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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十三章 摂理的な出会い

2011年11月17日 | カトリックとは
第三十三章 摂理的な出会い

 これはまるで、ファンタジー映画かちょっとしたフィクションのような感じがするかもしれませんが、私はそのような題材を書くことが出来るほどの創作力や想像力はありません。 イエズス様のように、私は厳かには以下の真実を宣言いたします。

 1958年に、私は逮捕され、以前の章で述べましたようにレジオ・マリエの会員であるという「犯罪」のために、懲役15年の判決を下されました。3年後に、安徽省の労働改造所の病院で働くために、看護人として割り当てられました。この病院の患者は、労働改造所のあらゆる部隊から来ていました。

 あの荒れた時代には、人々は国中で腹を空かせ、労働改造所で飢えることは疑いようが無い位最悪の状況です。共産党のプロパガンダは、これらの年を「3年の自然災害」と喧伝しました。

 労働改造所の囚人は、非常に空腹で栄養不良でした。彼らは非常に青ざめて見えました。彼らの体は、棒切れと同じくらい痩せていました。多くの人が過度の作業に苦しみ、結核にかかって、ある人は血を吐きました。労働改造所は彼らのための治療や食物は、殆どありませんでした。私たちの病院へ移された時、ほとんどの患者は結核の末期でした。彼らの免疫システムは慢性的に損なわれていました。一言で言えば、彼らは死ぬのを待つためにやってきたのです。彼らは中断することなく、咳をし続けました。結核菌は非常に感染性があり、痰か唾の一滴毎に無数の結核菌を含みました。私の主な仕事は、集中治療室で働いて、死ぬ人の世話をすることでした。

 おそらく、人が弱くて無力であった時、人はより容易に宗教教育を受け入れることが出来ます。ですから、それは私が瀕死の病人の間で伝道をするための良い時間でした。多くの人は言いました。「私はここに来て死ぬのを待っています。他に何を期待出来るでしょうか? 私は言いました。「死ぬのを待つのではなく、生きることを求めるのです。あなたがたがここに来たのは、病気の治癒ではなく、真理を知って永遠の命を得ることです。天国で永遠に生きるのです」約10人のカトリック教徒の看護人が病院にいました。そして私たちは、汚くて嫌がられる仕事をするのを気にしませんでした。私たちが患者を消毒したり、またはマッサージするために屈まなければならなかった時でさえ、不平不満はありませんでした。私たちは、見捨てられた人々のために進んでそうしましたが、哀れな病人が感謝していたので、報い無しではありませんでした。彼らは私たちを、「下界に降りた天使」と呼びました。

ある一つの出来事は40年以上前に起こりましたが、私の記憶にはまだ明確に刻み込まれています。 やつれていてみすぼらしい、中年の男性がいました、彼の名前は王雄で、上海の住民でした。私たちの病棟に引っ越されたとき、彼の髪は、乱雑であって、きちんとしていませんでした。そして、彼の皮膚は傷と乾癬に覆われていました。そして、よく多量の血を吐き出しました。一度、救急治療の時に、彼は突然、私の白いガウン全体の上に血を吐き出しました。彼は泣きじゃくり、しばらくして落ち着きました。彼は私を見つめて言いました。「いったいなぜ、私は7年の判決を下されて、ここにいなくてはならないのだろう? それは単に、私が陳立夫のいとこだからだ。(1900年に生まれた陳立夫は、南京政府の有名な政治家であり、内閣の文部大臣でした。共産主義者が中国本土で政権を掌握した時、彼は1949年に台湾に逃げました。共産主義者は、彼を「戦争犯罪人」と呼びました。)私の刑罰は容疑に過ぎない! 私は自分の全生涯、そのいとこを一度も見たことがないんだ。 だが、それが何になるだろう? 彼らは私を殺したがっているだけだ。今の中国では、陳立夫とのいかなる関わりも、恐ろしく、許し難い犯罪なのさ。陳立夫の親戚全員は、根絶やしにされる運命だ。今、私が死の床で持てるただひとつの慰めは、この労働改造所で私の世話をしてくれる親切な「天使」を見ることだ。あなたは親切だし、単純でそして愛らしい。どうして、この労働改造所に送られて来たのかね?」

 私は黙っていました。そして、有名な中国の詩(白居易の琵琶行)を引用して、彼に答えました。「同じく是れ天涯淪落の人」(私もこの世をさすらう旅人です)即座に彼は続けました。「相逢うは何ぞ必ずしも曾ての相識のみならんや」(出会うのに、なぜ互いに知っている必要があるだろうか)私は彼に公教要理の基礎を教え、彼は僅か死の数日前に、進んでそれを受け入れました。彼がより安らかにこの世を去るのを助けるために、彼が私にして欲しいことが無いかを聞きました。彼は、やせ細った手を伸ばして、私の手を固く握って言いました。「私には、あなたにとてもよく似た娘がいる。もちろん、娘は私の死を看取りに、私には会えない。私が死んでいく時、あなたのきれいな顔を私に見せてくれるよう、あなたがマスクを外すのを頼めるだろうか?」私は同意しました。彼は2つ目にこう願いました。「私の死んだ後に、私の家族に手紙を書いてくれないだろうか。どうか、私の妻と娘に、私は安らかに死んだと伝えてくれ」

 3つ目の願いとして、彼は言いました。「もし、いつの日か私のいとこの陳立夫と連絡が取れるのならば、どうか、いとこの王雄はこの労働改造所の死の床で、不正義と悲惨さにもかかわらず不平をいわなかったと伝えてくれ。人は自分の運命を支配できないが、安らかに死ぬのはとても幸運だ」私は一つ一つ、その通りにしました。彼が息を引き取る前、私は彼の前に立ちながら祈っていました。感染の危険にも関わらず、ちょうど娘が父の死の床でするように、私は大きなガーゼのマスクを取り外し、彼の目が安らかに閉じるのを見ました。何と幸福な死でしょう!そして、私は彼の体をきれいにし、衣服を替えて筵に包みました。そこから他の方と私で、彼を丘の上まで運んで埋葬しました。その日の夜、彼の望み通りに、私は彼の妻と娘に宛てて彼の死の報告を書きました。

 彼の3つ目の願いであるかれのいとこの陳立夫との連絡は、長年の後に実行しました。 私は1989年に中国を去ってアメリカに移住し、やっと陳氏のことを問い合わせる時間が持てました。私は、彼が生きており、台湾に住んでいることを知りました。1992年に、私は彼に手紙を書き、故王雄氏の話を伝えました。 陳氏は引退しており、体は弱く、健康が衰えていました。彼がついに私の手紙を受け取り、そして返事をして下さったことを、私は感謝しています。ここに彼の手紙の翻訳があります。

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胡女史:
 去年(1992年)の11月28日のあなたの手紙は、世界中を回り、ついにアメリカで私に届きました。何ヶ月か前に93歳の妻を無くした衝撃が大きく、手は震えて両足も力が無いので、私は長いこと手紙を書いていません。3ヶ月前に休養のためにアメリカに来ました。少しづつ回復してきているので、今はあなたの手紙に返事を出すことが出来ます。

 私の少年時代の家族は、(浙江省)呉興では有力な一族でした。私は12歳で生家を離れて上海で学びました。親戚関係については、王という姓の者はいましたが、王雄といとこの関係かどうかを思い出すのは難しく、もう高齢(93歳)なので、ますます忘れ易くなっています。ただ、王雄の言葉が間違いだとは思いません。

 あなたは人が託したことを実行する忠実な人間です。私はあなたの忠実さを有難く思います。ですから、事実を率直に申し上げました。ありがとう。あけましておめでとう。

             陳立夫
            (民国)82年1月18日

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