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小野田神父による聖霊降臨の大祝日ミサ中説教・二〇一二年五月二十七日

2012年05月30日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 今月の日本でのミサ聖祭で、多くの愛する兄弟姉妹の皆様と会えて大変嬉しく思います。

 大阪では、5月25日(金)に 18人、26日土曜日に 28人の方々がミサ聖祭に与りました。
 東京では、5月27日の聖霊降臨の主日に、42名の方々が聖伝のミサに与りました。天主様に感謝!

 東京でのミサ聖祭の時に、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべがした説教を書き起こして下さった方がいらっしゃいますので、ご紹介いたします。感謝します。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


*****

小野田神父による聖霊降臨の大祝日ミサ中説教・二〇一二年五月二十七日

※[ ]は補足



 今日は二〇一二年五月二十七日、聖霊降臨の大祝日です。今日はいつものように二時半から公教要理があります。新しく来られた方もいらっしゃいますので、今回の公教要理は第二ヴァチカン公会議について、もう一度復習をしてみたいと思っています。
 それから四時半から聖霊降臨の第二晩課があります。
 明日は朝七時から、ミサがあります。
 今日は、第四次ロザリオ十字軍の最終日となっています。皆さまのたくさんのお祈りをありがとうございます。ロザリオをどれだけ唱えられたか、報告がまだの方はぜひ教えて下さい。クチュール神父様を通して、フェレー司教様に報告したいと思っています。

[英語で同上の内容を繰り返し]

【私はあなたたちに平和を残す。私はあなたたちに私の平和を残す。私が与える平和は、この世が与える平和ではない】(ヨハネ十四章二十七節 本日の聖福音より)

 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨の大祝日を祝っています。
 これはカトリック教会では、復活祭に次ぐ、第二の大きな祝日であり、教会の誕生日と言われています。
 この聖霊降臨の前、ご昇天、イエズス様が天に上げられてから十日の間、マリア様を囲んで、使徒たちは一生懸命お祈りをしていました。聖霊のご降臨を求めるお祈りをして、十日目に、イエズス様が約束された通り、まずマリア様に、そしてマリア様を通して使徒たちに聖霊が降(くだ)られたのでした。
 その時には大きな奇跡が起こりました。ユダヤのエルザレムの町中は大きな風の音を聞き「一体なんだろう?」──人々はびっくりして外に出て、すると使徒たちが自分の国の言葉で話していたにも関わらず、いろんな国の人たちが、使徒たちの言っている言葉を理解できた、ペトロがそのとき、イエズス様のことを宣教して、最初に三千名の方が洗礼を受けたという大祝日です。
 そこで、今日、この聖霊降臨の大祝日に、私たちも、聖霊のおん恵みである、いくつかの非常に重要な徳「信望愛」、信仰、希望、愛の三つの徳を黙想することに致しましょう。そして聖霊のおん助けをもって、この徳が私たちにおいてますます強められ、堅められますように。そして現代社会において、この信望愛の名前を騙った、どのような誘惑と誤った思想が入っているのか、それに対して、私たちは日々どのように生活を送らなければならないのか、ということを黙想してみることに致しましょう。

 皆さんもよくご存知の通り、信望愛、というのは「対神徳」と言われています。これは超自然のおん恵みによって、超自然の天主、私たちの自然を超える天主を信じ、天主を希望し、天主を愛することにあります。
 信仰は、まず、真理の源にましまし給う天主を、私たちが好きであろうとなかろうと、どう思おうと、私たちの意志では、あるいは考えではどうすることもできない客観的な現実として、つまりそれが真理である、真理の源である天主を信じることにあります。
 そして第一の真理である天主を真理であるが故に信じるのですが、これを真理だ、もしもそれに私たちの知性が一致しなければ誤りとなるので、それを信じるのですけれども、しかしその信じる内容もすべて天主が私たちに教え給うた、啓示された、公教会を通して私たちに教えて下さったその真理を信じるわけです。
 それを信じるのは何かというと、それもやはり天主にあります。何かというと、これは天主が、真理の源にまします天主が私たちに教えて下さったことであり、天主は決して私たちを騙すことも、自ら間違えることもない絶対の権威にかけて、私たちは信じるわけです。

 私たちが希望するものはなんでしょうか? 私たちは天主を希望します。この地上を遥かに超えた、眼に見える世界を遥かに超えた永遠の命、永遠の至福直観、天主の永遠の命を、永遠の幸せを必ず得ることができると希望します。そして、天主が私たちがそれにたどり着くことができる恵みを必ずくださる、と希望するのです。
 一体、その希望する動機はなんでしょうか? それは私たちが良いものであるからでしょうか? そうではありません。
 私たちが罪人であって、私たちは非常に弱い者であって、私たちはもう罪を犯して天主の敵となってしまったものであるにも関わらず、天主様のいとも無限なるあわれみと善性によって、天主のまったくの一方的な善良さによって、私たちは希望するわけです。
 私たちの惨めさにも関わらず、それをあえて希望致します。
 私たちが希望するのは、この地上の「家内安全」「商売繁盛」「試験合格」というものではなく、天国に行くための、天国に行くために必要なすべての聖寵を希望するのです。超自然のものを希望するわけです。天主があまりにも善いお方であるが故に。

 私たちは何を愛するのでしょうか? 私たちは天主をすべてに超えて愛します。眼に見えない天主を愛し、眼に見えない天主を愛するが故に、眼に見える隣人をも愛します。
 一体なぜ、私たちは天主を愛するのでしょうか? なぜかというと、天主こそがすべての善の源にましまして、すべての眼に見えるもの、見えないもの、私たちが願うすべての幸福、すべての善の根源であり、究極の原因であるからです。
 すべてを超える善であるが故に、すべてを超えて天主を愛します。
 私たちは、我が身よりもすべてに超えて、すべてに優って、天主を愛するわけです。

 この超自然の信望愛を、私たちにおいて、これを守り、保つためには、特に超自然のお恵みが必要ですが、日々、実践していかなければなりません。信仰と希望と愛を実践していかなければなりません。
 ですから私たちはたびたび、信徳誦、望徳誦、愛徳誦を唱えなければなりません。「我、天主を信じ奉る」「我、天主を礼拝し奉る」「我、御身に希望し奉る」「我、御身を愛し奉る」と、射祷のように何度も何度も唱えなければなりません。なぜなら、愛という名前で、希望という名前で、あるいは信仰という名前で、まったく別の考えが、私たちの現代世界に多く広がっているからです。
 特に、第二ヴァチカン公会議の後には、その考えが多く広まってしまいました。
 この新しい考えによると「信仰とは何か」というと、天主を信じるというよりは、
「人間を信じる」
「人間の尊厳を信じる」
「人間の可能性を信じる」
「私を信じる」
 という、人間があたかも天主であるかのように、神々であるかのように、人間を信じるように信じさせています。

 新しい考えによると、希望とは何でしょうか?
 希望は、人間があまりにも善いものであり、被造物の頂点に立つものであるから、眼に見えるものと見えないものの頂点に立つもの、この地上の頂点に立つものであるから、
「この人間社会に平和を築くことが究極の目的だ」
「人類の一致をすることが究極の目的だ」
「教会は人類一致のための秘跡とならなければならない、いや秘跡である」
「人類はすでに、キリストを信じようが信じまいが、すでにキリストと一致しているのだから、すべての人はキリスト者となっている」
「名前はついていないけれど、名前のないキリスト者だ」
 だから、すべて人間は善いものであり、救われており、この地上でよりよい社会を建設することが私たち人類の希望であって、地上のユートピアを作ることこそが教会の使命だ、という「新しい望徳」、この地上に希望を置くように、希望という名前で別のものを私たちに提示しています。
 そのためにも私たちは人間の自由を尊重しなければならない、尊厳を尊重しなければならない、平和とは、どのような宗教でも、自由に信じて行動して、それを発言できて、それを皆の前に表すことのできる、そのような社会が私たちの理想の社会だ、というのです。

 そのような人々は愛についてどのように語るのでしょうか?
 天主が真理だというと、私たちの間で分裂を起こしてしまう、なぜなら真理のあるところには誤謬があるものですし、光というと闇があるものですので、私たちは「真理」などということは言ってはならずに、私たちの一致を促進させるようなものを発言しなければならない、だから、「真理とはこれであって、間違いとはこれである」と言ってはいけない、そうではなくて、間違いを見ずに、いいところを探して、その善だけを取り上げなければならない、これが愛だ、そして地上に新しい愛の文明を作らなければならない、それが人間にふさわしい、この地上での文明だ──もしかすると皆さんもよく耳にするスローガンかも知れません。

 しかし、今日、聖霊降臨で使徒たちは何をしたでしょうか?
 ペトロは前に立ってこう言いました。
「ユダヤ人の皆さん、あなたたちは何も知らずに、私たちの救い主を十字架にかけてしまいました。しかし、この方こそが隅の親石であって、この方こそが来るべきメシアです。罪を悔悛しなさい、そして洗礼を受けなさい、この悪い世から救われるようにしなさい。天上天下、私たちが救われるべき名は、この方しかありません。イエズス・キリストしかありません」
 そしてイエズス様もおっしゃいました。
「私の与える平和は、この世の与える平和とは違う。私の与える平和こそが永遠の命に導く平和である」

 では私たちはどうしなければならないのでしょうか?
 今日、聖霊降臨の大祝日において、聖霊の特別のご保護とおん助けを求めることに致しましょう。私たちが、使徒たちから伝わった、イエズス・キリストがまさに教えたこの教えを、信望愛の教えをひたすら守り、純粋に維持することができますようにお祈り致しましょう。そして聖霊のおん助けを求めることに致しましょう。

 しかしそのために、使徒たちが何をしたかをご覧下さい。
 特にペトロは召使いの女性の言葉を恐れて、びびってしまって、三回イエズス様を否んだ方ではあります[ヨハネ十八章十五節~二十五節]。しかし聖霊降臨の後にはどれほど恐れずに、イエズス・キリストのために苦しむことはどれほど幸せか、と言って、イエズス・キリストのみ名を、世間体をはばからず、皆に信ずるように、この世から救われるように、洗礼を受けるようにと、皆の前に立ち上がって、堂々とイエズス・キリストのみ名を宣言しました。
 これはまさに、マリア様とともに、聖霊降臨を求めて祈っていたから与えられた、信仰と剛毅の徳ではないでしょうか?
 ですから私たちも祈らなければなりません。聖霊の恵みをますます、特に現代世界において、誤謬がたくさん広がる中において、私たちがそれを守り通すことができるように祈らなければなりません。

 第二のポイントは、使徒たちにならって、マリア様を囲んで祈らなければなりません。
 ここからは私の考えであって、ドグマではなく、信じられなければそれでよいのですが……。
 マリア様はファチマで、
 「天のおん父は、この地上に私のけがれなき御心に対する信心を確立させることをお望みです。そして教皇様が私の御心にロシアを奉献することをお望みです。そうすれば世界に平和がやって来て、多くの人々が救われ、天国に行きます。しかしそうしないなら、教会に対する迫害や飢饉や戦争など困難があるでしょう」
 とおっしゃいました。
 もしも天主三位一体が、マリア様を送って、こうするようにと、これが手段だと教えて下さるとしたら、おそらく天主様の名誉にかけて、マリア様の名誉にかけて、天主様はそれ以外の勝利の手段を与えて下さることはないと思われます。

 聖ピオ十世会はカトリック信仰を固く守るために、聖伝の信仰を守るために特別のお恵みを受けましたが、私たちがマリア様に代わって、ローマの教皇様を聖伝の信仰に導くことができるようには、天主様は私たちにさせてはくれないかも知れません。天主様のみ旨はどこにあるのかよくわかりませんが、マリア様を通して、全世界があっと驚くような奇跡をなさって下さるに違いありません。
 だからこそ、フェレー司教様は第四次ロザリオ十字軍を開始させました。私たち聖ピオ十世会が、使徒たちにならって、まずマリア様のところに行って、たくさんのロザリオを唱えて、「教皇様がロシアをマリア様のけがれなき御心に奉献して下さるように、そして教会のために勝利が早く来ますように」、その意向で祈れとおっしゃって下さいました。

 ですから私たちもフェレー司教様のロザリオの十字軍の意向に従って、たくさん、マリア様を通して、教会が早く聖伝の信仰を発言し、聖伝の希望を私たちに伝え、聖伝に従う超自然の愛を、イエズス・キリストに基づく超自然の愛を、私たちに教えて下さいますように。その超自然の愛によれば、誤謬があるところには真理を、闇のあるところには光を、無知の者には真理を教えてあげるという超自然の愛徳を、決して馬鹿にしたり、辱めたり、傷つけたりすることなく、しかし真理を伝えることができる、その超自然の愛徳を私たちが得ることができますように。実行することができますように。
 そのためにこそ、私たちは今日、聖霊に祈り、マリア様に向かってますますお祈りをしなければなりません。

 最後に、今日で第四次ロザリオ十字軍は終了致しますが、私たちはこれによってトレーニングを受けたロザリオ十字軍の戦士ですから、いつもロザリオをたくさん唱え続けることに致しましょう。例えそれをフェレー司教様に報告しなくても、いつもマリア様のほうに行って、ロザリオを唱え続けますように。ロシアが奉献されますように、教会に勝利が来ますように、ファチマのマリア様が天使を送って、子どもたちにおっしゃってくださったように、天使が子どもたちに教えたように、私たちもこの射祷を唱えることに致しましょう。

「至聖三位一体の天主よ、我、御身を信じ、礼拝し奉る。我、御身を希望し、御身を愛し奉る。私は御身を信じない人々に代わって、礼拝しない人々に代わって、希望しない人々に代わって、愛しない人々に代わって、御身に赦しを乞い求めます」



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