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LGBTへの真の司牧的アプローチとは、罪を認め、性別に関する真理を宣言するものでなければならない

2023年03月29日 | お説教・霊的講話

LGBTへの真の司牧的アプローチとは、罪を認め、性別に関する真理を宣言するものでなければならない

カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする 第3回

A truly pastoral approach to LGBT persons must acknowledge sin and proclaim the truth about sexuality

同性愛者や性別に違和感を持つ人々に対して真にキリストのような支援をする際に必要なのは、罪とは何かを述べて、天主の聖寵に癒やす力があることを認識することです。

ルイス・ナフク

2022年12月5日(月曜日) 米東部標準時間午後6時48分

カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする連載記事の第3回です。同性愛やトランスジェンダーの無秩序な本質を説明した第1回の記事はこちらで、LGBTアジェンダ(行動計画)と戦うための道徳的義務を論じた第2回の記事はこちらでお読みください。

(LifeSiteNews)LGBTの自己認識や同性愛の罪が増大する中、カトリック信者は、LGBTのライフスタイルを持つ人々に対して、彼らが天主をひどく怒らせていること、また天主は彼らの無秩序な傾きを癒やすことがおできになるのだということを明確にさせなければなりません。

私たちの国、私たちの結婚、そして私たちの子どもたちのために、LGBTアジェンダ(行動計画)に公然かつ断固として反対することに加えて、この問題に対する純粋にカトリック的な視点は、個々の人に対する司牧的アプローチを持つ必要性を無視することはできません。しかし、そのようなアプローチが真にキリスト教的であるためには、現実と天主の啓示に基づくものでなければなりません。

超自然の愛徳は、理性がその愛徳自体について理解できる真理と、天主自らが啓示された真理の両方に基づかなければ、愛徳とは言えません。自然の秩序を創造され、人間が救いを得るために何をしなければならないかを啓示され、その救いに必要な聖寵を取りなすために十字架上で死なれたのは、同じ天主です。

LGBTの人々に対して真の司牧的アプローチを展開するためには、聖寵の力と働きに関するいくつかの基本的な真理を、明確に理解する必要があります。

聖寵と徳は、正しい理性と信仰の双方に従って、さらに完全に癒やし、高め、秩序づけるのです。聖寵と徳は、自然のものを前提とし、それを修正し、高め、完成させるのです。

天主は無秩序なLGBTの傾向を癒やすことがおできになる

徳の秩序から逸脱した性的な罪においてでは、欲求そのものは依然として自然であり、異性へと向かう自然の傾きはそのまま残っています。聖寵と徳は、この自然な欲求を、忠実で実りある結婚と家庭において、天主をお喜ばせするものに変えることによって癒やすのです。

しかし、同性愛のように、自然の秩序から逸脱した性的な罪においては、性的な欲求が歪んで不自然になり、間違った対象に向けられています。ここにおいては、さらに深い癒やしが必要とされます。しかし、これは、天主の聖寵の力が及ばないものではありません。これは極めて重要なポイントです。この点に関して、善意のカトリック信者がしばしば思い込んでいるのが、二つの基本的な誤謬です。

最初の誤謬は、人は時には自然でないものに不変的に固定される、すなわち、根深い同性愛の傾きや「性別違和」(gender dysphoria)は、変えることも癒やすことも不可能である、と考えることです。

もう一つの誤謬は、同性愛者にとっての貞潔の徳とは、"同性――自分が傾いているのと同じ性――の人との性行為を行うことは許されない"ことを意味するにすぎない、と考えることです。前者は聖寵の力に関する誤謬であり、後者は貞潔の徳に関する誤謬です。

次に、理解しなければならないことがあります。それは、天主の聖寵が霊魂において行う最初のことは、意志を天主に向けさせ、罪から遠ざけることによって、その意志と天主との間に平和をもたらすこと、その後で、人間の本性のレベルで善であるものを回復させ始めることである、ということです。性的傾きの癒やしとは、この傾きの自然の対象に立ち返ることです。これは、天主が聖寵の力によって霊魂をご自身の方に引き寄せられることによる、自然の効果です。異性愛への傾きの持っている自然の秩序とは、創造主としての天主が持っておられる"生命を与える愛"に与ることです。天主の愛への、創造された参与です。結婚の秘跡において、異性愛への傾きはキリストの教会に対する浄配としての霊的な愛にあずかることです。聖寵は、人間の心の無秩序な欲求と傾きを癒やすことが可能であり、またそうします。この生命には、その正す力の及ばないものは何一つありません。

貞潔の徳は、適切に言うならば、すでに適切な自然の対象に向けられている性的傾きを正しく秩序づけるものです。つまり、貞潔の徳は、異性に対する自然な欲求を取って、それを配偶者に向けるものです。これは、正しい理性によって定められた手段であり、その理性は、人間の本性に注目して、性交渉とは、男女の揺るぎない愛の実である子どもの出産と教育のためにあり、そのため結婚という生涯にわたる交わりに属するものだということを理解しています。次に、貞潔は、男女間の性的な愛のための適切な場である結婚に向けられ、結婚を守るものです。しかし、それはまた、男女が互いに惹かれ合うという基本的な傾きを前提としています。

だからと言って、このことは、同性愛の傾きを持つ人々が貞潔を遵守することについて何も話すことでがきない、と言う意味ではありません。実際、教会もこのような意味ではないと言っています。しかし、教会が言わんとすることは、貞潔の徳の最も固有なことは、同性の人との性行為を控えることにあるのではない、ということです。貞潔とは、最も適切に言えば、自分の配偶者でない異性の人々との性行為が起こるのを防ぐことです。積極的に言えば、貞潔とは、人が自分の配偶者を適切に愛するための徳なのです。

司牧的なアプローチであるためには、罪は罪であると明確にしなければならない

天主の掟を守ることが必要であるということについて、最後にひとこと述べておかなければなりません。天主ご自身が、天主の掟を守らなければ誰も救われないことを啓示されました。また天主は、キリストの死を通してもたらされる聖寵がなければ、誰も天主をお喜ばせする形で天主の掟を守ることはできないことを啓示されました。有名な話ですが、聖アウグスティヌスは「告白録」の中で、「天主よ、御旨に適うことを命じ給え、また、命じ給うことを行う聖寵を与え給え」と祈りました。キリストご自身も、福音の中で金持ちの若者に、永遠の命を受けるためには何をすればよいかと問われ、「掟を守れ」(マテオ19章16章)と答えられました。また、主は、罪を悔い改めて、もう二度と罪を犯さないように教えることなしに、罪人を赦されたことは決してありません。キリストは、人間の罪を確認するために来られたのではなく、ご自分の御血を流すことで罪を取り除くために来られたのです。

この点で、罪が天主をどれほど怒らせるものであるかを完全に理解することは、どんな人間にも不可能であると言うべきです。キリストの十字架上での血を流された死は、私たちに人間の罪の持つ悪と悪意を少し垣間見せてくれます。善そのものである天主の本質を見るまでは、私たちは常に、罪による堕落の深さを十分に推し測ることができないでしょう。

また、キリストの宣教には、罪に対する天主の忌み嫌う心が明白に現れていると言うべきでしょう。聖書全体の中で、キリストご自身ほど地獄について語り、罪人を強く断罪する人物はいません。姦淫で捕らえられた女を赦し、もう二度と罪を犯さないようにと言われたのと同じキリストが、姦淫、私通、邪欲、離婚という性的な罪を犯したファリザイ人や司祭長も断罪なさっています。また、悔い改めを拒む者に相対されたときには、「あなたたちは、罪のうちに死ぬだろう」(ヨハネ8章21節)とはっきり言われ、主は言葉を濁されることはありません。ファリザイ人に対する呪いの言葉の中で、律法学士たちが、キリストは自分たちも侮辱することだと反論すると、私たちの主は語気を弱めるどころかさらに強めて、ファリザイ人と同じ罪を犯している律法学士たちに対して、これまで以上に断罪の言葉を放たれたのです(ルカ11章46節)。

キリストを司牧的ではないと非難するキリスト教徒はいません。ですから、この断罪は考察する価値があります。キリストが断罪なさるものは、高慢による強情さだけではなく、性的な罪、つまり外的な行動と同様に内的な思いや欲望も同じく断罪されます。また、キリストは、み言葉を、心の清さや、結婚での配偶者に対する独占的な忠実さを要求しているみ言葉を信じない者、それを拒絶する者も断罪なさいます。

ですから、罪深い生き方をする人々に対する真のキリストのような司牧的アプローチは、まず第一に、罪は罪であると明確に述べることを必要とします。心のかたくなさや罪への執着に直面した場合、キリストの例にならって、鋭い非難さえを求められることさえあります。この点で、教会は、はっきりと、そして弁明せずに、天主の善に反する罪を断罪する義務を話さなければなりません。この義務を後回しにすることはできません。

ところで、断罪は、最終の言葉ではありません。キリストの十字架と血を流された御死去は、罪の邪悪さだけではなく、さらには主の贖いの愛――私たちを罪から聖寵の生活へと導くために御死去をためらわれなかった主の愛――をより一層明らかにするものです。個人的な、司牧的な全ての支援において、最終の言葉を持つべきは希望です。聖寵の持っている変容させる力、癒やす力を希望するのです。

私たちが、天主が啓示されたことを本当に信じるならば、私たちはこう確信します。人間の心は、それがどんなに困難であっても、真理を求めている、と。また、人間がその真理に従って生きることができるようにしてくれる聖寵を求めている、と確信します。霊魂の救いを願う真の愛徳は、他の人々がその真理とキリストだけお与えになる癒やしの聖寵を受け入れてくれるように力を尽くすのです。

性倫理に関する教会の教えと聖書

以下は、教導権と聖書のテキストです。教会の教えの連続性と天主の啓示の中にあるその教えの基礎を確認するために、ここにいくつか示します。

教理省(CDF)「ペルソナ・フマナ」(Persona Humana、1975年)

現在、心理学的な観察に基づき、ある人々の間の同性愛関係を、やりたい放題に判断し、さらには完全に許すまでのことを始めている人々がいます。彼らはこれを、教導権による不変の教えと、キリスト教徒の道徳的感覚に反して行っています。

誤った教育や、正常な性的発達の欠如、習慣、悪い模範、あるいは他の類似の原因から来る傾向を持ち、その傾向が一時的、あるいは少なくとも不治ではない同性愛者と、ある種の生来の本能、あるいは不治と判断される病的体質のために決定的にそうである同性愛者とは、区別がなされており、ある程度の理由があるようにも思えます。

この第二のカテゴリーの対象者については、その傾向がまったく自然なものであるため、そのような同性愛者が孤独な生活に耐えられないと感じる限りにおいて、結婚に類似した生活と愛による誠実な交わりの中での同性愛関係を正当化すると結論づける人々がいます。

司牧の場では、このような同性愛者は、彼らの個人的な困難や社会に適合できないことを克服することを願って、理解をもって接し、支えなければならないのは確かです。彼らの罪の重さは、賢明に判断されるでしょう。しかし、このような人々の状態に合致しているという理由で、これらの行為を道徳的に正当化するような司牧的方法は採用できません。なぜなら、客観的な道徳的秩序によれば、同性愛の関係は、本質的かつ不可欠な最終的状態を欠く行為だからです。聖書の中では、同性愛の関係は深刻な堕落として断罪され、天主を拒絶するという悲しい結果として提示されるまでに至っています[18]。この聖書の判断から、もちろん、この異常に苦しむすべての人々が、その異常に個人的に責任があると結論づけることができませんが、その聖書の判断は、同性愛行為が本質的に無秩序であり、いかなる場合も承認できないという事実を立証しています。

教理省(CDF)カトリック教会の司教たちへの手紙:同性愛者の司牧的ケアについて

CDF, Letter To The Bishops Of The Catholic Church On The Pastoral Care Of Homosexual Persons, 1986:

宣言発表後の議論では、同性愛の状態そのものに対して過度に温和な解釈が示され、同性愛の状態を中立的、あるいは善とまで言う人もいました。同性愛者の持つ特殊な傾きは罪ではありませんが、本質的な道徳的悪へと向かう多かれ少なかれ強い傾向であり、したがって、その傾きそのものを客観的な無秩序とみなさなければなりません。

したがって、このような状態にある人々に対しては、特別な関心と司牧的注意を向けるべきであり、同性愛の行動のこのような方向性で生きることが道徳的に受け入れ可能な選択肢であると、彼らに信じるに至らせることのないようにしなければなりません。そうではありません。

「カトリック教会のカテキズム」(第2版)、2000年。

同性愛の行為を重大な堕落の行為とする聖書そのものに基づき、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すものである」と宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは、性行為を、生命の賜物に対して閉ざすものです。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません。【2357】

かなりの男性や女性が、同性愛の根強い傾向を持っています。この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。彼らを軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。【2358】

同性愛的な傾向を持つ人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘跡の恵みによって、少しずつではあっても確実にキリスト教的完全さに近づくことができるし、またそうしなければなりません。【2359】

創世記13章13節、18章20節。

「ソドムの人々は性質がよくなくて、主に対しても多くの罪を犯していた」。「また主は仰せられた…ソドムとゴモラに対する叫びはあまりに激しく、その罪はあまりに重い」。

ローマ人への手紙1章24-27節。

「そこで天主は、彼らをその心の欲にまかせ、互いにその身をはずかしめる淫乱に渡された。彼らは天主の真理を偽りに変え、創造主の代わりに被造物を拝み、それを尊んだ。天主は代々に賛美されますように。アーメン。天主はは彼らを恥ずべき欲に打ちまかせられた。すなわち女は自然の関係を自然にもとった関係に変え、男もまた女との自然の関係を捨てて互いに情欲を燃やし、男は男と汚らわしいことを行って、その迷いに値する報いを受けた」。

コリント前書6章9-11節。

「不正の人は天主の国を継げないことを知らないのか。思い誤るな。淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ。あなたたちの中にも、そんな人があったが、主イエズス・キリストの御名により、私たちの天主の霊によって自分を洗い、そして聖とされ、そして義とされた」。



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