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シャザル神父様霊的講話・二〇一二年五月五日・秋田にて

2012年05月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の秋田巡礼でシャザル神父様がなさった霊的講話を書き起こして下さった方がおられます。ふかく感謝しつつ、ここに愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


シャザル神父様霊的講話・二〇一二年五月五日・秋田にて/通訳・小野田神父



 私たちは、秋田の聖母のところにいろんなお恵みを求めて巡礼に参りました。そして特にこの日本、そしてアジアで、私たちが求めなければならないことはいろいろありますが、特に日本とアジアで(シャザル神父様と小野田神父の共通の考えでは)、家族を、カトリックの家族のためにもっと多くのお恵みが必要だ、ということです。なぜかというと、家族というものこそが、国家のあるいは民族の基礎となるものであるからです。家族は社会の、一番基本的な単位であるからです。

 ルフェーブル大司教様もこのことを大変よく、深く理解しておられました。一九七九年に、ご自分の叙階五十周年記念のときに、カトリックの家族を復興させる、もう一度、立て直すということで、十字軍を興しました。この、私たちの家族のための十字軍の戦いというのは、もう一か八かの、ほとんど、もしかしたら勝つ見込みの無い(ような)戦いを戦おうとしているのです。カトリックの家族を日本において、あるいはアジアにおいて立て直す。しかしこの戦いを、どうしても戦って勝利を収めなければなりません。なぜかというと、今日本は死につつあるからです。子どもがなくて死につつあるからです。

 マッカーサーは善いこともしましたが、一九四六年、終戦直後の日本に堕胎をする法律を押しつけました。その後、離婚や、あるいはポルノ、その他の多くの家族に反対する"アンチ・ファミリー"、反家族の多くの運動と攻撃が、私たちを襲っています。ですから、私たちはマリア様に、この波を逆流、回転させるお恵みを求める必要があります。

 サタンは、もちろん、超自然のことを攻撃しますが、しかし、超自然のお恵みを、効果的に私たちが受け取ることができないようにするために、自然の秩序を破壊しようとします。
 たとえば、もしも自然の能力がなければ、どうして私たちが超自然のお恵みも受け取ることができるでしょうか?

 サタンが今やろうとしていることは、考える、思考能力を、私たちから取ってしまおうということです。例えば、娯楽や、その他の電脳世界によって、考えることなく、読むことなく……。そしてこのことは何を意味するかというと、観想する、黙想するという能力を私たちから奪ってしまいます。そのように、サタンは自然の秩序を破壊しようとして、今、家族を攻撃しています。

 特にアジアで(シャザル神父様はフランスとか、アメリカとかでいろいろ見てきましたが)大きな問題、お恵みを受けるための障害となっているものは、それは家族が、大家族がないということです。これはインドでもフィリピンでも同じようです。

 インド人は、結婚するのは好きですけれども、子どもを持とうとは誰もしません。ですから、とてもケチで、子どもがいるということがどれほど幸せなことか、祝福されたことかということを、つい最近まで気がついていませんでした。インドにいる神父様たちは、そのことを一生懸命伝えようとして、その実りが、ようやくこのごろ、目に見えて、少しずつ流れが変わってきて、大きな、子どもたちのいる家族も徐々にできつつあります。しかし数年前まではそうではありませんでした。

 フィリピンでも同じです。確かに、フィリピンでは貧しい家庭では子どもたちがたくさんいます。ボホール島のダゴホイという村には、十五人の子どもを持った家族がいます。そのダゴホイのチャペルでは、信者の半分がその家族です。

 しかし貧しい人たちを除いては、中流階級の人たちは、あまり子どもを持とうとはしません。そして多くの場合には家族が崩壊しています。なぜかというと、多くの人たちが、よりよい収入を得ようとして外国で働こうとするからです。何百万という方が働いていますけれども、例えば、つい最近結婚されたばかりのカップルを知っています。マニラの人です。結婚式の終わった数日ののちに、結婚したばかりの奥さんはトルコに働きに行くことになって、彼女が帰ってくるのは一年後なのです。しかも彼女の年齢が四十歳で、おそらく子どもを持つことは、もう無理ではないかと思われます。

 そのような職業上の、社会的な状況によって、子どもを持つことが非常に難しくなっていますが、日本でも、今、私たちの教会に来てる方で、結婚したカップルは非常に少ない。そしてまた、教会に来ている子どもたちの数も非常に少ない。ですから、これはちょうど、インドとフィリピンでの問題を掛け合わせたようなことになっています。

 教会の中にたくさんの子どもたちがいないということで、皆さんが罪悪感を持つ必要は何もありません。なぜかというと、私たちが結婚するか、結婚しないか、子どもがたくさんいるか、いないかということは、まったく天主様のお恵みによるものでありますし、私たちは誰も、結婚することを義務づけられてはいないからです。

 ただ、カトリックの結婚、子どもの多いカトリックの結婚というものが、天主様からの特別のお恵みである、ということを、私たちはよく理解しなければなりません。なぜかというと、この世界のすべてが家庭を持つということに対して反対し、戦いを挑んでいるからです。また、結婚するかしないか、できるかできないかということも、私たちの努力だけにかかっていることではないからです。これは天主のお恵みであるからです。

 昔は、子どもたちのたくさんいる家庭がありました。ですが、それは別にカトリックの信仰に従って、子どもたちが天主様からのお恵みであって、頂きものであって、預かりものであって、ということをよく理解していたから子どもたちをたくさん得た、とは限りません。昔は、子どもたちが老後の糧となり、年金の糧となり、そして老後の生活の保証となってくれると考えられていたので、自分の利益のために、子どもたちがたくさんいました。しかし、現代となってはその老後も、国家が年金を納めてくれるし、社会保障してくれるので、特に子どももいらないんじゃないか、という、同じ自分の都合のためだけで考える人が多くなったのです。

 教育についても同じです。教育は本来、家庭が、あるいは教会がするものですが、今では国家がしなければならない、と思うようになってしまいました。そしてこの、社会全体の、世界全体の、私たちが吸っている空気が、家庭に反するように、子どもも結婚生活もいらない、というように動いているのです。
 その悪い空気の一つに、フェミニズムがあります。フェミニズムはどういうものかというと、女性と男性の区別をなくしてしまおうというものです。男と女の区別がなくなってしまうと、どうなるかというと、家族の中で誰が権威を持つべきかということについて曖昧になってしまいます。ですから、若い人たちがこれから結婚しようとするときに、誰が家庭の中で権威を持っているのか、男と女の違いがどこにあるのかということをよく知らないで結婚することになってしまいます。

 心理的には、自然に、女性は男性がリードしてくれて、重要な時に判断してくれることを望むのですが、フェミニズムのために、女性は男の権威を否定しなければならないと教えられ、男も女もおんなじだ、と教えられているので、男性も女性も、本当に、夫が自分一人で最終の決断をしてもいいのかどうか、わからなくなってしまっています。恐れをなして、何をしていいかわからなくなってしまうのです。すると、ますます女性も、そのような決断をできない男性に不満を抱きますし、男性もますますどうしていいかわからなくなってしまいます。女性が男性と同じような服を着ている──女性がズボンを履いたり、あるいは男と同じような仕事をしたり、などということで、外側もますます男と女の区別がつかなくなり、家庭においても夫と妻が、あるべき地位とあるべき使命、あるべき責務は何か、ますますわからなくなっているので、若い人たちは結婚したら一体何が起こるのか、どんな苦しいことが起こるのか、おののいてしまっています。

 現代の吸っている悪い空気の中の第二のものは、現代の生活サイクルです。男はもちろん外で働かなければなりませんが、しかし通勤時間が長かったり、あるいは勤務時間が長過ぎたりして、家庭に戻る時間がなかったり、あるいは男女雇用均等ということで、昔なら男性がたくさん給料をもらって、女性はほんの少ししかなかったのですが、このごろは、男性も女性も同じでなければならないと言われて、そして男性は一人で充分な給料を得ることができずに、そのために妻も外で働かなければならなくなり、そのために、家庭の生活がバラバラになってしまっている、子どもを置きっぱなしになってしまっている、一体誰が子どもの面倒をみるのか、という問題が生じています。
 第三の悪い要素としては、電子機器の津波のような洪水が私たちの家庭の中に入って来ていることです。お父さんはコンピューター、お母さんはDVDプレーヤー、子どもは任天堂のゲームといった、"大津波"に襲われて、家族が一つで話をしたり、顔と顔を見て一緒にごはんを食べたりすることなく、皆が個々に、バラバラになってしまって、家族生活とというものが成り立たなくなってしまっている、そのような社会全体の、世界全体の雰囲気が、家庭を崩壊させようと、今、私たちを襲っています。

 しかしもう一度申しますが、私たちはだからと言って、罪悪感とか、罪があると思う必要はありません。私たちはできるだけのことをして、私たちの家庭のために祈り、そしてある日、マリア様が大勝利を与えてくださるように祈らなければなりません。もしも私たちがこのまま、子どももなく、このままいってしまったら聖伝のコミュニティもだんだん老化していくだけですが、天主様のお恵みによって新しい方が増えて、日本ではいつも数が大きくなっていますから、天主様はどうやったら解決できるかよく知っていますから、もう一度日本のカトリックの私たちの元に、大家族を打ち立てることができるように、何かお恵みと知恵と祝福を与えてくださるに違いありません。ですから私たちはこの巡礼でそのことをマリア様に祈らなければなりません。

 カトリック的な解決策は非常に単純です。家族をもう一度甦らせるためには、どうするかというと「男は男であるべきだ、女は女であるべきだ」これだけです。男が男であるべきだ、男らしさを取り戻すということは、どういうことかというと、フェミニズムは女性の問題であると同時に男性の問題であるということです。現代の男はともすると、解放された、道徳観念のない女性を好んだり、あるいは自分が責任を取ることから逃れようとしたりするからです。例えば、また子どもが宿ってしまった、とそのようなお母さんに、男の方が「そのような子どもはいらない」とプレッシャーをかける。そのために本当はお母さんはそのようなことをしたくないのだけれど、しかたなく堕胎をしてしまう。そしてその現代の男が責任を取ることを拒否し、青臭い、子どものような態度を取り続ける、というところに問題があります。ですからこの現代の男性が、決断したり、あるいは他人のために自分が犠牲になるとか、他の者のために働くとか、寛大に自分を捨てて、他の人のために身を捧げる、ということをしようとせずに、いつも利己主義だったり、面白おかしいことだけを探したり、女の子と会うのも自分が面白おかしいからとの理由のみで、話をしたり交際したりする無責任な男がいるので問題となっています。

 ですから、カトリックの策として、男が男らしさを取り戻して、寛大で、他人のために自分を犠牲とすることのできるリーダーとならなければなりません。そのためには、男が天主様から与えられた責任を果たすべく、覚悟をしなければなりません。

 現在の問題として、女性が、自分が本当に信頼できて、頼りになる男性を捜そうとしても、無責任な男性しか見つけることができない、結婚することもできない、結婚する相手がいない、ということになってしまいます。

 カトリックの解決策の一番としては、「男性たちよ、男たれ、依存したまま、寄生するだけの生き方をやめなければならない」ということになるのです。

 そしてもう一つは、女性が女性たる、ということがあります。どういうことかというと、フェミニズムは女性が女性たることを嫌悪させているからです。女性の一番女性らしいということは、命の与え主、母親になるということであります。女性は家族の中の心臓の位置を占め、男性は頭(かしら)の位置を示すものであります。エワはアダムの肋骨から取られましたが、これは女性が家族の中の心臓である、生活の原理である、家族生活の原理である、ということを示しています。家族の中心であるということを示しています。

 これがカトリックの家族の教えです。このことをフェミニズムはよく理解できていません。ですから女性が洗濯をしたり、料理をしたり、皿洗いをしたり掃除をしたりすると、フェミニズムは、なぜそうなのか理解できません。

 しかしカトリックの教えによれば、お母さんは家庭の中心地にいるので、最も大切な所にいるので、お母さんは家庭の心臓なので、家庭を支配する支配者なので、最も大切な仕事をお母さんがしているのだ、と教えています。

 もちろん、夫は家庭の一般的な行き先を決定しなければなりません。「私たちはこうしよう」。しかしそれを実行するための、小さな、さまざまなことは、お母さんが決定します。ちょうど船長が船で、こちらのほうに行く、と決定した時に、副船長や、その下にいる人たちが船を動かすために必要な、その他すべてのことを決定して、こうしなさい、こうしなさい、と言っているように。お母さんも子どもたちに「さあ、朝早く起きなさい、勉強しなさい、これを食べなさい、お風呂に入りなさい」と言うのですが、お父さんは一般的な大まかな道筋を決めて、後は妻に小さな事の決断を任せているのです。

 そしてこうやって互いに助け合いながら家族が成立しているというのが、カトリックの教えです。女性の幸せというのは、まさに子どもたちに囲まれて、その世話をするということにあります。男性と女性の違いは、相互に補われています。男性は肉体的に女性を愛することを望みますが、女性はむしろ精神的に、一緒にいたい、とか、愛情を注ぎたい、というところで愛そうとします。そして良き夫があるならば、子どもがたくさんいるということで、肉体的に愛すべき対象がたくさんいるので、ますます満足しますし、お母さんも、ますます愛情を注ぐべき対象が多くなるので、ますます幸せになります。

 しかしフェミニズムの信奉者達はそのことがよく理解できません。ですから子どもは邪魔だ、と思ったり、自由気ままに生きることが、男の真似をすることがいいのだ、と思い込んでいるのです。その結果何が起こっているのかというと、鬱病、乳がん、健康の問題があります。避妊薬を飲んだり、その他精神的な、あるいは肉体上の肥満、癌などの多くの問題を抱えるようになってしまいました。こんなことは過去にはありませんでした。現代に特有の症状です。

 では、私たちは女性が女性らしく、男性が男性らしくあるためにどうしたらいいでしょうか。女性にはモデルがあります。模範があります。それは、私たちの聖母です。この方こそまさに女性の典型であって、フランス語では、ラ・ファム
"La femme" と呼ぶことができるかも知れません。「御身は女の内にて祝せられ」と言われるように、マリア様こそ女性の内で最も祝せられた女性であり、最も女性らしい女性であり、女性らしいということは何か? と問うとしたら、「マリア様だったらどうするだろうか?」ということを黙想すればそれで事足ります。慎み深く、謙遜で、愛徳深い女性になるために、「マリア様だったらこの服を着るだろうか?」「マリア様だったらこのような言い方をするだろうか?」「マリア様だったらこんな無責任な男と結婚するだろうか?」「このだらしのない、女ったらしと結婚するだろうか?」と、自問自答するはずです。

 男性にとってはもちろん、聖ヨゼフがモデルとなります。聖ヨゼフの男らしさ、沈黙、働き、責任感、マリア様への愛など……。そうすることによって、男はどこに地位を占めるべきか、女性はどの場所にいるべきか、自分に与えられた固有の場所にいることができるのであります。そのときに、家庭がまた生き返るのです。

 私はつい最近、チベットのドキュメンタリーを見ました。それはお塩を作る村なのですが、海から山のところまで水を運んだりします。竿を担いで、前に十リットルの重い水があって、前と後ろに牛乳が十本ずつ(下げて)、二十キロ(の距離)を一日百回往復するのだそうです。それに加え、朝ご飯を作って、片付けをして、掃除もして洗濯もして、子どもの面倒もみて、そうやって女性が働いていて(彼女は)非常に幸せなのです。「大変ではないのですか」とインタビューすると、「いいえ、私の夫は外でもっと大変なことをしています。狩りをして、家を建てて、これをやってあれをやって……だからこれはなんでもありません」と言うのです。

 ですから、私たちが果たすべき責任果たした時には、私たちは誰も不平もなく平和がやってくるはずです。

 もちろん女性の中にも特別に権威を与えられ、能力を与えられた女性もいます。例えば、アキテーヌのエレアノール(アリエノール・ダキテーヌ)という素晴らしい女性がフランスにはいました。あるいはオーストリアのマリア・テレジア、この人は女の皇帝ですが、十八世紀のカトリック帝国を指導した素晴らしいリーダーで、十六人の子どもたちがいました。スコットランドの女王メアリー、ジャンヌ・ダルク。トスカニーのマチルダ(マティルデ・ディ・カノッサ)は、非常に女性らしい女性でしたが、それと同時に与えられた使命を果たそうと、皇帝から教皇様を守ることさえしました。

 つい最近、私たちに与えられた傑出した女性というのを一人挙げるとしたら、私は、マーガレット・サッチャー元首相を挙げたいと思います。サッチャー元首相は八百屋さんの娘でした。そして典型的な家庭の主婦でした。お母さんたちが皆そうであるように、伊勢丹と西友と大丸で、牛乳の値段がここではいくらか、お砂糖があそこではいくらだ、お米が何キロではいくらか、ということをよく知っていて、お砂糖は伊勢丹では安いからそこで買って、牛乳は大丸がいいから大丸で買って、今度は西友で……と、(ちょうどシャザル神父様のお母さんがそうだったように)細かいことまでよく覚えていて、正確に記憶していて、すべてについてよく知っていて、財政を切り詰めて家庭をやりくりしている、サッチャー元首相がイギリスの経済の詳しいところまでよく知り尽くしていたので、バランスをとってやりくりして、イギリスの経済危機を乗り越えたのでした。サッチャー元首相がもし成功したとしたら、非常に女性らしい女性で、八百屋の娘だったからです。家庭の主婦だったからです。そしてサッチャー首相は与えられた女性らしさをフルに使って、最後のイギリスの女王として統治したのでした。そのように特別な能力のある女性が出て、権威を行使するとしても、問題はありません。ただ、女性は女性らしさを決して否定することなくそれをするべきです。

 サッチャー元首相があまりにも女性らしい女性だったので、リベラル派からはあまり好かれませんでした。20世紀のイギリスのジョークというのは、サッチャー元首相を笑うようなものが主でした。[注: a political man in England in 20th century is Margaret Thatcher.]

 ところで、マリア様は、司祭ではありませんが、大司祭であるイエズス・キリストを十字架の元へと導いたお方でした。確かに女性は司祭になることができません。もしも女性が祭壇に上ってしまうと、男性の司祭の悪い欲情を起こさせる問題がありますし、女性が神学を勉強するということの問題もあります。女性が告解での秘密を守ることができるのかどうか、という問題もあります。しかし女性が天主から与えられた召命は、まさにイエズス様を十字架の上まで導いたマリア様と同じことをするということにあります。生贄を捧げる教師となるということにあります。子どもが幼い時から自分を犠牲にすることができるか、皆のために苦しみを受けることができるかできないかということは、母親から学びます。母親がそうするのを見て、教えられて、犠牲となるということを覚えます。

 文明を築き上げることができるとしたら、その社会の成員が、皆の共通善のために苦しみを捧げることができる、犠牲となることができる、ということにあります。社会の成員の皆が、自分のことしか考えなくて、自分の楽しみしか考えていなかったとしたら、文明など成立しようもありません。日本のお母さんたちは昔から子どもに、皆のためになるように、世に奉公するようにということを教えて、それが日本の伝統となっていました。ですから日本には文明が、高度な文明が栄えました。

 母親の使命というのは、まさに子どもたちに生贄を捧げることができる、苦しみを皆のために捧げることができる、ということを教えることにあります。このことができないとなってしまったら、すべての社会は崩壊してしまいます。マリア様はこのことをイエズス様に教えて、イエズス様はマリア様のお陰で、導きによって、十字架の元に行きました。例えば、公生活を始める時、カナの婚宴のときに、水をワインに変えました。そのときにワインが御血に変わる、生贄になるということまでを暗示したのですけれど、イエズス様はおっしゃいました。「私の時はまだ来ていない。女よ、私の受難の時はまだ来ていない」。しかしマリア様の導きの元で、イエズス様は公生活の最初の奇跡を行いました。そしてマリア様ととともに、十字架で、ご自分を生贄として捧げました。

 私たちが今、聖ピオ十世会のアジア管区でカトリックの家庭を復興させたい、花咲き乱れるものとしたいとするなら、男が男らしく、女が女らしくあるべきです。カトリックのお母さんたちがたくさん生まれて、そのお母さんたちが将来の生贄を捧げるべき子どもたちを、生贄を捧げるべく司祭職へと導いてくださることができるようになるためです。

 では、この講話を結論づけるために、私たちは私たちの目をマリア様と聖ヨゼフのほうに向けることに致しましょう。マリア様と聖ヨゼフの間には、なんらの競争もいがみ合いもありませんでした。二人は互いに助け合って聖なる家族を作ってきました。私たちがマリア様と聖ヨゼフに目を注ぐ限り、私たちにとっては現代のフェミニズムはあり得ません。フェミニズムは失敗するに決まっているからです。ユニリバーのCEOのアン・ドレガジョンという女性がいますが、フェミニズムのアイデアで一杯でした。ユニリバーをフェミニズムの計画でやろうとして、男たちと戦ったのですけれど、アン・ドレガジョンは立ち去らなければなりませんでした。ヒューレット・パッカードのCEOとなったカーリー・フィオリーナさんも、フェミズムのアイデアで一杯で、会社の改革をしようとしましたが、結局大きな赤字を出して、その地位を他の人に譲らなければなりませんでした。

 もちろん、女性を卑しめ、女性の地位を低くするようなレディー・ガガやマドンナといった女性たちは問題外です。私たちはこのような女性への卑しめを断固として拒否しなければなりません。ヨーロッバでは、人々はカトリックの信仰を失いつつありますが、つい最近も、カトリックの考えからではないのですけれども、広告や看板などの中で、女性が見苦しい服装をしていたり、ポルノのような看板があるのを見て、あまりにも女性を卑しめている、このようなものがあればあるほど、女性に対する尊敬がますます失われていく、ということで、ヨーロッパでは政府によって訴えられ、このような女性の地位を卑しめるものは、単なる快楽の道具としてしか見ないようなものは拒否する、という運動が起こりつつあります。特にイタリアではそうです。私たちも戦う必要があります。フェミニズムの間違った考えと戦って、男が男であるべきだ、女は女らしくあるべきだ、ということを、私たちはまず自分で、そして子どもたちにも、若い世代にも教えなければなりません。本当の男にならなければなりませんし、本当の女にならなければなりません。女のような男でも、男のような女でもありません。そのためには何をすればよいかというと、ただ天主が私たちをどのようにお造りになって、私たちが何をするのをお望みなのか、ご計画を眺め、それを黙想すればよいのです。そして、私たちに与えられた特別の男としての使命、女としての使命を達成するようにしなければなりません。それができないとすれば、それは社会にとって、次の世代にとって、大きな災害となるからです。

 私たちの今やっていることの美しさとは何か?
全世界がこのカトリックの家庭について反対の戦いを挑んでいます。百対一、一万対一、すべてのものが私たちに反対しています。ですが聖家族がついには大勝利を得るに決まっています。聖ヨゼフと聖マリアは最後には大勝利を収めます。ですから、私たちは聖家族に従って、すべての反対にも関わらず、私たちのカトリックの家族を守っていかなければなりません。

 いったいなぜ私たちには、子どもがいないのでしょうか?
神秘的な意味があるのかも知れません。アブラハムとサラの間にも子どもがいませんでした。ヤコブにもラケルに子がありませんでした。レベッカにも子どもがありませんでした。聖エリザベトにも子どもがありませんでした。しかし太祖たちには子どもがなかったにも関わらず、お祈りをして、懇願をした後に、ついには子どもが与えられ、ものすごい民族となることができました。今、私たちにたくさんの赤ちゃんがいないという困難は、もしかしたら将来与えられるべき成功の試練の一つなのかも知れません。特に日本と韓国での状況は似ています。神学校に行くべき学生たちがいない、若い男性がいない。このことへの解決策として、私たちはいつも目をマリア様とヨゼフ様に注ぐことに致しましょう。必ず、天主は聖家族に勝利を与えてくださるに決まっているからです。

 もう一つの大変嬉しい印というのは、聖伝の信者の数が、非常な速度で増えつつあるということです。ですからついには聖伝の私たちの家族が、大木のようなものになる日が必ず来ます。私たちは祈り、天主様のあわれみに信頼し、お恵みに信頼して、聖家族を私たちの上に育てることに致しましょう。そのためにも奇跡的な潮の流れの変化がなければなりませんから、私はサント・ニーニョのご像を持ってきて、幼きイエズスが私たちに奇跡を起こしてくださることをお祈りしています。社会の基本の、最も大切な隅の親石である「家族」が、もう一度大きくなり、たくさん増え、ついには日本の、私たちの家族を復興させてくださるようお祈りすることに致しましょう。


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