖トマス・アクィナスは傲慢というのは「自分の優れていることを、見境もなく(秩序もなく)望むこと」だと言いますし。

タンクレ(Tanquerey)神父さまという倫理神学者の司祭は、さらにこうも言っています。聖トマス・アクィナスのそれを説明するかのようです。「傲慢というは、秩序のない自己愛であって、これによって暗黙のうちにあるいは明白に自分のことを第一であって究極の目的だと考える、これが傲慢だ。」何を言いたいかというと、傲慢だと、(1)自分にある良いことはみーんな自分の努力で得た、自分のおかげだとする、「自分」だ。あるいは、(2)たとえ自分の持っている良いものが天主からいただいたと思っていても、でも、それは自分の功徳だ、自分が良いから天主が当然の報いとして与えたのだと、見做しているのです。
さらには、傲慢によって、自分が持っている善いもの、自分が行った善いことを、あたかもそれ以上であるかのようにみせようと自慢してしまいます。また自分がより高くなるために、他人をわざと低めて軽蔑しようとします。

まさにファリザイ人がいった祈りはこのことでした。タンクレ神父様によれば、傲慢のために、人は自分のために、生きます。どういうことかというと、「自己実現」のために生活するということです。自分を究極の目的にするということです。つまり、傲慢な人は、自分の良いところが自分に由来して、善を自分の力だけでできるし、自分のために行いますし、全ては自分に向かうように。もしかしたら、ファリザイ人の「週に二回の断食」や「十分の一の献金」も、自分の高ぶりのためにやっていたのかもしれません。

でも、本当は、全ての善徳、全ての善行は、天主のお恵みによってなされますし、天主から由来します。私たちが持っているすべてのものは、天主から受けたものであるからです。自然のお恵みも超自然のお恵みもすべて主から頂いたものです。私たちが持っているもので主から頂かなかったものはひとつもありません。ですから全ては主の憐れみによって主の力によって行われて、主のために主へと向かっています。まさに、天主こそが、はじめであり終わりです。主はご自分の善さと優しさと憐みによって、私たちに全てをくださいました。これを認めるのが謙遜です。しかも、天主が下さった超自然の恵みを人間が罪によって乱用して拒否したにもかかわらず、罪を犯した人間に超自然の恵みをまたもう一回与えるために、主は人間となって、死の苦しみさえも受けられました。

しかし傲慢は天主に帰さなければならないものを、自分に帰属させます。自分のおかげだ、自分の善さのためだとうぬぼれさせてしまうのです。
そうすると、傲慢というのは、他の罪へといろいろな影響を及ぼします。直接的にあるいは間接的に影響を及ぼす危険があります。
直接的にはどういうことかというと、傲慢によって「自分の優れているものを、見境もなく望む」ので、それを求めてそれを目的として別の罪を犯させてしまう危険があるのです。
間接的にも人間は天主の掟によって罪を犯すことが禁じられています。でも、傲慢によって、そんなものがあると邪魔だ、掟は邪魔だと考えてしまって、自分がより高ぶるためには、高くなるためには、その掟を取り除こう、邪魔ものを除こうとしてしまいます。つまり「私は従わない」(エレミア2:20)という悪魔と同じ叫びへと導かれてしまう危険があります。
ですから、聖ヤコボはこう書いています。「天主は驕る者にさからい、へりくだるものを恵まれる」(ヤコボ4:6)と。なぜかというと、傲慢というのは天主のやり方と対立するからです。悪魔のやり方であるからです。

聖トマス・アクィナスはさらにこうも言っています。傲慢があまりにも悪しき悪徳なので、傲慢を克服させるために、またつまり謙遜へと導くために、天主は時にしてある人々を、傲慢な人々を、傲慢よりも罪が重くはないけれども極めて恥ずかしい肉の罪に陥ることを許すことがある、といいます。

どういうことかというと、傲慢というのは、全ての悪徳の中で最も悪い最悪のものなので、……なぜ最悪かというと、最も高い地位に人あるいは最善の地位にある人々でさえも傲慢になってしまう危険がある、あるいは、最も聖なる行為・あるいは有徳な行為からも傲慢が生じてしまう危険があるが、しかしその傲慢はあまりよく察知されていない、人が傲慢になっていることをあまりよく知らないでいるので、……ちょうど 賢い医者が、悪い病気を治すために、患者があまり危険でない病気に陥るのを許すことがある、そうすることによって、より危険な病から癒そうとすることがあるといいます。そのような賢い医者のように天主は、傲慢を癒す薬として、他の様々な罪に陥ることを許される、そうすることによって、あっ、自分はなんと愚かで惨めな者だということがわかるように謙遜となるように、と説明しています。(II, II, Q.162, art 4. ad 3)

【4:税吏の祈り】
では、税吏はどのように祈ったのでしょうか。税吏は遠く離れて、目を天に向けることさえもせずに、胸を打ちながら、"主よ、天主よ、罪人の私をおあわれみください"とだけ祈ります。税吏は、罪を心から悔い改める、悔悛の心をもって、天主の憐みをひたすらこい求めます。「罪びとのわたしを憐れんでください。」
主はこう言います。「私はいう。この人は義とされて家に帰ったが、さきの人はそうではなかった。」と。
税吏は、自分の罪を単純に素直に認めました。自分が無に等しい、主にすべて依存している、委ねているということを認めました。つまり、遜(へりくだ)りあるいは謙遜というのは、天主の御前において自分の立ち位置・分際を単純に素直に認めることです。全ては主に由来しますし、全ては主の栄光のためだ、と。もしも私が何か良いことができたとしたら、それは主のおかげだ、この謙遜がある時に、天主は最高度に全能を発揮して、わたしたちを憐れみます。これが今日の集祷文の祈りです。つまり、罪人を義として、人間を天国の栄光まで上げられます。
「高ぶる人は下げられて、遜(へりくだ)る人は上げられます。」

【5:私たちの祈り】

ではわたしたちは最後にどのような結論をとったらよいでしょうか、どのように祈りをしたらよいでしょうか。わたしたちはファリザイ人の真似をして、「ああ主よ、私はあなたのために、金曜日には小斎をやって、ミサには与るし…聖伝のミサですよ…それなのにあなたはなにもしてくれない」などと、祈るのでしょうか。
それとも、あるいは告解の時に「ああ、私はちゃんとこれをしました、こんなよいことをしました、こんなこともしました、こんなこともしました、でもあの人はああです、こうです」というのでしょうか。いえ、そうではありません。

聖ヨハネ・クリソストモスはこう言います。「たとえ私たちに偉大な善徳による何千のよい行為があったとしても、私たちの祈りが聞き入れられるという信頼は、天主の憐れみと主の人間に対する愛による。たとえ私たちが善徳の頂点に立っているとしても、私たちが救われるのは天主のあわれみによる。」

マリア様はどのように祈ったでしょうか。マリア様は罪を一つも犯しませんでした。ですから、罪人のわたしを憐れみ給え、とは祈ることができません。しかし、聖母はこう祈りました。

わが霊魂は主を崇め(あがめ)奉り(たてまつり)、
 わが精神はわが救い主なる天主によりて喜びに堪(た)えず。
 そは御召使い(おんめしつかい)のいやしきを顧み(かえりみ)給いたればなり。
見よ、今よりよろずよにいたるまで、人われを幸いなる者ととなえん。
 けだし全能なる御者(おんもの)、われに偉大なことをなし給いたればなり。
 聖なるかな、その御名(みな)。云々・・・。
 
では最後にマリア様の御取次によって、わたしたちもマリア様に倣って、謙遜な祈りを行うことができますように、このミサで祈り続けましょう。

「主よ、罪人である私を憐れんでください。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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