アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月5日 聖霊降臨後第3主日に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年6月5日、聖霊降臨後第3主日のミサをしております。
2つ特別のお知らせがあります。
8月10日の夕方から15日まで、聖母の、聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母の黙想会が大阪で企画されています。これはファチマの100周年を祝う為に、またシュテーリン神父様が聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会の専門家でもあるので、特別にお願いしてあります。是非今回、この機会に多くの方が黙想会に参加される事を願っております。是非この黙想会に参加する事ができるように、計画を立てて下さればと思っています。
9月は9月10日の主日に、ティシェ・ド・マルレ司教様が東京にいらして下さって、堅振式、それから講話をなさって下さいます。どうぞその時はたくさん皆さんいらして下さい。堅振を、聖伝のやり方によって堅振の秘蹟を受けたいという方は、どうぞ私にご連絡下さい。その堅振の受ける準備をする事に致します。
「もしも1人の罪人が痛悔するならば、痛悔の必要のない99人の義人たちよりも、大きな喜びが天国ではあるだろう。」
聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、福音の中でとても有名な、「失われた、迷子になった羊の例え話」をして下さいました。この何でそのような話をしたかというと、「イエズス様が罪人たちと一緒に食事をしている、おしゃべりをしている、楽しそうに会話をしている」という事を見て、ファリサイ人たちがそれを怒って、「何だ。彼は預言者でも義人でも何でもない。罪人と一緒に同じ事をしている。何が面白いのか。何がお食事会だ。」と言って冷たい目で非難しているのを、イエズス様は、「自分が何故こうしているか」という事を説明する為に、この例えを出しました。
そこで皆さんには今回、この今日の黙想では、イエズス様のこの燃えるような聖心の愛の火、罪人を愛する、罪人の回心を求めて、探し求めるその心を是非、同じこのイエズス様の心を私たちは知り尽くし得ません。私たちはそのイエズス様の本当の心を知ったつもりになっていますが、それでも計り知れないその望みがあります。でもその望みを少しでも味わう事ができるように、どうぞ今回は想像力と色んな考えを巡らせて、「もしも私だったらどうするだろうか。私だったらどうだろうか。どんな思いだろうか。」あれやこれや、例えを自分で見つけてどうぞ考えて下さい。イエズス様の心の気持ち、このどれほどのお気持ちがあるのか、或いはその、その心を感じる事ができるように努めてみて下さい。「イエズス様の心はこんな感じではなかったのかな。こんな事を思っただろうな。」という是非その考えを、後で私にメールで教えて下さい。
その後に、この黙想の後に、「私たちはでは一体、このようなイエズス様に何をしなければならないのか。私たちはどうするべきなのか。」という遷善の決心を立てる事に致しましょう。
このちょうど今日の主日の為に、全日本は私たちの心の準備をしていたかのようです。
イエズス様は今日の主日で、まず100匹の内の1匹がいなくなった。その為に99匹をほっぽり置いても、荒れ野に置いても、その1匹を探して、一生懸命探した。「おぉーい!シロやー!おぉーい!白の子羊やー!どこにいるのかー!」声が枯れるまで探し求めた、この良き牧者の姿が目に映るようです。きっともう喉も枯れ枯れで、「メエ~。」という声を聞くと、「あっ!あそこにいるのか!?声が聞こえる!」と言ったかもしれません。
次に出たのは、同じような例えをします。今度は10枚の内に1つがなくなった、10枚の銀貨の内の1つを失くした婦人の話です。今度は100匹のうちの1匹よりも、もっと割合が少なくなっています。「一体どこにあるのか。あぁ、あの銀貨は一生懸命働いて貯めたお金なのに、あれがないとどうしようか。」と言って、もうあっちを開け、こっちを開け、もう「冷蔵庫の中にもないか、」と、色んな所を探して、「あそこでもない、ここでもない、」電気をつけて、もう家中ひっきり回しても探し出す。という話です。でも見つかったら、「あぁ!」喜ぶ、もう家中をあげて喜ぶ。という話です。
ちょうど今日、昨日やはり似た話がありました。小学校2年の男の子が、7歳の男の子が6日間、北海道で行方不明になって、日本中で、「一体この子はどうなったのか。熊に食べられたんじゃないのか。」一生懸命探して、200名の警察がもう総動員して、「どこにいるのか?どこにいるのか?おぉーい!大和くーん!おーい!いるかー!?元気かー!?おーい!返事をしろー!おーい!」と言って、もう色々な所を探し回りました。お父さんはもう、「あぁ、自分は何て事をしたんだ。あの子は生きているか、どうなったか。食べ物はあるのか。寒くて凍えてはいないか。あぁ。」と、もうオロオロオロオロして、「あぁ、俺があんな事をしなければよかった。」色々心配なさったのではないでしょうか。色んな事が頭の中に駆け巡って、「あぁ、あの子は今どうしているだろうか。あぁ、今日も1日このまま見つからずに過ぎてしまった。あぁ、これもダメだ。」日本中でも、もう北は北海道から沖縄まで、「あぁ、あの男の子は一体どうなったのか。」新聞やインターネットやテレビでも報道されて、「あぁ、一体どこにいるのか。どこにいるのか。」
しかしこの子供が、自衛隊の、陸上自衛隊の訓練施設で、風と寒さを凌いで、水を飲んで、それが見つかって、写真でもこうこのVマークで出て来て、ニッコリ笑って出て来て、「あぁ!」お父さんもお母さんも家族も、「あぁ!よかった!」と言って、「あぁ、よく見つかって良かった!良かった!」と言っているではないでしょうか。
しかしこの遭難の話も、「イエズス様がどれほど私たちを探し求めているか」というのに比べたら、太陽に映るこの影法師のように、全くうっすらとしたものでしかありません。イエズス様は私たちを探して、探して、探して、探して、探して、探して尽くしても、何とかして呼び求めて、声も枯れるほど、「おぉーい!どこにいるのかー!おぉーい!おぉーい!」と言って探している、その熱情と比べれば、何でもありません。
「え!?何を言ってるんですか。何を証拠に。」
イエズス様は、私たちに永遠の命を与える為に、全宇宙を創りました。美しい大自然を創り、きれいな山と、太陽と、花々と、動植物を創りました。
私たちはそのイエズス様から受けた、天主から受けたその恵みをほっぽり出して、「天主はいらない。」と言って、「俺はもうどっかに行く。」と言って、掟を破り、罪を犯して、もう永遠の地獄の火に落ちなければならない身となった者でした。
しかしそれにもかかわらず天主御子は、預言者をまず送って、遂には時の終わりには、御子が、天主御子が人となって、私たちと同じ生活をして、「さぁ、天国に行こう。」と呼びかけて下さっています。
そればかりではありません。私たちが犯したので私たちが払わなければならない罪の償いを、「さぁ、私が全部身に背負って払うから、もう心配しないで。さぁ私の元に来なさい。私はあなたに賠償金とか保証をするとか何か、そんな事は要求しない。ただ私の所においで。私が全て負債を払ってあげよう。」天主の御血を全て払い、全て流し尽くし、十字架の上で御命を全て、私たちの為に捧げて下さいました。これほどの恩人、これほどの友人は他にはいません。
それだけではありません。私たちと共に一緒にいたい、私たちと離れたくない、日夜一緒に居る、という事で、「1つの体になりたい。」と、御聖体さえも私たちの為に、私たちによって食べられる、食されるパンとさえなった。天主が奴隷の食べ物となり、私たちと共に日夜、世の終わりまで留まりたい、と私たちを求めています。
イエズス様は十字架の上で、「私は渇く。」と言いました。「霊魂を渇き求めている。」もしも必要であれば、イエズス様は私たちが天国の栄光、天国の命を得る為に、何千回でも何万回でも、同じ十字架の苦しみを受ける覚悟です。
天からわざわざここに探しに来ました。天使たちを天国に置いて、人となって、私たちの霊魂を探して来ました。「なんとかちゃん。どこにいるのか。天国に行こう。」
書簡書によると、「天主は私たちを、永遠の命に呼び求めた。“vocavit nos in aeternam”」とあります。この“vocavit”というのは「呼んだ、呼び求めた、探して呼んだ」ということです。イエズス様が私たちを探して、探して、「さぁ天国に、永遠の命に行く為に、さぁ私たちの元に来なさい。」と、もう声を枯れて、それでも呼びかけている、その姿が映るではないでしょうか。
イエズス様は私たちを探して一体何の、何の得があったのでしょうか?
ただ私たちを愛するがあまり、愛に、愛に傷ついて、愛するがあまり、全てを忘れてしまったかのように、狂ってしまったかのように、私たちを求めていたのです。私たちが永遠の命に導かれる為に。私たちが死なない為に。私たちが寒さで凍えてしまわないように。私たちが飢え渇きで死んでしまわないように。私たちが冷たいこの世の風で倒れてしまわないように。あたたかい天主の愛を感じる事ができるように。永遠の住処に導かれるように。御父の元で一緒に、平和に、仲良く楽しく生活する事できるように。私たちの元に探して来たのです。
私たちは一体その時に何をすれば良いのでしょうか?
ただこの、「そこに誰かいるの?」「うん。」「名前は何ていうの?」「大和。」「お腹が空いてるの?何か食べる?」「うん。」と。私たちがしなければならない事は、その探し求めてるイエズス様の元に、「あぁイエズス様、私ここにいます。見つけて下さってありがとう。イエズス様、私の父として、友として親友として、兄弟として探して下さって、私が命が助かるように探して下さってありがとう。」それでよかったのです。
日本は色んな警察とか何百人も導入しましたが、イエズス様は被造物を導入して私たちに呼びかけています。ある時は読書を通して、ある時は司祭の説教を通して、ある時はもうふと読んだ、ふと聞いたちょっとした話によって、イエズス様は、「あぁ、天主様から呼ばれている。」「天主様が真に在し給う。」「天主様は私を愛して下さっている。」と感じるように、呼びかけておられます。
聖パウロはこの事をよく知っていました。そこで、「イエズス様は、キリストは私を愛して、私の為に自分の命を全て捧げられた。」と言っています。
私のやる事は、私が今までやっていた、その飲んでいた自衛隊の水道の蛇口を飲むのをやめて、或いは凍えていたマットの中ではなくて、温かい車の中に入って、温かいお父さんの腕に抱かれて、それで自分の家に帰ればよいのです。それ以外の事は何もイエズス様は要求しません。
悲劇はどこにあるかというと、残念ながら、「イエズス様がこうして私たちを探して、私たちを求めているのにもかかわらず、それに答える人は僅かだ」という事です。イエズス様は私たちの霊魂を求めて、天から降りて来られたにもかかわらず、御聖体として私たちの元に留まっているにもかかわらず、私たちはそれを受けようとしません。イエズス様が探して来ても耳を閉ざしています。
イエズス様が、「さぁ、そんな汚いものを食べるのはやめて、さぁもっと綺麗な、健康な食べ物を食べなさい。」「さぁ、こっちの方が美味しいよ。こっちのほうが安全だ。そんな危ない所はいけない。危ないよ。」と言っても、「嫌だ。俺は俺のやり方をやる。俺の好きな事をやる。帰れ。行かない。戻らない。」「あぁ、でも日本中で皆探してるよ。」「嫌だ。出て行け。」と言って、イエズス様に心を閉ざしているのです。
イエズス様はそれでも私たちを諦めません。「何とか憐れみの、憐れみを注ごう、注ごう、」「何とか永遠の命の方に導こう、導こう、」としています。私たちはどれほど多く耳をこう閉ざして、その声を「聞かないように、聞かないように、」イエズス様の元に「行かないように、行かないように、」してきて拒み続けてきた事でしょうか。
それにもかかわらず、イエズス様は私たちを求めて、探しておられます。
私たちは何を恐れているのでしょうか?罪の生活を放棄するのを恐れているのでしょうか?イエズス様はそれよりももっと楽しい生活を、素晴らしい生活を準備して下さっています。もしも、「被造物が与える満足を、或いはコンピューターが与える罪の満足を、イエズス様が与えないから。」いや、イエズス様はそれよりももっと美しい喜びと、楽しみを、私たちに下さいます。
イエズス様が下さる愛の喜びは、私たちは体験した者でなければ言う事ができません。
聖女マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は言いました。現われて、「見よ、この愛に燃えるこの聖心を見よ。しかし、この愛は誰からも感謝されていない。私が受けるのは、忘却と、軽蔑と、冒瀆だけだ。こんなにも愛しているにもかかわらず、誰も私の事を、私の呼びかけに答えてくれない。それが非常に大きな悲しみだ。」と仰っています。「でももしも、誰かが私の元に帰ってくるならば、この事に答えるならば、その声を本当に嬉しく思う。」と。
「天国で、たった1人の罪人が変わるならば、その罪の痛悔の必要のない99人よりも優って大きな喜びがある。」とはまさにこの事です。
では私たちは今回は、何をどんな遷善の決心をしなければならないでしょうか?
イエズス様の愛をどうぞ信頼なさって下さい。「イエズス様が私たちを愛して下さって、私たちの喜び、本当の幸せだけを求めている」という事をどうぞ信じて下さい。イエズス様に全てを委ねて、それにイエズス様のなさるように、お計らいのままに、これを信頼なさって下さい。私たちの過去がとても醜い、罪深いものであっても、もうぐちゃぐちゃであったとしても、イエズス様にとってそれは問題ではありません。イエズス様にとっては、それをアッという間にきれいする事ができます。イエズス様は、ただ私たちがイエズス様の元に行く事だけを求めています。「ここにいます、イエズス様。」と。イエズス様に信頼なさって下さい。
第2に、イエズス様に答えない多くの方々の為に、どうぞお祈りなさって下さい。この方々が、イエズス様の聖心の愛に触れる事ができますように。
最後に第3に、この大和くんが避難所で6日の間いたので、本当に幸運が重なって見つかったそうです。願わくは多くの方々が、イエズス様の聖心に見つかるまで、聖心の呼びかけに答えるまで、マリア様という罪人の避難所にその身を寄せる事ができますように。マリア様の元であれば、悪はどんな害を犯す事もできません。願わくは、大和くん、つまり日本が、日本の全ての方々が、マリア様の御心に匿(かくま)われて、イエズス様の声に、導きに答えて、日本の全ての霊魂が、イエズス様の探している父の声に気付いて、イエズス様の元に帰って来ますように、お祈り致しましょう。
「1人の罪人が痛悔するならば、痛悔の必要のない99人よりも、大きな喜びが天国であるだろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月5日 聖霊降臨後第3主日に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月5日(主日) 聖霊降臨後第3主日
小野田神父説教
小野田神父説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年6月5日、聖霊降臨後第3主日のミサをしております。
2つ特別のお知らせがあります。
8月10日の夕方から15日まで、聖母の、聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母の黙想会が大阪で企画されています。これはファチマの100周年を祝う為に、またシュテーリン神父様が聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会の専門家でもあるので、特別にお願いしてあります。是非今回、この機会に多くの方が黙想会に参加される事を願っております。是非この黙想会に参加する事ができるように、計画を立てて下さればと思っています。
9月は9月10日の主日に、ティシェ・ド・マルレ司教様が東京にいらして下さって、堅振式、それから講話をなさって下さいます。どうぞその時はたくさん皆さんいらして下さい。堅振を、聖伝のやり方によって堅振の秘蹟を受けたいという方は、どうぞ私にご連絡下さい。その堅振の受ける準備をする事に致します。
聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、福音の中でとても有名な、「失われた、迷子になった羊の例え話」をして下さいました。この何でそのような話をしたかというと、「イエズス様が罪人たちと一緒に食事をしている、おしゃべりをしている、楽しそうに会話をしている」という事を見て、ファリサイ人たちがそれを怒って、「何だ。彼は預言者でも義人でも何でもない。罪人と一緒に同じ事をしている。何が面白いのか。何がお食事会だ。」と言って冷たい目で非難しているのを、イエズス様は、「自分が何故こうしているか」という事を説明する為に、この例えを出しました。
そこで皆さんには今回、この今日の黙想では、イエズス様のこの燃えるような聖心の愛の火、罪人を愛する、罪人の回心を求めて、探し求めるその心を是非、同じこのイエズス様の心を私たちは知り尽くし得ません。私たちはそのイエズス様の本当の心を知ったつもりになっていますが、それでも計り知れないその望みがあります。でもその望みを少しでも味わう事ができるように、どうぞ今回は想像力と色んな考えを巡らせて、「もしも私だったらどうするだろうか。私だったらどうだろうか。どんな思いだろうか。」あれやこれや、例えを自分で見つけてどうぞ考えて下さい。イエズス様の心の気持ち、このどれほどのお気持ちがあるのか、或いはその、その心を感じる事ができるように努めてみて下さい。「イエズス様の心はこんな感じではなかったのかな。こんな事を思っただろうな。」という是非その考えを、後で私にメールで教えて下さい。
その後に、この黙想の後に、「私たちはでは一体、このようなイエズス様に何をしなければならないのか。私たちはどうするべきなのか。」という遷善の決心を立てる事に致しましょう。
このちょうど今日の主日の為に、全日本は私たちの心の準備をしていたかのようです。
イエズス様は今日の主日で、まず100匹の内の1匹がいなくなった。その為に99匹をほっぽり置いても、荒れ野に置いても、その1匹を探して、一生懸命探した。「おぉーい!シロやー!おぉーい!白の子羊やー!どこにいるのかー!」声が枯れるまで探し求めた、この良き牧者の姿が目に映るようです。きっともう喉も枯れ枯れで、「メエ~。」という声を聞くと、「あっ!あそこにいるのか!?声が聞こえる!」と言ったかもしれません。
次に出たのは、同じような例えをします。今度は10枚の内に1つがなくなった、10枚の銀貨の内の1つを失くした婦人の話です。今度は100匹のうちの1匹よりも、もっと割合が少なくなっています。「一体どこにあるのか。あぁ、あの銀貨は一生懸命働いて貯めたお金なのに、あれがないとどうしようか。」と言って、もうあっちを開け、こっちを開け、もう「冷蔵庫の中にもないか、」と、色んな所を探して、「あそこでもない、ここでもない、」電気をつけて、もう家中ひっきり回しても探し出す。という話です。でも見つかったら、「あぁ!」喜ぶ、もう家中をあげて喜ぶ。という話です。
ちょうど今日、昨日やはり似た話がありました。小学校2年の男の子が、7歳の男の子が6日間、北海道で行方不明になって、日本中で、「一体この子はどうなったのか。熊に食べられたんじゃないのか。」一生懸命探して、200名の警察がもう総動員して、「どこにいるのか?どこにいるのか?おぉーい!大和くーん!おーい!いるかー!?元気かー!?おーい!返事をしろー!おーい!」と言って、もう色々な所を探し回りました。お父さんはもう、「あぁ、自分は何て事をしたんだ。あの子は生きているか、どうなったか。食べ物はあるのか。寒くて凍えてはいないか。あぁ。」と、もうオロオロオロオロして、「あぁ、俺があんな事をしなければよかった。」色々心配なさったのではないでしょうか。色んな事が頭の中に駆け巡って、「あぁ、あの子は今どうしているだろうか。あぁ、今日も1日このまま見つからずに過ぎてしまった。あぁ、これもダメだ。」日本中でも、もう北は北海道から沖縄まで、「あぁ、あの男の子は一体どうなったのか。」新聞やインターネットやテレビでも報道されて、「あぁ、一体どこにいるのか。どこにいるのか。」
しかしこの子供が、自衛隊の、陸上自衛隊の訓練施設で、風と寒さを凌いで、水を飲んで、それが見つかって、写真でもこうこのVマークで出て来て、ニッコリ笑って出て来て、「あぁ!」お父さんもお母さんも家族も、「あぁ!よかった!」と言って、「あぁ、よく見つかって良かった!良かった!」と言っているではないでしょうか。
しかしこの遭難の話も、「イエズス様がどれほど私たちを探し求めているか」というのに比べたら、太陽に映るこの影法師のように、全くうっすらとしたものでしかありません。イエズス様は私たちを探して、探して、探して、探して、探して、探して尽くしても、何とかして呼び求めて、声も枯れるほど、「おぉーい!どこにいるのかー!おぉーい!おぉーい!」と言って探している、その熱情と比べれば、何でもありません。
「え!?何を言ってるんですか。何を証拠に。」
イエズス様は、私たちに永遠の命を与える為に、全宇宙を創りました。美しい大自然を創り、きれいな山と、太陽と、花々と、動植物を創りました。
私たちはそのイエズス様から受けた、天主から受けたその恵みをほっぽり出して、「天主はいらない。」と言って、「俺はもうどっかに行く。」と言って、掟を破り、罪を犯して、もう永遠の地獄の火に落ちなければならない身となった者でした。
しかしそれにもかかわらず天主御子は、預言者をまず送って、遂には時の終わりには、御子が、天主御子が人となって、私たちと同じ生活をして、「さぁ、天国に行こう。」と呼びかけて下さっています。
そればかりではありません。私たちが犯したので私たちが払わなければならない罪の償いを、「さぁ、私が全部身に背負って払うから、もう心配しないで。さぁ私の元に来なさい。私はあなたに賠償金とか保証をするとか何か、そんな事は要求しない。ただ私の所においで。私が全て負債を払ってあげよう。」天主の御血を全て払い、全て流し尽くし、十字架の上で御命を全て、私たちの為に捧げて下さいました。これほどの恩人、これほどの友人は他にはいません。
それだけではありません。私たちと共に一緒にいたい、私たちと離れたくない、日夜一緒に居る、という事で、「1つの体になりたい。」と、御聖体さえも私たちの為に、私たちによって食べられる、食されるパンとさえなった。天主が奴隷の食べ物となり、私たちと共に日夜、世の終わりまで留まりたい、と私たちを求めています。
イエズス様は十字架の上で、「私は渇く。」と言いました。「霊魂を渇き求めている。」もしも必要であれば、イエズス様は私たちが天国の栄光、天国の命を得る為に、何千回でも何万回でも、同じ十字架の苦しみを受ける覚悟です。
天からわざわざここに探しに来ました。天使たちを天国に置いて、人となって、私たちの霊魂を探して来ました。「なんとかちゃん。どこにいるのか。天国に行こう。」
書簡書によると、「天主は私たちを、永遠の命に呼び求めた。“vocavit nos in aeternam”」とあります。この“vocavit”というのは「呼んだ、呼び求めた、探して呼んだ」ということです。イエズス様が私たちを探して、探して、「さぁ天国に、永遠の命に行く為に、さぁ私たちの元に来なさい。」と、もう声を枯れて、それでも呼びかけている、その姿が映るではないでしょうか。
イエズス様は私たちを探して一体何の、何の得があったのでしょうか?
ただ私たちを愛するがあまり、愛に、愛に傷ついて、愛するがあまり、全てを忘れてしまったかのように、狂ってしまったかのように、私たちを求めていたのです。私たちが永遠の命に導かれる為に。私たちが死なない為に。私たちが寒さで凍えてしまわないように。私たちが飢え渇きで死んでしまわないように。私たちが冷たいこの世の風で倒れてしまわないように。あたたかい天主の愛を感じる事ができるように。永遠の住処に導かれるように。御父の元で一緒に、平和に、仲良く楽しく生活する事できるように。私たちの元に探して来たのです。
私たちは一体その時に何をすれば良いのでしょうか?
ただこの、「そこに誰かいるの?」「うん。」「名前は何ていうの?」「大和。」「お腹が空いてるの?何か食べる?」「うん。」と。私たちがしなければならない事は、その探し求めてるイエズス様の元に、「あぁイエズス様、私ここにいます。見つけて下さってありがとう。イエズス様、私の父として、友として親友として、兄弟として探して下さって、私が命が助かるように探して下さってありがとう。」それでよかったのです。
日本は色んな警察とか何百人も導入しましたが、イエズス様は被造物を導入して私たちに呼びかけています。ある時は読書を通して、ある時は司祭の説教を通して、ある時はもうふと読んだ、ふと聞いたちょっとした話によって、イエズス様は、「あぁ、天主様から呼ばれている。」「天主様が真に在し給う。」「天主様は私を愛して下さっている。」と感じるように、呼びかけておられます。
聖パウロはこの事をよく知っていました。そこで、「イエズス様は、キリストは私を愛して、私の為に自分の命を全て捧げられた。」と言っています。
私のやる事は、私が今までやっていた、その飲んでいた自衛隊の水道の蛇口を飲むのをやめて、或いは凍えていたマットの中ではなくて、温かい車の中に入って、温かいお父さんの腕に抱かれて、それで自分の家に帰ればよいのです。それ以外の事は何もイエズス様は要求しません。
悲劇はどこにあるかというと、残念ながら、「イエズス様がこうして私たちを探して、私たちを求めているのにもかかわらず、それに答える人は僅かだ」という事です。イエズス様は私たちの霊魂を求めて、天から降りて来られたにもかかわらず、御聖体として私たちの元に留まっているにもかかわらず、私たちはそれを受けようとしません。イエズス様が探して来ても耳を閉ざしています。
イエズス様が、「さぁ、そんな汚いものを食べるのはやめて、さぁもっと綺麗な、健康な食べ物を食べなさい。」「さぁ、こっちの方が美味しいよ。こっちのほうが安全だ。そんな危ない所はいけない。危ないよ。」と言っても、「嫌だ。俺は俺のやり方をやる。俺の好きな事をやる。帰れ。行かない。戻らない。」「あぁ、でも日本中で皆探してるよ。」「嫌だ。出て行け。」と言って、イエズス様に心を閉ざしているのです。
イエズス様はそれでも私たちを諦めません。「何とか憐れみの、憐れみを注ごう、注ごう、」「何とか永遠の命の方に導こう、導こう、」としています。私たちはどれほど多く耳をこう閉ざして、その声を「聞かないように、聞かないように、」イエズス様の元に「行かないように、行かないように、」してきて拒み続けてきた事でしょうか。
それにもかかわらず、イエズス様は私たちを求めて、探しておられます。
私たちは何を恐れているのでしょうか?罪の生活を放棄するのを恐れているのでしょうか?イエズス様はそれよりももっと楽しい生活を、素晴らしい生活を準備して下さっています。もしも、「被造物が与える満足を、或いはコンピューターが与える罪の満足を、イエズス様が与えないから。」いや、イエズス様はそれよりももっと美しい喜びと、楽しみを、私たちに下さいます。
イエズス様が下さる愛の喜びは、私たちは体験した者でなければ言う事ができません。
聖女マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は言いました。現われて、「見よ、この愛に燃えるこの聖心を見よ。しかし、この愛は誰からも感謝されていない。私が受けるのは、忘却と、軽蔑と、冒瀆だけだ。こんなにも愛しているにもかかわらず、誰も私の事を、私の呼びかけに答えてくれない。それが非常に大きな悲しみだ。」と仰っています。「でももしも、誰かが私の元に帰ってくるならば、この事に答えるならば、その声を本当に嬉しく思う。」と。
「天国で、たった1人の罪人が変わるならば、その罪の痛悔の必要のない99人よりも優って大きな喜びがある。」とはまさにこの事です。
では私たちは今回は、何をどんな遷善の決心をしなければならないでしょうか?
イエズス様の愛をどうぞ信頼なさって下さい。「イエズス様が私たちを愛して下さって、私たちの喜び、本当の幸せだけを求めている」という事をどうぞ信じて下さい。イエズス様に全てを委ねて、それにイエズス様のなさるように、お計らいのままに、これを信頼なさって下さい。私たちの過去がとても醜い、罪深いものであっても、もうぐちゃぐちゃであったとしても、イエズス様にとってそれは問題ではありません。イエズス様にとっては、それをアッという間にきれいする事ができます。イエズス様は、ただ私たちがイエズス様の元に行く事だけを求めています。「ここにいます、イエズス様。」と。イエズス様に信頼なさって下さい。
第2に、イエズス様に答えない多くの方々の為に、どうぞお祈りなさって下さい。この方々が、イエズス様の聖心の愛に触れる事ができますように。
最後に第3に、この大和くんが避難所で6日の間いたので、本当に幸運が重なって見つかったそうです。願わくは多くの方々が、イエズス様の聖心に見つかるまで、聖心の呼びかけに答えるまで、マリア様という罪人の避難所にその身を寄せる事ができますように。マリア様の元であれば、悪はどんな害を犯す事もできません。願わくは、大和くん、つまり日本が、日本の全ての方々が、マリア様の御心に匿(かくま)われて、イエズス様の声に、導きに答えて、日本の全ての霊魂が、イエズス様の探している父の声に気付いて、イエズス様の元に帰って来ますように、お祈り致しましょう。
「1人の罪人が痛悔するならば、痛悔の必要のない99人よりも、大きな喜びが天国であるだろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。