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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十七章 雨の夜の付き添い

2011年11月21日 | カトリックとは
第三十七章 雨の夜の付き添い

黄松青博士は、全信者の中で最年長でした。彼女はかつて、上海の有名な総合病院である上海公済医院で整骨療法の看護婦長でした。その後、彼女は大学で彼女の研究を継続し、外科医になりました。彼女はレジオ・マリエの会員だったので、逮捕されて懲役四年の刑を言い渡されました。彼女の優秀な医療技術は、共産党の看守を含め、誰もが非常に彼女を尊敬しました。

労働改造所の病院には二種類の医師がいました。囚人の医師と共産党員の医師です。共産党員の医師が、患者のための腰椎穿刺をしていたことを私は覚えています。彼は続けて20回以上も患者に穿刺しましたが、成功しませんでした。最後に、医師はあきらめて誰かに黄博士を呼ように頼みました。倒着した時、彼女は謙遜してこう宣告しました。「私もこれを上手く出来ないかもしれません」彼女は背骨を診て感覚と感触で正しい箇所を探り、十分に確信した時に針を使いました。脳脊髄液の滴がすぐに見えました。その患者はとても感銘を受けたので、大声で叫びました。「黄博士、あなたは驚異の人です!」それは、彼女がどれほど賢こかったかという多くの例の一つに過ぎません。私たち看護人のために、彼女はよく自分の腕を伸ばし、私たちが彼女に対して静脈内注射をする練習が得られるようにしました。患者の静脈の代わりに彼女の静脈で練習できるので、彼女はそうしたのです。彼女はしばしば言いました。「良いカトリックの医師になるには2つの要件があります。先ず慈善と忍耐で、次は良い技能です。どちらも不可欠です。技能を無視することも、優しい心無しに熟練するだけでもいけません」この理念によって、私たちは、毎日必要な技術を練習するように導かれました。

彼女は当時50歳で、結婚したことがありませんでした。彼女の仕事のための熱意は他のすべてを上回りました。彼女はまた、若い世代の私たちを愛しました。彼女は刑に服した後、彼女は自分の仕事でよい賃金を得ました。私は後で分かったのですが、彼女は質素で私たちを援助するために自分のお金の3分の2を費やしていました。彼女はよく私たちに言いました。「中国の諺に、『他人が楽しむことができるように、花火を買いなさい』というのがあります。もし、あなたが私のお金を取らなければ、私は価値のない多くのものを買って、本当には必要としていないかもしれない人に送ったでしょう」私たちは、卵、ビタミン剤、および他の基本的な必需品を得て、いったん、それらがどこから来たのか知って彼女の優しさを考えると、私は確実に彼女を拒むことができませんでした。その時、家族は進んで私に金銭的援助を与えませんでした。彼女の助けが無ければ、私はこれらのお話を書くことはないでしょう。

私はいつも病院の結核の部門で仕事を割り当てられていました。私たちの寮から病院までは徒歩圏内で5分しかかかりませんでしたが、丘陵地帯だったので坂を上ったり下りたりしました。昼間は職場へ歩いても問題はありませんでしたが、夜間、特に雨が降っていた時は、簡単に躓いて転びました。今思い出しますが、雨が降って風の強い夜、私は夜勤のために行かなければなりませんでしたが、私は出かけてからたった2分で転びました。私は全身泥水まみれになり、やむなく、私は寮に戻って着替えなければなりませんでした。ある人は自分の同情を示し、私のぶ厚い眼鏡が雨水で覆われて、はっきりと道を確認するのが難しくなっていたのだとい言いました。他の人は、私が単に体のバランスを失ったのかもしれないと考え、一方でまた他の人は、皮肉や嘲りを口にしました。「この甘やかされた娘は、うまく歩くことさえできない。なぜ、夜勤を?」私はあらゆる種類の親切、もしくは卑劣な言葉を受け入れなけばなりませんでした。たとえ人が望んでも、この状況では私を助けられませんでした。人々が労働改造所でお互いに助け合うのは、望ましいことではなかったのです。

一言も言わず、黄博士は片手に火をつけたろうそくを持ち、もう片方の手には傘を持っていました。そして言いました。「美玉、私はあなたとそこへ行きます」私はそれ以上何が言えたでしょう?私は彼女と歩き出しました。彼女は道中ずっと私を引き寄せ、彼女の手のろうそくは嵐の中を灯し続けました。それは、突風で吹き消されることはありませんでした。そして、ろうそくの火は弱く、暗闇の中で絶え間なく揺らめきました。貧弱な傘は、激しい嵐に抵抗することができませんでしたが、2人が一緒に力を合わせていたので、嵐はそれほど酷くはないように思えました。私たちが病への道半ばだった時、涙と雨が私の顔を覆いました。どうして、他の場所でこのような真の友情を見い出することが出来るのでしょう?私の心にはさまざまな感情がありました。この医師は、反対があった場合でも、私を守るために自分の身を犠牲にしていました。あの雨の夜の彼女の付き添いは、私が自分の人生で一人ではなかったことを象徴していました。私はいつも、大変な時期を乗り切るように助けてくれる、キリストの兄弟姉妹を持っていました。

私は1998年に上海に戻り、黄博士を訪問しました。彼女の精神状態は、あまりしっかりとしていませんでした。彼女の最初の反応はこうでした。「あなたは美玉ではありません。あなたは美玉のふりをした偽者です」私は「媽媽」(ママ)と言いました。(私は労働改造所にいたとき、彼女をいつもそう呼んでいました)彼女はそれを聞いた途端、泣き出しました。「あなたは、私が日夜想っていた私の美玉です。ああ、私は死ぬ前にもう一度あなたに会えるように、毎日私たちの天の御母に祈ってきました。あなたは、まだ毎日ロザリオを唱えていますか?美玉、アメリカに帰らないで。1年か2年の間、私と一緒に住みましょう」そして、しっかりと私の手を握って、私を行かせようとはしませんでした。

彼女に何を言うことが出来たでしょう?私は、アメリカでの生活を放棄する気はありませんでした。実のところ、私は、人々に物質的で無関心な態度が見られるアメリカに留まりたくはありませんでした。ですが、私は96歳の義母、娘、そして主人のことを考える必要がありました。私は非常に多くの結び付きによって縛られていました。私は心を込めて、彼女がアメリカに来て残りの人生を過ごすように誘いましたが、彼女は同じように心を込めてそれを辞退しました。彼女は私に、さらに多くのトラブルを引き起こすことを望んでいなかったからです。私は彼女に二度会う勇気がありませんでした。どうしたら、私は今まで彼女が私に与えてくれた物全てを返すことが出来るのでしょう?今、彼女のことを考えると、私は自分の悲しみを和らげることが出来ません。私に出来ることは、彼女のために祈ることです。私の媽媽(ママ)、天主様が天と地の両方において、彼女に報いて下さいますように!




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