Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「闇は光を知らなかった。これを受け入れなかった。しかしこの光を受け入れたすべてのものには天主の子供となる力が与えられた。」

2023年03月24日 | お説教・霊的講話

2022年12月25日 大阪夕方6時ミサ 説教

聖母の汚れなき御心聖堂へようこそ。
私たちの主の御降誕の喜びを申し上げます。

今日は私たちの主の御降誕ですから、イエズス様がお生まれになったその神秘を一緒に黙想いたしましょう。

天皇陛下に皇太子様がお生まれになった、男の子がお生まれになったとすれば、日本国民で大いに祝います。

今日お生まれになったのは、全宇宙の支配者、統治者、所有者、全能の永遠の御父の御ひとり子、永遠の御言葉、それによって全てがつくられて統治されている永遠の知恵、その全能の天主が、人となって、人間となって、初めて私たちのもとにお生まれになった。天使たちは、大声をあげて、歌を歌って、歓喜の喜びを捧げています。

人類は、この主の御降誕をどれほど喜ばなければならないでしょうか。この王の王のために、皇帝のさらに皇帝のために、きれいな壮大な宮殿、あるいはきれいな清潔なベッド、お付きの者もの、暖かいお部屋、金銀豪華な飾り、また羽毛の柔らかい暖かい布団などがもちろん準備されて当然です。なぜならすべてはこの方の所有物ですから。しかし、私たちの主がお生まれになった時には、私たちの思ったようではありませんでした。

天使たちが、牧場(まきば)の羊飼いたちにこう言います。「恐れることはない、全ての人々のための大きな喜びの知らせをあなた達に告げよう。ダビドの街で今日あなたたちのために救い主がお生まれになった。主キリストである。あなたたちは布に包まれて、まぐさ桶に寝かされてあるみどりごを見るだろう。それがしるしだ。」

王の王は、生まれた時に、自由に身体を動かすことができませんでした。布に包まれておられました。あたかもゲッセマネの園にて逮捕されて縄目を受けて縛られることをすでに受け入れていたかのように、堅く包まれています。鞭打たれるために柱に縛られているのをすでに受け入れたかのように、十字架に釘付けられるのをすでに受け入れられているかのように、布の中に閉じ込められていました。ご聖櫃の中に世の終わりまでずっと閉じ込められて、そして私達の愛を待っている御聖体を予告するかのようでした。

なぜかと言うと、私たちは罪の奴隷となって悪魔と地獄の鎖にしっかりと縛られて身動きができない状態であったからです。これを解放するために、全能の天主は私たちのためにご自分の自由を全て捧げて放棄して、私たちを自由にしようとしました。イエズス様はこうやって、固く結ばれて私たちと愛によって結ばれることをお望みである、ということを言いたいかのようです。イエズス・キリストを着るように、イエズス・キリストの聖寵の衣を着るように、私たちに招いているかのようです。

天使たちによると、キリストのしるしは布に包まれてそしてまぐさ桶に置かれてある、と言います。まぐさ桶というのは、動物が食べる餌の入れ物なんです。えっ、全能の天主のお生まれになるところは暖かい羽毛のベッドではないんですか? 動物の食べ物の入れ物の上に置かれていました。心地よいものではありませんでした。痛く、家畜のためのものでした。何という屈辱だったでしょうか。

なぜかと言うと、なぜこのようにこれほどの屈辱を受けたかと言うと、なぜ地上の暖かい快適なものを放棄してこの動物のためのものの中に置かれていたかというと、それは私たちに一番良いものを与えるためでした。なぜかというと、私たちは罪と悪魔の奴隷となって、汚らわしいものだけを見つめて、汚らわしいものだけを食べて、そして汚らわしいものに身を捧げて、汚(きたな)らしくなっていたからです。

それから救うために、ご自分はむしろ動物のものの中に飛び込んで、そして私たちをもっと高く天主のものへと引き揚げようとされたからです。こうやってイエズス様は、私たちのためにどんなことでも、どんな苦しいことでも喜んで捧げることができると、私たちに示して下さいました。

天使の言葉によると、みどりごがそのしるしだとあります。みどりごというのは、赤ちゃんという小さな可愛いかよわい優しい愛らしい話すこともできない赤ちゃんという意味ですね。えっ、全能の知恵が、永遠の知恵が話すこともできないこんなちっぽけな赤ちゃんになったんですか? ハイ、それは私たちが力あるものになることができるため、私達が偉大なものとなることができるため、私たちが知恵のある者となることができるために、その交換にご自分はむしろ小さくなられました。

また、アダムとエワは罪を犯した後に、天主が探していた時、「アダム、お前はどこにいるんだ」と言った時に隠れました。なぜかというと、恐れたのです、罰を受けるかと。しかし、こんなに可愛い赤ちゃんであれば、誰が恐れることができるでしょう。こんなに可愛らしい赤ちゃんが、しかも手がくるまって、私たちを罰することもできない状態でおられます。

これは、全て私たちをどれほどお愛しになって、そして私たちの愛をどれほど求めているかということを教えるためでした。

主は旅人として生まれました。ナザレトからベトレヘムまで旅の間に、人間のための家ではなく家畜の小屋にお生まれになりました。いったいなぜ? それは私たちにメッセージがあったからです。私たちも旅人だ、天国への旅人だ、この地上のモノに愛着することはできない、もしも私たちが地上のことに愛着していたら、イエズス様の愛が入る余地がなくなってしまう。

ところで、これほど私たちのためにお愛しくださる天主を、残念ながら人々は受け入れようとしませんでした。お生まれになるその最初から、宿屋はイエズス様のためにありませんでした。お生まれになったその直後から、それを聞いたヘロデはイエズス様を殺害しようとします。最後も、ローマ総督ポンシオ・ピラトがイエズス様を亡き者としようとします。いったい、私たちを愛する主が、なぜこのように迫害されるのでしょうか?

今日の福音では、聖ヨハネはこう言います。「闇は光を知らなかった。これを受け入れなかった。しかしこの光を受け入れたすべてのものには天主の子供となる力が与えられた。」

愛する兄弟姉妹の皆様、今日私たちの主は、私たちの本当の幸せ、本当の宝、本当の知恵、本当の喜びがいったいどこにあるか、そしてそれを私たちに与えるためにお生まれになりました。主は変わることはなく、私たちの喜びも変わることがありません。永遠に残る確実な幸せ、これを主が今日私たちに与えるためにお生まれになりました。この主の御降誕を心からお祝いいたしましょう。そして、イエズス様に「私たちの心にも来て下さい、生まれてください」とお祈りいたしましょう。

この祝日があるはマリア様のおかげです。マリア様だけが私たちにイエズス様をお与えくださったからです。マリア様にぜひお願いして、私たちにいつもイエス様を離れることがないように、この特別の恵みを請い願いましょう。



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