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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ファチマのシスター・ルシアの初聖体「主よ、私を聖人にしてください。あなたのためにだけ、私の心を常に清く保ってください。」

2021年08月19日 | ファチマ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ファチマのシスター・ルシアの初聖体の出来事に関することを、ファチマの聖母の会・プロライフののブログの中のシスターの手記からご紹介いたします。

3. ルシアの初聖体

小教区の主任神父様が定めた子供たちの荘厳初聖体の祝日が近づいて来ました。私がすでに6歳になっていたことと、私が公教要理をよく覚えていたの事実により、母は私が初聖体を受けることができるかもしれないと思いました。このために、母は、主任司祭が子供たちに教えていた初聖体の偉大な日を準備するための公教要理に、私を姉のカロリナと一緒に送りました。私はすぐに初めて天主様をお受けすることができると期待して、喜びに輝いて教会に行きました。

神父様は、教壇の上にある倚子に座って子供たちに教えました。
司祭は、私をご自分のそばの脇に呼び置き、もしもある子供が司祭の質問に教えられなかったら、その子供の代わりに私に答えさせ、彼らに恥をかかせました。

初聖体の前日がやって来ました。神父様は子供たちは午前中に教会に来るようにと伝言を送りました。それは神父様がどの子供が初聖体を受けることができるか最終の決定をすることができるためでした。神父様が私をお近くに呼んで私の頭を撫でてから、私が7歳になるまで待たなければならないと言った時、私はどれほどがっかりしたことでしょうか!

私はすぐに泣き始めました。ちょうど私が母にしていただろうように、頭を神父様の膝に埋めて泣きじゃくりました。ちょうどその時、告解を聞くために助けに呼ばれた別の神父様 6 が教会に入ってきました。この姿勢を取っている私を見て、神父様は私が泣いている理由を尋ねました。

6 この司祭は、後に聖徳で有名な、イエズス会のクルズ神父(1948年没)であったと後に分かった。

理由を知らされ、この神父様は私を香部屋へ連れて行って、公教要理とご聖体の神秘について私に質問をしました。この後、私の手をとって、主任神父様のところへ連れて行き、こう言いました。
「ペナ神父様、この子を初聖体に行かせることができますよ。この子は他の多くの子供たちよりもよく理解しているから」と。
主任神父様は「でも、わずか6歳ですよ」と反論しました。
「大丈夫ですよ。その責任は私が取りましょう。」
「それなら、分かりました。」

良い主任司祭は私にこう言いました。
「お母さんのところに行って、明日は初聖体を受けると言いなさい。」

私はその時に感じた喜びをいい表すことができません。聖堂の外へ出て、嬉しさのあまりに両手をたたき、母によいニュースを知らせるために、家にまでずっと走りました。

母は、すぐに、その日の午後私がすべき告解の準備をさせてくれました。母は私を教会に連れて行き、教会に着くと、私は母に別の神父様に告白したいと言ったので、私たちは香部屋へ行きました。そこにこの神父様が倚子に座って告解を聞いておられました。

母は、順番に告解する自分の子供たちを待っている別の母親たちと一緒に、香部屋の入り口に近い主祭壇の前に跪きました。その祭壇の御聖体の前で、母は私に最後の勧めを下さいました。

4. ロザリオの聖母はルシアに微笑む

私の順番が来ると、私は罪の許しを乞い求めて、主の役務者である神父様において代表される私たちの愛する主の足元へ跪きました。告解を終えると、だれもが笑っているのに気がつきました。母は、私をそばへ呼んで、こう言いました。
「わが子よ、告白は秘密のもので、低い声でするものだって知らなかったの? 皆におまえの言うことを聞こえたのよ!誰にも聞こえなかったのはたった一つだけで、それはおまえが最後に言ったことだよ。」

家へ帰る途中、母は告解の秘密と自分が呼んだことを知ろうと何度も試みました。しかし、母が得た私の唯一の返事は、完全な沈黙でした。

しかし、今、私は司教様に初めて、私の最初の告解の秘密を言い表します。
告解を聞き終わった後、例の神父様は、次のように言いました。

「わが子よ、あなたの霊魂は聖霊の神殿です。それをいつも清く保ちなさい。聖霊がご自分の天主としての働きを、あなたの霊魂の中に実現することができるように。」

これらの言葉を聞いて、私は自分の内的なものに対しての畏敬で満たされたように感じ、親切な聴罪師に自分が何をしなければならないかを尋ねました。

「あそこの聖母の前にひざまずき、大きな信頼を持って、あなたの心を世話して下さるように、明日聖母の愛する御子イエズスをふさわしく受けるように準備して下さる用意、またあなたの心を、イエズスのためにだけに取っておくように願いなさい!」

教会には、聖母のご像はいくつかありました。しかし姉たちは、ロザリオの聖母の祭壇を飾る役目を持っていたので、私はいつもそこに祈りに行きました。そこでこの機会にもロザリオの聖母像 7 の前へ祈りに行きました。私は全身全霊を込めて、私の貧しい心を天主様のためだけに守ってくださるようにお願いしました。

[7 この美しい御像は今でも小教区の教会に、入って右側に立っている。]

この拙い祈りを何度も何度も繰り返し、聖母像を見つめていると、おん母が、愛を込めた眼差しとご親切なジェスチャーとで、私に微笑み、そうすると私に保証して下さったように見えました。私の心は喜びにあふれて、一言も発することができませんでした。

5. 初聖体を待ち焦がれて

姉たちは私のために白いドレスと花冠を作るために、その夜はずっと起きていました。私といえば、あまり嬉しくて眠ることができませんでした。あたかも時間が全く進まないかのように思われました。私は何度も起き上がって、朝が来たのかとあるいは、もしも姉たちが私に白いドレスや花冠をつけて見たいか、と尋ねてばかりいました。

ついに幸せな日は昇りました。しかし9時になるのは、どれほど長かったことでしょうか!私は白いドレスを着て、姉マリアは私を台所へ連れて行きました。それは、両親に背いた数々の罪を詫び、両親の手に接吻して、祝福を受けるためでした。この後、小さな儀式があり、母は私に最後の忠告をしてくれました。母は私に、

イエズス様が私の心に来られる時、私が何を願わうことを望んでいるかを教えて、こう言って別れました。
「何よりもまず、イエズス様におまえを聖人にしてくれるように願いなさい。」

母の言葉は、私の心に消すことのできない深いものを刻みつけましたので、聖体を拝領して、私が最初に私たちの主に言った言葉はそれでした。母が私に言ったその時の言葉の声のこだまが、今でも聞こえるように感じます。私は姉たちと教会に向かいました。兄は道から来る埃の汚れが私に触らないように、教会まで私を抱いてくれました。教会につくや否や、私はすぐに聖母マリアの祭壇の前へ走って行って跪き、私の願いを繰り返しました。私はそこに留まり、前日の聖母の微笑みを思い出しながら祈っていました。姉たちが私を探してやって来て、私のために決められた場所に連れて行きました。
4列に並んだー男の子が二列、女の子が二列ーたいそう多くの子供たちがいて、教会の入り口から祭壇の御聖体拝領台までずらりと並んでいました。私は一番小さかったので、祭壇のそばの足元にある天使たちの近くにいました。

6. 偉大な日

歌ミサが始まり、御聖体拝領の瞬間が近づくにつれ、貧しい私の霊魂に一致しようと、天から降りてきて下さろうとする天主様のご訪問を待ち望んで、私の胸はますます速くドキドキしていました。主任司祭が祭壇からおりてきて、子供たちの列の方に近づき、天使たちのパンを配りました。私は最初に御聖体拝領をする幸運に恵まれました。司祭が祭壇をおりてこようとするとき、あたかも私の心臓は胸から飛び出てしまうかのように感じました。しかし司祭が私の舌に天主のホスチアを授けるや、私はえも言えぬ静けさと深い平和を感じました。
超自然の雰囲気にあまりにも浸りこんでいるのを感じたので、私たちの愛する主の現存が、あたか私の体の感覚で主を見て主の言葉を聞いたかのように、はっきりと感じとれました。
そこで私は主に祈りをしました。
「主よ、私を聖人にしてください。あなたのためにだけ、私の心を常に清く保ってください。」
その時、私の心の奥底で、私たちの愛する主が次の言葉ではっきりと私におっしゃったようでした。
「今日、おまえに与えられためぐみは、おまえの霊魂に生きて留まり、永遠の命の実を結ぶだろう。」
私は天主の中に姿を変えてしまったかのように思いました。

儀式が終わったのはほぼ午後の1時でした。何故なら遠方から来られた司祭たちの到着が遅れたこと、お説教、洗礼の約束の更新などがあったからです。母は心配して、私が弱って気を失ってしまうのではないか、と案じて、私を探しにやって来ました。

しかし、私はと言うと、天使らのパンであふれ出るほど満たされ、どんな食べ物も食べることができありませんでした。この後、私はこの世の物への興味と関心を失い、たった一人で静かなところにいるときだけ、私は安心して、初聖体の喜びを思いすことが出きました。

7. ルシアの家族

そのような離脱の時はまれでした。司教様はもうご存じの通り、私は、隣人たちから私たちに委託された子供たちの世話をしなければなりませんでした。この他にも、母は看護婦としてたくさんのことを求められていました。たいしたことのない病気の場合、病気の人々は私たちの家に来て母のアドバイスを求めました。しかし病人が外に出ることができないときには、今度は彼らが母に自分たちの家に来てほしいと頼まれました。母は病人の家で昼間を何日も過ごし、時には夜も過ごしました。病気が長引いた場合、或いは病人の状態がそれを必要としたなら、母は時折姉たちを送って病人の寝台の傍らで夜を過ごすように命じました。それは病人の家族に休むチャンスを与えるためでした。病人が若い家族の母親である場合には、或いは、子供たちの騒がしさを耐えることができない人の場合、母は幼子たちを私たちの家に連れてきて私がその世話をするように命じました。私は子供たちと遊び、どうやって機織りの糸を準備するか教えたりしました。子供たちは木の糸巻きを回転させて、それに糸を玉状に巻いて、それをかせに巻き取り、枠に縦糸が準備されるように糸の玉を導きました。

こうして、私たちにはいつもやることが一杯ありました。普通、私たちの家には、機織りや服を作るのを習いに来た数名の女の子たちが働いていました。通常は、これらの女の子たちは私たちの家族に大きな愛情を示し、自分たちの人生で最高の日々が私たちの家で過ごした日だったとよく言ってくれました。一年のある決まったときには、姉たちは日中に畑仕事に出なければなりませんでした。そこで姉たちは、機織りや縫い付けを夜しました。夕食の後、父が祈りの先唱をして夕の祈りがあり、それから仕事が恥じましました。

誰もが何かをしなければなりませんでした。姉のマリアは機織り仕事に行き、父は糸巻きを一杯にして、テレサとグロリアは裁縫に行きました。母は回転糸巻きを取り、カロリナと私とは、台所をきれいにかたづけた後、裁縫の手伝いをしなければなりませんでした。仮縫いを取り、ボタンを縫う、などなどです。うとうとするのを遠ざけるために兄はアコーディオンを弾き、私たちは様々な種類の歌をそれに合わせて歌いました。しばしば隣人たちも私たちと一緒にいるために家に来ました。これは彼らの睡眠時間がなくなるということを意味していましたが、私たちの陽気な音楽が自分たちの心配を無くさせてくれ、自分たちを幸せで満たすのだとよく私たちに言っていました。

私はいろいろな婦人たちが母に時々こう言うのを聞きました。
「あなたって、ほんとに幸せね!天主様があなたになんてすてきな子供たちを与えたんでしょう!」

トウモロコシを収穫するときが来ると、私たちはトウモロコシの皮を月明かりで見て取りました。私はトウモロコシの積まれた山のてっぺんに座って、濃い赤の穂軸が現れたら、そこにいる人々に抱擁をするように選ばれていました。


8. 振り返って

私の初聖体について話した事実が現実なのか、あるいは子供の錯覚なのか、私には分かりません。私が知っているのは、これらの出来事は、私を天主と一致させるために、私の心に強い影響を与えたし、いまでも与えている、ということです。私が知らないのは、何故私が今司教様に私たちの家庭生活についてのことを全てお話ししたかということです。しかし、そうするように私に息吹いてくれたのは天主で、天主はその理由を知っておられます。おそらく、これは司教様が、私にそれほどまで多く降り注がれた愛情を受けた後であればあるほど、私たちの愛する主が私にお求めになろうとする苦しみを、私がそれだけ深く感じたと言うことをお知らせになるためかもしれません。司教様は、私たちの主が私に送り給うた全ての苦しみと、主がその御憐れみによってかたじけなくもくださった御恵みとを書くように私に命じられたので、私は、それらの出来事が実際に起こったがままを述べるのが最も良いことだと思います。8

更に、私はそれについて全くの平安を感じています。何故なら、司教様が天主といとも聖なるマリア様とのより大いなる栄光のためにならないとご覧になるものはどんなものであれ、司教様は火に焼き捨ててくださるだろうと私は知っているからです。

8. このことはルシアの単純さを明らかにしている。また彼女の書いたものにおける彼女の潔白さと誠実さを示す。


聖ヴィアンネ神父様は、全ての小教区の司祭たちの守護の聖人です

2021年08月19日 | お説教・霊的講話
2021年8月8日(主日)聖霊降臨後第11主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は8月8日で、聖ジャン・マリ・ヴィアンネ神父様の祝日です。伝統的には今日が祝日です。そして聖ヴィアンネ神父様は、全ての小教区の司祭たちの守護の聖人です。ですから今日は、神父様、司祭たちの為にたくさんお祈りしましょう。



ヴィアンネ神父様がアルスという寒村に任命を受けた時、どうやって行くか分かりませんでした。その時に、町で道で出会った男の子に、「アルスの村にはどうやって行くのか?」と聞いたら男の子は、「私が教えます」と言って道を教えてくれました。そのお礼に神父様は、この少年にこう答えたそうです。「坊や、ありがとう。君は私にアルスへの道を教えてくれたから、今度は私がお礼に天国への道を教えてあげよう。」


神父様の義務は、人々に天国の道を教える事です。

ビアンネ神父様はこんな事を言っていました。
「司祭職というのは、イエズスの聖心の愛だ。だからあなたが司祭を見たら、イエズス様の事を考えなさい。」



またこんな事も言いました。
「司祭というのはどれほど偉大なものであるか!もしも司祭が、自分が一体何であるかを理解したら、きっと死んでしまうだろう。その喜びと驚きで死んでしまうだろう」と言っていました。

またこうも言っていました。「司祭がなければ、イエズス様の御受難と死の全ての御恵みは、全く意味がない。何故かというと、司祭がこの地上で贖いの業を続けているからだ。
一体、たとえ家の中に金・銀・宝石がたくさんあったとしても、もしも誰もそれを開けてくれる人がなかったら、何の役に立つだろうか。司祭が天国への門を開く鍵を持っている。司祭こそが、私たちの主の管理人だ。イエズス様の持っている全ての善を管理している方だ。Administratorだ。
だからもしも司祭がいなかったら、そのような小教区がもしも司祭がいなくて20年経ったら、きっとそこでは人々は動物を礼拝してしまう事だろう。司祭は、自分の為の司祭ではなくて、皆さんの為の司祭である」と。



ビアンネ神父様はこうも言っていました。「マリア様にお祈りをいつもしなさい」と。「何故かというと、ちょうど私たちがスパイスとか臭いの付いた、例えばシソの葉っぱを触っていると手にその匂いが付くように、マリア様にお祈りを捧げると、マリア様の匂いがそのお祈りに付くので、それが良い香りとなって受け入れられるからだ」と仰いました。

またビアンネ神父様は、「御聖体の前で使った時間は、一番最高の幸せな時だと考えなさい」と仰っていました。



最後に、ビアンネ神父様がなさった一番短い御説教をご紹介して終わりにしたいと思っています。何故かというと、ビアンネ神父様は司祭のモデルですが、私はこの点を真似しなければならないと思っているからです。

ある時、神父様は御説教を始めている時に、御聖体を指さして御聖櫃を指さしてこう言ったそうです。「Il est là.」そしてこれで終わったそうです。

何と仰ったかというと、御聖櫃を指して、「主は、ここにまします。聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン」と言って終わったそうです。

どうぞ皆さん、今日は司祭のためにたくさんお祈り下さい。カトリック司祭たちの為にお祈り下さい。また司祭たちがたくさん出ますように、与えられますように、日本からたくさんの司祭が、青少年が司祭を目指しますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




私たちを癒やす事ができるのは全世界で歴史上たった一人:イエズス・キリスト、真の救い主、真の天主、贖い主、私たちの王イエズス・キリストです

2021年08月19日 | お説教・霊的講話
2021年8月8日(主日)聖霊降臨後第11主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹の皆さん、今日、私たちの主イエズス・キリストは奇跡を行ないました。耳は聞こえずに、話をする事もできない人を、御自分の唾を付けて、「エフェタ」とお祈りをすると、耳が開けて、正しく話をする事ができるようになります。これは、人類がイエズス様と出会った時に行なわれる事の象りです、そのイメージです。



何故かというと、私たちは皆、天主の言葉を聞く事もできないし、天主に正しい讃美も、正しい祈りもする事もできずにいる、病を持った状態で生まれてきたからです。

なぜ病を持った状態であるかというと、これは罪のためです。天主は私たちを最初、アダムとエヴァを創った時に、完璧に創りました。どれほど完璧かというと、私たちが今失ってしまった2つの特別の御恵みを、アダムとエヴァは原初に持っていたからです。

その2つの御恵みというのは、まず「超自然の命、天主の命」を受けていました。成聖の状態にいました。

第2には、自然を補足する、それの付録が付いていました、おまけが付いていました。これを特別に、「外自然、自然の外の御恵み、賜物」と言います。それによって特別の4つの特権があります。おまけです。おまけに過ぎなかったのですけれども、これを見ると、どれほどのものが与えられたか、という事が分かります。

まず、私たちの「知性」は真理を、真理だけを求めるようにうまく秩序付けられていました。それを罪で失ってしまってから、私たちは真理が何かよく分からなく盲目になってしまいました。

また「意志」は、善だけを求めるようになっていました。しかし罪のためにそれは、悪意さえも持つようになってしまいました。

また私たちの「心」には、悪に対して強い意志を持って強い怒りを持って、この悪に打ち勝つ心がありました。善と悪に対して、対処が困難であると認識された時の能力で、困難に立ち向かって戦う時の力としての、義憤です。

しかし罪が入る事によって、惰弱に弱々しくなってしまいました。悪に打ち勝つ事が非常に難しくなってしまいました。

あるいは私たちの「欲望」は、全て理性の支配の下にあったので、節制がありました。しかし罪が入る事によってそれは、私たちには節制が難しくなり、邪欲に簡単に負けやすくなってしまいました。

しかしアダムとエヴァの時には、全ては真理と善とによって、そして知性と理性によって全て支配されていました。

人間の体が全て知性によって支配されているという事は、すなわちこれは「完全性」と言います。この完全性から更に生まれた、派生したのは、人間が苦しまないということです。人間の霊魂が肉体を完全に支配していたので、また人間が天主様の支配下に完全にあったので、御摂理によって、自然は私たちに害を与える事がありませんでした。どのような獰猛な動物も、昆虫も、私たちに危害を与える事はありません。

また肉体もいつも霊魂の通りに動いていたので、病気になる事も、苦しむ事も、傷を受ける事も全くありませんでした。いつも私たちは幸せに、楽しく、喜びに満ちて生きていました。これは「不可苦」、苦しみを受ける事ができない、という特別の御恵みでした。

それのみならず、更に死ぬ事もできませんでした。「死なない」という特権を持っていました。霊魂は肉体といつも一致していて、何百年でも何千年でも生きる事ができるようになっていました。そしてちょうど私たちが夜眠るように、自然と苦しみなく、天国に入る計画でした。
しかし、それも罪によって全て破壊されました。失われました。

更に天主様は、私たちが苦労する事なく真理を知る事ができるように、「知識」を私たちの中に注入して下さいました。ですからもちろん教わる事もできましたけれども、しかしあらかじめ必要な知識は知っていました。自然の神秘を知っていました。

これはただ付録に過ぎません。これよりも更にこれを超越する御恵みが、「超自然の御恵み」、すなわち成聖の恩寵です。

そしてイエズス様は、この病を受けた私たちに近寄って来て下さって、御自分の唾を付けて下さいました。これは「秘跡」の象りです。「七つの秘跡」の象りです。

「洗礼」の時には、特に私たちは司祭からイエズス様がなさった事と同じ仕草を受けます。耳に「エフェタ」と言って、鼻にも付けられます。またこれは、イエズス様はこうする事によって、秘跡を通して、私たちに超自然の御恵みを返して下さいました。

超自然の御恵みは、私たちが付録でもらった、死なないとか苦しまないとかという事よりも、更にもっと重大な、最も大切な御恵みでした。それをまず返して下さいました。

では、外自然という付録の御恵みはもう失われたままですか?
はい。もう元には戻りません。罪のためにもう永久に失ってしまいました。

ですからもしも、皆さん誰かがやって来て、「あぁ、このペンダントを買うと病気にならない。」「このツボを買うと健康になる。」あるいは「この薬を、注射を打つと死なない」などという人が来たら、眉に唾を付けて下さい。そのような事は一切ありません。医学がどんなに発達しても、どんなに科学がどんなに進歩しても、苦しみがない事や、あるいは死がないという事は、もう避ける事ができません。これはあり得なくなってしまいました。

しかしイエズス様は私たちに、復活の後に、天国でこれをもう一度、更にこれよりももっとすごい事を与えてくれます。不死・不可苦・注入された知識・完全性をはるかに超えた、栄光に満ちた、栄光の不死の喜びを与えられるようになっています。これは最後の最後のお楽しみです。

しかし、すでに私たちは超自然の命が、洗礼、そして秘跡によってますます与えられ続けています。この御恵みを私たちに与える事ができるのは、私たちを癒やす事ができるのは、全世界で歴史上たった一人しかありません。この事ができる名前はたった一つしかありません。イエズス・キリスト、真の救い主、真の天主、贖い主、私たちの王イエズス・キリストです。私たちはこの方と出会いました。御恵みを受けています。感謝致しましょう。

そして多くの方が、このイエズス様と出会って、憐みを受ける、超自然の、自然をはるかに超える御恵みを受ける事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




「全世界に行って、私の教えたことを教えよ。聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼を受けるならば、救われる。もしもそうでなければ、滅ぼされる。」

2021年08月18日 | お説教・霊的講話
2021年8月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、ミカエル・ヨゼフさんが洗礼を受けました。新しい天主の子供となりました。天主の友人、友となって、そして天国の市民権、天国パスポート、天国ビザを今日手に入れました。今日私たちの兄弟が生まれたので、心から嬉しく思います。

イエズス様は仰いました。
「もしも水と霊によって生まれ変わらなければ、もう一度生まれなければ、天の国には入れない。」(ヨハネ3:5)

そして天に昇天される前に仰いました。
「全世界に行って、私の教えたことを教えよ。聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼を受けるならば、救われる。もしもそうでなければ、滅ぼされる。」(マルコ16:15-16)

カトリック教会は、イエズス様の言葉をそのまま信じて、何も変えずに信じています。もしも洗礼を受けなければ、私たちは天国に入ることができなくなってしまいます。

私たちがここに生まれて、今この地上に生きている目的は、ただ一つしかありません。私たちの人生の唯一の目的は、「天国に行くこと」です。そのために私たちは創造を受けて今、こうして生活しています。

もしも私たちが隣人を愛するとしたら、それは私たちの隣人が天国に行って、永遠の命を受けるためです。

今日本当に嬉しく思います。そして多くの方が、この天国への唯一の道である洗礼の恵みを受けることができますように、お祈り致しましょう。

そしてこの洗礼の御恵みをどうぞ、清く、最後まで守り通して下さい。マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





ヴィガノ大司教、トラディティオーニス・クストーデスへの対応で司祭に助言

2021年08月18日 | カトリック・ニュースなど
ヴィガノ大司教、トラディティオーニス・クストーデスへの対応で司祭に助言

2021年8月6日

【編集者注】ヴィガノ大司教が「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)に関するビデオメッセージ

(日本語訳はここ:前半後半)を発表なさった後、LifeSiteNewsとCFNの寄稿者であるマイケ・ヒクソン博士は、聖伝のラテン語ミサをやめさせようとする試みに関して、司祭と信徒へのアドバイスを明確にしてくださるように大司教様にお願いしました。大司教様は8月5日に回答してくださいました。

まず、大司教様は、「聖なるいけにえを捧げる権能を持つ者は誰であれ、古代の儀式で聖なるいけにえを捧げる権利を持っています…」と確認なさっています。ご自分の典型的な慎重さを示されて、大司教様は、ミサに関する制限に対応する際には、「客観的な要素とさまざまな状況の両方を考慮しなければならないのは明らかです…」と助言なさっています。その結果、「司祭は、自分の行動が、公正で直接的な対決をすることでより効果的になるのか、それとも、慎重に隠れて行動する方がより効果的になるのか、を考えなければなりません」としています。しかし、司教のその不当な決定に公に従わないことは「私たちが従わなければならない聖人たちの行いに最も一致するものです」と指摘しておられます。

大司教様はまた、父親のように振る舞おうとする教区長がいる場合、司祭は教区長に聖伝のミサを自分で捧げるように勧めるべきだと助言なさっています。なぜなら、そうすることは「教区長の心とその司祭としての霊魂の最も奥深い琴線に触れることで、教区長に理解してもらう方法となり得」るからです。

この回答は、LifeSiteNewsに掲載されたものです。

*****

2021年8月5日
雪の聖母の大聖堂(聖マリア大聖堂)の奉献の祝日

親愛なるマイケ、

説明を求めるあなたのご依頼について、少し考察をお送りします。それが私の考えをさらに明確にすることを期待しています。次が【あなたが問題にしている】その文章です。
私たちの義務は、天主の役務者としても、素朴な信者としても、このような濫用に対して確固とした穏やかな抵抗を示し、超自然的な精神で私たち自身の小さなカルワリオの道を歩いていくことです。他方で、人々の新しい大司祭と律法学士は、私たちをあざけり、狂信者としてレッテルを貼ることになるでしょう。私たちの謙遜、私たちに対する不正を黙って捧げ物とすること、私たちが告白している信経に矛盾しない生き方という模範こそが、カトリックのミサの勝利と多くの霊魂の回心をもたらす恵みを勝ち取るでしょう。

あなたは私にこうお尋ねになりました。「司教から圧迫されたとき、司祭や信者はどうすべきでしょうか? 密かに行動するのでしょうか、それとも公の不従順をもって公に断ち切るのでしょうか?」。

まず第一に言わせていただくと、教皇聖ピオ五世のミサを捧げ続けることで、司祭は不従順の行いを何もしておらず、それどころか、天主に認められた権利を行使しているのであって、この権利は教皇でさえも取り消すことはできません。聖なるいけにえを捧げる権能を持つ者は誰であれ、古代の儀式で聖なるいけにえを捧げる権利を持っています。これは、トリエント典礼を公布した使徒的憲章「クオ・プリームム」(Quo Primum)で、教皇聖ピオ五世が荘厳に宣言したことです。

このことは、議論の余地のない事実として、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)によって繰り返し述べられています。これらの条項に反する者は誰であれ、「全能の天主[の憤慨]及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ」(クオ・プリームム)。

聖伝のミサを捧げることを制限したり禁止したりすることに対する対応は、客観的な要素とさまざまな状況の両方を考慮しなければならないのは明らかです。司祭がトリエント・ミサを捧げると聖職の停止を平気で科すような、古代の典礼様式の不倶戴天の敵が教区長であるときには、特にそのニュースがメディアで広まった場合には、公の不従順が教区長の権力濫用を明らかにする方法になるかもしれません。高位聖職者たちは、自分の行動についてメディアに取り上げられることを非常に恐れており、新聞に掲載されることを避けるだけのために、教会法上の措置を控えることもしばしばあります。

したがって、司祭は、自分の行動が、公正で直接的な対決をすることでより効果的になるのか、それとも、慎重に隠れて行動する方がより効果的になるのか、を考えなければなりません。私の意見では、第一の選択が最も直線的で透明性が高く、私たちが従わなければならない聖人たちの行いに最も一致するものです。

もちろん、自分の司祭がトリエントの典礼様式を捧げることを自由にさせてくれる理解のある司教の場合もあるでしょう。司教に役人ではなく父親を見いだすことができるのを知っていれば、自分の司教に心を開いて話すことは確かに重要です。残念ながら、ほとんどの場合、それは寛容さの問題であり、聖伝の道についての励ましにはほとんどならないことを私たちはよく知っています。しかし、場合によっては、聖ピオ五世のミサを自分で捧げるように教区長本人を招くことは、教区長の心とその司祭としての霊魂の最も奥深い琴線に触れることで、教区長に理解してもらう方法となり得ます。このミサは、使徒継承の儀式で聖なるいけにえを捧げるという良き機会を得る天主の役務者のために取っておかれた宝なのですから。この「奇跡」が起こると、司教は司祭の味方になります。なぜなら、聖伝のミサを好ましいものとさせる知的かつ理性的な面に加えて、このミサの霊的かつ超自然的な次元を直接体験し、また、このミサがそれを捧げる人々の恩寵の生活にどのように影響するかを体験するからです。

私の言葉によって、前回の演説では展開されなかった点が明確になることを期待しています。




ヴィガノ大司教「通常の小教区の信徒や遠く離れた信徒までもが聖伝のミサの教会に来るようになっても驚くことではない。私たちの義務は、権力の濫用に対して確固とした抵抗を示すことだ。」

2021年08月17日 | カトリック・ニュースなど

教会の石、祭壇の大理石、円柱、丸天井は叫んでいる。公会議の結果として、天主の礼拝のために奉献されたこれらの石が、今日、放棄され、砂漠化させられ、冒涜され、駐車場やスーパーマーケットに変えられているからだ。私たちも叫ぼう。

【参考資料】ヴィガノ大司教、教皇フランシスコによる全時代のミサの盗みに応える(続き)

Archbishop Viganò Responds to the Theft of the Mass of All Ages by Pope Francis

「ヴィガノ大司教、教皇フランシスコによる全時代のミサの盗みに応える」の続きです。

他の不一致

教会の歴史において、公会議あるいは典礼改革が、それ以前のものとそれ以後のものとの間の断絶点となったことは一度もありませんでした。この二千年の間、ローマ教皇たちは、自分たちより前の教会と自分たちが統治しなければならない教会との間に、意図的にイデオロギー的な境界線を引き、自分たちの前任者の教導権を無効にしたり、それと矛盾させたりしたことはなかったのです! そうする代わりに、教理上の誤謬を慎重に曖昧な表現の背後にほのめかした人々や、勝利を確信した者の大胆さをもって、第二バチカン公会議を「教会の1789年(フランス革命)」、「預言的」で「革命的」なイベントとして宣伝した人々の両方では、「前」と「後」は、強迫観念になりました。

2007年7月7日以前、聖伝の典礼様式の普及に対して、有名な教皇庁の式典担当者は辛らつにこう答えています。「もう後戻りはできない!」と。しかし、「スンモールム・ポンティフィクム」の公布にまで後戻りすることができるのは、フランシスコを見れば明らかです。では、どのようにして! それが権力を維持するため、また善が普及しないようにするために役立つならば、です。それは、パンデミックの茶番劇の「何もかもが以前のようにはならない」という叫びを不吉に繰り返すスローガンなのです。

フランシスコは、トリエント典礼に結びついている信徒と、主に習慣や諦めから改革された典礼に順応している信徒との間の分裂とされるものがあることを認めていることが、明らかになっています。彼は、モンティーニの典礼様式(パウロ六世の新しいミサ)より客観的に優れている典礼様式(聖伝のミサ)に完全な権利を認めることで、この分裂を癒やそうとはしませんが、それは、まさに聖ピオ五世のミサの存在論的な優位性が明らかになるのを防ぐためであり、改革された典礼とそれが表す教理に対する批判が出てくるのを防ぐためです。そして、聖伝のミサを禁止し、分裂を招くものとしてレッテルを貼り、インディアン居留地のようなところに限定して、その普及を可能な限り制限しようとしています。そして、公会議革命が不幸な前身となった「キャンセル・カルチャー」の名の下に、完全に消滅させるつもりなのです。ノブス・オルド(新しいミサ)と第二バチカン公会議が、ヴェトゥス・オルド(聖伝のミサ)および永遠のカトリックの教導権との対決に容赦なく敗れたことに耐えられず、採用できる唯一の解決策は、聖伝の痕跡をすべて消し去り、単純化されない80歳代の人々あるいは常軌を逸した人々の懐古趣味的な避難所に追いやり、あるいは、少数の原理主義者のイデオロギー的マニフェストとして、これを口実として提示することです。

一方で、大衆を教化するために「嫌になるほど」(ad nauseam)何度も繰り返される、システムに合致したメディア用[宣伝]版を構築することは、教会の領域だけでなく、政治や世俗の領域でも繰り返される要素です。それにより、ディープ・ステートとディープ・チャーチが、同じ方向に走る二つの並行した線路にほかならず、その最終目的地は、自らの宗教と預言者を擁する新世界秩序(New World Order)であるということが、当惑にさせる証拠をもって示されています。

分裂は明らかに存在していますが、それは全時代の教理に忠実であり続ける良きカトリック教徒や聖職者からではなく、むしろ正統性を異端に、聖なるいけにえを兄弟愛のアガペーに置き換えた人々から来ています。その分裂は今日では新しいものではなく、1960年代にまでさかのぼります。そのとき、「公会議の精神」、この世への開かれること、諸宗教間の対話ということが、二千年のカトリックをわらくずに変え、教会の全体を革命化させ、言うことを聞かない人々を迫害し、追放しました。しかし、教理的・典礼的な混乱を教会の中心に持ち込むことによって達成されたその分裂は、当時はそれほど嘆かわしいものとは思われませんでした。他方で、完全な背教状態にある今日、第二バチカン公会議とノブス・オルドの明確な断罪を求めるのではなく、大いに謳われている多面的な多元主義の名の下に、「特別の形式の」ミサの単な単なる許容を求める彼らの方が、逆説的にも、分裂的であるとみなされているのです。

重要なことは、文明世界においてさえ、少数派の保護は、彼らが伝統的な社会を破壊するのに役立つ場合にのみ有効であり、他方でそのような保護が誠実な市民の正当な権利を保証する場合には無視されるということです。そして、少数派の保護を口実に、多数派の善良な人々を弱体化させることだけが意図されていたことが明らかになっている一方、多数派が腐敗した人々で構成されている今、少数派の善良な人々を容赦なく粉砕することができるのです。最近の歴史には、この点に関して照らしを与えてくれる前例には事欠きません。

「トラディティオーニス・クストーデス」の専制的性質

私の意見では、自発教令のこの点、あの点が気になるのではなく、押し付けられた決定を正当化するために提出された論拠の実質的な偽りを伴う、全体的な専制的性質が気になります。

権威がその存在意義(raison d’etre)を持っているのは、教会を通して信者に授与される恩寵を妨げたり制限したりするのではなく、むしろそれらの恩寵を促進するためです。権威は、プロテスタントに好意を示すような典礼様式(新しいミサ)によって天主の御稜威から栄光を奪うのではなく、むしろその栄光を完璧に表現するためにあります。また、教義上や道徳上の誤謬をまき散らすのではなく、むしろそれらを断罪し根絶するために、その存在理由があります。そうあるべき権威による権力の濫用によって、つまずきもまた与えられています。ここでも、世俗の世界で起こっていることとの類似性があまりにも明らかです。私たちの世俗の支配者は、私たちの高位聖職者がそうであるように、権力を濫用し、法の最も基本的な原則に違反して規範や制限を課しています。

さらにまさに権力を握った者こそが、聖俗どちらの面でも、市民や信徒といった、一般大衆からの事実上の(de facto)承認にすぎないものを利用することが多いのです。しかも、権力を奪う手段が、法律の文字面はともかく、少なくとも法の精神には違反しているにもかかわらず、です。

イタリアの場合は、選挙で選ばれたわけではない政府が、イタリア憲法とイタリア国民の自然権を侵害して、ワクチン接種の義務とグリーンパス【ワクチン・パスポート】について立法していますが、教会が置かれている状況と、似ても似つかないとは思われません。何故なら、辞任した教皇に代えて、ザンクト・ガレン・マフィアと超進歩的な司教団によって選ばれ、あるいは少なくとも評価され支持されているホルヘ・マリオ・ベルゴリオが教皇に就任したからです。世俗、宗教の両方の権威には、深刻な危機が存在することは明らかであり、その危機において、権力を行使する者は、彼らが保護すべき人々にまったく反しており、何よりもその権威が確立された目的に反しています。

ディープ・チャーチとディープ・ステートの間の類似

世俗社会も教会も、前者をフランス革命で、後者を第二バチカン公会議で襲ったのと同じ癌にかかっていることが理解されてきたと思います。どちらの場合も、制度を組織的に破壊し、外見や位階構造、強制力を維持しながらも、本来の目的とは正反対の目的を持った偽物に置き換えるのですが、その基盤には、フリーメーソン思想があるのです。

この時点で、一方においては市民が、また他方においては信者が、どちらも国家と教会を統治する天主の権威に従うために、地上の権威に不従順でなければならないという状態に陥っています。明らかに「反動派」、つまり、権威の倒錯を受け入れず、キリストの教会と祖国に忠実であり続けたいと願う人々は、いかなる形であれ、容認できない反体制分子とされ、したがって彼らは、「公共の利益」 -- これはもはや共通善(bonum commune)ではなくその逆である -- の名の下に、信用を失わせられ、委縮させられ、脅迫され、権利を奪われなければならないのです。

支配者らが消滅させようとしている世界の少数の生き残りは、陰謀論、聖伝主義、原理主義のいずれで非難されようとも、世界統一計画の実現に向けて最も重要な瞬間に、この計画達成に対する脅威となります。だからこそ、権力はこのように堂々と、大胆に、そして暴力的に反応しているのです。詐欺の証拠は、より多くの人々に理解され、彼らを組織的な抵抗に導き、主流メディアが押し付ける沈黙の壁と猛烈な検閲を打ち破る危険性があるからです。

したがって、私たちは、権威当局の反応の激しさを理解し、強力で断固とした反対運動に備えることができ、濫用的かつ不法に私たちに否定された権利を引き続き利用することができます。もちろん、グリーンパスを持っていないと旅行に行く機会が与えられなかったり、司教が自分の教区の教会で全時代のミサを行うことを禁止したりして、私たちはそれらの権利を不完全な形で行使しなければならないことに気づくかもしれません。しかし、権力の濫用に対する私たちの抵抗は、主が私たちに与え続けてくださる恩寵、特に専制政治の時代には欠かせない剛毅の徳を頼りにすることができるでしょう。

彼らを恐れさせる「普通のこと」

反対派への迫害がいかに組織化され、計画されているかを知る一方で、反対派を断片化させているのを認識しないわけにはいきません。ベルゴリオは、反対派の動きをすべて封じ込める必要があることをよく知っています。特に、内部分裂を引き起こし、司祭や信者を孤立させることによって。教区の聖職者、修道者、エクレジア・デイ団体の間の実りある兄弟愛的な協力関係は、ベルゴリオが回避しなければならないものです。なぜなら、それは古代の典礼様式に関する知識の普及を可能にし、また宣教における貴重な助けとなるからです。しかし、これはトリエント・ミサを信者の日常生活の中で「普通のこと」にすることを意味し、フランシスコにとっては許容できないことです。そのため、教区の聖職者は教区長のあわれみの下に取り残される一方で、エクレジア・デイ団体は「聖職者省」の権威の下に置かれ、すでに決定的になった運命への悲しい前奏曲となっています。まさに憎まれた聖伝の典礼や、規則の忠実な遵守のおかげで、多くの召命に恵まれ、育まれてきた、繁栄している修道会に降りかかった運命を忘れてはなりません。

だからこそ、ミサを捧げる儀式に関するある種のこだわりは、コミッサール【旧ソ連の政治・行政官僚】の規定を正当化し、ベルゴリオのゲームに参加する危険性があるのです。世俗社会においても、反対派の行き過ぎた行動を助長することこそが、権力にある人々が彼らを疎外し、彼らに対する抑圧的な措置を正当化することになります。ワクチン反対運動の事例を考えてみると、少数の人々の風変わりさや矛盾を強調することで、市民の正当な抗議行動の信用を落とすことがいかに容易であるかが分かります。また、憤慨してワクチンセンターに火をつけた少数の人々を非難することはあまりにも簡単で、ワクチン接種を受けなければ健康パスポートに烙印を押されたり解雇されたりするのを避けるために、街頭に出た何百万人もの誠実な人々影を投げかけてしまいます。

孤立化・非組織化の状態にとどまってはならない

私たち全てにとって、もう一つの重要な要素は、私たちの構成した抗議行動を多くの人に見えるようにし、公的な行動へ向けての一種の共同作業を確保する必要があることです。「スンモールム・ポンティフィクム」の廃止により、私たちは20年前に戻ったように感じます。

ベルゴリオがした教皇ベネディクトの自発教令を取り消すという不幸な決定は、失敗する悪い運命にあるのは変わりません。何故ならこれは主ご自身がその最高司祭であり大司祭である教会の霊魂そのものに触れる[敏感な問題だ]からです。そして、私たちがここ数日で安心して見ているように、全司教団が、霊魂に平和をもたらすことには確実に貢献しない権威主義の形態に受動的に喜んで従うとは限りません。教会法は一定の条件の下で、司教たちが自分たちの信徒のために特定のあるいは普遍的な法律を免除することができると保証しています。第二に、天主の民は「トラディティオーニス・クストーデス」の破壊的な性質をよく理解しています。そこで彼らは本能的に、進歩主義者らの中でこのような不承認を起こすものを知りたいと思っています。

そのため、通常の小教区生活を送っている信徒や、教会から遠く離れた信徒までもが、聖伝のミサが行われている教会に足を運ぶようになったとしても、驚くことはありません。私たちの義務は、天主の役務者としても、素朴な信者としても、このような濫用に対して確固とした穏やかな抵抗を示し、超自然的な精神で私たち自身の小さなカルワリオの道を歩いていくことです。他方で、人々の新しい大司祭と律法学士は、私たちをあざけり、狂信者としてレッテルを貼ることになるでしょう。私たちの謙遜、私たちに対する不正を黙って捧げ物とすること、私たちが告白している信経に矛盾しない生き方という模範こそが、カトリックのミサの勝利と多くの霊魂の回心をもたらす恵みを勝ち取るでしょう。私たちが多くのものを受けているからこそ、多くのものを要求されることを忘れないようにしましょう。

原状回復(Restitio in integrum)

「あなたたちの中に、パンを欲しがる子に石を与え、魚を欲しがる子に魚の代わりに蛇を与える…父親はいないだろう」(ルカ11章11-12節)。今、私たちはこの言葉の意味を理解することができ、「霊魂のない典礼」という石、堕落した教理という蛇、混ぜ物の入った道徳というサソリを私たちに与える父の冷笑を、心の痛みと苦悩をもって考えます。そして、主の群れを、ノブス・オルドを受け入れる人々と、父祖たちのミサに忠実であり続けたい人々との間で分断するという段階にまで到達しているのです。

私たちの主がロバの子に乗ってエルザレムに入られ、通過されるとき、群衆が外套を広げて敷いていたため、ファリザイ人が主にこう求めました。「先生、弟子たちをしかってください」。主は彼らにこう答えられました。「私は言う。彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう」(ルカ19章28-40節)。この60年間、私たちの教会の石は泣き叫んでおり、教会から聖なるいけにえが二度も排除されました。祭壇の大理石、バシリカの円柱、大聖堂の高い丸天井も同様に叫んでいます。なぜなら、守ろうと言い張っているあの公会議の結果として、まことの天主の礼拝のために奉献されたこれらの石が、今日、放棄され、砂漠化させられ、あるいは忌まわしい典礼様式によって冒涜され、あるいは駐車場やスーパーマーケットに変えられているからです。私たちも叫びましょう。私たちは、天主の神殿の生ける石です。今日では言葉を発しない主の弟子たちに声を与えてくださるように、また、主のぶどう園の管理者に責任がある耐えがたい盗みが弁償されるように、主に向かって信仰をもって叫びましょう。

しかし、その盗難が弁償返還されるためには、私たちから盗まれた宝に、私たちがふさわしいことを示す必要があります。そのためには、生活の聖性によって、聖徳の模範を示すことによって、祈りや頻繁なご聖体の拝領によって、このことを行うよう努めましょう。そして、聖香油の意味をまだ知っている何百人もの良き司祭がいることを忘れないようにしましょう。その聖香油で、彼らはキリストの役務者、天主の神秘の分配者として叙階されたのです。主は、祭壇がたとえ地下室や屋根裏に建てられていても、私たちの祭壇に降りてきてくださいます。Contrariis quibuslibet minime obstantibus.(妨げになる何事があったとしても)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年7月28日

殉教者聖ナザリオとチェルソ、
教皇殉教者ヴィクトル一世、
教皇証聖者イノチェンチオ一世の祝日


イタリア語

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Mons. Viganò Commenta il Motu Proprio “Traditionis Custodes”.

Marco Tosatti Cari amici e nemici di Stilum Curiae, riceviamo e volent...

STILUM CURIAE

フランス語

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Mgr Viganò commente le Motu Proprio Traditionis Custodes.

Marco Tosatti Chers amis et ennemis de Stilum Curiae, c’est avec...

STILUM CURIAE

スペイン語

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Monseñor Viganò comenta el Motu Proprio “Traditionis Custodes”.

Marco Tosatti Queridos amigos y enemigos de Stilum Curiae, recibimos y...

STILUM CURIAE


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX JAPAN

2021年08月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年8月15日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計94人でした。大阪では41人でした。

日本全国で大雨が降っていたいたのですが、多くの方々がミサに与ることができて何よりでした。雨のためにミサに与ることを断念された方々もおられました。

8月15日に、大阪では、一人の大人の洗礼と、三人の子供の洗礼がありました。ミサの後には、いつものように聖体降福式を行いました。天主に感謝!天候に恵まれ、簡単におにぎりを食べると、予定通り聖母行列を行いました。聖母行列では2017年にしたように聖母の汚れなき聖心に日本を捧げる祈りを唱えました。喜びと感謝と礼拝とがぎっしり詰まった幸福な一日でした。
マリア様に心から感謝いたします。

次の主日8月22日は、日本の最上位の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日です。多くの愛する兄弟姉妹の皆様がミサに与ることができますように祈ります。。
次の主日には、名古屋でもミサがあります。午後5時半からミサが開始します。
天主に感謝!

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 94, including children.

09:00 mass
M: 20 (incl. 3 children)
F: 23 (incl. 4 children)
Total: 43 (incl. 7 children)

11:00 mass
M: 17 (incl. 5 children)
F: 20 (incl. 6 children)
Total: 37 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 8 (incl. 0 children)
F: 14 (incl. 0 children)
Total: 22 (incl. 0 children)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 41 (incl. 8 children)
F: 53 (incl. 10 children)
Total: 94 (incl. 18 children)








永遠のミサ【聖伝のラテン語ミサ】についてのドキュメンタリー映画

2021年08月16日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

 
愛する兄弟姉妹の皆様、
 
永遠のミサ【聖伝のラテン語ミサ】についてのドキュメンタリー映画です。
 
第一話 聖伝のミサを発見する
 
 




2021年8月15日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for August 15, 2021

2021年08月15日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年8月13日(金)8月14日(土)8月15日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 8月13日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 8月14日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 8月15日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

大阪では、ミサの後で聖母被昇天を祝って聖母行列があります。多くの兄弟姉妹の御参加をお願いいたします。

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

8月15日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of August 15, 2021.

Mass times in Tokyo: August 1
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo

Mass schedule in OSAKA:

Fri, August 13: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, August 14: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, August 15: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30











聖母被昇天は私たちにとって極めて大切な祝日|ピオ十二世教皇は聖母被昇天のドグマの 宣言で確認された。ペトロの後継者は 新しい教義を明らかにするのではない。 聖伝を守り、忠実に提示するのだと。

2021年08月14日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年8月15日は聖母被昇天の大祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖母被昇天の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ヴィガノ大司教「聖伝のミサは、霊魂の生命、霊的な成長の問題だ。私たちは第二バチカン公会議以前の拒否を特徴とする新しいミサ典書の道具的使用について語るべきではないか?」

2021年08月14日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教、教皇フランシスコによる全時代のミサの盗みに応える

Archbishop Viganò Responds to the Theft of the Mass of All Ages by Pope Francis

2021年7月31日

【編集者注】フランシスコが「全時代のミサ」を抑圧しようとしている自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)について、ヴィガノ大司教はそれを広範囲にわたって分析した結果を、掲載するようにと送ってくださいました。大司教は、この専制的な行為を鋭く分析した後、締めくくりに「私たちの構成した抗議行動を多くの人に見えるようにし、公的な行動へ向けての一種の共同作業を確保する必要性があること」を確認しておられます。そして、私たちが孤立したり、絶望したりしないようにと呼びかけておられます。大司教は、盗まれたものが完全に復興されることを期待しておられますが、そのためには私たちがその復興にふさわしい存在でなければならないことを念押しなさっています。大司教の文章は、以下の動画で読むことができますし、大司教が演説する様子もご覧いただけます。(ブライアン・マッコール)

LAPIDES CLAMABUNT
石が叫ぶだろう

Dico vobis quia si hii tacuerint, lapides clamabunt.
Lk 19:40
私は言う。彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう。
ルカ19章40節

「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)【聖伝の守護者】。これは、ベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)をフランシスコが強引に破棄した文書の「出だし」(incipit「冒頭の数語」)です。「教会憲章」(Lumen Gentium)からの大げさな引用は、ほとんど嘲笑的な調子であることに、気づかないわけにはいきません。

ベルゴリオが司教たちを聖伝の守護者と認めた矢先に、聖伝の最高にして最も神聖な表現である祈りを司教たちに妨害するように求めたのです。文書を和らげるための「エスカモータージュ」(「言葉の綾」または「策略」)をテキストの行間に見つけようとする人は、教理省に修正のために送られた草案が最終テキストよりも極めて過激だったことを知るべきです。草案の過激さを知ると、トリエント典礼反対者たちからの特別な圧力など必要なかったという確認ができます、もしもそのような確認が必要だったとしたのならば、ですが。つまり、聖アンセルムスに関する学者たちに始まるトリエント典礼の歴史的敵対者が、聖下が得意とする手、すなわち廃止、を試みるように説得する必要など全くなかったのです。Ubi solitudinem faciunt, pacem appellant.[彼ら廃墟を作り、それを平和と呼ぶ。―タキトゥス「アグリコラ」]

フランシスコの手口

フランシスコは、「継続性の解釈法」という敬虔な幻想を再び否定し、「ヴェトゥス・オルド」(古いミサ)と「ノブス・オルド」(新しいミサ)の共存は不可能であると述べています。それは、ヴェトゥス・オルドとノブス・オルドが、両立し得ない二つの教理的・教会的アプローチを表現したものであるからです。一方にはキリストの教会の声である使徒継承のミサがあり、他方には公会議の教会の声であるモンティーニの「聖体祭儀」があります。

これは、改革された儀式や第二バチカン公会議に不安を抱く人々がしている非難ではありません。もちろん非難するのは正当なことですが。そうではなく、むしろ、進歩主義の中でも最も過激な派閥のトップであるフランシスコ自身が、イデオロギーへの固執を認め、誇りを持って肯定していることなのです。ローマ教皇であると同時にカトリック教会の清算人でもある彼は、一方では教令や統治行為によってカトリック教会を破壊し、他方ではその職責に伴う威光を利用して、古い宗教の瓦礫の上に「新しい宗教」を確立し、広めることができるからです。彼が天主に対して、教会に対して、主の群れに対して行っている行為が、「パレーシア」(parrhesia)【包み隠さずすべてを話すこと】、対話、壁を作らずに橋を架けることを訴えることと全く相反するものであっても、ほとんど問題ではありません。「いつくしみの教会」や「野戦病院」とは、利益を受けるのが異端者や私通者ではなくカトリック信者であるべきですから、空虚な美辞麗句であることが分かります。

現実には、私たちの誰もがよく知っていることは、「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)が公の同棲者や姦通者に対して示す寛容さは、ベルゴリオが機会があればすぐに矢を放つ「硬直した」人々に対しては、【適用は】考えられません。【フランシスコ教皇は聖伝を支持する人々のことを「硬直している」rigid とよく非難している。】

ベルゴリオが高位聖職者や政治家、保守派の知識人との面会を断った理由が、痴漢をした枢機卿や異端の司教、妊娠中絶派の政治家、世界統一主義者(globalist)の知識人には当てはまらないことは、この教皇就任から何年もたった今、誰もが理解しています。つまり、行動に明らかな違いがあり、その違いからフランシスコがカトリックではないあらゆるイデオロギー、思想、プロジェクト、科学的、芸術的、文学的表現を好んでいるという、えこひいきや党派性を把握することができます。このサンタ・マルタ館の住人は、漠然とでもカトリックを連想させるだけのものにさえ嫌悪を抱いているように見え、違和感のあるほどですが、それは彼が座している玉座のおかげです。多くの人が、この乖離(かいり)、つまり、教皇らしくない行動や教皇らしくない発言をする教皇のこの一種の双極性に注目しています。

問題は、病気や高齢の教皇の場合のように教皇職が「不作為」なのではなく、教皇職の本質そのものとは正反対の意味で組織化され、計画された絶え間ない行動に私たちが直面していることです。ベルゴリオは、カトリックの信仰の真理を強く再確認することによって現代の誤謬を断罪するということがないだけでなく(彼はこれまで決してしてきませんでした)、それらの誤謬を積極的に広め、促進し、その支持者を励まし、可能な限り広め、バチカンでその促進イベントを開催しようとし、同時に、これらの同じ誤謬を非難する人々を沈黙させています。【フランシスコ教皇は】私通を犯した高位聖職者たちを罰しないばかりか、嘘をついてまで彼らを昇進させ擁護する一方で、保守的な司教たちを排除し、新路線に沿わない枢機卿たちの心からの訴えにも苛立ちを隠しません。自らをカトリック信者と主張する妊娠中絶派の政治家を断罪しないだけでなく、【フランシスコ教皇は】司教協議会がこの問題について発表するのを妨げるために介入し、「シノドスの道」に反して、逆に少数の超進歩的な人物を使って大多数のシノドスの教父たちに自分の意志を押し付けることを可能にしています。

「トラディティオーニス・クストーデス」において最も大胆かつ傲慢な形で現れているこの態度にある唯一の一貫性は、二枚舌と嘘です。二枚舌は、もちろん、見かけであり、特定のグループを支持するという慎重さだけにはに欠ける立場によって、日々否定されています。そのグループとは、簡潔に言えばイデオロギー的な左派であると特定することができますが、実際にはそのごく最近の進化形態として、世界統一主義者、環境保護主義者(ecologist)、トランスヒューマン(人間改造主義)、LGBTQの鍵です。教理上の問題についてあまり知識のない素朴な人々でも、少なくとも言葉の厳密な意味で非カトリックの教皇がいるということを理解できるようになってきました。このことは、重要でないとはいえない教会法上の問題をいくつか提起しており、それを解決するのは私たちではありませんが、遅かれ早かれ対処しなければならなくなるでしょう。

イデオロギー的な急進主義

「トラディティオーニス・クストーデス」によって極限まで高められた、この教皇職のもう一つの重要な要素は、ベルゴリオのイデオロギー的な過激さです。つまり、他の人に関わる場合は言葉で非難されますが、古代の儀式に関係したり聖伝に忠実だったりする聖職者や信徒対して行動に出るのがベルゴリオ自らである場合には、最も暴力的で冷酷な表現となって姿を見せる過激さです。聖ピオ十世会に対しては、進んで譲歩して「良き隣人」としての関係を築こうという姿勢を見せていますが、ラテン語のミサを懇願するために千回もの屈辱と恐喝に耐えなければならないあわれな司祭や信徒に対しては、理解も思いやりも示しません。この振る舞いは偶然ではありません。ルフェーブル大司教の運動は、独自の自治と経済的な独立性を享受しており、そのために聖座からの報復や検査官を恐れる理由はありません。しかし、教区や修道会に所属する司教たち、司祭たち、聖職者たちは、自分たちの上に、罷免、教会上の身分からの解雇、生活手段そのものの剥奪というダモクレスの剣がつるされていることを知っているのです。

司祭の生活におけるトリエント・ミサの経験

私の演説や宣言を見ておられる方は、公会議やノブス・オルドに対する私の立場をよくご存じだと思いますが、それだけでなく、私の背景、つまり聖座に奉仕してきた私の経歴、そして私たちが直面している背教と危機に対する比較的最近の認識についてもご存じだと思います。このような理由から、私は、まさにこのような状況のために、聖ピオ五世のミサだけを捧げる、あるいはそれだけにあずかるという思い切った選択をすることができない、あるいはまだできていない人々の霊的な道のりへの理解を改めて表明したいと思います。

多くの司祭は、由緒あるトリエント典礼を捧げ、その中に身を置くことによって初めて、その宝を発見します。そして、「特別な形式」に対する最初の好奇心が、儀式の荘厳さゆえに確かに魅力的ではありますが、言葉の深さ、教理の明快さ、そしてそれが私たちの霊魂を生み育ててくれる比類のない霊性への認識へとすぐに変わることも珍しくありません。そこには、言葉では表現できない完璧な調和があり、信者には部分的にしか理解できないものの、天主だけが可能な方法で司祭職の心に触れています。このことは、ノブス・オルドを何十年も従順に捧げてきた後、「古い使用法」(usus antiquior)に近づいた私の同僚たちによって裏付けられています。それは、朝課にある読書の部や教父の解説を含む聖務日課の祈り、ミサのテキストとの相互参照、一時課の殉教録などを含む秩序体系、世界が開かれることです。ドン・ゲランジェが賢明に観察したように、これらは神聖な言葉であり、それはラテン語で表現されているからではなく、むしろ、俗語がこれらの品位を落とし、冒涜するがゆえに、ラテン語で表現されているからです。これは、天主なる花婿に対する花嫁の言葉であり、天主との親密に一致して生きる霊魂の言葉であり、至聖なる三位一体に自らに住んでいただく霊魂の言葉です。本質的には、この言葉の最も深い意味での司祭の言葉であり、このことは、司祭職には、いけにえを捧げる権能だけでなく、自己奉献によって純粋にして聖なる汚れなきいけにえに一致する権能があることを暗示しています。

それは、世俗化されたメンタリティーを喜ばせることに熱心なあまり、天主の御稜威と天上の宮廷に目を向けようとしない「改革された典礼様式」という戯言とは関係ありません。つまり、自らを理解してもらうことにあまりにも夢中で、取るに足らない自明性以外を伝えることを諦めなければならなくなっている新しい典礼、異端者の感情を傷つけないように気を配るあまり、天主なる主が祭壇にご自身を現存させられる瞬間でさえも真理について沈黙することを許す新しいミサ、信者にわずかな真剣な態度を求めることさえ恐れて、聖歌や礼拝に結びついたあらゆる芸術表現を平凡化している典礼様式とは関係ないと言うことです。

ルター派の牧師、近代主義者、有名なフリーメーソン会員がこの儀式の草案づくりに協力したという単純な事実は、悪意や故意の違法行為とまではいかなくても、少なくとも、いわゆる「典礼改革」の作者たちを動かした、超自然的な推進力を欠いた水平的なメンタリティーを、よく理解させてくれるはずです。この作者たちが、私たちが知る限り、古代のローマ・ミサ典礼書(Missale Romanum)のテキストや典礼集全体のテキストを書いた聖なる作者たちが輝かせていたような聖性で輝いていなかったのは確かです。

司祭である皆さんのうちの何人が、そして間違いなく多くの信徒が、聖霊降臨の続誦の素晴らしい詩文を読誦する際に涙を流すほど感動し、聖伝の典礼に対して皆さんが最初に持っていた好みが、不毛な美的満足とは関係なく、呼吸するのと同じように不可欠な真の霊的必要性へと発展するのを理解したことでしょうか? 今日、皆さんからこの貴重な財産を奪おうとしている人々に、皆さんは、そして私たちは、あの祝福された儀式が皆さんに自分の司祭職の真の本質を発見させてくれたこと、そしてそこから、正にそこからのみ、自分の役務への関与に直面するための強さと栄養を得ることができることを、どのように説明することができるでしょうか? この世、肉、悪魔との日々の戦いの中で、自分が無防備になり、打ちひしがれ、強さを失ってしまうというのに、モンティーニの儀式に戻ることが義務付けられることは、皆さんにとって不可能な犠牲を意味していることを、どのようにして明確にすることができるでしょうか?

聖ピオ五世のミサを捧げたことのない人々だけが、それを過去の厄介な金ぴかの飾りとみなし、それをなくすことができるのは明らかです。思春期の頃からノブス・オルドに慣れ親しんできた多くの若い司祭たちでさえ、二つの形式の儀式には共通点がなく、一方が他方よりも優れているために、後者の限界や批判がすべて明らかになり、捧げることがほとんど苦痛になるという段階になるということを理解しています。懐古主義や過去への熱狂の問題ではありません。ここでは、霊魂の生命、その霊的な成長や禁欲・克己、神秘主義についての問題です。司祭職を職業とみなしている人々には理解することさえできない概念です。それはちょうど、パンデミックの茶番の時代の聖体拝領のグロテスクな儀式の際に、両形態のご聖体が冒涜されるのを見て、司祭の霊魂が感じる苦悩を彼らが理解できないのと同じです。

ミサの自由化についての矮小化した見方

だからこそ私は、「トラディティオーニス・クストーデス」の中で、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」が14年前に公布された理由 -- フランシスコが信じている理由 -- が、ルフェーブル大司教のいわゆる離教を癒やしたいという望みだけにある、と書かれているのを読まなければならないのは、非常に不愉快です。もちろん、「政治的」な計算は、特にヨハネ・パウロ二世の時代には、当時、聖ピオ十世会の信徒が少なかったとしても、その重みがあったかもしれません。しかし、二千年もの間、信徒の聖性を育み、キリスト教文明に命の糧を与えたミサに市民権を回復できるようにしてほしいという要請は、偶発的な事実に矮小化されるものではありません。

ベネディクト十六世は、この自発教令によって、ローマの使徒継承のミサを教会に復活させ、それが決して廃止されたものではないことを宣言しました。間接的には、パウロ六世が自分の儀式に権威を与えるために、聖伝の典礼の挙行を無慈悲に禁じたという濫用があったことを認めたのです。また、この文書には、二つの形式の同じ儀式を共存させるなどの不調和な要素があったとしても、それらは、通常の形式に影響を与えることなく、特別な形式の普及を可能にするために役立ったと考えることができます。教皇の権限で古代の儀式を復活させることができたのに、誤解や省略のあるミサをそのまま放置することは、かつての時代には理解できないことだったでしょう。しかし、第二バチカン公会議の重荷を負い、世俗化した精神が今や蔓延している今日では、許可なくトリエント・ミサを捧げるという単なる合法なことでさえ、否定できない善であり、それを捧げる共同体に豊かな実りをもたらすことで誰の目にも明らかな善であるとみなすことができます。そしてまた、もし「スンモールム・ポンティフィクム」が、そのすべての点において、真の教会的な交わりの精神をもって適用されていたならば【司教たちが聖伝のミサを望む司祭や信徒たちを邪魔せず、自発教令の通りに全くの自由を与えていたのならば】それだけで、さらに多くの実りをもたらしていたであろうことも信じることができます。

ローマ・ミサ典礼書のいわゆる「道具としての使用」

フランシスコは、世界中の司教の間で行われたアンケート調査が否定的な結果をもたらさなかったことをよく知っていますが、質問の構成から、彼がどのような回答を望んでいるかは明らかでした。この調査は、フランシスコが下した決定が必然であり、司教たちからの声をそろえた要請の成果であると人々に信じさせるための口実でした。私たちは、ベルゴリオが結果を得ようとすれば、力ずく、嘘、ごまかしに頼ることを躊躇しないことを知っています。過去のシノドスの出来事は、このことを合理的な疑いなく証明しています。何故なら、「討議要綱」(Instrumentum Laboris)【シノドスの議論の材料】が投票される前にすでに「シノドス後の使徒的勧告」が起草されたからです。ですから、この場合も、あらかじめ設定された目的はトリエント・ミサの廃止であり、「口実」(prophasis)、つまり明らかな言い訳は、「典礼改革の拒否だけでなく、第二バチカン公会議そのものを拒否することをしばしば特徴とする、1962年のローマ・ミサ典礼書の道具的使用」とされなければならなかったのです(「トラディチオニス・クストデス」に付けられた全世界の司教たちへの手紙)。

正直なところ、もしかしたら、この道具的使用について聖ピオ十世会を非難することが可能かもしれません。聖ピオ五世のミサが公会議後の教会論や教理と相容れないという、私たちの誰もがよく知っていることを、聖ピオ十世会が断言するのは当然のことですから。しかし、聖ピオ十世会は【最新の】自発教令の影響を受けませんし、また、まさにベネディクト十六世が認めた不可侵の権利 -- この権利は2007年に無から創造されたものではない -- によって、常に1962年のミサ典礼書を用いてミサを捧げてきたのです。

司教から指定された教会でミサを捧げる教区司祭は、信者にご聖体を授ける前にあえて「コンフィテオール」(confiteor、告白の祈り)を唱えたというだけで、熱心な進歩的カトリック教徒の非難を受けて毎週尋問を受けなければならず、ノブス・オルド(新しいミサ)や第二バチカン公会議の悪口を言ってはいけないことをよく知っています。なぜなら、この単語が出た時点で、彼はすでに教皇庁に呼び出され、山奥の小教区の教会に送られてしまうからです。この沈黙は、常に苦痛であり、ほとんどの場合、多くの言葉よりも雄弁であると誰もが認識していますが、全時代の聖なるミサを捧げる可能性を持ち続けるために、また、教会とこの世に降り注ぐ恩寵を信者から奪わないために、彼が支払わなければならない代償なのです。さらに不条理なのは、第二バチカン公会議の教会論と相容れないためにトリエント・ミサを廃止すべきだと平気で言われているのに、私たちが同じこと、つまりモンティーニのミサ(パウロ六世の新しいミサ)がカトリックの教会論と相容れないと言うや否や、直ちに断罪の対象となり、サンタ・マルタ館の革命法廷で私たちの断言したことが不利な証拠として使われることです。

司牧者たちが、愛情深い父親ではなく、司祭たちの冷酷な検閲官となり、常に監視し、隠そうともしない脅迫によってすべての権利を剥奪しようとする役人になってしまうには、この数十年の間に、どのような種類の霊的な病が司牧者たちを襲ったのでしょうか。このような疑惑の風潮は、多くの良き司祭の平穏には少しも貢献していません。彼らが行う善は、聖伝に結びついた信徒を危険視し、目立ちすぎない限り容認される厄介な存在と考える役人のレンズの下に常に置かれているからです。しかし、善が組織的に妨げられ、誰であれ善を行う者が疑惑の目で見られ、管理されているような教会をどのように考えたらよいのでしょうか? ですから、この「羊の匂いを嗅ぐ代わりに、怒って棒で叩く羊飼い」(こちら)に直面した多くのカトリックの人々、信徒そして少なからぬ司祭のつまずきを私は理解しています。

ある権利を享受できることが、あたかも恵み深い譲歩であるかのような誤解は、公的な問題も見られます。国家は、実験的な遺伝子血清の接種を受ける限り、旅行、学校の授業、活動開始、仕事の遂行を許可しています。このように、「特別な形式」が、公会議と改革されたミサを受け入れることを条件に認められているように、世俗の領域においても、パンデミックのナラティブ(物語)、ワクチン接種、追跡システムを受け入れることを条件に、市民の権利が認められているのです。多くの場合、人々に対して秘跡にあずかるためにワクチン接種を受けるように要求するのが、まさに司祭や司教、そしてベルゴリオ自身であることは驚くことではありません。両方の側の行動が完全に同時発生しているのは、控えめに言っても気になります。

しかし、それでは、このローマ・ミサ典礼書の道具的使用とは、いったいどこにあるのでしょうか? 私たちはむしろ、ベルゴリオの言葉を借りれば、第二バチカン公会議以前の典礼的な伝統だけでなく、第二バチカン公会議以前のすべての公会議をますます拒否することを特徴としている、パウロ六世のミサ典書の道具的使用について語るべきではないでしょうか? 他方で、第二バチカン公会議の教理上の逸脱をすべて否定し断罪する【聖伝の】ミサが捧げられうるという単純な事実を、第二バチカン公会議に対する脅威と考えているのは、まさにフランシスコではないでしょうか?

(続く)


第二バチカン公会議の教会論の主要な誤謬の要点:宗教統一的な教会の概念、団体的・議会的統治と民主主義的指針、人間の自然権や教皇の権力に関する誤った考え、など

2021年08月13日 | カトリックとは

ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教の教皇ヨハネ・パウロ二世への公開書簡(1983年11月21日)

教皇聖下、

 願わくは聖下が私どもをして聖下に次のような考察を全く子供としての率直さを持って提出することを許し給わんことを。

 二十年前から教会の状況はあたかも占領されたかのように思われるほどです。教会の自己破壊のために数万の聖職者と数千万の信者達が苦悩と困惑の中で生きています。

 第二バチカン公会議の公文書の中に含まれている誤謬、公会議後の改革、特に典礼改革、公文書によって広められている間違った考え、聖職位階によってなされる権力の乱用は、人々を混乱と動揺の中に投げ込んでいます。この悲しみに溢れる現状において多くは信仰を失い、愛徳は冷め、教会の本当の一致という考えが時と空間に置いてたち消えています。

 聖なるカトリック教会の司教、使徒の後継者として、かくも多くの霊魂達が全世界で、教会の教導職によって定められ、常にどこでも教えられてきたその信仰と道徳の中に留まろうと望んではいるものの残念ながら方向を狂わされているのを見、私たちの心は動転しています。このことに口を閉ざしているとしたら、私たちにとってこれらの悪しき仕業の共犯になってしまうように思えます。

ですから、私たちが過去十五年間に取ってきた個人的な態度・足取り[でも足りなかったこと]を考えると、聖下に公に介入しなければならない義務を感じます。それはこの劇的な状況の主要な諸原因を告発し、使徒継承の聖伝によって忠実に私たちにまで伝わった信仰においてその兄弟達を固めるために、教皇聖下にペトロの後継者の権力を行使してもらうためです。

 このため私どもはこの手紙に付録を付け、この悲劇的な状況の源にある、そして、既に他方で聖下の前任者達によって排斥されている主要な誤謬を指摘することを致しました。次のリストはその付録の題ですがこれが誤謬の全てではありません。

1.-信仰において分裂している教会という横に広がりすぎた宗教統一的な教会の概念。これは特にシラブスによって排斥されている。

2.-団体的・議会的統治と民主主義的指針。これは特に第一バチカン公会議によって排斥されている。

3.-信教の自由に関する文章に明らかに現れている人間の自然権に関する誤った考え。これは特にピオ九世の「クァンタ・クーラ Quanta Cura」とレオ十三世の「リベルタス・プレスタンティッシムム Libertas Praestantissimum」によって排斥されている。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

5.-ミサの聖なるいけにえとその他の秘蹟に関するプロテスタント的考え。これはトレント公会議第二十二総会によって排斥されている。

6.-最後に、一般的に言って検邪聖省の廃止によって生じるようになってしまった異端の自由な流布。

 誤謬を含む公文書はそれが上にある源から来れば来るほどにそれだけより深い不安の困惑を引き起こします。聖職者も平信徒もこの状況に最も動揺しているのは他でもなく教会に、ペトロの後継者の権威に、教会の聖伝の教導職に最も強く我が身を付けているものなのです。

 教皇聖下、この不安が消えるようにするのは緊急のことです。なぜなら、群は散りぢりになり、捨てられた羊達を金で雇われたものが追っているからです。カトリック信仰の善のため、霊魂達の救いのために、私たちは聖下に彼らの誤謬に反対の真理をもう一度断言して下さるように、聖なる教会によって20世紀もの間教え続けられた真理を再確認して下さるようにとひたすらに願い乞い求めます。

私たちが聖下にこれを申し上げるのは、聖ペトロが福音の真理に従っていないと聖パウロが聖ペトロをとがめたときの、その心境において申し上げています。聖パウロの目的は信者達の信仰を保護する以外の何ものでもありませんでした。聖ロベルト・ベラルミノはこのような場合の一般的道徳原理について語り、霊魂の救いに害を与えるであろう教皇の行為に対し人は抵抗する義務を持つと教えています。

 私たちがこの警告の叫びをあげるのは、この叫びは新しい教会法の誤謬、異端とは言わないけれども誤謬によって、またルターの生誕500周年の祝賀と演説によってますます激しくなるばかりですが、聖下の助けに出たいという目的なのです。...本当に限りは尽きました。教皇聖下、願わくは天主が私たちの助けに来たり給わんことを。私たちは絶えず聖下の意向のために聖なる童貞マリアに祈っています。

 私たちの忠孝に満ちた献身の情を受けとめて下さりますように。

マルセル・ルフェーブル(テュールの元司教)

アントニオ・デ・カストロ・マイヤー(カンポスの元司教)

 

第二バチカン公会議の教会論の主要な誤謬の要点

1.-"横に広がりすぎたlatitudinariste"宗教統一的な教会の概念。

 教会が「天主の民」であるという概念は以後数多くの公文書の中に現れる。公会議文書の「エキュメニズムに関する教令 Unitatis Redintegratio」や「教会憲章 Lumen Gentium」、新しい教会法典(c.204.1)教皇ヨハネパウロ二世の書簡"Catechesi tradendae"とカンタベリーの英国聖公会での演説、キリスト者の一致のための秘書室が出した宗教統一のための方針"Ad totam Ecclesiam"などがその例である。

 この概念は横に広がりすぎた意味と誤った宗教統一の概念を含んでいる。

いろいろな事実が明らかにこの概念が残念なことに謬説であることを示している。たとえば諸宗教の儀式ができるような部屋を作ることの許可、カトリック聖書解釈学とはもはや相容れない統一聖書の発刊、カンタベリーで行われたような宗教統一的儀式。

 「エキュメニズムに関する教令 Unitatis Redintegratio」では、キリスト者間の分裂は「この世にとって躓きの対象であり全ての被造物に福音をのべ伝えることへの障碍となる。・・・聖霊はその他の宗教をも救いの手段としてお使いになることを拒まれない」と言うことを教えている。この同じ誤りがヨハネ・パウロ二世の"Catechesi tradendae"という文書の中で繰り返されている。

ヨハネ・パウロ二世がカンタベリーのカテドラルで1982年5月25日にあたかも使徒信経の一致がかつて教会に存在したことがなかったかのように「キリストの約束は私たちに信頼の念を起こさせ、聖霊は聖霊降臨の後そのすぐ初期の時代から教会内に導入された分裂をいやして下さると信じます」と宣言したのはまさにこの同じ精神であり、聖伝の信仰とは全く反対の断定である。

 「天主の民」という概念はプロテスタンティスムも同じキリスト教宗教の特殊な形態に過ぎないかのように信じろと促している。

 第二バチカン公会議は、異端の分派らとの「聖霊における本当の一致」(教会憲章 Lumen Gentium, 14)「彼らとのまだ不完全なある種の交わり」(Unitatis Redintegratio, 3)があることを教えている。

 この宗教統一的な一致はレオ十三世の回勅「サティス・コニトゥム Satis Cognitum」に矛盾している。この中でレオ十三世は「イエズスは『一般的には似通っているがしかし互いに区別され、"不可分の唯一の教会を形成するある絆"によって繋がれているのではない多くの共同体を寄せ集めたような教会』を創立したのではない」と教えている。

 同様にこの宗教統一的な一致はピオ十二世の回勅「フマニ・ジェネリス Humani Generis」に反している。彼はこの中で、[人は救霊の為には]カトリック教会に属さねばならに必要性[があるのだが、それを]を何らかの別の形に還元しようとする考えを排斥している。

 また同じ教皇の回勅「ミスティチ・コルポリス Mystici Corporis」にも反している。この中では信仰において離ればなれになっているいろいろな共同体の絆であるような「霊的」教会という概念を排斥している。

 この宗教統一運動はピオ十一世が回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」の中で教えたものと反対である。この教皇はこう言った。「この点に関して非カトリック者がキリスト者の諸教会の一致を実現させようとして使っている手段のこの複雑な宗教統一運動とこの問題の根源にあるある誤った意見をここで示し排斥するのが適当である。この意見を支持する者たちはキリストのこの言葉を常に引用する。「彼らが一つとならんことを。一つの群れ一つの牧者とならんことを」(ヨハネ17:21、10、16)そして彼らはこのキリストの言葉は一度も実現したことのなかった望み、祈りを表現していると主張している。彼らは実にキリストの本当の教会が持つべき印である信仰と統治の一致が実際的に今日に至るまで決して存在したことがなくまた今日でも存在していないと言いたてている。」

 カトリックの道徳と法律が排斥するこの宗教統一運動はついに「非カトリックの役務者」から悔悛、御聖体、終油の諸秘蹟を受けることを許すに至ってしまった(新教会法典Canon 844)そしてカトリックの聖務者に御聖体の秘蹟を非カトリック者に配ることを許可し「宗教統一的なもてなし」を促進させている。

 これらのことは明らかに天主から受けた啓示に反している。天主の啓示は「分離」を命じ「光と闇、信者と非信者、天主の神殿を分派の神殿との」一致を投げ捨てている(コリント前14ー18)。

2.-団体的・議会的・民主主義的な教会の統治

 今日の近代主義者達は、まず信仰の一致を揺るがして後、統治の一致を揺るがし教会の位階制度的な構造を揺るがしている。第二バチカン公会議の文書「教会憲章 Lumen Gentium」によって既に暗示された教えが今度は新しい教会法典によって明確に採択された。それは、教皇を含めた司教達の団体は同じく教会において最高権力を享受し、それは常住し恒常的であるという教えだ。

 この二重の最高権力という教えは教会の教導職の教えとその実践に反している。特にこれは第一バチカン公会議とレオ13世の"Satis Cognitum"とに反している。つまり、[教会の聖伝によれば]ただ教皇だけがこの最高権力を保持し、教皇が適当だと判断する限りにおいてまた非常事態においてこれを教皇が他のものに伝えるのだ。

 この重大な誤謬に教会の民主主義的な方針が付け合わされている。つまり、新教会法典が定義するように「天主の民」に主権が存するというのだ。

 このヤンセニスト的な誤謬は、ピオ6世がこれを勅書「アウクトーレム・フィデイ Auctorem Fidei」によって排斥している(Dz.2592)。

 「基礎共同体」「草の根」をして権力を行使するようにと促す傾向は、シノドゥスの創設、司教協議会、司祭委員会、司牧委員会、ローマの無数の委員会、国別の委員会が修道会の懐にも作られていることに見いだせる。このことについては、第一バチカン公会議Dz3061と新教会法典447条を見よ。)

 教会内の権威の衰退は今日至る所で牛耳っている無秩序と混乱の源である。

3.-人間の自然権に関する誤った考え。

 第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言 (Dignitatis humanae)」は、「宗教の事柄に関し」人間に誤った自然権があることを断言している。このことは過去の教皇の教えと反対であり、彼らは厳しくかかる冒涜を否定している。

 ピオ九世は「クァンタ・クーラ Quanta Cura」と「シラブス(誤謬表)」の中で、レオ十三世は「リベルタス・プレスタンティッシムム Libertas Praestantissimum」と「インモルターレ・デイ Immortale Dei」の中で、ピオ十二世はイタリアのカトリックの法律家達に対してした演説「レ・リエッシェ Le Riesce」の中で、人間理性と典からの啓示がかかる権利を打ち立てることを否定している。

 第二バチカン公会議はどこででも「真理は真理に固有の力でしか押しつけられることができない」と信じ宣言している。

 これはピオ六世がピストイア公会議のヤンセニストたちに反対の声を挙げて教えた教えに完全に反対である(Dz.2604)。

公会議はついに真理を支持しない権利、真理に従わない権利を宣言し、政府に、真理の宗教と偽りの諸宗教との法的平等を確立するようにさせ、宗教を理由に差別をもはやしないことを強制するという愚かさにまで達した。

 この教えは人間の尊厳に関する誤った観念に基づいている。これは、フランス革命の似非哲学、不可知論、唯物論から由来するもので聖ピオ十世は教皇令"Notre Charge apostolique"の中でこれらを既に排斥している。

 第二バチカン公会議は信教の自由から教会にとって堅実の時代が出ると言った。

 しかしグレゴリオ十六世は反対に意見の規制なき自由が教会にとって利益になると言うことを述べるのは最高に恥知らずであると言っている。

 公会議は「現代世界憲章 Gaudium et Spes」の中で、人間のキリスト教的尊厳が托身の事実から由来し、托身はこの尊厳を全ての人に回復せしめたという偽りの原理を表明している。この同じ誤謬はヨハネ・パウロ二世の回勅"Redemptor hominis"の中で断言されている。この人間の偽りの権利が公会議によって認められたこの結果として我らの主[イエズス・キリスト]の社会統治の基礎が破壊され、宣教地における教会が、霊魂達がそのくびきの下にいるサタン的な力に対抗する戦いをし、我らの主を多くの人々の精神と心において統治させようとする権威と権力をゆるがせにしている。宣教精神は極端な改宗を勧めるものとして断罪されるだろう。

 宗教に関する国家の中立は、国家の大多数がカトリックである場合、我らの主とその教会にとって屈辱的である。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

 たしかに、教皇の権力は教会において最高権力である。しかし、この権力といえども天主の権力に従属するものであるから、絶対で無制限ではない。そしてこの天主の権力は聖伝、聖書、教会の教導職によって既に公布された諸定義によって表明されている(Dz.3116)。

 教皇の権力はその権力が教皇に与えられた目的によって制限されそれに従属している。この目的は第一バチカン公会議の憲章"Pastor aeternus"の中に明らかに定義されている(Dz.3070)。

 教会の構造を変更し、それを「天主の権利」に対して「人間の権利」と呼ぶことを主張することは、たとえば、信教の自由において、新しい教会法典によって許可された「御聖体によるもてなし」において、教会の中における2つの最高権力の肯定においてなされたことは、耐え難い権力の乱用である。

 これらの場合において、またその他のこれに似たような場合において、全ての聖職者とカトリック信者にはこれに抵抗し、従順を拒む義務があることは明らかである。盲目的従順はその時異常であり、誰一人として天主よりもむしろ人に従順だったことの責任を免れ得ない(Dz.3115)。もし悪が公であり、霊魂にとって躓きの対象であるときには、この抵抗は公でなければならない(S.Th.,2ae2ae,q.33,a.4)。

 これは目下と全ての正統的な権威との関係を治める道徳の基本原理に過ぎない。

金輪際、聖伝とカトリック信仰に堅く留まるもののみが罰を受け、異端説を唱え、あるいは本当の涜聖をやり遂げた者どもは全く心配すらしないと言う事実から、この抵抗が正しいことであることの確証を見いだす。なぜなら、これが権力の乱用の論理だからだ。

5.-ミサの聖なるいけにえに関するプロテスタント的考え。

 教皇ヨハネ・パウロ二世が、新しい教会法の前にある憲章の中で定義するままの教会の新しい概念は、ミサのいけにえという教会の主要な行為において深い変化をもたらしている。新しい教会論の定義は、全く正確に新しいミサの定義を持ち出している。つまり、それはサービスであり、団体的でエキュメニカルな交わりである。これよりも良く新しいミサを定義できない。新しいミサは新しい公会議後の教会のように、教会の聖伝と教導職からの深い断絶にあるものである。

 不当にも高揚された全てのことと蔑ろにされたこととを説明するのはカトリックと言うよりもむしろプロテスタント的な観念である。

 トレント公会議の第二十二総会でなされた教えとは反対に、またピオ十二世の回勅「メディアトール・デイ Mediator Dei」とは反対に、ミサにおける信者の参加の余地を誇張し、司祭の地位をただの座長におとしめ蔑ろにした。御言葉の典礼の地位を誇張し、罪の償いのためのいけにえという地位を蔑ろにした。共同体の食事と言うことを誇張してそれをし神聖化し、しかも、全実体変化による御聖体における主の現存への敬意と信仰を犠牲にしてまでもそうした。

 聖別された言語を廃止することにより無限にミサ典礼様式を多元化し、世俗的なあるいは異教的な要素を持ち寄ることによりそれを世俗化させた。また信者の本当の信仰と本当の敬虔の念を犠牲にしてまでも誤った翻訳を広範囲に広げた。

 しかし、フィレンツェとトレントの両公会議は、これら全ての変化に対し排斥文を発表し、私たちのミサは、そのカノンにおいて使徒の時代にまで遡ることを宣言している。教皇聖ピオ五世とクレメンス八世とはミサの変化や変更を避ける必要性について強く主張し、聖伝によって聖別されたローマ典礼様式を永遠に保護した。

 ミサの非神聖化、ミサの世俗化は、司祭職の世俗化をプロテスタント流になしつつある。

 プロテスタントのやり方に従った典礼改革は公会議後の教会の最も大きい誤りの一つであり、信仰と聖寵の崩壊をもたらす最もひどいものの一つである。

6.-異端の自由な流布

 探求の状態に落とされた教会の状況は、プロテスタント的な意見の自由を実践において導入し、教会内部においていろいろな数多い信経を作り上げてしまった。「聖庁」や「禁書目録」また「反近代主義者宣誓」などの「廃止」は、現代の神学者達において新しい理論が必要だと言うことを思わせ、信者の方向を迷わせる理論や、信者をカリスマ運動や聖霊降臨運動、基礎共同体へと駆り立てる新しい理論を出させた。これは結局天主と教会の権威に対抗して打ち立てられた真の革命である。

 多くの教皇達によって永久に排斥された現代の重大な誤謬は今より教会内で自由に発展している。

1-反スコラ学的な、実存主義的、反知性主義的な近代哲学がカトリック大学や大神学校で教えられている。

2-人間を全てのものの目的であるとする現代世界の言うがままをオウム返しに言おうとする教会当局の必要のため、人間中心主義が尊重されている。

3-自然主義(非超自然主義)-人間と人間的価値の高揚のために贖いと聖寵の超自然的価値が忘れられている。

4-進化論的近代主義のために、二十世紀の聖伝と啓示と教導職とが打ち捨てられている。彼らにとってもはや固定された真理もドグマも存在しない。

5-社会主義と共産主義-公会議がこれらの誤謬を排斥することを拒んだことはスキャンダルなことであった。そしてそのためにバチカンは今日では多かれ少なかれキリスト教的な社会主義や共産主義に対しては好意的であると信じるようになってしまったとしても不思議ではない。

そして過去十五年間の聖座の態度は、鉄のカーテンの向こうに対してであれ、こちら側に対してであれ、この判断が正しいことを確証している。

6-最後に、「フリーメーソン」「諸教会の宗教統一会議」「モスクワ」との一連の「同意」のために教会は牢獄にいる状態に還元させられた。これらのため教会はもはや自由に自分の使命を果たすことが全く不可能になってしまった。これらの同意は天に復習を叫ぶ本当の裏切りであり、それは最近最も躓きを引き起こし教会にとって最も害を及ぼした異端の主導者「=ルターのこと]に対してなされた賛辞の数々も同様である。

 教会がその敵に気を使うことなく我らの主イエズス・キリストの統治とマリアの統治とを実現させる自由を回復する時は来ている。


【参考情報】ヴィガノ大司教、被昇天前日に断食を行い、レオ十三世の悪魔祓いの祈りを唱えるよう司教、司祭を招待

2021年08月12日 | カトリック・ニュースなど
【参考情報】ヴィガノ大司教、被昇天前日に断食を行い、レオ十三世の悪魔祓いの祈りを唱えるよう司教、司祭を招待


2021年8月12日

世界中の司教、司祭に対して
童貞聖マリアの被昇天の前日を
断食とレオ十三世の悪魔祓いの祈りを唱える日とするよう招待

公的権威が新世界秩序(New World Order)の計画を支持し、牧者たちが社会とキリストの教会そのものの破壊に直面して沈黙する共犯者となっている、非常に深刻な霊的・肉体的危機であるこの瞬間に、霊的な戦いに対して一致し、私たちの王であるキリストと元后であるマリアの御旗の下に躊躇することなく整列することは、私たちの神聖な義務です。

主は司教と司祭に、主の御名によって悪魔を追い出す権能をお与えになりました。すでに2020年の聖土曜日には、多くの司教たちが、寛大さと超自然的な精神をもって私の呼びかけを歓迎してくださいました。今日、私はこの呼びかけを再度行うつもりです。したがって、司教職と司祭職にある敬うべき兄弟たちに、至聖なる童貞マリアの被昇天の前日を祈りと断食に捧げ、ローマ時間の正午12時にレオ十三世のExorcismus in Satanam et angelos apostaticos(Rituale Romanum, Tit.XI, Caput III)を唱えることをお願いします。

この準秘跡は、地獄の力を持つ最も恐ろしい敵のマントの下に置かれます。それは、天主の役務者たちの声を合わせた祈りが、今日、社会や家族、個人、そして特にキリストの信者たちを脅かしている人類の敵の罠を教会と世界から取り除くためです。

世俗化した世界と、それに伴って少なからぬ数の牧者たちは、この呼びかけと悪魔祓いそれ自体を、父祖の信仰とともに取り消されるべき過去の遺産であると考えて嘲笑することでしょう。しかし、私たちは、私たちがふさわしくない罪人であるにもかかわらず、地獄の門とそのしもべたちを恐怖に陥れる権能が、主によって私たちに与えられていることをよく知っています。

私たちが天の元后の被昇天の祝日を迎える準備のための沈黙と断食において、「戦列を整えし軍勢のごとく恐るべき」(雅歌6章9節)至聖なる童貞と、聖なる教会の保護者にして天軍の総帥である大天使聖ミカエルに祈りましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Sanctae Clarae Virginis
2021年8月12日
童貞聖クララの祝日




トマス・J・トビン司教「トラディチオニス・クストデスの発布によって、聖伝のラテン語ミサに与っている多くの人々に不安や心配が起きていることは承知しています。しかし、私は皆様に平安を保つように望みます。」

2021年08月12日 | カトリック・ニュースなど
 
Bishop Thomas J. Tobin to St. Mary's traditional Latin Mass community: 'I want you to be at peace'
 
【参考情報】このような司教様もおられると言うことをご参考に紹介いたします。
 
トマス・J・トビン司教は、日曜日、ブロードウェイの聖マリア教会の信徒たちに、個人的なサポートと励ましの言葉を述べた。バチカンから聖伝のラテン語ミサに関する変更があったことに加え、聖伝のラテン語ミサしか行わないこの教会の司祭が突然交代したことで、多くの教区民が自分たちの愛する教会の将来に不安を感じていたからだった。
 
このような状況の中で、トビン司教は、小教区の将来を心配する教区民の声に真摯に耳を傾け、個人的なサポートを約束して次のように励ましの言葉を述べた。
 
「トラディチオニス・クストデス(Traditionis Custodes)の発布によって、聖伝のラテン語ミサに与っている多くの人々に不安や心配が起きていることは承知しています。しかし、私は皆様に平安を保つように望みます。
 
私が言いたいのは、教皇フランシスコのモートゥー・プロプリオとそれに付随する書簡を読むと、聖マリア教会の存在や、皆さんの中の聖ペトロ兄弟会の働きを脅かすものは何もないということです。...
そして、私が皆様の司教である限り、皆様がカトリック教会とプロビデンス教区に結びついている限り、皆様が個人的にも精神的にも教区を支えている限り、そして、聖ペトロ司祭兄弟会が忠実で有能な司牧者を提供できる限り、私は聖マリア小教区の存在と働きを支え、肯定するためにできる限りのことをすることを保証します...。
 
I know that the publication of ‘Traditionis Custodes’ has caused some anxiety and uncertainty for many adherents of the traditional Latin Mass, but I want you to be at peace,
 
I want to say, that as I read the motu proprio of Pope Francis, and its accompanying letter, I find nothing that threatens the existence of St. Mary’s Church, nor the ministry of the Priestly Fraternity of St. Peter among you. ...
 
And I can assure you that, as long as I am your bishop; as long as you remain united to the Church Universal and the Diocese of Providence; as long as you support the parish, personally and spiritually; and as long as the Priestly Fraternity of St. Peter is able to provide us with faithful and effective pastors; I will do all that I can to support and affirm the existence and ministry of St. Mary’s Parish. ...
 

真理は、時代や場所によって変わることができない。教会の聖伝や歴代の教皇様の教えと断絶してしまうことこそ、これこそ離教的なこと、教会を破壊してしまうこと。

2021年08月11日 | お説教・霊的講話

【2020年10月25日、王たるキリストの祝日の説教から】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2020年10月25日、王たるキリストの祝日です。一緒にキリストが王であるということを黙想致しましょう。

【王たるキリスト】
天主は愛である。天主は私たちに祝福と幸福を与えることを欲しています。私たちはただそれを受ける準備をするだけでよいのです。そうすれば、幸福と祝福をたくさん受けることができます。では、どうやって準備をしたら良いのでしょうか?

それは、「天主に信頼し、天主に忠実に従う」ことです。

「天主に信頼する」、これは何故なら、天主の富と祝福とは、与え尽くすことも、汲み尽くすこともないものであるからです。天主は私たちを愛されているからです。
「天主に従う」、何故なら天主を拒むとは、天主の与える祝福を拒むということだからです。

私たちを愛して人となった天主イエズス・キリストは、私たちの最高の王です。ピオ十一世教皇はその回勅『クアス・プリマス』で、イエズス・キリストが王である理由を二つ挙げています。

一つは、まずイエズス・キリストが真の天主であるからです。天主と人間の本性、この2つの本性がイエズス・キリストの位格において、天主の位格において結合した神秘(ヒポスタシスにおける結合)によって、イエズス・キリストには天主のペルソナ(位格)一つのみがあり、イエズス・キリストは同時に完全な天主であり、同時に完全な人間である、というこの玄義の故です。ですから天主として、全ての被造物・全宇宙を、絶対最高の主権をもってイエズス・キリストは支配し統治しているからです。ですから、王だ、と言うことができます。

もう一つの理由は、イエズス・キリストが贖い主として、天主の御血を流すことによって、私たち罪人である人間を贖ったからです。人間の救い主として私たちの最大最高の恩人であるからです。イエズス・キリストは私たちを救うために人間になってこの地上に来られました。Et non est in alio aliquo salus. Nec enim aliud nomen est sub caelo datum hominibus in quo oporteat nos salvos fieri. (Act 4:12) 
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」これは聖ペトロの言葉です。初代教皇聖ペトロはこうやってユダヤの人々に宣言しました。これこそ永遠の真理です。カトリック教会の全ての教える真理を一言でいうと、まさにこれです。「救いは、私たちの主イエズス・キリスト以外の者によっては得られません。全世界に私たちが救われる名はこれ以外、イエズス・キリスト以外与えられませんでした。」

カトリック教会はこの永遠の救いを霊魂に与えるために建てられました、創立されました。イエズス・キリストの福音が、イエズス・キリストの与える聖寵が、その愛が、その教えが、霊魂たちに与えられるために。イエズス・キリストは、真の天主、私たちの贖い主として、したがって私たちの上に主権を持つ主として、王として、私たちから信じられ、礼拝され、希望され、愛される権利を持っています。
イエズス・キリストは、霊魂たちを愛する王として、霊魂の幸せのために、霊魂を統治する権利を持っています、王としての権利を持っています。霊魂に永遠の幸福を与えるために、人間となった天主、このイエズス・キリストのことを、この歴史的事実を、だれも知らないでいることはできません。私たちが救われるためには、真の救い主の教えと、恵み、つまりその統治を受け入れる必要があります。

私たち個人のみならず、家庭も、社会も、イエズス・キリストを王として認めなければなりません。何故かというと、イエズス・キリストこそが、全宇宙を支配する法を定め、愛の掟そのものである立法者であるからです。それと同時にイエズス・キリストこそが私たちを愛し、私たちを生かしめ存在させている御方であって、また最後の審判者であるからです。イエズス・キリスト、この世のすべての統治者と指導者らや、そして全ての国々を最終的に裁く方です。審判する方です。

イエズス・キリストの立てた御国である教会の外には救いはありません、あり得ません。何故ならイエズス・キリストの外に救いはあり得ないからです。私たちの主イエズス・キリストにおいてのみ、永遠の救いの価値が生じるからです。イエズス・キリストを通らなければ、だれも天国に行くことはできないからです。何故かというと、天国というのはすなわち、イエズス・キリストの神秘体でしかないからです。何故かというと、イエズス・キリストこそが天国であるからです。何故ならイエズス・キリストが真の天主、全ての真の創造主であるからです。

イエズス・キリストの御国とは、今日の「王たるキリストの序誦」にあるとおり、すなわち「真理と生命との王国、聖性と聖寵との王国、正義と愛と平和との王国」これです。

【ミサ聖祭】
唯一の贖い主であり、また同時に救い主であるイエズス・キリストは、その御自分の王国を十字架の祭壇の上で完成させました。永遠の司祭として、同時に、汚れなき且つ平和をもたらすいけにえとして御自分自身を御父に捧げつつ、唯一天主御父の聖心に適う犠牲を制定しました、御自分を奉献しました。

私たちは、全カトリック教会と共に、イエズス・キリストを真の王として認めています。特に、聖伝のミサ聖祭において、イエズス・キリストが私たちの王であることを、知性と意志と体の態度で示しています。
聖伝のミサによって、イエズス・キリストに、私たちの王としてふさわしい礼拝と賛美と感謝を捧げたいと望んでいます。イエズス・キリストの現存に、真に在し給う、御聖体の内に真に在し給うイエズス・キリストの現存に、ふさわしい礼拝、賛美、感謝を捧げなければなりません。

何故かというと、王としてイエズス・キリストはそれを私たちから受ける権利があるからです。そして私たちはそのしもべとして、主に、王に、それを捧げる義務があるからです。
私たちのカトリックの信仰を心の底から完璧に表明する、愛を表明する、この聖伝のミサを捧げ続けることを私たちは望んでいます。御聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストに跪き、天主として、王として、崇敬し敬い続けなければなりません。

私たちはイエズス・キリストが愛をもって私たちを統治することを望みます。イエズス・キリストは私たちのすべてだからです。何故なら、イエズス・キリストこそが私たちを創り、生かして下さる、愛して下さる、愛しておられる真の天主であるからです。Regnavit a ligno Deus. 天主は十字架の木から統治するからです。

聖パウロが言う通り、天主御父は「キリストによって、キリストにおいて、すべてのものを和睦させ、御子キリストの十字架の御血によって、地にあるものも、天にあるものも、平和にさせようと望み給うた」からです。これは今の言葉は今日の書簡からの引用です。本当の和睦と本当の平和は、キリストの十字架の御血だけによる実りであり、結実であるからです。

私たちに伝えられた、この昔ながらの聖伝のミサは、私たちの主が持つその絶対的首位権を、祈りと態度で明白に表明しています。

しかし、新しいミサでは、残念ながら、人間が中心になっています。何故なら、十字架の犠牲の再現であるよりは、新しいミサの総則の定義によれば、「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」(7)であり、「主の晩餐を食する」(10) ことだからです。つまり新しいミサは、主の十字架のいけにえというよりは、主の晩餐の記念の集会、食事の集会になってしまっている、ということです。

ですから新しいミサでは、もはや人から天主に向う垂直的な礼拝というよりは、それに代わって人と人との間での水平的な礼拝をやり方を制定している、と言えるからです。

【カトリック司祭の務め】
王であるイエズス・キリストは、ご自分の十字架によって勝ち取った天国の救いを与えるために、私たちに与えるために、カトリック教会を創立しました。従って、イエズス・キリストの福音、イエズス・キリストの御国、イエズス・キリストによる霊魂の救いを説教するのは、カトリック司祭たちの務めです。

天国のみならず、この地上での幸せをさえも、イエズス・キリストがなければ得ることはできません。何故なら、イエズス・キリストこそ、この世界の創造主であり、愛の天主だからです。私たちの主の恩寵なしには何もできないからです。イエズス・キリストこそが全ての恵みの源だからです。

カトリック司祭は、救霊を望む人々全てに本当のことを伝えなければなりません。イエズス・キリストだけが救いの唯一の手段である、と。十字架につけられたイエズス・キリストを司祭たちは語らなければなりません。もしも聖伝のミサが、教会の聖伝の教えが迫害されているとしたら、まさにこの真理のためです。

カトリック司祭は、イエズス・キリストの立てた宗教が超自然の真の宗教だ、と教え続けなければなりません。過去の歴代の教皇様たちが不可謬的にそう教えてきたからです。誤ることのない、不可謬の教えをそのまま信じ、繰り返さなければなりません。カトリック教会が教えてきたことをそのまま変えずに教え、語り続けなければなりません。使徒継承の教えを私たちは捨てることはできません。

何故かというと、真理は、時代や場所によって変わることができないからです。変わることがあり得ないからです。カトリック教会の聖伝と私たちは断絶してしまってはいけません。教会の聖伝や歴代の教皇様の教えと断絶してしまうことこそ、これこそ離教的なスキスマ的なことであって、これこそ教会を破壊してしまうことです。私たちはそのような態度を取ることはできません。教会の過去に、聖伝に、教皇様や、公会議や歴代の教えに、不可謬の教えに、ピッタリと密着して、それを信じ、語り続け、そしてそれをやり続ける、それを望んでおります。

カトリック司祭は、聖伝を礎(いしずえ)として教会を建てていかなければなりません。真の天主イエズス・キリストの上に、十字架の上に、聖伝のミサ聖祭の祭壇の上に、教会を建てなければなりません。これが2000年間、教会がし続けてきたことでした。12人の使徒たちから始まって、全世界に広まって、やってきたことがまさにこれです。数ではありませんでした。真理でした。天主の御恵みでした。ミサのいけにえでした。

王たるキリストの祝日の聖務日課では次のような賛歌を歌います。

(讃課)
キリストは誉れ高き御旗を
凱旋して大きく広げ給う、
民々よ、跪いて来たれ、
王の王に喝采せよ。

彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、
暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。
[十字架の]木に高く挙げられて、
全てを愛によって引き寄せた。

三重(みえ)に幸いなる国よ、
そこにキリストが合法的に命令し、
天からこの世へ命じられた
法の順守を実行する社会!

不敬な戦争は火を噴かず、
平和は条約を固め、
心の一致も微笑み、
市民秩序は安全に立ち留まる。

忠誠は、婚姻を守り、
若者は、貞潔を尊び、
家庭生活の諸徳により、
慎み深い家族は花咲く。

望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、
いとも甘美なる王よ、
燦然たる平和を楽しむことにより、
[御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。

イエズスよ、御身に栄光あれ、
御身は世の王笏を統括し給う、
聖父と聖霊と共に、
代々に至るまで、アメン。

(晩課)

千代の八千代の君主なる御身を
キリストよ、諸国の王なる御身を
御身を精神と心の唯一の
判定者と私たちは告白する。

邪悪な群れは叫ぶ
「俺たちはキリストの支配を望まない」と
私たちは御身を全て人々の最高の王と
拍手喝采して宣言する。

おお、キリストよ、平和を与える君よ、
逆らう人々の心を平定し、
御身の愛によって道を外れた人々を
一つの群れと集め給え。

それのために、流血の木に
御身は掛けられ両の腕(かいな)を開き
剣にて開かれた
火に燃える聖心を見せ給う。

それのために、御身は祭壇に隠れ給う、
ブドウ酒と食事の姿で。
子供たちに救いを注ぎながら
胸を突き刺されて。

諸国民の指導者(政府)たちは
公けの名誉を捧げつつ、
学者たちも、裁判官らも、御身を崇敬し
法律も芸術も、それを表明せんことを。

奉献された王たちの御旗らが
そこで輝き出んことを。
柔和な支配に祖国を
全ての家庭を奉献せよ。

イエズスよ、御身に栄光あれ、
御身はこの世の支配を司り給う、
御父と、聖霊とともに、栄光が
代々、とこしえに。アメン

この聖務日課でも出てきましたように、邪悪な群れは「俺たちはキリストの支配を望まない!」と叫ぶかもしれません。特に現代世界ではその叫びがますます高くなっているかもしれません。しかし私たちは、天主の御憐れみと御助けにより、カトリック教会と歴代の教皇様たちと共に、イエズス・キリストを全ての人々の最高の王と拍手喝采して宣言しましょう。御国の来たらんことを!御国が天にあるごとく地にも来たらんことを!と心から祈りましょう。

【遷善の決心】
愛する兄弟姉妹の皆さま、最後にマリア様にお祈り致しましょう、ロザリオの聖母に祈りましょう。私たちを愛し、私たちを本当に幸福にすることを欲しておられる王であるイエズス・キリストに、私たちが心から従いますように。イエズス・キリストの愛の掟に従いますように。王なるイエズス・キリストの福音を生きることができますように。王たるキリストの御旗のもとに、善のために罪に対してたたかうことができますように。そして、ついには永遠の王であるキリストと天国で、キリストとともに、とこしえに喜びを得ることができますように。

イエズスは、「あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」とお答えになった。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】